【佐渡金山】地元佐渡で世界文化遺産登録を邪魔する日本人達(3)
過去の2つのエントリー〔(1)、(2)〕で、今年4月に発足した「佐渡の朝鮮人労働者の足跡を記憶する会」について調べた事を書きました。
この会は、1991年から細々と続いていた「過去・未来―佐渡と朝鮮をつなぐ会」〔5月に解散〕の後継組織のようです。
今回は、その後見つけた記事〔後述〕を元に、この会を、称光寺〔新潟県佐渡市宿根木〕の林道夫住職を中心に少し俯瞰して見てみたいと思います。
まずは概略です。
約30年前〔1991年前後〕に、嘗て佐渡に出稼ぎに来ていた朝鮮半島出身労働者に同情して調査をし、韓国まで行き聞き取り調査をした方がいます。それが称光寺の林道夫住職です。
但し、彼の調査は、「朝鮮人=弱者」という先入観が根底にあり、公平な研究者として佐渡にいた朝鮮人の全体像を把握するものではなく、元労働者に何とか戦後補償を受けさせられないかという思いからのものでした。
小杉邦男・元佐渡市議会議員も当時、その活動に携わっていた一人です。
彼らは、元労働者が日本政府相手に訴訟を起こす事を望みましたが、林道夫住職の言い方を借りると ”韓国政府から横槍が入って” 実現しませんでした。〔当時は盧泰愚政権〕
恐らく、この当時の韓国の政治家や官僚は日本統治時代の労働者の実態や日韓交渉の内容も理解していて、労働者の補償は既に韓国政府の問題だと分かっていたのだと思います。日本から貰った金は『漢江の奇跡』に使ってしまい、未払金等の補償はしていなかったので、佐渡金山の元労働者が騒ぐのは得策ではないと思ったのでしょう。〔1932年生まれで日本語世代の盧泰愚大統領は、慰安婦問題も韓国で片付けると言っていた。単なる戦時売春婦に過ぎない事を知ってたからだと思います。〕
結局、彼の調査はそれで終わり、30年の年月が経ちます。
しかし、佐渡金山を世界文化遺産に登録する機運が高まり、これを阻止したい人達が、再び彼の研究に着目し、彼を語り部として持ち上げ、勉強会のようなものを開催。これが韓国左翼メディアの『ハンギョレ』の目にも留まったという事です。
林道夫住職の調査自体はバイアスがかかっており、研究としては既に何の価値もありませんが、活動家は彼を語り部として最大限利用しようとしている、そんな感じがします。
* * * *
韓国『KBS』のニュース動画のキャプチャに登場する人物を特定して下さった方がいます。〔@ETakaquさんの2022/08/17付けツイート より画像拝借〕
林道夫住職は現在75歳か76歳くらいで、となると、1946年〔昭和21年〕頃の生まれ。既に戦後世代です。
彼の父親、林道明氏は地元の名士であり、調べれば分かる事なのでソースは示しませんが、元は愛媛県の寺の出身で、民俗学者の宮本常一とも親交があり小木町に民族博物館を造ることに尽力した学者肌の方です。
道夫氏は東京の大学に進学し、そこで在日朝鮮人に出会います。二十歳と仮定すると、1966年(昭和41年)頃でしょうか。
>もとより林さんが過去の歴史に関心を持つようになったのは、大学時代の朝鮮人との出会いがきっかけ。とある飲み屋に偶然居合わせた朝鮮人が戦時中の暮らしを語ってくれたそうだ。〔朝鮮新報ー記事後述〕
>「大学を卒業して佐渡に戻った後、相川町の教会に朝鮮人が礼拝に来ているという話を耳にした。それから本格的に調査に乗り出した」。牧師のつてをたどり、戦後、佐渡に残った朝鮮人一人ひとりと交流をつなげていったという。〔同上〕
従って、林道夫住職の佐渡での朝鮮人労働者研究は1970年前後に始まっています。
最初は地元佐渡での情報収集だったでしょうが、転機は1991年に訪れました。
>この名簿〔=朝鮮人煙草配給名簿〕を確認した本間さんは1991年8月、在日朝鮮人問題に関心の高かった佐渡島にある寺「称光寺」の住職、林道夫さん(75)に写本を渡した。〔ハンギョレー記事後述〕
>〔林さんは〕在日朝鮮人のチャン・ミョンスさんたちと共に1991年11月に韓国に渡り、現地調査を行った」と述べた。〔同上〕
彼をこれほど迄に突き動かした原動力が何なのかは分かりません。
贖罪意識? 彼自身が東京で感じた疎外感のようなものから来る在日朝鮮人への同情心? 或いは、「日本は兄貴分」だと発言した江藤征士郎議員のような、一見、理解を示しているような ”上から目線” 〔※〕?
