【李舜臣】(4)かくして李舜臣は韓国人の英雄となった...朴正煕、誇大妄想
前回のエントリーの続きです。
まず最初に、産経の黒田勝弘論説委員のコラムを一部引用してご紹介します。『東洋経済日報』の記事です。
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http://www.toyo-keizai.co.jp/news/essay/2014/post_5898.php
2014/09/05
<随筆>◇李舜臣(イ・スンシン)の大復活◇ 産経新聞 黒田勝弘 ソウル駐在特別記者兼論説委員
〔前略〕
夏の話題は映画『ミョンリャン(鳴梁)』〔※「鳴梁海戦」(慶長2年9月16日/1597年10月26日)を題材にした映画〕 だった。七月末の封切り後、一カ月で観客千五百万人突破とマスコミは大騒ぎになった。夏休みシーズンで映画界にとっては毎年稼ぎ時ではあるが、初日の観客数からはじまり一日の最高観客数、千万人突破の日などこれまでのすべての記録を塗り替えた。史上初の千五百万突破に話題沸騰だった。
それにしても人口五千万の国で千五百万人以上が入場料を払って映画館に足を運んだとは。ギネスブックものを越えて超驚きである。赤ちゃんから寝たきりを含め、国民のおよそ三人に一人がこの映画を見に映画館に出かけたことになる。にわかに信じがたいが、業界の公式数字だから信じるしかない。このものすごい数字のナゾ(?)は誰か社会学的に解いてくれないものだろうか。で、映画だが、李朝時代に日本から攻めてきた豊臣秀吉の水軍を破った海の名将・李舜臣が主人公。日本をやっつけた韓国偉人伝のトップ・ヒーローの活躍に観客の期待は当然、大きい。わずか十数隻で三百隻以上の日本水軍を撃退したというストーリーの下、その海戦シーンが最大の見せ場だから観客は拍手喝采、スカッとした気分になる。最高の愛国納涼映画になった。
〔中略〕
ところで李舜臣だが、韓国では朴正熙政権時代(一九六一~七九年)になってから最高級の偉人として称えられ、光化門前に銅像も立てられナショナル・ヒーローになったが、それまではそれほど有名ではなかった。政治的に曲折のあった人物だったからだ。それを武人だった朴正熙が歴史からピックアップし国民的英雄に仕立てたのだ。
ところが面白いことに李舜臣はむしろ日本で昔から高く評価されていた。その話は司馬遼太郎の名著『坂の上の雲』(第八巻)に登場するが、日本海軍では彼は「世界第一の海将」とされ、その業績と戦術が研究され語り継がれてきた。そして日露戦争の勝敗を決した日本海海戦にあたって、鎮海湾から出撃した日本の連合艦隊は「李舜臣の霊」に戦勝を祈ったという。この際、こんな話が韓国人にもっと知れるといいんですがねえ。
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ちなみに、コラム中に出てくる鳴梁海戦は 、韓国では ”朝鮮水軍が勝った” とされる戦いですが、日本側も損害を受けたとは言え、”毛利高棟文書には朝鮮軍が「逃退」したとあり、久留島家文書には日本軍が朝鮮軍を「即時追散」した” と記録されています。
下は、ブログ主が加工した画像で、元の図には小西行長と加藤清正の経路しか描かれていませんが、文禄の役の時はほぼ朝鮮全土、慶長の役の時は、漢城(ソウル)よりも南が戦域となっています。
最後の段落については「李舜臣」シリーズの(2)でご紹介したように、”連合艦隊の将校達が「李舜臣の霊」に戦勝を祈った” というのは、小説を元にした司馬遼太郎の創作の可能性があります。
黒田氏のコラムにも書かれている通り、李舜臣を歴史上の偉人、特に抗日の英雄として祭り上げたのは朴正煕大統領で、これは、前回ご紹介した『韓国「反日主義」の起源』(松本厚治 著)にも書かれています。彼は「韓国史観」を形成する必要を説き、民族精神の昂揚に力を尽くした人でした。金九や安重根もヒーローにするなど、現代に繋がる、李承晩以来の反日歴史観を決定づけたのが朴正煕です。〔→ブログエントリー:『韓国「反日主義」の起源』雑記7 - 朴正煕〕
ここから誇大妄想が始まるわけです。
ここから先は、「無明」氏のブログをご紹介します。実は、ブログ主が李舜臣について調べ始めたのはこのブログエントリーを読んだのがきっかけです。長いので、機械翻訳したものを部分的に引用します。
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https://blog.naver.com/zero53
作られた英雄
2023. 1. 22. 23:16
>口を開けば嘘をつく種族らしく、歴史についても口を開けば嘘をつくのが韓国人だ。 数字のポン菓子〔※뻥튀기:誇張〕が基本の中国人亜種である韓国人は365日嘘をつき、後には自分が言った嘘に自分も騙される醜態まで見せたりもする。
>韓国では壬辰倭乱、日本では文禄慶長の役と呼ばれる戦争で「李舜臣は日本軍を10~15万人を水葬した!」と依然として大多数の韓国人は信じている。 閑山島海戦で李舜臣が日本軍3万人を水葬したと堂々と主張する一方、東郷平八郎提督は李舜臣を尊敬し、「李舜臣はネルソンより優れた指揮官だった」と発言したとして露骨に歴史歪曲に、日露戦争でロシア海軍を撃破した日本海軍が勝利した理由は李舜臣を学んだ結果だと語るなど。 うそを息づくようにしゃべっている.
