【安重根】捏造まみれの作られた英雄(4)母が縫った「死に装束」の真実
前回のエントリーの続きです。
二重の創作によってでっち上げられた「手紙」には「ここに寿衣を縫って送るから、この服を着てあの世へ行きなさい」という言葉が書かれていた事になっており、ミュージカルや映画「英雄」では、母親が縫ってくれた死に装束を着て死刑台に向かう安重根の姿が大きな感動を与えるようです。
しかし、これも創作でした。
その話をする前に...
記事のその部分の前に、筆者(記者)はしきりと、「母親は何故息子にそのような厳しい言葉を投げかけたのだろうか?」と考察してます。これは言外に「立派なことをした息子なのに」という意味があるように思えます。
>最初の伝言が安重根の前で十字架像を前にした厳粛な儀式を通じて伝えられたことに注目すべきです。カトリックの教理上、他人を殺して十戒を違反した者は自分も死ななければならないという聖書の原理に基づいて、死で贖罪しなければならないという宗教的立場だったのです。
>チョ・マリアの立場は敬虔なカトリック信者としてのものであり、決して日帝の判決や植民地政策に同調するものではなかったという事実に留意すべきだとド・ジンスン教授は言います。
現代の韓国人は安重根を「義士」、彼のやった事は「義挙」だと信じて疑いません。
しかし、その当時の朝鮮人にしてみれば、外国(日本)の要人を朝鮮人が暗殺したのです。喝采を上げた朝鮮人もいたでしょうが、自国の人間が大それたことをして、どんな報復をされるのだろうと恐れおののいたのではないでしょうか。
『日韓2000年の真実』(名越二荒之助 編著)によると、高宗はショックを受け、その様子は『伊藤公の遭難について韓国宮中の模様』と題する若林警視総監の報告書に書かれている他、韓国でも行われた葬儀には李完用首相の主催で官民1万人が参列、その後もあちらこちらで追悼会、そして、十三道人民代表を送って謝罪したり、銅像や頌徳碑を建立する運動も起こったそうです。
ところで、寿衣は母が縫ったのでは無く、安重根の要望により、家族が購入したものでした。以下はその部分の翻訳です。
* * * *
安重根の殉国日は1910年3月26日でしたが、安重根は3月8~11日にウィレム神父に会ってから初めて「私の衣服は血で汚れてしまったので、早く朝鮮風の白い服に着替えたい」と寿衣を要求しました。2月14日以前の母親の「伝言」から「寿衣をつくって送る」という言葉は到底出てこなかったのです。
それでは、安重根はどうやって着物を手に入れたのでしょうか。 3月24日付の満州日報はこう報道しました。 「安重根が注文した白い韓服は、2~3日前に旅順の客館に滞在している二人の弟のもとに送られてきた値段が56円で、とても立派なものだという。」
母親のチョ・マリアが着物を作ってくれたのではなく、息子の要請により56円をかけて服屋で着物を注文購入した後、安重根に渡したのです。
* * * *
記者は、ド教授の論文の締めくくりを引用しています。
>操作された虚構が「荘厳な歴史」に編入されるのを取り除いて正すためには、好意を持つ主題であるほど客観的距離を維持しようとする厳正性、愛国的な主題であるほど批判的な事由が許容される学問的開放性がしっかりと確保されなければならないだろう。
さらに、こう続けます。
>安重根関連団体のある人物がこんな言葉を残したことがあります。「安重根義士はこのように美化しなくても十分に尊重されることができる。」
この記事のコメントを読んでみましたが、大半が上の安重根関連団体と同じような意見でした。
しかし、前々回のエントリーでご紹介したように、安重根は天皇を崇拝し、日本を中心としたアジア平和論を考えていたのであり、伊藤博文に対しては様々な勘違いから逆恨みとしか言えない恨みを抱いていただけです。
ほとんどの韓国人はそれを知らないし、恐らく大勢が知ってもそれで歴史が書き換えられる事は無いでしょう。
韓国人にとって「国史」とはアイデンティティを維持する為のバイブルなのです。
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