※『反日種族主義』の著者の李栄薫教授は、所謂 ”良心的日本人” は、「朝鮮人(韓国人)は劣っているので、日本人が助けてやらなくてはならない」という差別意識が根底にあると考察しています。
いずれにしても、彼の調査の目的は元朝鮮人労働者の救済が主たるもののようで、純粋な研究とは言えません。但し、所謂反日活動家とも違うような気がします。
結局、訴訟には至りませんでしたが、その後も追悼行事などは行っていたようで、資料も埃を被っていたところ、今年4月に「佐渡の朝鮮人労働者の足跡を記憶する会」が発足し、彼の研究内容を共有する勉強会のようなものを開いている、というのが実態のようです。
林道夫住職自身は、恐らく善意から出発したのであり、問題は、彼の研究をイデオロギーのために利用しようとしている人々にあるように思えます。
以下、長いのですが、『朝鮮新報』(朝鮮総連の機関紙)と『ハンギョレ』の記事を資料として保存しておきます。〔緑字はブログ主の補足〕
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https://chosonsinbo.com/jp/2022/03/25-68/
佐渡は語る―朝鮮人強制労働に目を(下)/地元民らの声
2022.03.28 (08:36)
戦時中、1200人を超える朝鮮人が労働を強いられた佐渡鉱山。日本政府が世界文化遺産登録への動きを進めるなか、この地での朝鮮人強制労働の実態を探るべく佐渡を訪ねた。そこに漂う空気感は、近頃盛んに報道される政府や行政の「意欲」と一線を画すものだった。
今からおよそ30年前。佐渡での朝鮮人強制労働が国際的な注目を浴びていないころ、現地では日本人有志らを中心に朝鮮人元労働者に関する調査が進められていた。
先陣を切っていたのが「コリアン強制連行等新潟県調査会」だ。中心に、林道夫さんがいた。 〔←「強制連行」という言葉から、東京で出会った朝鮮人に何を吹き込まれたのかは大凡想像がつく。〕
林さんは、「称光寺」(佐渡市小木町)の住職であり、佐渡での朝鮮人元労働者を調査してきた代表的存在。1991年、佐渡鉱山「相愛寮」のタバコ配給台帳(「上」参照)をもとに生存者の追跡調査のため南朝鮮へ足を運び、以降、朝鮮人元労働者との交流を深めながら歴史を世に知らせるための活動を行ってきた。
当時のようすを記録した映像「佐渡鉱山朝鮮人強制連行追跡調査」(1991年制作)には、林さんのインタビューに答えながら証言する2人の元労働者の姿が残っている。
記者が佐渡を訪れた時、偶然にも林さんに会う機会が設けられた。体調が悪いにも関わらず、急な来客を温かく迎え入れてくれた。
「『韓国』で取材をする間、何度か一緒に酒を飲んだ元労働者もいた。はじめは『よくしてくれた日本人もいた』とこちらを意識して話すんだけど、打ち解けていくうちにだんだん本音が出てくるんだよ」。
林さんは当時をこう懐古した。「町中で日本人に酒をかけられた」「言葉が通じなくてばかにされた」「今でも日本を許せない」…。元労働者との出会い、そしてかれらの過酷な労働や生活実態に触れ、林さんはより精力的に活動を進めていったという。
〔元慰安婦の聞き取り調査をした李栄薫教授が仰ってたが、話し手は徐々に相手(聞き手)がどんな事を聞きたがっているのか察し、相手が聞きたい事に合わせて話すようになっていくという。〕
もとより林さんが過去の歴史に関心を持つようになったのは、大学時代の朝鮮人との出会いがきっかけ。とある飲み屋に偶然居合わせた朝鮮人が戦時中の暮らしを語ってくれたそうだ。
