【米軍基地村判決】資料(3)韓国紙が報じた米軍基地村を含む韓国の慰安婦政策の変遷
内容的にはこのシリーズの前回のエントリーとほぼ同じですが、それを裏付けるものとして、2011年の記事を機械翻訳してご紹介します。
今回の判決〔→ブログエントリー〕に関しては、法的根拠がなく性病に罹った売春婦を強制隔離し、乱暴な治療をした事に対する有罪は理解できるのですが、政府が性売買を積極的に助長した責任を、お得意の「人権侵害に時効は適用されない」という理由で有罪にするのは疑問を感じます。
ご紹介する記事は『ハンギョレ』のものなので、自分達を道徳的な高みに置いて、李承晩政府や朴正煕から続く軍事政権の施策や米軍を批判的に書いています。事実に関する部分だけ拾って読んで下さい。
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〔多少日本語として不自然でも理解に影響が無いと思われる翻訳は機械翻訳ママ。緑字はブログ主の補足等。〕
http://h21.hani.co.kr/arti/cover/cover_general/30838.html
대한민국 성매매 보고서
대한민국 정부가 포주였다
大韓民国売春報告書
大韓民国政府が「抱(え)主」だった
性売買を取り締まるふりをして女性を外貨稼ぎの手段と考えていた韓国政府… 韓国戦争の時に慰安所を設置し、独裁政権は在韓米軍·日本人を対象に売春を助長
第887号
登録:2011-11-22 10:38 修正:2011-12-09 13:45
大韓民国で性売買は不法だが不法ではない。 紅灯街の一方に交番が共存する奇怪な風景は、韓国では今更ではない。 このような乖離はなぜ生じたのだろうか。
答えるためには、まず国家の二重性売買政策を見る必要がある。 漢陽大学HK研究のパク·ジョンミ教授(社会学)が今年書いた論文「韓国性売買政策に関する研究」は性売買に対する国家の意図された沈黙と統制過程を暴いた。 400ページを越える分厚い論文の中で大韓民国政府は性売買に、片手では不法化の烙印を押し、残りの片手では放任をしたり時には積極的に「抱主」の役割まで抱え込んだ。
国連軍のための慰安所運営
売春をめぐる国家の二重的態度は、1946年の米軍政期まで遡る。 日本帝国主義を押し出した米軍政は、先の植民統治との差別性を浮き彫りにする必要があった。 1946年5月17日に宣言された「婦女子売買又は既売買契約の禁止令」〔※〕は、そのような背景から出た。 公娼制を維持していた日帝とは明確に線を引く措置と見えた。 新生国家の臣民たちはこれを歓迎した。 1946年5月28日付<東亜日報>は、「朝鮮が解放されたので… 遊郭の女性たちが解放されなければならないのは当然のこと」と報道した。
※日本でも1946年1月に公娼制度廃止令がGHQより出されています。日本政府はその前に、”良家の子女” を守るために緊急に「特殊慰安施設協会(RAA)」を設置し、"性の防波堤" になってくれる女性を募集し、慰安所のようなものを作りましたが、前述の指令により廃止されました。〔秦郁彦『慰安婦と戦場の性』pp.166-168〕
その後は私娼が米兵の相手をするわけですが、1956年に「売春防止法」が施行されるまで、所謂「赤線」地帯で売春が公然と行われました。
いざ米軍政の意図は違った。 ロッチ〔?러취〕軍政長官は、「(禁止令が)公娼の廃止ではないことはもちろん、私娼には何の関係もない。 …自分自身が自ら結んだ契約の下で従事することは差し支えない」と明らかにした。 すなわち個人が他意によって性売買をすることになるのは不法だが、自発的に性売買をするならば公娼であれ私娼であれ構わないという話だった。 米軍はむしろ日本植民地時代から維持されてきた接客女性対象登録·検診関連規定をそのまま維持した。 米軍政の関心は、韓国の売春女性と接触した米軍の間で広がる性病を統制することに限定された。
公娼制度を公式に廃止したのは新生国家の立法府だった。 南朝鮮過渡立法議院は1947年8月「公娼制等廃止令」を通過させた。
1960~80年代の寄生観光は韓国の羞恥であり、資金源だった。 1970年代、外国人観光接待女性を対象に登録証(中央〔画像省略〕)を発給し、人権侵害の是非が起こった。 1980年代に寄生観光に反対するデモ(上〔画像省略〕)が行われた一方、政府は米雑誌記者の寄生観光店取材(下〔画像省略〕)に協力した。
「売春禁止主義」を法で明らかにした最初の事例だった。 しかし、法の力は微々たるものだった。 1948年1月<京郷新聞>は「予算は皆無状態であり、中央庁に対して国庫補助を要請したが、これが見込みがなくただ嘆いている」と報道した。
戦争を経て国家は自ら法を破った。 政府の1956年資料によれば、陸軍本部はソウルと江陵など4ヶ所で慰安所を運営した。 資料で確認された「慰安婦」数は79人だった。 1952年〔朝鮮戦争期間中〕、この女性を訪れた男性は延べ20万4560人だった。 陸軍本部は「(兵士たちが)異性に対する憧憬で引き起こされる生理作用による性格の変化などでうつ病やその他の支障をきたすことを予防するため」と趣旨を説明した。 チェ·ミョンシン将軍も回顧録『死線を越えて』で「当時、韓国陸軍は士気高揚のために60人余りを1個中隊とする慰安婦隊を3、4個運用した」と書いた。
