【一つの中国】中国が「台湾は中国の一部」の根拠とする『アルバニア決議』は曲解であり嘘
公開:2022-08-24 11:07:03 最終更新:2022/08/24 16:00(興梠一郎教授の解説動画を追記)
8月10日、中国〔中華人民共和国、以下混乱を避けるため「中華人民共和国」〕は22年ぶりに「台湾白書」を発表しました。以下、NHKの記事より一部引用します。
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https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220810/k10013763631000.html
中国 台湾統一で白書 “平和統一方針堅持も武力行使放棄せず”
2022年8月10日 19時23分
台湾情勢をめぐって緊張が高まる中、中国政府は、台湾統一に関する白書を発表し「平和統一」を目指す基本方針を堅持するとしながらも、武力行使は放棄しないとして、アメリカなどを強くけん制しました。
中国政府で台湾政策を担当する国務院台湾事務弁公室などは10日、「台湾問題と新時代の中国統一事業」と題する白書を発表しました。
白書では「台湾は中国の一部だという歴史的、法的事実に疑いの余地はない」としたうえで「われわれは、歴史上のどの時期よりも祖国の完全な統一という目標に近づき、その実現に向けた自信と能力を持っている」と強調しました。
そして「『平和統一と一国二制度』が、台湾問題の解決に向けた基本方針であり、国家統一を実現する最良の方式だ」とする一方で、「武力行使の放棄は約束しない」としています。〔以下略〕
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ここで、「台湾は中国の一部だという歴史的、法的事実に疑いの余地はない」としていますが、この根拠としているのは、1971年10月25日に採択され第26回国際連合総会2758号決議,通称「アルバニア決議」です。
しかし、これは国連に於ける「China」の代表が誰か〔どの政府か〕を「中華人民共和国」だと決議したもので、台湾の帰属問題とは全く関係がありません。決議文には「台湾の『た』の字」も出てきません。いずれにせよ、中華民国〔蒋介石の政府〕はこれに抗議して国連を脱退しましたが、興梠一郎教授によると、国連憲章では未だに常任理事国は「China」となっているそうです。〔Wikipediaでは「国連憲章の記載は未だに、中華民国が国連安保理常任理事国である」と書かれている。〕
【追記】興梠一郎公式動画:【台灣海峡危機】台湾は中国の一部か?〜「アルバニア決議」の謎(2022年8月24日)
たまたま、昨日(8月23日)のBSフジ『プライムニュース』でこの部分を論じており、『チャンネル桜』の「台湾ch」でもしばしば説明されます。よい機会なので、覚え書きとしてメモしておきます。
以下、アルバニア決議を悪用した中国の欺瞞を論破するのに、「台湾ch」キャスターの永山英樹氏のブログより該当箇所をお借りします。
>中国の周恩来首相が起草し、アルバニアなどの国々が提出した国連総会第2758号決議(アルバニア決議)が採択された背景には、国連での中国の代表の座を巡る二つの政府が争いがあった。
一つは国連発足以来、中国代表権を有していた中華民国政府だ。1949年には国共内戦で敗れ、非領土である台湾へ逃亡する所謂亡命政権となった訳だが、冷戦下で主に米国に擁護され、議席を維持し続けていた。
もう一つは1949年に成立し、実際に中国を統治する中華人民共和国政府だ。
第2758号決議とは、この中華人民共和国政府を「中国唯一の合法政府」と認め、中華民国政府の国連からの追放を決めたものだったが、中華民国の亡命先である台湾を中華人民共和国の領土とまで認定するものではなかったのである。
〔台湾の国連加盟を妨げる中国の主張を論破する(付:国連総会第2758号決議及びWHO総会第25・1号決議の全文)〕
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◆台湾ミニ歴史解説
ここで言う台湾とは台湾本島とそれに所属する「国」〔←ここでは敢えて国と呼びますが、政治的なまとまりを持った国家を形成していませんでした〕ですが、常に他者の支配下に置かれてきました。
