【慰安婦問題】軍の関与を証明しようとして「慰安婦=性奴隷」ではない事を証明してしまった韓国人教授【陣中日誌にみる日本軍慰安所】
公開:2023-02-28 12:34:26 最終更新:2023/03/01 5:25(加筆、画像追加)
先日も書きましたが、もう「慰安婦問題」に関しては ”手詰まり感” があります。何とか、”性奴隷” や ”強制性” の証拠を探し出そうとしているようですが、出てくるはずもなく、むしろ墓穴を掘るような本を書く始末。
良い例が『ハンギョレ』の記事にあったのでご紹介します。
インタビューを受けた方は最近、『陣中日誌にみる日本軍慰安所―日本軍「慰安婦」問題解決の突破口を開く』という本を出版されたそうです。
陣中日誌とは戦地での業務日誌のようなもので、最近も『Record China』にこのような記事がありました。
https://www.recordchina.co.jp/b905359-s25-c100-d0193.html
日本の僧侶から「南京大虐殺」の新たな証拠―中国メディア
2022年12月1日
>2022年11月30日、中国メディアの中国新聞網は、「南京の731部隊」と呼ばれる旧日本軍の細菌戦部隊に関する新たな史料が、日本の僧侶から南京大虐殺記念館に寄贈されたと報じた。
>また、新たに寄贈された「陣中日誌」には、南京に設置された慰安所についての詳細な記述が見られ、1938年1月1日には「本日より慰安所が開設された。1人30分で、費用は下士官が1円50銭、兵卒が1円だ。相当な賑わいで、常に満員状態である」など記載されていたと伝えた。
どこから突っこんで良いのか分からないインタビューですが、以下、記事をご紹介する前に、参考までに河野談話全文を提示します。
この記事を読む際にポイントとなるのは、河野談話のこの部分でしょう。→「慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接に関与した」ー 関与していたことは認めています。
軍の、言わば福利厚生としてのリクリエーション施設ではあったので、軍の管理は当然ありますが、そもそも、慰安所を経営してたのは、軍(部隊)から認可を得た、抱え主などと呼ばれる民間人事業主です。
慰安婦の健康診断は、戦地、つまり外国なので軍医が行っていたし、安全管理のために一定の範囲で行動が制限されてもしかたがないでしょう。その「管理」の部分を持ってして、著者はどうしても「軍施設」と呼びたいようですが、ここまで来ると ”言葉遊び” に過ぎません。従って、そこにはいちいち反論を加えるつもりはありませんが、この本は『慰安婦=性奴隷」説を否定する、格好の材料になりそうです。
* * * *
※ブログ主のツッコミや補足は緑字で記入します。
http://japan.hani.co.kr/arti/culture/46040.html
韓国語URL:https://www.hani.co.kr/arti/culture/religion/1081453.html
[インタビュー]「日本軍の日誌で『慰安所は軍の附属施設』を論証した」(1)
登録:2023-02-28 08:58 修正:2023-02-28 09:25
韓信大学日本学科のハ・ジョンムン教授
1937年日中戦争~45年の敗戦まで
2008年から夏休みと冬休みに「日誌」読み漁る
『陣中日誌にみる日本軍慰安所』を発表
日本陸軍省からコンドーム100万個空輸
「慰安所の許可から休業規定まで
日本軍が直接統制した記録数多く発見」
〔画像省略〕日本軍「慰安所」に関する研究書を最近出版したハ・ジョンムン韓信大学教授が21日午後、ソウル麻浦区孔徳洞にあるハンギョレ新聞社で、インタビューに応じている=キム・ミョンジン記者//ハンギョレ新聞社
「日中戦争と太平洋戦争当時、日本軍部隊が残した陣中日誌(以下日誌)を探し出して、ほとんど目を通しました。日誌を検索し本を書くのに15年もかかりました。これまで読んできた日誌だけで数万ページを超えています」
日本史が専門のハ・ジョンムン韓信大学日本学科教授は2008年頃から、日本が日中戦争を起こした1937年から敗戦した1945年まで侵略のために編成した軍部隊の陣中日誌を見つけては、その中から慰安所に関する内容を抜粋する単純で機械的な作業を繰り返した。主に大学の夏休みと冬休みに、日本が2001年に開設したアジア歴史資料センターで日誌を検索した。日誌は日本軍中隊(独立小隊含む)以上の部隊が義務的に作成した記録物で、今は米軍からの鹵獲品(ろかくひん。戦争で敵から奪ってきた兵器や補給品など)を中心に約10%未満のみ残っている。
