【湖南平野の治水事業】金堤の干拓事業と広活面干拓地【東津農業株式会社】
下の画像は韓国の国立文化財研究院(국립문화재연구원)の文化遺産研究知識ポータル(문화유산 연구지식포털)というサイト全体を機械翻訳にかけ、一部を切り取ったものです。
『일제강점기 전라북도 농촌 수탈의 痕跡 』(日帝強占期 全羅北道 農村 収奪の 痕跡』という、怨念に満ちたタイトルのレポートですが、この表紙に使われている写真が下の画像です。
この画像だけではどの場所かは分かりませんが、「동진농업주식회사」(東津農業株式会社)をキーワードにして検索すると、韓国学中央研究院(한국학중앙연구원)の『광활면 간척지』(広活面干拓地)というサイトが見つかりました。
広活面〔廣活面/「面」は行政区分〕というのは全羅北道金堤市の地名で、下に現在の広活面の地図を示しましたが、当時は直接東津江や黄海〔韓国では西海〕に面していたようです。〔全羅北道金堤市広活面(전라북도 김제시 광활면)〕
下は、『日帝強占期全羅北道農村収奪の痕跡』からキャプチャしたものですが、ここで言う防潮堤とは、盛り土で造った土手で、下の画像を見ると、干潟に土手を造って海と区切る事から始めたようです。左右どちら側が農地になったのか分かりませんが、この後、土を入れ替えて土壌改良が必要そうです。
韓国学中央研究院の説明は記述に悪意はありますが、情報量が豊富なので、このサイトの説明部分を機械翻訳してご紹介します。〔緑字はブログ主の補足。なお、地名などの固有名詞は誤訳があるかも知れません。〕
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http://gimje.grandculture.net/gimje/toc/GC02600498
広活面干拓地
[定義]
1923年、東進農業株式会社が全羅北道金堤市広活面地域で3年間築造して農地を造成した干拓事業。
[開設]
全羅北道金堤市広活面は金堤市中心地から約15kmの距離に位置した亀の形をした地域だ。 東側の金堤市聖徳面、北側の金堤市真峰面と境界を形成し、南西側には東津江に始まる西海と隣接した干拓地として傾斜がほとんどない平野地帯だ。 また、地方道702号線が万頃と竹山を連結し、農漁村道路が地方道を中心に四方に連結されており、交通が便利な地域だ。
[歴史的背景]
全羅北道金堤市広活面は本来金堤市真鳳面地域で東津江下流の干潟だった。 1923年10月、日本人財閥阿部房一郎〔恐らく、阿部房次郎が正しい〕が自己資本100万円と日本政府補助金100万円など200万円で東津農業株式会社を創設し防潮堤を積み始め、3年後に10kmの堤防を竣工した。 しかし、海水が出入りしていたここを農作業できる田んぼにするまでには、更に9年がかかった。
[経過]
潮が出入りしていた干潟に防潮堤を積み、各地から移住民を集めて集団農場体制の人為的な村を作った。 1924年当時、金堤郡真鳳面隠波里学堂から東津江河口に沿って巨田に至る10kmの防潮堤が築造され、夢里面積1.01㎢に達する農耕地が造成された。 日本による植民地時代時に作って当時史上最大規模だった広活面干拓事業には全国各地で生計が漠然とした人々が自発的または半強制的に動員された。 広活面の広い野原は、チョ·ジョンレの大河小説『アリラン』の舞台でもある。
[結果]
工事が終わった後、干潟は農作業をする土地になり、干拓事業に参加した外地の人々の大部分はその「干潟」に小作人として居座った。 彼らは初期に収穫量の70%を小作料として払わなければならず、奈落一粒を目を通すだけで追い出される逼迫を受けた。 彼らは干拓地で忍苦の人生を生きる自分たちを指して「干潟に住む庶民たち」と呼んだ。 その言葉の中には当時日本による植民地時代小作農たちの民衆的人生の哀歓が込められていた。 以後、干拓事業で築造した堤防が1952年台風で流失し、翌年の1953年に政府の緊急措置で新堤防が構築された。
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