「大学を卒業して佐渡に戻った後、相川町の教会に朝鮮人が礼拝に来ているという話を耳にした。それから本格的に調査に乗り出した」。牧師のつてをたどり、戦後、佐渡に残った朝鮮人一人ひとりと交流をつなげていったという。
戦時中、朝鮮人労働者のうちキリスト教徒らは、鉱山近くの相川教会へ礼拝に行っていた。林さんによると「普段は差別されるけれど、牧師たちはまともに話を聞いてくれたから、熱心なクリスチャンでなくとも礼拝に行く朝鮮人はいた」そうだ。皇国史観や軍国主義がのさばっていた戦時中、それと対立する思想や信仰は弾圧の対象として「不敬罪」や「治安維持法」に問われることがしばしばあった。佐渡においては鉱山労働に動員されることもあったという。朝鮮人にとって、ある意味「身近な存在」という認識があったのかもしれない。
相川教会の野村穂輔牧師(当時)の回顧録『御霊によって歩きなさい』(1993年、福音宜教会)には、朝鮮人に関わるひとつの逸話が記されている。
1944年、とある朝鮮人青年が雇用期間を不当に延期されたため逃亡を試みたいという相談を持ちかけた。野村牧師は返答する。「契約を守らない会社は不当であるが、あなたはクリスチャンであり脱走することはやるべきことではない(中略)ここは神を信じて忍耐してください」。
しかし青年は顔を真っ赤にして帰ってしまい、それ以降教会に姿を現わさなかった―。 〔朝鮮人達は現実的な助けを求めていたのに、教会など何の役に立たないと思って去って行ったのだろう。それに、たかだか40年前かそこらは両班に牛馬のようにこき使われていた朝鮮人に、仕事や雇用主に対する忠誠心を求めるのが無理なのかも知れない。〕
林さんは言う。
「植民地だった朝鮮に働く場所はなかったから、若者は日本に行けば稼げるという誘いに応えるしかなった。そりゃ甘い話をすべて信じていたわけではないだろう。でも稼ぐためには日本に行くしかなかったんだな」
〔画像省略〕1995年、生存者を招いての新潟県庁への訪問(小杉邦男さん提供) 〔この当時から、小杉邦男議員が関わっていた事が分かる。〕
家族のため異国に身を投じたが、異常な労働条件に耐えられず逃亡する人も少なくなかった。 〔西岡力教授も言っているように、朝鮮人はとにかくよく逃げた。別の見方をしたら、逃げる事ができたと言うのは、韓国人が言っているような監視も「鉄条網」も無かった。〕
「賃金も中間管理者(日本人)が全部管理していたから、朝鮮人はお金すら十分に使えなかった。逃亡する時なんかは何人かで少額を出し合って、漁師の船をチャーターして新潟などへ逃げたそうだ。『帰るに帰れない』という人もいた」
長年、朝鮮人元労働者たちの胸の内に耳を傾けてきた林さん。時には「日本人の顔も見たくない」と弾かれることもあったが、歩みを止めることなく調査し続け、かれらとの交流を深めた。そうして1992年には南朝鮮の生存者を佐渡に招き調査報告会を開催。95年11月にも生存者とともに戦後補償問題の解決のため新潟県、厚生省(当時)を訪問。同12月には相川町長との面会を実現させた。面会では相川町長が「ご迷惑をおかけしました」と、朝鮮人元労働者らに謝罪の意を示した。
林さんをはじめ、佐渡の有志らによるたゆまぬ活動があり、現地の日本市民団体らは今でも年に一度「追悼の会」を催し、佐渡鉱山労働者に思いを馳せる場を設けている。現地では歴史とまっすぐに向き合い、日本の戦争責任問題を問うていた。
これから
「佐渡の人は、世界文化遺産登録に関していたって冷静な立場です。むしろ私の周りは否定的な意見が多いと思います」。佐渡教会の荒井眞理牧師(佐渡市議会議員)はこう話す。佐渡教会の荒井牧師、そして三村修牧師は、林さんとともに朝鮮人元労働者の調査を続けてきた。日本政府や行政が世界文化遺産登録への取り組みを進める一方で地元民は「さほど登録にこだわってはいない」と、両者の温度差を指摘していた。
