【伊藤博文】(1)伊藤博文の植民政策【新渡戸稲造『偉人群像』】
新渡戸稲造は1906年10月に渡韓して、当時、統監であった伊藤博文と会っています。〔※詳細後述〕
そこで伊藤博文が語った、朝鮮統治に関する考え方や朝鮮人観を『偉人群像』という本〔※1931年(昭和6年)/実業之日本社〕に書き残しています。この本は「国立図書館デジタルアーカイブ」で読むことが可能です。〔※「第廿七章」〕
そこには、
>伊藤公は世間でも知る通り、朝鮮は「朝鮮人のため」という主義で、内地人の朝鮮に入り込むことを喜ばれなかった。
と書かれています。
現代の日本人が「伊藤博文は併合反対論者」と言いますが、当時も世間の常識だったわけです。
更に、
>「然し朝鮮人だけでこの国を開くことが、果してできませうか」と(新渡戸が) いふと、「君、朝鮮人はえらいよ。この国の歴史を見ても、その進歩したことは、日本よりも数倍以上だった時代もある。この民族にしてこれしきの国を自ら経営出来ない理由はない。今日の有様になったのは、人民が悪いのじゃなくて、政治が悪かったのだ。国さへ治まれば、人民は量に於ても質に於ても不足はない。」
とも書かれています。
「ハーグ密使事件(1)」に掲載した略年表で確認すると、既に前年(1905年)11月には乙巳条約(第二次日韓協約)で大韓帝国から外交権を奪っています。
これをは現代の韓国人〔当時の朝鮮人官僚達も〕は、日本が侵略の度合いを深めたと認識しているわけですが、当時の伊藤は、この国の為に ”悪い政治” を正しているという意識だったのです。
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さて、同書の引用しなかった部分を見てみると、「内地においては桂〔※桂太郎〕さんが、しきりに内地人移住を企て、東拓会社〔※東洋拓殖会社〕を設計されてをり」とあり、伊藤の考えとは別に、本国では日本人の移住と日本人による拓殖を考えていた事が分かります。
文中に新渡戸稲造は「木内君の斡旋で(伊藤公と)会うことになった」と書いていますが、この木内君とは、岩崎弥太郎の娘婿の木内重四郎の事で、「農商工の事務担当 をしていた」と書かれているので、農政学者の新渡戸もこの件で渡韓し、伊藤の意見を聞いたのです。
産経抄(2014/1/22):朝鮮人を信じた伊藤への銃弾
>明治39年〔※1906年〕、農政学者の新渡戸稲造が韓国に伊藤博文を訪ねたことがある。伊藤は日本が保護国とした韓国の政務をみる統監の地位にあった。新渡戸は伊藤に、日本から韓国への移民促進を訴えにきたのだが、伊藤は「我輩は反対しておる」だった。
更に新渡戸の渡韓が10月だったというのは、『新渡戸稲造の朝鮮(韓国)観』(田中愼一 著) で分かりました。
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しかし、最終的には伊藤は日韓併合に同意していたようです。
1907年6月のハーグ密使事件、その直後の高宗退位と純宗の擁立(同年7月)、第三次日韓協定(同年7月)によって、抗日活動が盛んになりました。
この当時の韓国人は理念などで一丸となっているわけではなく、一進会などは義兵に対抗していましたが、日本も派兵して武力で対抗します。
『韓国併合 大韓帝国の成立から崩壊まで』(森万佑子著)によると、伊藤博文は1908年末頃から辞任を仄めかしていたそうです。
同書から簡単に時系列を抜き出すと、1909年2月には日本に戻り、3月頃に辞職の意向を固める。4月に桂太郎と小村寿太郎が道後温泉での休養から帰宅した伊藤の元を訪れ、併合案を示すと伊藤も同意した。
とあります。
この後、5月に辞職。6月に副統監だった曾禰荒助が昇格しますが、伊藤は満州と朝鮮の国境にある間島の領土問題を解決する為にロシアと協議する目的でハルビンを訪れました。そこで、安重根が伊藤を暗殺したのです。1909年10月26日の事でした。
こうしてみると、安重根が伊藤を暗殺したから併合されたのではなく、併合は既定路線だったということになります。尤も、この事件で国内世論も併合を後押しし、時期が早まったとは言えるかも知れません。
次回、もう少し補足します。
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