ハ教授が明らかにしたこの作業の目標は「日本軍が設置・管理した慰安所が今も存在する軍基地付近の売買春施設とは異なり、日本軍の組織体系と作戦に深く結びついた軍事施設だったことを論証すること」だった。「日本は河野談話で慰安婦問題に日本軍が直接・間接的に関与した点は認めましたが、慰安所を軍施設として認めていません。軍医が慰安婦の性病の検診を行った事実程度を認めただけです」
これまで15年間にわたる研究結果をまとめた分厚い著書『陣中日誌にみる日本軍慰安所―日本軍「慰安婦」問題解決の突破口を開く』(ヒューマニスト)を発表したハ教授に、21日、ソウル孔徳洞(コンドクドン)のハンギョレ新聞社で会った。
ハ教授は、日本軍が慰安所の設置と運用に関与した痕跡をよく示す日誌として、1938年1月10日、中国江蘇省の省都、鎮江市に進入した上海派遣軍隷下第4師団第68連隊第3大隊が残した記録を挙げた。第3大隊は駐留2日後の12日、第3師団参謀部より「慰安規定ノ件」について電話連絡を受け、約1カ月半後の2月28日、「戦場慰安所規定」を作って兵士たちに配布した。最初の慰安所出入りは2月1日に行われたが、日誌にこのように記録されている。「本日本部機関銃中隊大隊砲小隊ノ外出ヲ許可シ慰安所ヲ利用セシム 」。慰安所開設の許可および監視監督は、戦場駐屯地司令官の方針によって憲兵隊が務め、慰安所は毎月15日と金曜日は午後5時まで休業だった。〔←※定休日!w〕
「日誌には日本軍が慰安所の承認など大きな権限を持つ〔※悪質な業者は認可を取り消されましたからね。〕ことはもちろん、慰安所の休日や営業内容も統制していたことを示す記録が数多く残されています。慰安所は日本軍部隊の規定と連係して設置され運営された『日本軍施設に近い附属施設』〔←※もはや言葉遊び〕というのが私の結論です」。研究目的を成し遂げたのかという質問に、ハ教授はこう答えた。
ハ教授は著書で、上海派遣軍が1937年末、中国南京の陥落を控えて慰安所の開設を進め、陸軍省にコンドーム100万個を要請して届けてもらった事実も初めて明らかにした。「コンドームの空輸は陸軍省が慰安所の開設に積極的だったことを示す決定的証拠です」
日本軍の「慰安婦」は「性奴隷」だったというのが国際社会の一般的な認識だが、日本はこれを認めていない。「1940年、中国湖北省唐陽に駐留した部隊慰安所配置図を見ると、慰安所を囲んで鉄条網の表示があり、この周辺を歩哨が守るようにしていました。慰安婦たちは鉄条網の中だけ歩き回ることができました。〔※1〕部隊の給料日には一日数十人を相手にしなければならず、彼女たちには『お客さん』を拒否する権利もありませんでした〔※2〕。(慰安婦は)戦争遂行のために企画された日本軍システムで稼動した『性奴隷』でした」
※1 これは吉見義明教授の言う「広義の性奴隷」と同じ論理。既に色々な人が論破している。〔下図は過去のブログエントリーより転載〕
※2 酒気を帯びた客などは拒否できた。それ以外のえり好みが許されないとしたら、それは業者と慰安婦の契約の問題であり、仕事なのだから当然あり得る。
(2)http://japan.hani.co.kr/arti/culture/46039.html
韓国語URL:https://www.hani.co.kr/arti/culture/religion/1081453.html
ハ教授は著書で、日本軍が慰安婦たちを軍属と見なしていたことを示す資料もいくつか提示した。1943年にビルマ(現ミャンマー)の首都ヤンゴンに駐留する日本軍慰安所管理人〔※売春宿に雇われた朝鮮人〕が、軍組織の野戦郵便局を通じて自分と「慰安婦」の貯金を送金したのがその例だ。
※単に便宜を図ってやったにすぎない。文玉珠などは貯金ができた事を喜んでいた。戦地では軍票が貨幣の代わりをしていて、戦後紙くずになったが、貯金をすれば同じ額面の日本円になる。そして、そもそも実家に送金できる奴隷がどこにいる?w
また、沖縄県東南の沖大東島の慰安所の「慰安婦」たちは、1945年初めに米軍の艦砲射撃が予想される瞬間にも島の外に出ることができなかった〔※ここは事実を要確認〕。民間人は全員島を離れろという連隊本部の指示にもかかわらず、「慰安婦」は民間人に含まれなかったためだ。「ビルマでも日本軍が英国軍と戦闘を繰り広げる激戦地に慰安婦はそのまま残っていました。資料がないので確認はできませんが〔※はぁ?〕、沖縄の事例にその答えがあるでしょう」
