【朝鮮人日本兵】朝鮮人陸軍特別志願兵の真実 3.陸軍特別志願兵【鄭安基博士】
前回のエントリーでは朝鮮の「学徒志願兵」に関する鄭安基博士の考察をご紹介しました。彼らは戦後、保身の為に「志願」を「強制」と言い換え、抗日を脱走の口実に使って、民族主義歴史学と野合し、「反日民族主義歴史観」の形成と拡散に決定的に寄与したというのが鄭博士の見解です。
一方、今回ご紹介する「陸軍特別志願兵」に対しては真逆の評価で、朝鮮戦争に韓国国軍の中心となったのは彼らであり、戦後は真のエリートとして活躍しました。
予め何点か補足を書いておきます。
【陸軍特別志願兵の選考過程】
志願者→(1次選考)→【適格者】→(2次選考)→【入所者】陸軍特別志願兵訓練所で6ヵ月の訓練→(3次選考)→【入営者】二等兵
▲「채널fujichan」(チャンネル・ふじちゃん)の「陸軍特別志願兵」シリーズの動画をキャプチャして追記。画像の右下は金柄憲(キム・ビョンホン)所長と鄭安基(チョン・アンギ)博士
「郡」は「市」と並んで「道」の管轄下に置かれる自治体なので、村から合格者が出る事は自慢だったそうです。
彼らは卒業後約2週間の東京視察があり、行く先々で歓迎を受けたそうです。
応募資格は身長160cm以上が基準でしたが、倍率が高く基準が上がった為、朝鮮人志願兵の平均身長は175cm〔日本人兵士の平均は160cm〕で、「巨人部隊」と呼ばれました。戦争からの生還者は、解放後、大韓民国のエリートでした。
【朝鮮時代の身分制度】
記事中に『常民』という身分が出てきますが、李氏朝鮮王朝時代には、良民(両班、中人、常民)と賤民(奴婢、白丁)に分けられていました。中人は医療や翻訳などに従事する技術者で、常民は大多数を占める農・工・商人。
陸軍特別志願兵に応募する者は長男以外の農家の出身が多かったという。満州軍官学校募集に血書志願して、それが新聞記事にもなった朴正煕大統領も貧しい農家の5男2女の末子。
日本統治時代になり表面的には身分制度は無くなりましたが、地方ではその習慣が残り、『醜い韓国人』の著者、朴泰赫氏(1928年生まれ)は、子供の頃、身分の低い者が両班の家の前を屈むようにして通り過ぎたり、両班の家の庭で使用人が叩かれているのを見たと書いています。
社会的地位の高い軍人になることは、常民にとっては "一発逆転” のチャンスだったのでしょう。
* * * *
https://www.mediawatch.kr/news/article.html?no=253760
日帝時代の陸軍特別志願兵、彼らは果たして誰なのか!
陸軍特別志願兵… 植民地時代、日本に忠誠を誓う「帝国の尖兵」だったが、植民地支配からの解放以降は新しい祖国大韓民国に進忠保国する「祖国の干城」〔干城:干(たて)と城との意。国家を守る武士・軍人。〕
登録 2018.12.02 15:53:10
【チョン·アンギ·元高麗大学校研究教授(経済学博士)】
日本の植民地時代、陸軍特別志願兵とは、1938~44年に植民地朝鮮において施行された特別志願兵制によって養成された朝鮮人出身の日本軍兵士のことをいう。
▲〔画像省略〕日本統治時代の陸軍特別志願兵の観閲式。 写真出所=1938年12月1日付毎日新報
従来の韓国近現代史は、日帝時代の陸軍特別志願兵を日帝の広範囲で徹底した強制動員の受身体にすぎず、血と肉を支えて日本と天皇のために忠誠を尽くした民族の反逆者と見なしてきた。
しかし、1937年に勃発した日中戦争の最中、朝鮮人が陸軍特別志願兵を志願するということは、死に物狂いであった。 彼らは果たして誰なのか。 自分の権利と生命まで日本に任せるほどの無気力で他律的な存在だったのか。
昭和13年2月、日本陸軍省は勅令第95号「陸軍特別支援兵令」を公布した。 特別志願兵制は、これまで日本の兵役法の適用から排除されていた朝鮮人を対象に志願兵役を付与する日本の植民地初の軍事動員だった。
志願者条件は満17歳以上、普通学校卒業以上、身長1.6メートル以上の朝鮮人男子なら、誰でも応募できた。 しかし、だからといって志願者全員が陸軍特別志願兵に選ばれるわけでもなかった。 道知事、朝鮮総督府、朝鮮軍司令部が実施する身体検査、学科試験、面接試験という3次にわたる厳選主義選抜選考をパスしなければならなかった。
▲〔画像省略〕植民地時代の陸軍特別支援兵の訓練·教育シーン。 写真出所=写真週報第22号(内閣情報部19380713-2)
▲〔画像省略〕1938-43年陸軍特別志願兵制選抜選考と推計
陸軍特別志願兵制は定員1万6500人に対して志願者80万3317人と、約49倍の熾烈な競争率を記録した。 これら志願者の大半は「普通以上の生計」を営む中農の次男たちだった。
