【ハーグ密使事件】(2)密使の派遣
前回のエントリーの続きです。
日本政府は別に親切心で大韓帝国を援助した訳ではなく、そこは自国の安全保障のためです。シナ(清)から独立させ、自立した国家にするために、資本を投じながら改革を進めていましたが、遅々として進まず、そうこうしている内にロシアとも手を結ぼうとする。その為に高宗を懐柔しようと、賄賂を与えていました。しかし、高宗には改革の意思も無く、乙巳条約の不法性を訴える為に万国平和会議に使者を送ることを画策します。
この前後の簡単な年表は(1)に掲載しています。
以下、『売国奴高宗』の著者でもあるパク·ジョンイン氏のコラムをご紹介します。
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※日本語として多少不自然でも理解に問題が無ければ機械翻訳ママ。緑字はブログ主の補足。
https://www.chosun.com/opinion/column/2020/10/28/YLTCRPUUSNG4REAFMBJT3P4KGQ/
[パク·ジョンインの土地の歴史]「旧政権の残忍な行政と貪欲と腐敗に疲れた韓国の朝鮮人は…。」
[234]乙巳條約をめぐる高宗の怪しい行跡③/最後のハーグ密使イ・ウジョンの演説
2020.10.2803:00
万国平和会議が10日間開かれていた1907年6月25日、オランダ·ハーグに高宗が送った密使3人が現れた。 元議政府〔朝鮮王朝時代の行政府の最高機関〕参賛〔大臣〕の李相ソル(이상설/イ·サンソル)、元漢城裁判所検事の李儁(이준/イ・ジュン)、そして元ロシア公使の李範晋(이범진/イ・ボムジン)の長男、李瑋鐘(이위종/イ・ウィジョン)だ。 イ・ウジョンは7ヵ国語に長け、他の2人はできなかった。 そのため、満20歳のイ・ウィジョンが実質的な代表として活躍した。 会談関係者らはイ・ウィジョンを「王子(Prince)」と呼んだ。 王子は取材記者の前で演説した。タイトルは「朝鮮のための訴え(Plea for Korea)」だ。 国史教科書にも載せられた名演説だ。 乙巳條約の不法性と不当さ、日本の残虐さと暴力性を一つ一つ暴露した文だ。 その演説文の話だ。
目賀田が投げた餌150万円
1905年8月27日、日本人財政顧問の目賀田種太郎が高宗に謁見した。 日本公使林と同行した目賀田は高宗に宮中財政改善策を建議した。 高宗はこれに対し「日本人顧問に財政を委任する件はまだ異見が多い」と拒否した。 ところが、目賀田が「宮中の小遣い増加を図るために150万円を無利子で日本政府から借り入れる方法について」建議すると、皇帝は深く厚意を感謝し、計画を受け入れた。(「駐韓日本公使館記録」26巻1.本聖王伝1~4(216)「韓国総税理士ブラウン辞任と皇室費融資に関する上奏の件」)
乙巳條約締結3ヶ月前にすでに日本は高宗を金で買収する計画を立てており、高宗は「お小遣い150万円」を深く感謝し承諾したという意味だ。 そして条約の1週間前、高宗は林〔※林権助 公使〕から「伊藤博文接待費」の名目で2万円(現在の時価25億ウォン)を受け取った(2020年10月21日付「土地の歴史233.乙巳條約をめぐる高宗の怪しい行跡②賄賂を受け取った皇帝」参照)
ところが150万円は餌に過ぎなかった。
条約締結1ヵ月後の1905年12月15日、林は大韓帝国大臣を公使館に呼び、「皇室費貸与150万円」は進行を中止すると宣言した。 そして翌日、財政顧問目賀田はそれまで皇室が直接税金を徴収していた制度を廃止し、すべての税金は皇室ではなく大韓帝国政府の収納機関で徴収すると宣言した。(「駐韓日本公使館記録」26巻11.雑撰(3)皇室費に関する件)すでにその前年に日本天皇から30万円を贈られた高宗に皇室費150万円の無利子貸付は魅力的な提案だったが、逆に金の流れが完全に遮断されたのだ。
▲〔画像省略:1907年8月22日付『インデペンデント』P.424 〕米インディペンデント紙1907年8月22日付。 写真はハーグで開かれた万国平和会談に派遣された密使イ・ウジョンだ。 同誌にはイ・ウィジョンが記者会見場で行った演説文全文が掲載されている。
ロシアの変心と密使派遣
高宗はその後、慶雲宮(徳寿宮)に幽閉されたまま、「目賀田が与える公式皇室費」で暮らした。 乙巳條約 締結1ヵ月前の1905年10月9日、ロシア政府は駐ロシア公使のイ・ボムジンにハーグ平和会議招待覚書を渡した。 日露戦争で敗北したロシアだが、高宗はロシアが日本を牽制してくれると信じた。 ロシアも会議を通じて朝鮮に対して外交的な影響力を拡大できると判断した。
※乙巳条約は高宗のみならず、閣僚達は不満だった。韓露の秘密ルートにより、1904年4月頃にハーグ平和会議招待覚書を受け取った高宗は、6月頃、英語教師のアメリカ人H.B.ハルバート〔※後述〕に委任状を与え、英仏独露等に乙巳条約の不当性を訴える親書を渡す。平和会議に大韓帝国が参加する事を危惧した日本はロシア政府や関係各国に「日本の保護国となった以上、参加は認めない」と伝え、そのため、正式な招待状は届かなかった。〔『韓国併合 大韓帝国の成立から崩壊まで』森万佑子著(以下、『韓国併合』)〕
