【湖南平野】熊本利平と李永春〔이영춘/イ・ヨンチュン〕博士
前回のエントリーで、湖南平野が小説『アリラン』〔著:趙廷来〕の舞台になっており、その小説のストーリーに沿って、韓国人の「共通の記憶」が形成されたという事を書きました。
この『アリラン』について、『反日種族主義』の中で李栄薫(イ・ヨンフン)博士はこのように書いています。「小説『アリラン』はその実在した歴史を、幻想の歴史、つまり虐殺と強奪の狂気にすり替えました。」
金堤市にはこの小説の世界を再現したアリラン文学村〔2012年開園〕というテーマパークがあり、小説の舞台を再現しているそうで、調べて見たら、ハルビン駅を小さくした建物が建っていて、伊藤博文暗殺シーンも再現されていました。〔銃弾で撃たれた箇所にライトが点くらしい 〕
前回ご紹介した記事に、湖南平野で農場を経営した熊本利平が李永春〔이영춘/イ·ヨンチュン〕医師を小作人のための無料診療所の為に招いたという事が書いてありました。
李永春博士や熊本利平の足跡を調べていたら、面白い記事があったので、今回はそれをご紹介します。『「彼らの図書館」はどうやって「私たちの図書館」になったのか』〔原題:'그들의 도서관'은 어떻게 '우리의 도서관'이 됐나〕というOhmynewsというメディアの記事です。
タイトルは、熊本利平(1880~1968)と李永春医師(1903~1980)2人がそれぞれ群山に図書館を残したことを意味しています。
その記事によると、熊本農場は沃溝郡〔現在は群山市に統合〕、金堤、扶安、井邑、完州の5郡26面にまたがっていたそうです。〔複数の農場や施設を持っていたという意味。〕
以下、記事より、熊本利平 の足跡が分かる部分を引用して機械翻訳します。
記事に書いていませんが、壱岐市立支国博物館のサイトによると、熊本が朝鮮に渡ったのは24歳の時だそうなので、満年齢だと1904年頃になりますが、前回ご紹介した記事によると、1902年に農場支配人の資格で朝鮮に来て、1903年から全羅北道沃溝郡博面内沙里と泰仁郡禾湖里一帯の土地を買い入れて農場を開設したあります。
いずれにしても、日韓併合(1910年)よりも前で、日露戦争〔1904年2月~1905年9月〕の前、あるいはさ中ですが、1904年5月には熊本のように朝鮮に進出した農場主達が群山農事組合を設立しています。〔「日本人地主の土地集積過程と群山農事組合」李圭沫 著〕
>1935年2月、熊本利平は自分の個人農場を「株式会社熊本農場」に変え、代表取締役となった。 株式会社だったが、会社の持分の90%以上を熊本が所有している。 自身は日本と朝鮮を行き来しながら農場を徹底的に管理するために次弟を監督として置いた。 熊本の科学的営農は収奪と搾取の極大化のための方便だった。
>朝鮮で大金を稼いだ熊本は、自分のイメージを改善するため複数の学校に学資金を寄付した。 1923年長崎壱岐高等女学校設立時に1万円を寄付し、1931年から10年間京城帝国大学に毎年3千円ずつ寄付した。 成城学園高等学校創立時も5年間相当な資金を支援した。
>1918年2月からは群山初等学校出身を支援するために群山教育会に奨学金を寄付した。 1919年には「輔仁会」という奨学団体を作り、朝鮮人と日本人留学生を支援した。 日本による植民地時代発行されたいくつかの『人名録』には熊本に対する評価が残っている。
別の記事によると、「輔仁學舍」という朝鮮からの留学生を受け入れる寮のような物を造り、1920年5月には第1学舎が東京市外落合村に設立されました。
>彼の富と功徳は朝鮮人収奪の結果だった。 金堤アリラン文学村の前庭には「熊本利平功績先不忘碑」が立っている。 1924年凶作がひどくなると、この一帯の土地を持っていた熊本が種子を提供したことに感謝の意を表する碑石だ。 熊本はなぜ種子を提供したのだろうか。 彼の種子提供も、収奪のためだった。
収奪のために種子を提供とは、ずいぶんと酷いことをしたようです。(白目
李永春医師が熊本農場の診療所医師になったいきさつも書かれていました。
>熊本利平は、自分の農場内に「診療所」(病院)の設立を構想した。 小作人が健康であってこそ、より多くの収穫を出すことができると考えたためだ。 当時、群山は朝鮮農民による小作争議が多く起きた。 日本農場主の収奪が苛酷だったためだ。
>日本で模範農場とされた熊本農場は、1930年代初めに小作争議がしばしば起きた。 増産を前提に小作料を高めたため、小作人は目標達成のためにさらに熱心に働くしかなかった。 「開発による収奪」、「収奪のための増産」を追求した彼の農場経営は「熊本型地主」と呼ばれた。
>熊本農場は小作料も高かったが、増産のために貸した肥料から差益をまた取った。 農場の方針を破れば悪口と殴打が続いた。 「模範農場」という彼の農場経営が、どれほど苛酷な搾取に基づいたかが分かる。 朝鮮小作人にとって熊本農場は「悪徳農場」に過ぎなかった。
>小作争議が頻繁に起きると、熊本はこれを揉み消すつもりで農場に診療部と慈恵診療所の設立を計画した。 ムチとニンジンを一緒に構想したのだ。 そのために農場で働く小作人の世話をする「朝鮮人医師」を求めた。 熊本はセブランス医学専門学校で病理学を教えていた李ヨンチュンに農場医師の座を提案した。
1935年に京都帝国大学で朝鮮人としては初めて医学博士号を取得した李永春は、帰国した彼は、セブランス専〔セブランスはミッション系の医学専門学校〕で学生を教えており、そこに熊本から診療所で働いて欲しいと打診されたようです。
>熊本に条件を一つ提示した。 診療を始めて10年になる年に「農村衛生研究所」を設立してほしいと提案したのだ。 「先予防、後診療」を通じて疾病問題を解決しようとした李永春は、研究所設立を通じて朝鮮農村の衛生問題を根本的に改善しようとした。
熊本利平は、群山だけでなく、他にも2箇所、診療所を開き、セブランス出身の朝鮮人医師を雇います。
日本に住んでいた熊本は、年に2、3回、朝鮮を訪れるときに滞在するための家を1920年代に建てますが、李永春はここに住んでいました。この別荘は、
> 床にはチーク木材を、壁には白頭山のカラマツを、窓にはステンドグラスを使用した。 1920年代熊本がこの家を建てる時にかけた費用は、朝鮮総督官邸の建築費用に匹敵したという。
研究所設立の約束は、終戦により熊本が帰国してしまったために果たされませんでした。しかし、李永春はその後も熊本が貸し与えていた別荘に住み続け、群山で診療を続けて、1948年に「農村衛生研究所」を設立します。彼が住んでいた家は、後に全羅北道有形文化財200号に指定されます。
熊本は群山の図書館にも寄付をしたようで、以下のような記述があります。
>熊本利平の寄付で転機を迎えた郡山図書館は、郡山府立図書館時代を経て、解放後「郡山市立図書館」となった。
以上、暴力と搾取に満ちた熊本農場の経営実態をご紹介しました。(おしまい)
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