90年代、林さんらは調査を通じ、佐渡での鉱山労働に従事した10人以上の生存者を探し出した。かれらの証言を通して明らかになった当時の労働実態は、映像や資料として今も残されている。
そのことを踏まえ、荒井さんは「林さんが積み上げてきた調査を反故にはできない」と語り、歴史否定へと舵を切った日本政府の動きを危惧した。90年代以降は活動が停滞し、約30年前の資料はいま埃をかぶった状態。一刻も早く整理すべきだと荒井さんは語気を強める。当事者の多くが世を去ったいまこそ林さんの調査内容が必要とされているからだ。
佐渡の有志らはいま、林さんらの意志を継ぎ、歴史の風化に待ったをかける活動を始めようとしている。
◇
なんとしても世界文化遺産の登録にこぎつけようとする日本政府の悪巧は、社会の対立を次々と生んでいる。自らにとって不利な歴史を直視しないまま鉱山の「普遍的価値」を見いだそうとする姿勢は、世界の反感を買い、社会の排他的風潮をより加速させる。
江戸時代は無宿人(住む家のない人)を、戦時中は朝鮮人を強制的に労働に従事させた佐渡鉱山の背景を鑑み、地元住民は「世界遺産にふさわしいのか」と疑問を呈している。
地元はもとより世界が歓迎する遺産とはなにか。歴史の「影」を認めずしてその本質を見いだすことができるとは到底言えないだろう。
* * * *
https://japan.hani.co.kr/arti/international/44298.html
「佐渡鉱山は朝鮮人の墓…目撃した死者だけでも4人」強制動員生存者の追加証言を確認
2022-08-16
ハンギョレ新聞
「飯は5分で…いつも腹をすかせていた」 「自分が死を確認した人だけでも4人」 「3交代はしんどくて逃げ出したかった」 佐渡の市民ら「歴史を蘇らせる」 朝鮮人400人の煙草配給名簿を糸口に 生存者を捜しに訪韓し、証言を集める
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佐渡鉱山周辺には80年あまり前の朝鮮人労働者の生活の痕跡がまだ残っている。写真は鉱山裏の空き地の石積み。朝鮮人労働者の食堂跡だ。案内板一つなくひっそりとしている=佐渡/キム・ソヨン特派員
新潟までは東京駅から上越新幹線で2時間。新潟からさらに快速船に乗って北西に1時間行くと佐渡島に着く。済州島の半分の大きさ(854.5平方キロメートル)のこの島は、日本では沖縄に次ぐ大きさをもつ島だ。先月23日に本紙の取材陣が訪れた佐渡島の両津港には「祝世界遺産推薦決定、佐渡島の金山」という大きな横断幕がかかっていた。
この島にある相川金山(佐渡金山)は、江戸時代(1603~1867年)に日本最大の金の生産地として名をはせた。太平洋戦争(1941~1945)が始まると金山の機能は変化する。金だけでなく軍事物資として必要な銅、亜鉛、鉛などが集中的に採掘されはじめたのだ。人手不足を埋めるために、植民地だった朝鮮から1500人あまりの朝鮮人労働者が、三菱鉱業が経営する佐渡鉱山に動員された。
鉱山周辺には、80年あまり前の朝鮮人労働者の生活の痕跡が残っている。鉱山の裏の空き地に石積みがある。朝鮮人労働者が毎日食事していた食堂の跡だ。今は案内板一つなく物寂しい姿で放置されている。さらに奥に入っていくと、今は別の建物が建てられているが、かつては朝鮮人労働者にたばこを配給したり、彼らが望む送金などの郵便業務を処理していた場所がある。〔←朝鮮人坑夫は、実家に送金していた事実が分かる。戦後、慌てて朝鮮に帰った朝鮮人労働者の未払金は最後の1ヵ月分の給料と、会社が行っていた強制貯金(=会計的には企業に対する貸付金)の残額程度だった。〕
