【李舜臣】(3)日本と朝鮮、どうして差が付いたのか...
前回のエントリーの続きです。
この李舜臣シリーズの最初(前々回)にご紹介した『朝鮮日報』の鮮于鉦(ソンウ・ジョン)論説委員のコラムによると、
16世紀末に起きた文禄慶長の役〔※韓国では「壬辰倭乱」〕に於ける李舜臣に関する、朝鮮で最も古い記録は17世紀前後に書かれた『懲毖録』(ちょうひろく)で、1795年の正祖王による李舜臣全書編纂以降、歴史家の申采浩(シン・チェホ)が1908年に「李舜臣伝」を新聞に連載するまで、李舜臣が書物に現れる事が無かった事になります。また、1892年に陸軍機関紙として日本で出版された「朝鮮李舜臣伝 文禄征韓水師始末」は、併合後に文一平(ムン・イルピョン)が朝鮮語に翻訳しました。
日本では、併合前後に、「帝国海軍史論」(1898年10月)や「帝国国防史論」(佐藤鉄太郎 著/1910年)を出版しており、その中で李舜臣に言及しています。
※ちょうせん‐しゅっぺい【朝鮮出兵】 テウ‥
豊臣秀吉の領土的野心による、2度の朝鮮への侵攻。文禄・慶長の役。日本では朝鮮征伐、朝鮮では壬辰・丁酉の倭乱と呼んだ。
(ア)文禄の役。秀吉は明国経略の前提として朝鮮の服属を強要したが拒まれ、1592年(文禄1)加藤清正・小西行長を先鋒に兵15万余を朝鮮へ派遣。初めは連戦連勝し、碧蹄館に明の援軍を破るなどしたが、水軍は朝鮮提督李舜臣の軍に大敗、翌年明使沈惟敬(しんいけい)との間に和を講じた。
(イ)慶長の役。1596年(慶長1)明皇帝からの書に「爾(なんじ)を封じて日本国王となす」とあるのを見て秀吉は激怒し、翌年再び朝鮮に兵を送ったが、遠征軍の士気揚がらず、98年秀吉の死を機に撤退。
広辞苑 第六版 (C)2008 株式会社岩波書店
この温度差、と言うか、何故、日本人はこれほど李舜臣に関心があり、詳しかったのか? と言うのが今回のテーマです。
まず、前々回のエントリーにも書きましたが、朝鮮で書かれた『懲毖録』がすぐに日本に伝わり、1695年(元禄8年)には京都で「2巻本」として訓読をつけて刊行されました。Wikipediaによると、”朝鮮側では、『懲毖録』が日本に出回っていることが物議を醸し〔※〕、1712年、日本への書籍の輸出を禁止する等の騒動になった” そうなので、広く日本人に読まれていたのでしょう。
※江戸時代、日本人は釜山にある「草梁倭館」という商館周辺〔※日本の単位で約1里半の距離〕しか出歩くことを禁じられていたにも関わらず、日本人はいつの間にか書物などを手に入れていたそうです。
更に、江戸後期の1797年(寛政9年)には豊臣秀吉の伝記、『絵本太閤記』が出版されます。
この「絵本」とは、子供の読み物では無く、緻密で時代考証がなされた挿絵を多用した為にそう呼ばれ、「読本(よみほん)」に対する言葉で、軽い読み物である「絵双紙」と区別したものです。この絵本太閤記のネタ元の一部が『懲毖録』なのです。
人形浄瑠璃や歌舞伎の演目にもなり、Wikipediaによると、
>こうして本書の人気が半ば社会現象化する中、文化元年(1804年)には版元が突如本書の絶版を命じられており、その評判の高さが公儀を危惧させるほどのものだったことが窺える。
という程の人気を博したそうです。
この本〔明治19年(1886年)の復刻版?〕は、「国文学研究資料館」のデータベースで閲覧する事ができますが、リンク先の下巻の目次を見ると、「李舜臣用亀甲船破日本勢」(李舜臣、亀甲船を用いて日本勢を破る)とか、「李舜臣大破日本勢」(李舜臣大いに日本勢を破る)といった章があるのが分かります。
日本と朝鮮、どうして差が付いたのか、慢心、環境の違い...
じゃなくてw 日本と朝鮮の違いは、ここまでお読みになれば気付くように、「庶民パワー」の差 です。
文禄慶長の役全体を見れば、李舜臣は日本軍に決定的なダメージを与えたわけではありません。日本勢が苦労したのは主に陸地戦で、明軍が加勢してからです。よく、日本人は、「韓国ではドラマや映画が史実になる」と揶揄しますが、明治期までの日本人には、絵本や芝居を通じて、李舜臣が強力な敵として印象づけられて来たのです。
一方、朝鮮人はと言うと、日韓併合前後に朝鮮人によって李舜臣伝が書かれたり、帝国陸軍の李舜臣研究書が翻訳されましたが、識字率を考えたら、これを読めた庶民はいなかったでしょう。(庶民という階層があったのかどうかも...)
そして、日本統治時代、朝鮮の歴史や遺物などを整理したのは日本人です。
『韓国「反日主義」の起源』(松本厚治 著)によると、朝鮮総督府は15年の歳月を掛けて、37巻、2万4千ページもの『朝鮮史』を編纂しました。また、朝鮮全土の古建築や遺構、石碑や石像を調査して『朝鮮古跡図譜』15冊にまとめました。その他にも、1万3千人もの人物の事跡を収録した『朝鮮人名辞書』を編纂し、民俗学や朝鮮語学も日本人により研究されて書物にまとめられました。
上記本にはこう書かれています。
>『朝鮮人名辞書』は、朝鮮、日本、中国の群書に散在する大小零細の記事を集め、1万3000人もの人物を収録している。政治的意図がなかったことは、たとえば壬辰倭乱の英雄李舜臣に特大のスペースを割き、「倭酋」、「倭賊」といった表記もこだわりなく載せている...
文禄慶長の役での李舜臣の活躍を誇張したのは日本人だったのです。
『反日種族主義』の李栄薫博士が、韓国の歴史博物館に行った時に、朝鮮の歴史を整理したのは日本人だと知ってショックを受けた、というような事をどこかに書かれていました。
朝鮮日報のコラムで鮮于鉦氏は、「海の近代的価値を知らなかったため、李舜臣の近代的価値も知らなかった。 そうするうちに抗日英雄の救国叙事まで日本に奪われた。」と書きましたが、彼も李栄薫博士と同じような気持ちだったのではないでしょうか。
→(4)に続く。
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