【ハーグ密使事件】(1)背景
このエントリーは、以前から調べていた「ハーグ密使事件」の真相がテーマです。長くなりそうなので、今回は概略に留め、2~3回に分けて書く予定です。
韓国で「売国奴」の代名詞とされるのが、李完用[り・かんよう/이완용:イ・ワニョン]首相です。彼と共に、国王高宗の意に背いて、日本に大韓帝国を売り渡す条約を締結したとされる5人の閣僚を韓国では『乙巳五賊』(いっしごぞく)と呼ばれて嫌われています。しかし、彼らを逆賊と呼ぶのは、日韓併合条約の為では無く、第2次日韓協約(日韓保護条約、韓国では『乙巳条約』)の為です。
一方、高宗は「光武改革」を行って近代化を図ろうとした ”啓蒙君主” とか ”開明君主” とされています。しかし、実際は、宮中改革に抗い、改革を骨抜きにするなど、開明とはほど遠い君主で、統監府と高宗の板挟みになって苦労したのが李完用を始めとする改革派の閣僚達でした。特に、国庫と王室の財布を分ける事〔※〕に高宗は抵抗しました。
※例えば、1883年に設置した典圜局(てんかんきょく)を私物化して貨幣を乱発していたが、1904年から財政顧問を務めた目賀田種太郎は早々にこれを廃止した。また、国庫から皇室費が支給されているにもかかわらず、皇室が雑税を取り立てていた。伊藤博文が統監に就任した後に雑税の徴収権や朝鮮人参の専売事業等を宮中から国庫に移すことになる。〔『朝鮮王公族―帝国日本の準皇族』新城道彦 著〕
乙巳条約の締結〔1905年11月17日(18日未明)〕に先立ち、16日に伊藤博文は大臣等8名を呼び、金品を贈って条約締結の必要性を説きます。李完用と李夏栄は同意しましたが、他2名は大韓帝国が独立国でなくなると反対します。〔『韓国併合 大韓帝国の成立から崩壊まで』森万佑子著(以下、『韓国併合』)〕
11月17日朝、日本軍が漢城に入城。表向きは演習ですが、威嚇の為です。林権助公使は大韓帝国の大臣等を日本公使館に招き、意見交換をするも、誰も進んでは調印の承諾をしません。
最終的に高宗に上奏して判断を仰ぐことになります。しかし、高宗は病を理由に引見を拒否し、使者を通じて伊藤博文に協議の周旋を依頼します。これをもって伊藤は大臣の説得に当たり、李完用〔学部大臣〕、李夏栄〔法部大臣〕、権重顕〔農商工部大臣〕が賛成。反対は、朴斉純〔外部大臣〕と閔泳綺〔度支部大臣〕。韓圭ソル〔議政府参政〕は半狂乱の状態に陥って別席に移されました。若干の条文の修正を経て、更に高宗の要望で一カ条が挿入され、18日午前一時過ぎに乙巳条約が締結されました。〔『韓国併合』〕
これ以前に、第1次日韓協約(1904年)で日本政府の推薦者を韓国政府の財政・外交の顧問に任命しなければならなくなっていましたが、第2次日韓条約(1905年)ではシナですら今まで奪わなかった外交権を剥奪したので、もはや独立国とは言えない状態になりました。
そして1907年6月、有名な「ハーグ密使事件」が起こります。
3人の密使が万国平和会議で日本の侵略を訴えるためオランダ・ハーグへ行った事件です。この事を口実に、日本(韓国統監府)は高宗を退位させ、純宗を即位させます。
以下は、ハーグ密使事件前後の年表です。
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【CHRONICLE】※必要に応じて追記
1894~95年(明治27~28年):日清戦争 → 下関条約(4月17日)で、清に朝鮮の独立を認めさせる。
- 朝鮮が国内の反乱(東学農民戦争)の鎮圧に清の軍隊を引き入れた事が遠因。
- 1894年、日英航海通商条約で英国が日本を支持した事により開戦を決意。
- 下関条約で得た遼東半島に対し、ロシアがドイツ、フランスを誘い、「三国干渉」→日本、遼東半島を放棄。→ロシア、遼東半島の先端にある旅順と大連を租借。(映画「二〇三高地」はこの旅順港を見下ろす丘陵の争奪を巡る戦い)
1894~95年:甲午改革〔金弘集内閣〕 → 親露派により金弘集殺害(1896年2月11日)。失敗に終わる。
1895年10月8日: 閔妃暗殺(乙巳事変)→ 高宗の「露館播遷」(ロシア公館へ亡命/1896年2月11日 - 1897年2月20日)
1897年(明治30年):10月12日 高宗、国号を「大韓帝国」と改め、皇帝と称する。
1900年(明治33年):日本企業により京仁線(ソウル-仁川間)朝鮮で初めての鉄道開通。cf. 1872年:新橋-横浜間の鉄道開通
1901年(明治34年):ソウルに電灯の供給開始。
1904年(明治37年):【第1次日韓協約】締結。日本は外交・財政権を取得して保護領に。財政顧問として目賀田種太郎(めがたたねたろう)が赴任。経済近代化に着手。→貨幣制度改革 明治38年頃より
1904~05年(明治37):日露戦争 開戦
1905年7月29日(明治38年):桂・タフト協定・・・日本はアメリカのフィリピン支配、アメリカは日本の朝鮮支配権を相互に認める。
1905年9月5日 (明治38年) :ポーツマス条約(日露戦争終結)
1905年(明治38年):ソウル-釜山間に鉄道開通(京釜線)
同年11月17日:【第2次日韓協約】(日韓保護条約/乙巳条約)締結。大韓民国を事実上保護領に。
同年11月21日:「統監府及理事庁官制」の制定
1906年(明治39年)2月1日:韓国統監府 事務開始(初代統監・伊藤博文)、「普通学校令」公布
1907年(明治40年)6月:ハーグ密使事件
同年7月:高宗が退位し、純宗が皇帝に即位
同年7月:【第三次日韓協約】(日韓新協約)締結。高級官吏の任免権、司法権、監獄事務を掌握し、裁判長や検事に日本人を登用できるようにする。
1908年(明治41年)末頃:伊藤博文、統監辞職をほのめかすようになる。→1909年2月10日、漢城を出発。→3月頃に統監辞任の意向を固める→4月10日、桂太郎首相と小村寿太郎外相が伊藤宅を訪問し、韓国併合案を示し、伊藤も同意する。〔『韓国併合 大韓帝国の成立から崩壊まで』森万佑子著(以下、『韓国併合』)〕
1909年(明治42年)10月26日 伊藤博文暗殺
1910年(明治43年)8月22日 :日韓併合
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韓国では一般に、江華島条約(日朝修好条規/1876年2月27日)を日本による侵略の開始と見なしています。日本人からしたら、不平等条約ごときで何を...と思いますが、とにかくそういう認識です。そして、日清・日露の戦争で戦場とされ、外交権を奪われ、3人の密使が必死に日帝の悪辣さを訴えにハーグに辿り着く...。おそらく、国史を学ぶ韓国人はここで涙を流すのではないでしょうか。
日本史ではあまりこの事件を深掘りせず、韓国人とほぼ同じような認識だと思いますが、『朝鮮日報』に良いコラムを見つけたので、次回は、それをテキストにして、ハーグ密使事件の詳細を学びたいと思います。
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