【”徴用工”問題】原告の一人、呂運沢(ヨ・ウンテク)という人物
2018年の大法院判決の原告の一人、呂運沢(여운택/ヨ・ウンテク)氏が、前回のエントリーと同様、2009年に年金脱退手当金を受け取っていた事を知ったので、彼についてまとめておきます。
呂運沢氏が脱退手当金を貰ったときの記事は、2009年12月23日付けMBCの『강제징용자 연금탈퇴수당 '99엔 지급'에 분노』〔強制徴用者年金脱退手当「99円支給」に憤怒〕という記事で、7人に99円が支払われたことと一緒に書かれています。以下、機械翻訳で一部引用します。
>解放直後に帰国したヤン·クムドクさんなど7人は、11年前から日本政府を相手に厚生年金脱退手当の支給を要求してきました。
しかし日本政府は、これら7人が日本企業で働きながら厚生年金を納付したことが認められるとしながらも、国内法上厚生年金脱退手当には、物価上昇率を反映しないという理由で1945年当時の価値そのまま99円、約1300ウォンのみ支払いました。
>これに先立ち、今月初めにはやはり厚生年金脱退手当として316円を受け取った88歳ヨ·ウンテクおじいさんがからかわれた気分だとし、このお金を返すために東京を訪問したりしました。
彼については、『反日種族主義』に対しての批判に反論した『反日種族主義との闘争』に詳しく書いてありますが、『文春オンライン』にも著者の李栄薫(イ・ヨンフン)博士の寄稿文があり、彼について触れています。〔「韓国の歴史認識は嘘のパレード」 『反日種族主義との闘争』の編著者が語る、“低級な歴史意識”に侵された韓国(2020/09/14)〕
まず、何度も書いていますが、この大法院判決は未払い賃金などの債務の支払いを日本企業〔新日鉄住金=現日本製鉄〕に命じたわけではなく、「反人道的に働かされた」事に対する賠償金を命じたものです。新日鉄住金に対し、「日本による不当な植民地支配と侵略戦争の進行と直結した反人道的な不当行為」と断罪し、精神的苦痛に対する慰謝料を支払えというメチャクチャなものであり、日韓請求権協定を一方的に破棄するものです。
原告のいう反人道的行為とは、支給額が少なかった(強制的に貯金をさせられた)とか、行動の自由が無かった、殴られた、食事の量が少なくていつも空腹だった等というもので、時代を考えればある程度は考えられる事です。
彼が日本を去る原因となったのは空襲で工場が焼けてしまったための清津工場への配置転換で、そのような戦時下で自由な行動ができなかったのはあり得る事だし、朝鮮人は日本人よりも大食なので、食事の量の不満はこれ以外にもよく聞きます。今よりも荒っぽい時代だったので、殴られたのも事実かも知れませんが、状況がよく分かりません。
判決は未払い賃金とは関係ないと書きましたが、呂運沢は実際に495.52円〔貯金:445円、未払い賃金:50.52円〕という、比較的多額の債権を持っていました。〔大阪工場の資料によると400円以上の未払金がある者は全体の5%で、平均は115円ほど。〕
『反日種族主義との闘争』の著者によると、給与は50円以上で、当時の面長〔村長〕よりも多く、彼が働いた2年分の賃金は総額2,400円程と推定されるそうで、1942年の釜石製鉄所の天引きによる貯金は給与の20%だったので、大阪工場でもほぼ同額だろうと言います。但し、未成年者は強制貯金の割合が多かったようです。呂運択の未払い賃金は、終戦の混乱で支払われ損ねた1ヵ月かせいぜい2ヵ月の手取り分と推測されます。
盧武鉉政権で未払い賃金等の支払いを開始しましたが、この時、日本企業は供託資料〔未払金を支払うつもりで供託金を積んでいたため、その資料〕を韓国政府に引き渡し、1円=2,000ウォンのレートで換算して支払ったので、彼は100万ウォン(約10万円)程度の支払いは受けたはずです。
ブログ主個人的には、戦時中の495.52円は、慰安婦の文玉珠の証言など〔千円で家が買えた〕から、2千倍ではなく、約1万倍くらいの価値があったと思うので、かなり目減りしたとは感じますが、それは韓国国内の問題です。
* * * *
呂運択は1923年に生まれました。日本語は簡易学校で3ヵ月ほど習っただけですが、日本人の店で働いたりして日本語を身につけました。仕事を転々として、理髪店で働いているときに客から日本製鉄が工員募集をしている事を知り、新聞の広告で確認して、平壌職業紹介所を通じて応募しました。つまり、自由意志での応募です。
1943年9月、彼は5倍の競争率を勝ち抜き、日本製鉄に採用されます。彼は顔見知りの日本人校長から推薦の名刺を貰って試験に臨んだそうです。
大阪の工場では空襲警報に怯える生活だったそうで、最初の6ヵ月は外出が禁止され、その後、外出が可能になっても団体での外出でした。
1944年2月、「現員徴用」となりました。現員徴用とは、仕事はそのままで工場ごと徴用されている状態になり、強制を伴うので勝手に仕事を辞める事はできません。もちろん、徴用は強制労働とは異なります。
1945年3月の大空襲で大阪工場が破壊されると朝鮮人労働者は朝鮮の清津工場に移されました。彼も6月に朝鮮に戻り、1ヶ月余り、製鉄所建設の土木工事に従事させられました。
彼は1997年12月に申千洙(シン・チョンス/故人)と共に日本製鉄を相手取り訴訟を起こします。4人の原告の残りの2人は彼らが見つけ出した者だそうです。全員応募工です。
その後の経緯は下図の通りです。
韓国人がこのような浅ましい訴訟を次々と起こすのは個人的な資質の問題だとは思います。
ただ、ブログ主には、遠因としては、韓国の老人の貧困問題があると思っています。〔→シンシアリーのブログ:韓国の年金支給額に関するデータ・・日本の約半分(2021年11月15日)〕
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