日帝強占期当時、この建物で働いていた富田毅さん(故人)が、地元郷土史家の本間寅雄さんに、自分が保管していた「朝鮮人煙草配給名簿」を渡したのは1980年代末~1990年代初めと推定される。1944年から1945年にかけて、会社側が鉱夫たちにたばこを支給する過程で作ったこの名簿には、400人あまりの朝鮮人の名前(日本式と韓国式が混ざっている)、生年月日、移動状況などが記されていた。富田さんは、郵便関連の記録は敗戦直後に全て焼却したが、「煙草名簿」については特に指示がなかったため保管していた。名簿の原本は現在、佐渡博物館が保管している。
この名簿を確認した本間さんは1991年8月、在日朝鮮人問題に関心の高かった佐渡島にある寺「称光寺」の住職、林道夫さん(75)に写本を渡した。忘れられた地域史を蘇らせ、日本の歴史的責任を悟らせようとする小さな歴史の歯車が回り始めたのだ。林さんは本紙の取材陣に「名簿の実体を明らかにし、過去の佐渡鉱山で何があったのかを知るためには、生存者を捜し出して証言を聞く必要があった。在日朝鮮人のチャン・ミョンスさんたちと共に1991年11月に韓国に渡り、現地調査を行った」と述べた。煙草名簿と共に、「忠清南道の人々の性格が比較的穏やかで鉱山労働に適している」と記された当時の朝鮮人募集担当者の手記も発見された。彼らはとりあえず「忠清南道論山(ノンサン)」に行き先を定めた。
地域新聞「大田日報」が彼らの訪韓目的を大々的に報道し、イム・ドッキュ元国会議員から様々な面で支援が得られた。その結果、キム・ジュヒョンさん(当時65)とチョン・ビョンホさん(75)ら生存被害者たちと出会えた。彼らの証言は映像と記録として残っている。これまでは残っている生存者の証言は、鉱山から逃走し、その後日本に定着したイム・テホさん(1919年生まれ)の口述が唯一だったが、本紙はさらに5人の証言を確保することができた。
1943年、17歳の時に佐渡鉱山に連れて行かれたキム・ジュヒョンさんは「佐渡に行く1年前から面(地方行政単位)の関係者と募集担当者が『一家から1人は行かなければならないという命令がある』と話して回っていた」と証言した。「母が泣いて大変だった。末の息子を送り出すというのだから泣かないはずがない。お前が行かなければお前の兄を捕まえると言うから仕方なく行ったんだ」。キムさんは坑内で、岩に穴を開けるためにパイプをつなぐ仕事をした。「24時間3交代勤務だった。苦しくて逃げ出したかったが、逃げて捕まった人がボコボコに殴られるのを見てあきらめた」
チョン・ビョンホさんも1943年、27歳の時に同じ村の10人あまりの住民と共に動員された。彼は坑内で岩にダイナマイト爆破用の穴を開ける仕事をした。毎日が恐怖だった。「坑道の仕事が肺に良くないことは知っていた。坑道に入るたびに死が待っているという気がした。一番怖かったのは、地下に下りる時、急に携帯用の明かりが消えて真っ暗になった時だ」。チョンさんは1944年に、落石に当たって3カ月も入院しなければならなかった。解放後、チョンさんは故郷に帰った。故郷を出る時に3歳だった娘は死んでいた。妻は家を出て行方が分からなかった。
1995年12月1日、佐渡島で意義深い場が設けられた。「『戦後50年』佐渡鉱山で働いた韓国人を迎え証言を聴くつどい」が開催されたのだ。佐渡の市民が1991年から臨時組織として運営していた「過去・未来―佐渡と朝鮮をつなぐ会(つなぐ会。今年5月解散)」が正式発足後に主催した行事だった。韓国の調査過程で出会った生存者のうち、尹鐘光(ユン・ジョングァン)さん(当時73歳)、ノ・ビョングさん(72)、遺族のキム・スンピョンさん(46)が招かれた。 〔尹鐘光(洸)氏は厚生年金加入記録の人物〕