シナ大陸〔現在、中華人民共和国がある辺りの土地〕に於いては、明朝〔1368~1644〕は澎湖諸島〔ぼうこしょとう:台湾島の西方約50kmに位置する台湾海峡上の島嶼群〕こそ版図に入れましたが、海禁政策を採り、大陸からの海外渡航を禁じていました。
16世紀にヨーロッパ諸国が交易を求めて東洋に進出すると、オランダやスペインが台湾島の一部を占拠し、貿易の拠点とすべく城を築きますが、1642年にはオランダがスペインを追い出します。〔オランダは大陸から大量の漢人を労働力として招き入れ、平地に住む原住民は徐々に混血が進み、平埔族(へいほぞく)は消えてしまう。〕
シナでは清朝〔1616~1912〕が明を滅ぼしますが、これに抵抗したの鄭成功(ていせいこう)で、台湾からオランダを追い出し、台湾を拠点にします。近松門左衛門の「国性爺合戦」の国姓爺(こくせんや)とは鄭成功の事です。清は鄭氏を打倒しますが、台湾を「化外の地」〔教化が及ばない所、野蛮人の地〕と呼び、領有するつもりはありませんでした。しかし、戦略的な重要性から、1684年に康熙帝が台湾領有の詔勅を下します。
台湾支配には相変わらず消極的でしたが、1871年に「牡丹社事件」と呼ばれる、琉球(沖縄)の宮古島の住民が台湾に漂着し、54名が原住民に殺される事件がありました。ここで、明治政府は清に賠償金を求めますが、台湾の住民は化外の民だとして拒んだため、1874年に西郷従道を指揮官として台湾に派兵して南部を占領してから、清と交渉し、賠償金をせしめます。〔ここで重要なのはむしろ、清国が間接的とは言え、宮古島住民を日本人として認め、琉球を日本だと認めた事。〕これがきっかけで、清は台湾の統治政策を強化します。
そうこうしている内に日清戦争(1894~95年)が勃発します。その結果、下関条約で清は台湾を日本に割譲して、それ以降、日本の統治下に置かれることになります。この時、台湾の官僚などが抵抗し、1895年5月25日に「台湾民主国」の成立を宣言しますが、清は既に割譲した後だと関知せず、日本は武力による支配を決意、5ヵ月に及ぶ戦闘が繰り広げられます。〔乙未戦争(いつびせんそう)〕 ついに台湾民主国は瓦解しますが、日本軍の戦死者は250名、これに対して台湾側は1万4千名が戦死します。〔←ここが台湾と朝鮮の違い〕
ところで、中華民国、中華人民共和国がそれぞれ祝う『双十節』(十月十日)という記念日があります。これは辛亥革命(1911年)の始まりである武昌蜂起を祝うもので、清が滅ぼされ、シナ大陸を異民族から韓民族が取り戻した事を祝うものです。〔但し、清を倒したのは中華民国政府〕
1945年の日本の敗戦及びその後のサンフランシスコ講和条約〔1951年9月サン‐フランシスコで調印、翌年4月28日発効〕で、台湾は日本から切り離されました。台湾の帰属問題が曖昧なまま、国民党軍が占領軍として台湾に進駐します。占領軍と言えば聞こえは良いのですが、国民党(中華民国)は、第二次世界大戦の戦勝国とは言え、中国共産党との国共内戦に破れてシナ大陸での領土をほぼ失い、台湾に逃げ込んだ形です。
中華人民共和国は、1949年10月1日に成立します。
〔この項、歴史REAL『台湾と日本人』、各種辞書参照〕
さて、ここまで長々と書いてきましたが、この台湾の歴史のどこに中華人民共和国に従属した歴史があるというのでしょう?
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◆中華人民共和国や日本のメディアが使う「台湾独立」の言葉に注意
中華人民共和国は ”台湾は自国の一部” という立場なので、「中華人民共和国からの台湾独立」を意味しますが、台湾人は「(公式にはシナ大陸を自国の領土と主張し、南京に首都を置く『中華民国』の占領からの)台湾独立」を意味します。
この意味では、蔡英文総統は「現状維持派」、頼清徳(らい・せいとく)副総統はより積極的な「台湾独立派」ですが、どちらも、台湾は既に独立主権国家であるという考えです。
台湾は中華人民共和国に従属しているわけではないので、中華人民共和国の言う意味での「台湾独立」はあり得ないのです。
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