中農層は、前近代の両班(ヤンバン)出身の上流層と違って出世志向性の強い常民出身であり、家計の経済力拡充とともに子どもの近代教育にも力を入れてきた躍動的な朝鮮人階層だった。 朝鮮人出身の志願者の中でも約72%を占めていた韓半島以南の青年にとって、陸軍特別志願兵は郷村社会の身分差別からの脱出であり、身分洗濯のための立身出世の近道であった。 そのため血書志願はもちろん、数年にわたる再志願も躊躇しなかった。
第2次朝鮮総督府選考試験に合格した合格者はいわゆる「皇国臣民の道場」と呼ばれた陸軍兵志願者訓練所(現在の陸軍士官学校花郎隊)に入所した。 6ヵ月にわたる入所生の生活は、午前6時から午後10時まで、学科教育、精神教育、内務生活で構成されたきめ細かい網だった。
陸軍兵志願者訓練所は、体と心で忠軍愛国を実践する兵営生活のコピー版であり、非国民を国民に包摂改造する、いわゆる「国民づくりの工場」だった。 ここで彼らは近代社会に適応する時間、身体、言語の厳格な規律化とともに能力主義に基づいた「軍隊的平等性」を経験し、「精強な帝国の尖兵」として鍛えられた。
1939年5月の日中戦争に参戦した陸軍特別志願兵は、当初の予想とは異なり抜群の軍事的力量を発揮した。 彼らの日中戦争参戦は、商務精神で充満した朝鮮人の軍事的資質と朝鮮人の国民性を試す歴史的な舞台であった。
1943~45年、彼らはニューギニア、ビルマ、フィリピンなどアジア太平洋戦争にも動員された。 特に、朝鮮軍第20師団所属の陸軍特別支援兵は釜山港から約6000km離れた遠いニューギニア戦線に派兵された。 彼らは日本人戦友とともに、人間の接近を許さない熱帯密林、海抜3~4000メートルの高山地帯、広大な湿地帯を飛び回りながら孤軍奮闘した。 彼らは普及まで途絶えてしまった極限の戦場環境と生物学的限界を突破しなければならない凄絶な生存闘争の最中、自らを悪魔化させる徹底した人間性破壊を経験した。
陸軍特別志願兵は、日中戦争とアジア太平洋戦争を経て、専門的な軍事知識と豊富な実戦経験を積むことができた。 透徹した国家観、軍人観、私生観を内面化した。 彼らは日本人兵士よりも勇敢で壮烈に戦死し、朝鮮人の気概と度胸を見せるため、臨戦無退の精神で戦争に臨んだ。 このような精神と決断こそ、家族と同族を守ることだと確信したからだった。
終戦後、彼らは1946年以降、軍事英語学校など様々な軍事学校を経て、大韓民国初級将校に任官された。 元陸軍参謀総長を歴任した張昌国将軍の証言と同様、彼らは「命令に対する絶対的服従、任務完遂の強い責任感と忠誠心」で武装した「まともな商務集団」だった。
▲〔画像省略〕陸軍特別志願兵出身者たちは日本軍で近代性を規律化し内在化する。 写真出典=写真週報第22号(内閣情報部 19380713-1)
▲〔画像省略〕東京駅で査閲する陸軍特別志願兵
朝鮮戦争期、彼らは第一線部隊長として兵力と火力の劣勢にもかかわらず、金日成の南侵企図を阻止·粉砕するのに抜群の軍事的力量を発揮した。 戦争の全体の流れまで変えた英雄たちだった。
彼らは、新しい祖国大韓民国を守ることに躊躇いもなかった。 代表的な人物は春川(チュンチョン)大捷のイム·ブテク将軍、梨花嶺(イファリョン)の不死身ハム·ビョンソン将軍、洛東江(ナクトンガン)戦線機械-安康(アンガン)戦闘のソン·ヨチャン将軍などだった。 彼らの勇戦奮闘は漢江防御線と洛東江防御線構築、そして国連軍参戦のための絶体絶命の時空間を確保するのに決定的な役割を果たした。 それで彼らは1950-60年代に大韓民国陸軍60万大軍を号令する陸軍参謀総長、合同参謀議長、国防長官になることができた。〔この段落の人名は機械翻訳ママ。後ほど調べて、漢字名が分かれば追記します。〕
彼らは植民地時代、日本に忠誠を誓う「帝国の尖兵」だったが、解放後は新しい祖国、大韓民国に進忠保国する「祖国の干城」だった。
彼らは20世紀「戦争の時代」に生まれ、ナポレオンのような偉大な軍人になろうと日本軍に身を投げた。 彼らは、生まれながら日本の臣民であり、それも参政権と兵役義務も欠如した「2等国民」だった。
彼らは「売国奴」という偏見と差別を克服し、「まともな商務集団」に成長した。 彼らは1948年、新生大韓民国の建国とともに国際共産勢力から大韓民国を守り、「漢江(ハンガン)の奇跡」と呼ばれる大韓民国成就の基礎を築いた立役者だった。
彼らは今日、韓国の一部の反日種族主義が強調する「反民族行為者」だったのかもしれないが、1945年解放以降は自由人の共和国大韓民国の自由と人権を守護するのに犠牲と献身を厭わなかった「真の愛国者たち」だった。
[「植民地時代の陸軍特別志願兵、彼らは誰なのか」 (第17回国家経営フォーラム/ チョン·アンギ博士)]
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