当時の証言資料によれば、ユンさんは「佐渡鉱山に再び来られるとは夢にも思わなかった。その時、共に働いていた韓国人の同僚たちはほとんど死んでしまった。私がこのように来られたのは奇跡」と感無量な気持ちを表わした。19歳だった1941年に佐渡に動員されたユンさんは「面で割り当てがあると言うので、両親と妻を残して佐渡に連れてこられた」と話した。坑内で岩に穴を開けた時に散らばった石を集める作業などをしていたユンさんは「自由ではない生活だった」と証言した。同氏は「飯は5分で食べなければならず、いつも腹をすかせていた。寝ることすら統制された」とし、「労賃もどうなるのかよく分からなかった。休暇を取るのも難しい雰囲気だった」と強調した。 〔不満があったのは理解できるが、「奴隷労働」?〕
ノ・ビョングさんは17歳だった1941年、佐渡に動員された。ノさんは、若い朝鮮人が事故で死ぬのを見守らなければならないのがとてもつらかったと訴えた。同氏は「1942年、第3坑道にいた朝鮮人がダイナマイトの爆風で携帯用の明かりが消え、前が見えなくて転落死した。遺体が運ばれてゆくのを見た。私が死を確認した人だけでも4人いた」と述べた。
佐渡鉱山で生き残った朝鮮人たちは強制動員と苛酷な労働を証言しているが、日本政府は「佐渡島の金山」のユネスコ世界遺産への登録を申請した際、その期間を江戸時代(1603~1867年)で完全に区切った。不都合な歴史に目をつむる態度だ。2015年に登録された軍艦島(端島)などの遺産を説明する東京の産業遺産情報センターでは「朝鮮人と日本人の労働者の間に差別はなかった」という資料を堂々と掲げている。
1995年からつなぐ会に参加していた元佐渡市議会議員の小杉邦男さん(84)は「日本政府が朝鮮人に対する差別がなかったと言うのは真実ではない」と語った。「幼い頃、朝鮮人のことを『半島人』と呼んでいた。日本人より下だという差別的な言葉が日常で平気で使われていた」。 〔「半島人」という言葉は、戦争と共に広まったと『韓国「反日主義」の起源』で読んだ。それまでは「朝鮮人」だったのが、「九州人」とか「道民」のような、日本の一地方という認識に変わった為で、朝鮮人もそう自称した。つまり、日本国民として認識が芽生えた証拠。〕
同氏はまた「佐渡鉱山でも、難しい坑内の仕事は朝鮮人によって全面的に担われていた。これが差別でなくて何なのか」と強調した。実際に、三菱鉱業佐渡鉱業所が作成した「半島労務管理ニ付テ」(1943年)という資料によれば、事故の危険が高く、労働条件が劣悪な坑内労働には473人の朝鮮人、146人の日本人が投入されていた。約76%が朝鮮人だったのだ。 〔当時は既に、日本の若い男は戦争に取られていたはず。〕
つなぐ会を率いた林さんも「佐渡から無事に故郷に帰った朝鮮人たちも、肺病などの後遺症に苦しみ、ほとんどは早くに亡くなっている。現地調査で、当事者だけでなく家族の苦しみが続いているのを目撃した」と話した。そして「過去の歴史的事実をありのままに見なければならない。逃げてはいけない。戦争責任問題は人間の尊厳を取り戻すためにも、私たち日本人が追及され続けねばならない大きな課題だ」と強調した。
佐渡(新潟県)/キム・ソヨン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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