政府は国軍だけでなく、国連連合軍のための「慰安所」も運営した。 1950年9月の記事によれば、馬山市が「数日以内に市内に連合軍の労苦に報いる連合軍『慰安所』5ヶ所を新·旧馬山に設置することになり、異議許可証をすでに発行した」 当時、政府保健部防疫局が出した「清掃および接客営業衛生事務取扱要領」〔※〕資料でも連合軍慰安所と慰安婦に対する指示事項を含んでいる。 政府が性売買を斡旋した「抱主」の役割を引き受けたと証言する文書は悲しくも、満ち溢れていた。
※実物の書類を確認した所「청소 및 접객영업 위생사무 취급요령」の訳語は正しい。→こちらの記事に画像あり。
米軍に代わる日本人「寄生観光」
1960年代に登場した朴正熙(パク·チョンヒ)政権は「革命公約」で性売買取り締まりを強化すると公言した。 1961年に制定された「売春行為等防止法」は、新政権の意志を示した。 21組からなる風俗行為防止法は、国家の売春禁止原則を再確認したものだった。 しかし翌年6月、保健社会部は全国104ヶ所に性売買を許容する「特定地域」を設置し、そのうち9ヶ所をソウルに割り当てたと発表した。 一口で二つの言葉は簡単に出た。
国家はなぜ性売買禁止原則を守れなかったのか。 1961年、交通部企画調整官室が出した公文書を見れば、答えがある。 公文書は「現在、韓国で最も容易に誘致できる観光客は駐韓国連軍」とし「外国人相手の接待婦」を対象に教養講習を推進するという内容を盛り込んだ。 当時、米軍兵士たちは主に日本や香港で休暇を取っていた。 1961年3月13日、<東亜日報>は、「韓国により多くの外貨を落とさせるという見地からは、すべての消耗品を国産で充当するのが理想的だが…。 お酒も外国酒だし、裸のお嬢さんも外国のお嬢さん、しかも外国のお金まで使うなんて…。」と嘆いた。〔※〕 国家の先決課題は「裸の娘」を「国産」に置き換えることだった。 1962年4月25日付<ソウル新聞>はソウル市警が「4千人に達する観光接客業者(ダンスホール·キャバレーなど)のサービスガールに対する接客業務教育を実施」したとし、その理由が「外国人より効果的なサービス」を提供するためだったと報道した。
※メディアも性産業による外貨稼ぎに加担したのでは?
1966年の『新東亜』の記事はむしろ率直だった。 「洋公主〔※〕が持つ巨大な力がある。 陰に咲いている彼らは、アイロニカルにも韓国の国家政策の地上稼業になったような外貨獲得の一役買っている」。 新東亜は当時、全国190ヵ所の国連軍専用ホールから出る外貨が1年に1千万ドルに達すると推定した。 1966年当時、韓国が貿易で稼ぐ外貨は2億5千万ドルだった。
※洋公主(ヤンコンジュ、양공주)、洋ガルボ(ヤンガルボ、양갈보)等は米兵の相手をする売春婦の蔑称。日本だとさしずめ「パンパン」?
1970~71年、在韓米軍の規模が1万8千人減少した。〔註:ニクソンドクトリン』(1969年7月25日)により、駐韓米軍の一部撤退〕 政府では非常事態となった。 1971年8月、内務長官が各警察に送った公文書で「保健当局と協力して慰安婦の性病予防策を講じ…。 教養を強化」と指示した。 しかし、去る米軍を捕まえることはできない。 米軍の空席は「寄生観光」に来た日本人が埋めた。 1965年の韓日国交正常化がきっかけだった。 寄生観光が絶頂に達した1977年、韓国を訪れた日本人の96.8%は男性だった。 経済成長に没頭した政府は、観光収入と観光客の目標値を提示した。 一線〔第一線級の?〕旅行斡旋業者にも「割当量」が下された。 目標を達成できなければ各種特典が消えたり、ひどい場合は許可が取り消された。 1979年<新東亜>は「脱線観光〔脱法観光の意?〕が極めて当然のように当局の黙認の下で行われる。 …寄生パーティーはほとんどすべての日本人観光客に行われた」と報じた。 もちろん政府も引き続き一役買った。 1972年ソウル市の資料によれば、基地村接客業者女性512人、観光料亭接客業者女性1795人を対象に教育した記録が残っている。
国家の先決課題は「裸の娘」を「国産」に置き換えることだった。 1962年4月25日付にはソウル市警が「4千人に達する観光接客業者(ダンスホール·キャバレーなど)のサービスガールに対する接客業務教育を実施」とし、その理由が「外国人により効果的なサービス」を提供するためだったと報道した。
今日も相変わらずの国家の原罪
1980年代に国内経済が成長し、内国人性売買「顧客」の比重は増えた。 1982年夜間通行禁止が解除され、1984年贅沢風俗店に対する規制を緩和した。 売春業者が育つ土壌はさらに肥沃になった。 米スポーツ週刊誌<ザ·スポーティングニュース>は1985年10月、ソウルオリンピック特別号で韓国料理を紹介し、あるホテルのレストランで行われた「寄生パーティー」の写真を掲載した。 当時、取材過程で政府が便宜を提供した事実が明らかになり波紋が広がったりもした。 寄生観光を通じて観光客を誘致しようとする「政策」は当時までも維持されていたわけだ。
事実上スローガンに止まった政府の性売買禁止政策は、1990年代と2000年代を経て少しずつ効力を発揮した。 1996年「売春防止法」と2004年「売春禁止法」は主要な契機になった。 しかし依然として性売買という脱法は「慣行」というマスクをつけて2010年代の大韓民国の街を闊歩している。 その背景には国家が自ら犯してきた「原罪」がある。
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