【甲申事変の首謀者洪英植】(1)背景
『売国奴高宗』の著者で『朝鮮日報』の記者であるパク・ジョンイン氏のコラム等で、洪英植〔홍영식/ホン·ヨンシク〕という人物を詳しく知ったので、ブログ主の覚え書きとして、エントリーしておこうと思います。
彼は韓国の近代郵便の父とも言える人物ですが、「郵政総局(郵征総局)」の設立の日にクーデターを起こして殺され、その為に朝鮮の郵便制度は10年遅れました。

甲申事変の舞台、郵征総局
▲火災で焼失する以前の郵征総局建物の全景(現在の郵征総局=逓信記念館)
そのクーデターとは「甲申事変」ですが、本題に入る前に...。
韓国の歴史、特に併合(1910年)前の30年ほどを見ると、何度か腐敗した体制を変えようと反乱やクーデターが起きています。よく、「歴史に if はない」と言うのは、逆説的に「もし~だったら」と想像する事が多いからだと思いますが、「もし、これらの反乱が成功したら?」あるいは「どうしたら成功できただろうか?」と考え始めても、結局は「成功するはずがない」という結論に達してしまいます。
というのは、まず、王である高宗や妻の閔妃、父の大院君が腐敗や時代遅れの政策を良しとしており、抵抗する者があれば簡単に外国勢力を引き入れ、その力で反対派をねじ伏せてきたからです。いくら改革派が国を良くしようと考えても、彼らは実力的には圧倒的に無力でした。
韓国では最近、朝鮮末期や大韓帝国を再検証する書籍が出版されたり、動画で解説されており、それを観た視聴者は日本と比較して、「なぜ日本にできて朝鮮は自力で文明開化ができなかったのだろう?」と自問自答しているようですが、そもそも、封建制で地方も自立して知識階級でもある武士の層が厚かった日本と、絶対君主による中央集権制で知識を上流階級が独占していた朝鮮とでは違いがありました。また、日本は権力(ex. 江戸幕府)と権威(天皇)が分かれていたので、権力が交代するだけだったのに比べ、朝鮮では王に権威と権力が集中し、王家に対抗しうる勢力はありませんでした。読者や視聴者は一生懸命答えを見つけ出そうとしていますが、突き詰めると「国のシステムが違う」という身も蓋もない答えになります。
改革派のクーデターとして、日本でも有名なのは「甲申事変(政変)」(1884年12月4日)でしょう。金玉均ら開化派が起こした反乱ですが、郵政総局の開局式典で、改革派が出席していた守旧派を殺すという形で行われました。
▲1884年、甲申政変の主役たち。写真左から朴泳孝(パク・ヨンホ)、徐光範(ソ・グァンボム)、徐載弼(ソ・ジェピル)、金玉均(キム・オクキュン)。年齢は甲申事変時のもの。
しかし、文字通り三日天下に終わり、ある者は殺され、ある者は日本公使館に逃げ込んで亡命します。この時に捕らえられたのが洪英植〔홍영식/ホン·ヨンシク〕で、彼は処刑された後に、更に陵地刑〔※死体を切り刻む刑〕という野蛮な刑に処せられました。
三日天下だった甲申内閣での洪英植の役職は左議政でした。No2に当たるので、現代で言えば副首相です。
間違いなく甲申事変の中心人物なのですが、すぐにこの世を去ってしまったので、この事件が語られる時に彼の名前に言及される事はほとんどありません。
時は流れ...現在ソウル市内に再建された「郵政総局」には彼の胸像が飾られ、功績が称えられています。
時代を少し遡ると、甲申事変の2年前に壬午軍乱(1882年7月23日)という軍人たちの暴動がありました。日本の支援の元、軍隊をの近代化を進めていた閔氏勢力、つまり外戚勢力に対する、これに反発をつのらせた旧軍隊の反乱で、怒りの矛先は閔妃一族と日本に向かいます。彼らは日本公使館を襲い、公使館職員などを殺害します。また、大院君を担ぎ出して一度は閔氏を追い出しますが、結局反乱を鎮圧したのは清軍で、これにより、更に朝鮮に対する清の介入が深まり、閔妃一族も復権します。こうした状況の中で甲申事変は起きたのでした。
これで分かるように、当時は清に比べて、朝鮮半島における日本の存在感や影響力は小さなものでした。日清戦争が起こる12年前の事です。
その2年後に起きた甲申事変の時も閔妃側の要請で出兵した清国軍が反乱者を掃討し、この時、日本軍150名だけで清国兵1,300名と戦わざるをえず〔Wikipediaより〕、福澤諭吉の命を受けて新聞を作るために漢城に滞在していた井上角五郎も日本公使などと共に命からがら逃げ出しています。
次回、パク・ジョンイン氏のコラムをご紹介ます。
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