【韓国】柳寛順(ユ・グァンスン)はジャンヌ・ダルクだったのか?(2)
前回のエントリーでは「柳寛順(ユ・グァンスン)とされている女性は『窃盗犯』の女性だったのではないか」、少なくとも、「梨花女子大学の学生・柳寛順とは別人では無いか」という疑問が呈されている、という事を書きました。
ブログ主も、最初はその説に説得力があると思って書いていたのですが、どうしても腑に落ちない部分があり、その事をこのエントリーに書くつもりでいたのですが、その為に更に調べて行く内に事実が分かってきました。
腑に落ちない部分というのは、前回のエントリーに書いた「国史編成委員会に保存されているこの女性の受刑者記録によると、1920年9月28日に窃盗の罪で3ヵ月の刑期が宣告され、3ヵ月後の1921年1月3日に釈放されたと記録されている。」という、「柳寛順=窃盗犯」説と、日付などの事実誤認です。「柳寛順=窃盗犯」とはあちこちで見かけるので、柳寛順という女性が窃盗犯だと分かる証拠を見つけたいと思ったのが、今回、柳寛順について調べ始めたそもそものきっかけです。
下図は前回ご紹介した『恥ずかしい過去』さんの動画のキャプチャですが、前述のように、字幕に書かれていることは間違いなのですが、それが分かったのは、前回のエントリーを書いている途中で画面に映っている書類を見つけたからです。
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結論から書くと、窃盗犯の女性は未だに不明です。しかし、あの写真の女性は梨花女子大学の学生・柳寛順で間違いなく、「保安法違反 騒擾」の罪で懲役3年の刑に服している途中で死にました〔1920年(大正9年)9月28日〕。
但し、韓国で巷間言われているような、遺体に拷問の形跡があったいう証拠も無ければ、拷問が行われていたという証拠もありません。韓国人にとっては、これが重要でしょう。”17歳の少女が刑務所で日帝に陵辱され、手足を切り落とされたあげくに殺された。” という悲劇性が彼女をジャンヌ・ダルクに仕立て上げたのです。〔参考:カイカイ反応通信『韓国人「17歳だった柳寛順が日本人から受けた拷問があまりにもひどすぎた件」』〕
しかし、実際の彼女は3.1独立運動と呼ばれる騒擾事件〔3月1日は契機で、1年間くらい各地で散発的な暴動があった〕に加わり、懲役刑を受けた一人に過ぎなかったのです。
前回のエントリーで書いたように、彼女が世間に知られたのは1947年です。彼女が亡くなったのは1920年9月28日ですが、その時に死亡記事すら出なかったのは、当時は「その他大勢」の一人に過ぎなかったからでしょう。
そして、李承晩政権時代の反日キャンペーンのために彼女を見いだした時、彼女を悲劇のヒロインにしたいがあまり、話を ”盛りすぎた” のです。そして、元々忘れ去られていた女性だったので、彼女に関する情報〔生年月日や家族構成、身長等〕には誤りが多く、後に何度か訂正された事も彼女を「作られたヒロイン」だと疑う人達の根拠となっていました。
そういう意味では、「”日帝に残虐に殺された『愛国烈士』柳寛順” は架空の人物」というのは間違いではありません。
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ブログ主が「柳寛順・架空説」に疑問を持ったのは、写真の貼ってあるカード〔前回エントリー参照〕の裏面の画像を見つけたからです。ここに「窃盗犯」と書かれていれば納得できたのですが、違いました。
ここには職業や罪状、量刑、判決日などが記載されています。
▲上図は画像検索をしていて拾ったのですが、出典は、国史編纂委員会韓国史データベース→日帝監視対象人物カード→柳寛順で見つかるそうです。
これを見ると、罪状は「保安法違反 騒擾」で刑は「懲役3年」。判決の言い渡し日は「大正8年(1919年)7月4日」です。〔詳細は下表参照〕
”懲役3ヵ月の窃盗の罪を犯した女” ではありません。
ここで疑問に思うのは、「貞洞女子高等普通学校生徒」という職業と、出獄年月日及びその事由に「大正10年1月3日 満期」と書かれていることですが、前者は、貞洞には当時梨花女子大学しか女学校がないので梨花女子大学の誤りと分かり、後者は、出所予定日で、これも記録があって分かったのですが、高宗の息子、李垠(り・ぎん/イ・ウン)皇太子と万子(まさこ)様のご成婚による恩赦(予定)日でした。
身長の謎も解けました。
下の画像は、受刑者記録カードの写真の貼ってある面の右上部分です。
当初、身長は「169.7cm」とされており、その後、「151.5cm」に訂正されていました。この訂正は、「柳寛順でっち上げ説」の立場の人達にとっては、その根拠になっていたのですが、最初に「5尺6寸」と読んだからで、後から「5尺0寸」の誤りだと気付いたのです。
このカードを書いた人の字は独特ですが、「6寸」の「6」と「指紋番号」の下段の番号「78865」の「6」とは別の数字だと分かります。
一方、上段の番号「87767」の「6」のように見える数字は、丸めた部分がそこで終わらず、もう一度小さな丸を書いていて、下段の「6」とは明らかに異なります。この上段の数字は「6寸」の「6」とよく似ています。恐らく、これも「0」なのでしょう。
なお、彼女の受刑者記録カードが見つかったのは1965年3月なので、身長に関する錯綜はその後に起こった事だと思います。
実は、ここまで辿り着くのに、Twitterで助けて下さった方がいます。また、このエントリーで書いている事は、ほとんどが、以前も紹介したことがある『百年歴史』さんのブログで分かった事です。『百年歴史』さんは、わざわざ公文書館に足を運んで裁判記録のコピーも入手されています。
例えば、「墓が無くなってしまった」という事。
2つ目のブログエントリーに墓地の画像があるので、画面をキャプチャしてお借りします。
土まんじゅうが累々としているだけの状態で、墓標など殆ど無く、これなら「流れて分からなくなってしまった」のも納得できます。このようなことも現代の感覚で「墓地」をイメージしていたら絶対に想像がつきません。
別の言い方をすれば、1947年に彼女の存在が知られ、その後映画が作られて、”『愛国烈士』柳寛順” のイメージが大衆に根付くまで、誰も彼女の墓の事などさほど気にかけていなかったということでしょう。独立後に急に関心が高まり、「墓は?」という事になって、「流れてしまった」と関係者が答えたというだけの話だと思います。
「事実は小説よりも奇なり」とは言いますが、事実を知ってみれば「なんだ、こんなもんか」と思う事の方が多いものです。
「懲役3ヵ月の窃盗犯」は、恐らく誰かが言い出したのがコピペするかのように拡散され、事実だと流布されて来たのでしょう。また、受刑者記録カードの裏面を同じように読み違えているままブログやYouTubeで公開している例がありますが、日本人でも読み取れないような癖のある字を韓国人が読めるとも思えず、これもコピペによるものでしょう。
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