※沖縄はまだしも、完全に外地となれば脱出する術は軍用船しかない為、留まらざるを得なかったのであろう。
※ビルマの慰安婦については、捕虜となった朝鮮人兵士や慰安婦の調書〔Report No. 49〕があり、「慰安婦は売春婦以外の何者でもない」と書かれている。→ブログエントリー
ハ教授は1937年12月、日本の中支那方面軍が南京陥落を控えて司令部レベルで慰安所の設置を急いだことについて「慰安所設置の『ビッグバン』だった」と表現した。「日中戦争前にも慰安所がありましたが、性格が大きく異なります。以前は売春施設を通じた軍人の性病拡散の統制に注力しましたが、日中戦争後には軍が本格的にシステム的に慰安所の設置と運用に関与しました」とし、「民間の売買春施設従事者の性病検診の予防などを規定した『娼妓取締規則』が、日中戦争以後には日本軍の文書などで全く言及されないのも、慰安所に対する軍の直接的な関与を裏付けている」と説明した。
1938年11月15日、日本軍第2師団第3兵站輜重(しちょう)兵中隊の日誌によると、中国武漢近くの應城駐屯軍部隊に「まもなく慰安所が開設される」という知らせが来る。日本軍の「應城掌握」から15日後のことだった。まだ戦場の整理がついておらず、敗残兵が出没するので、部隊員の日曜日の外出は認められていなかったが、慰安所の出入りの際は許可証を交付したという。日本軍はなぜ慰安所の設置を急いだのだろうか。「戦闘が終わったばかりなので、部隊員の統制が容易ではなかったのでしょう。殺気立った部隊員を反抗をなだめる意図があったと思います。(慰安所を)戦闘直後に日本軍兵士に唯一許された安全な場所であり、『娯楽』とみなしたのです」〔※いや、元々娯楽なんだってば。〕
※武漢の漢口慰安所に関しては例えば、当時の慰安係長が著した『武漢兵站』(1978年/山田清吉 著)に、「計算に疎い娼妓が業者に騙されていたので、業者の帳簿を兵站経理が検査する事にした。楼主は不平を言ったが、営業許可を取り消すと脅して従わせた。 」という事が書いてある。慰安婦問題が発生する前に書かれた本であり、情報操作などの汚染はほとんどないと思われる。
ハ教授はソウル大学人類学科を卒業した後、日本史に専門を変えて東京大学日本史学科で「戦時労働力政策の展開」をテーマに博士号を取得した。日本史に関心を持つようになったのには、祖父と伯父が日本で移住労働をした家族史も影響を及ぼしたという。
ハ教授は慰安所研究の意味をこのように指摘した。「慰安婦問題で被害者のハルモニ(おばあさん)たちの存在と証言が最も強力な武器〔※「証言」しか無いって事だろw〕だったのに、多くのハルモニたちが亡くなっていっています。私は『慰安所研究』が新たに慰安婦研究と活動を続けていく迂回路だと思います。慰安所の記録を新たに発掘し、その実体を明らかにすれば、ハルモ二たちの証言も歴史性を保つことができるでしょう」
ハ教授は「今後はこれ以上慰安所研究をする計画はないが、他の研究者の要請があれば集めた資料を共有する」と語った。「今後、慰安婦がどのように船に乗ったのかを明らかにする『渡航研究』が必要です。慰安婦が日本軍とどのような従属関係で渡航証を手に入れたのかを明らかにする必要があります」
ハ教授は3年前に出した本『なぜ日本は韓国を征服したがるのか』で、「朝鮮半島の中立化」を「韓国の生存と東アジアの安定を生み出し保障する唯一無二の戦略」だと強調した。
インタビューの終盤に、なぜ朝鮮半島の中立化なのかと尋ねた。「日本が朝鮮半島を自分たちの影響力のもとに置こうとしたのは、日本に敵対的な勢力が朝鮮半島を支配すれば、自分たちにとって脅威になると考えるからです。もちろん、そこには自分たちの勢力権を拡張しようという意図もあったはずです。私は、日本が前面に押し出すこのような侵略の口実を与えないためにも、朝鮮半島の中立化が必要だと思います」
* * * *
正直に言って、この人、本などを読んで理解できるのだろうか?と思います。15年間資料を読み解いて、「ハルモニの証言」が嘘という結論に達しないのが不思議です。
恐らく、結論が決まっているので、何が書かれていてもそのそのフィルターに通して理解してしまうのでしょうが、こういう現象は心理学とかで名前が付いているのでしょうか?
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