【韓国】何故か返還経緯は明かされない「柳成龍備忘録暦」
韓国に日本から、ある古文書が返還(?)されたという記事がありました。
それ自体はいいのですが、何か奥歯に物が挟まったような、返還の過程をぼかした記述で引っかかるので、備忘録として記録しておきます。
http://japan.hani.co.kr/arti/culture/45216.html
韓国語版:https://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/1068651.html?_ga=2.35003746.2136877517.1669582824-451681523.1590005188
李舜臣将軍の最期の場面が書かれた「柳成龍備忘録暦」日本で発見、韓国に戻る
登録:2022-11-25 10:46 修正:2022-11-25 12:13
〔前略〕朝鮮時代の壬辰倭乱(文禄・慶長の役、1592~1598)当時、李舜臣(イ・スンシン、1545~1598)将軍が鷺梁海戦で最期を迎える状況を描写するように書いた当時の知人の直筆の記録が初めて世に出た。記録者と推定されるのは、李舜臣の親友であり名宰相だった柳成龍(リュ・ソンリョン、1542~1607)。開戦後、右議政と領議政を務め、戦時の政府を率いて抗戦を主導し、17世紀の朝鮮、中国、日本でベストセラーになった壬辰倭乱回顧録『懲毖録』を書いた人物でもある。文化財庁と国外所在文化財財団は24日、柳成龍が直筆で書いたと推定される16世紀の備忘録の暦が日本で発見され、韓国に持ち込まれたと発表した。〔後略〕
これ以外の箇所では以下のような記述があります。
>国外所在文化財財団側は「京都大学のキム・ムンギョン名誉教授の情報提供で現地に所蔵された暦の存在を知り、文化財庁と国外所在文化財財団が数回調査を行って基本内訳を把握し、還収戦略を立てて交渉した末、9月に国内に持ち込むことに成功した」と伝えた。
「発見」などと書いていますが、上記のように韓国は海外の博物館などの所蔵品をチェックして、様々なやり方で返還要求をしています。恐らく、それが成功したが、詳しい入手方法を明かさないという約束でもあるのではないかと思います。
以前から狙われているのは、都内の市立美術館「大倉集古館」(ホテル・オークラ)にある石塔が有名です。〔記事後述〕 後にレプリカを造ったようですが、何度も調査に来ていました。言外には「略奪された」というニュアンスがあります。
うろ覚えで恐縮ですが、古文書か何かを調査に来た時は、「我々が調べている間、美術館員は片時も目を離さなかった」というような記事も見たことがあります。〔そりゃ、警戒するでしょw〕
2018年の大法院判決で分かるように、募集に応じて対価を得て労働していた朝鮮人が、「不当な植民地支配」という理由で被害者になれる国なので、正当に購入した美術品等も同じ理由で略奪される可能性があります。
https://jp.yna.co.kr/view/AJP20110513002600882
日本の私立美術館に南北石塔の返還要求、韓国団体
記事一覧 2011.05.13 16:41
【東京13日聯合ニュース】大韓仏教曹渓宗中央信徒会など文化財返還運動を行う団体が13日、日本の私立美術館・大倉集古館に対し、同館が所蔵する平壌栗里寺跡伝来の八角五重塔と利川浄土寺跡伝来の五重塔を返還するよう求めた。
両団体は、こうした内容の書簡を大倉集古館に送付。朝鮮仏教徒連盟から法律的権利を委譲されたとし、今後、訴訟など各種法的措置を行うこともあると述べている。日朝国交正常化の過程で栗里寺跡八角五重塔の返還が問題となれば日本側に不利になるが、大倉集古館が決断し、2つの石塔を南北にそれぞれ返還すれば、北東アジアの和解を引き出すことができると主張した。
曹渓宗中央信徒会などによると、栗里寺跡八角五重塔は、高麗時代に建立され現在は寺跡が残るだけの栗里寺にあったもの。大倉集古館を設立した実業家の大倉喜八郎が、1910年代に日本に持ち出したとみられる。
利川浄土寺跡五重塔は、高麗時代に利川市官庫洞に建立されたが、朝鮮総督府が1914~1915年ごろ景福宮に移したものを、大倉喜八郎が1918年に日本に持ち出した。
cf. Wikipedia:朝鮮半島から流出した文化財の返還問題
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