>当時、脇坂安治の石高は3万程度で、せいぜい兵力動員力は1500~1800人が限界だ。 明と朝鮮は将帥に官職を与え、官職による兵力がついてくる専制政体制だが、封建制日本は大名の石高によって兵力数が決まる。 例えば、Aという企業が下のB企業に仕事を任せれば、B企業は自分の生産性によって仕事を処理する形式だと言える。 中小大名である脇坂家の石高が3万石である以上、動員できる兵力は普通1500人で、実際に戦争中に脇坂が率いる兵力数も1500人だった。 ところで、何? 閑山島で3万人が死ぬの??
冒頭からきっついお言葉w
ここに出てくる「閑山島海戦」〔※文禄1年(1592年)7月7日 〕は文禄の役での戦いで、敵である脇坂安治の兵力を誇張する事で、大きな戦績を上げた様にしているとし、省略しましたが、この後、その根拠が述べられます。
>東郷平八郎提督が李舜臣を尊敬したという発言は、当然韓国以外ではどこにもない扇動であり、 詐欺劇で日本側のいかなる記録にもない。 日本海軍が李舜臣を学んだというのも嘘で、明治維新によって日本人がアメリカ-イギリスに留学まで行って成し遂げた結果であって、何が李舜臣に学ぶの?
過去のエントリーで検証したように、東郷平八郎がそう言った可能性はありますが、ソースはそれを聞いたという朝鮮人実業家の証言を伝聞したものだけです。
>日本で李舜臣が知られたきっかけは、柳成龍の『懲毖録』の影響といえる。 それまでは関心がなかったが、徴毖録が広がり、無批判的に受け入れた結果で、これがそれさえも根拠のある最も好意的な評価と言える。 何かと国を救ったと騒ぐが、当時の朝鮮支配層が本当に国を救ったと評価した人物は明の万暦帝だった。 宣祖が明に関連した人物を功臣扱いしたのも、明の派兵が戦争の版図を変える最も決定的な契機になったためだった。
『懲毖録』が日本人の李舜臣像に影響を与えたと言うことは(3)で書きました。
>李舜臣はできることとできないことを区分し、日本水軍の小型艦隊を急襲して戦果を得ることに主として集中した有能な人であって、大した大海戦を繰り広げて勝利した人ではない。 李舜臣の功績とは、主に漢山島周辺海域に出現した小型艦隊との戦闘であるにもかかわらず、韓国支配層は歴史歪曲のために脇坂をメジャー級に変身させる詐欺を働いただけだ。 海戦と関係なく流れたのが7年間の戦争だったので、懲毖録以外は日本も明もそれで大きく扱わなかったのだ。
確かに、李舜臣の水軍との戦いの詳細な記録を残さなかったのは、さほど重大事ではなかったからかも知れません。
>戦争は明が参戦して膠着状態になり、日本軍の戦略変化は李舜臣ではなく明に対する対応で行われ、補給困難で凄惨な戦闘を行った事例もやはり李舜臣のためではなく明に包囲された蔚山城の戦いだ。 加藤清正は蔚山城の戦いでトラウマが生じ、日本に帰還した後、城を建築する際に大量の井戸と食糧備蓄を必須としたほどだった。
>李舜臣の最後の露梁海戦は数万人を撃破した朝鮮軍の勝利だと主張するが、これも説得力がない。 閑山も海戦と同様に日本軍数万人が死んだと言い張るが、その後も島津家は動員力においてこれといった変化はなかった。 家臣団皆殺し? 当然事実ではない。 すでに述べたように、数万人が死ぬほどの大敗なら、該当家門はマンパワーの復旧が事実上不可能で、周囲の家門に吸収されるしかない。
ここで出てくる露梁海戦〔※慶長3年11月18日(明暦11月19日/1598年12月16日) 〕については、Wikipediaの『李舜臣』から説明を引用します。
>豊臣秀吉の死後、日本軍に退却命令が出されると小西行長は明との間に講和を成立させた後、海路を撤退しようとしたが、それを知った明・朝鮮水軍は古今島から松島沖に進出、海上封鎖を実施し小西らの退路を阻んだ。講和後のこの明・朝鮮水軍の行動(ただし明とのみの講和で朝鮮との講和は成立していない)に、小西軍は順天城での足止めを余儀なくされた。この小西軍の窮状を知った島津義弘ら日本側の諸将は急遽水軍を編成して救援に送ることとなり、これに対し李舜臣および明・朝鮮水軍は順天の封鎖を解いて東進し島津水軍を露梁海峡で迎え撃つこととなった。
退路を断たれた小西軍を救う為に島津らが加勢し、結局、明・朝鮮側は、李舜臣を始めとする多くの将軍を失いますが、日本側の大将クラスは無事でした。
いずれにしても、日本勢は元々退却する予定だったので、そうしましたが、韓国人としては ”追い返した(勝った)” 海戦となっているわけです。
この文禄慶長の役全体を見れば、豊臣勢としては、明に攻め入ろうとして、結局得るものも少なく撤退した、明・朝鮮側としては撃退したのですから、”日本勢が負けた” でもいいのですが、こういう論争を絵で表すと、↓
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