ところがちょうど1年後の1906年10月9日、在日ロシア公使バフメチエフは外相として栄転した元駐韓公使林に「大韓帝国は参加不可」と通知した。 すでに同年、ロシアと日本は「モンゴルと韓半島に対する相互利益を認める」という日露協約を進行中の状態だった。
その急変した国際情勢を知らなかった状況で密使が派遣されたのだ。 密使たちは会議場の入場はもちろん、各国代表個別面談さえ拒否された。
※正式な招待状が来ないまま、高宗は1907年4月2日付けで、イ・サンソルとイ・ジュンに全権委任状を与え、第二回万国平和会議に送り出す。5月8日にはハルバートも向かった。なお、伊藤博文は5月の時点で高宗が密使としてハルバートを送ったことを駐韓フランス総領事から聞いて知っていた。オランダでは各国に面会を申し入れるが、既に大韓帝国の外交権が日本に移譲されていた事を認めていた為、断られた。期待を裏切られたイ・ウジョンは『ニューヨーク・タイムズ』紙の記者に心情を吐露し、3人は会場の周辺で配布された非公式の会議報に各国代表に訴える文書を掲載した。〔『韓国併合』〕
▲〔画像後掲:1907年8月22日付『インデペンデント』P.423〕米インディペンデント紙1907年8月22日付。 赤色の部分に「我が朝鮮人は旧政権の残忍な行政と貪欲と腐敗に疲れている」と書かれている。〔※詳細は次回に〕
企画 ハルバート、資金はコールブランの15万円
旧中宮殿に幽閉されているので、高宗が国際情勢を知る術はなかったと思う。 ところで、お金はどこから出たのだろうか。 その時、イ·サンソルは間島〔※現在の延辺朝鮮族自治州に相当〕でソジョンソ塾という学校を運営しており、イ·ジュンはソウルで、イ·ウィジョンはロシアで活動していた。 高宗は「内帑金〔※内帑=ナイド:君主が所蔵している財貨の倉庫〕が窮乏している」とし、日本特使接待費名目で2万ウォンを受け取り、小遣い150万円の提案を深い厚意として受け入れた状況だった。
多くの人は密使派遣資金が高宗が外国銀行に預けておいた秘密資金から出たと推定している。 また、皇室費である内帑金を密使外交のために使用したという推定もある。 本当だろうか。当時統監部外事局長だった小松緑は、密使資金の捜査結果を詳細に記録しておいた。
「密使派遣事実が公開され統監部は大騒ぎになった。 統監伊藤は大臣たちを呼んで全貌を明らかにするようにと叱咤した。 その間「幽閉中の皇帝には資金があるはずがない」と判断した小松は漢城電気会社社長である米国人コルブランに会った。 小松が尋ねた。 「今でも皇帝に小遣いを与えているのか」と。コルブランは答えた。 「15万円をくれと言われ、領収書をもらって皇帝の甥にあたるチョ·ナムスン(조남승)に金を渡した。」
「そういえばチョ·ナムスンが収入がないはずなのに、最近急に浪費が激しくなった。 チョ·ナムスンを呼んで問い詰めたところ、15万円は米国人のハルバート〔※ホーマー・ベザレル・ハルバート(Homer Bezaleel Hulbert〕とイ·ジュン、イ·サンソルと本人が分け合ったと自白した。 また高宗がハルバートが用意した親書草案と委任状を密使たちに渡したと自白した。 自白によってあるフランス教会を捜索すると、各種秘密書類とともに委任状と親書草案が出てきた。」(小松緑、「明治外交秘話」、原書房、1976、p244~246)
また別の日本側記録である「日韓合同防衛史」には金額が20万円と書かれている。 いずれにせよ密使は当時反日運動をしていた米国人ハルバートが企画し、米国人企業家コルブランが資金を提供したというのが統監府の調査結果だった。
▲〔画像省略:1907年8月22日付『インデペンデント』P.425〕米インディペンデント紙1907年8月22日付。 大韓帝国皇帝高宗が送った親書が載っている。
僑民の義援金1万8000円
ソウルを出発したイ・ジュンは同年5月、中国龍井にいたイ・サンソルに沿海州ウラジオストクで会った(イ・ウィジョンは6月にペテルブルクで合流した)。 韓国僑民会長のキム·ハクマンとチョン·スンマンなどが韓僑から募金し、彼らに1万8000円を渡した。(ユン·ビョンソク、「イ・サンソル伝:ハーグ特使イ・サンソルの独立運動論」、 一일조각、 1998、 p64)
高宗から15万円(あるいは20万円)を受け取った密使たちが、なぜ同胞から義援金を受け取ったのだろうか。 コルブランがくれた15万円で配達事故があったのだろうか。 高宗がイ・ジュンに資金を与えなかったのではないか。 どちらにせよ、不快極まりない。
〔画像省略:1907年8月22日付『インデペンデント』P.426〕米インディペンデント紙1907年8月22日付。 イ・ウィジョンがハーグ記者会見場で行った演説が掲載されている。
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イ・ウジョンの演説は、全体を通して見れば日本を批判する内容です。しかし、少し触れたように、そこには「我が朝鮮人は旧政権の残忍な行政と探険と腐敗に疲れている」と書かれていました。
韓国の教科書ではその部分を隠しているのだそうです。この演説文については次回ご紹介します。
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