【佐渡金山】『戦後日本における朝鮮人戦時労働研究史』(李宇衍博士)2.佐渡金山の朝鮮人労働者の実態
3月23日に開催された学術セミナー「佐渡金山における朝鮮人戦時労働の実態」〔→発表者一覧〕より、李宇衍(イ・ウヨン)博士(落星垈経済研究所研究委員)の発表内容を『メディアウォッチ』の記事よりご紹介します。〔[일본 역사인식문제연구회 세미나] 사도금산에서의 조선인 전시노동 실태 (5)/[日本歴史認識問題研究会セミナー] 佐渡金山における朝鮮人戦時労働の実態(5)〕
前回のエントリーの続きです。佐渡金山での朝鮮半島出身労働者の実態が語られる部分で、比較的短めです。出典(論拠)は論文の最後にまとめて挙げられていますが、本文中に番号等の注釈はありません。
この部分の後、再び、「朝鮮人動員は『強制連行』だったのか? 」という、この論文の核心部分に続きます。
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〔補足は緑字で追加。多少日本語として不自然でも理解に影響が無いと思われる翻訳は機械翻訳ママ〕
他の事業場と同様、佐渡鉱山でも、1944年9月以降の徴用労働者を含めて、朝鮮人労働者に賃金が正常に支払った。 強制貯蓄、勤労所得税、健康保険料、年金保険などを控除(差し引き)し、残りを朝鮮人に渡したが、その項目は日本人労働者と同一で、貯蓄を除けば控除額は大きくないので、朝鮮の家族に送金したり現地で使用するなど、自ら決めることができた。 共済項目で日本人と最も大きな差が出るのは、貯金だが、その理由は、日本人と違って朝鮮人には家族がいない単身労働者が非常に多く、彼らは貯蓄できる余力が日本人家族扶養者よりはるかに大きかったからだ。
佐渡鉱山が朝鮮人に支払わなかったり、支払えなかったりして法務局に供託した金額(佐渡鉱山の場合、1人平均203円)、またその他三菱ともう一つの巨大財閥である三井系列会社の供託金額を1945年頃の月給(佐渡鉱山の場合、平均100円以上)と比較すると、その金額は1~2か月の月給に当たるので、大変な高額であったとはいえない。 その理由は、第一に、逃亡者又は終戦後に急遽帰還した者にあっては、精算すべき金が小額であったために放棄したために逃亡し、又は終戦後は精算を待たずに急いで帰国したことである。 第二に、労働者に引き渡されずに控除された金額は、それを放棄する個人の立場では、これまで正常に受け取ってきた賃金に比べていずれにせよ少額であった。 したがって、供託金をもって賃金を支払わない強制労働の根拠としたり、体系的かつ大規模な搾取の根拠とすることはできない。
佐渡鉱山を含め、戦時に日本に渡った朝鮮人の住居(寮の使用料、社宅の場合は賃貸料、浴場などの共同施設は無料または市場価格よりはるかに低かった)、主食(米、麦、豆類、その他)とカロリーの摂取は朝鮮に残っている農民より良好であった。 終戦直前、朝鮮人と日本人の食糧と献立は同じだったが、朝鮮人は日本人よりは大食であったため、それにより朝鮮人の立場では食事量が相対的に不足し、香辛料(唐辛子、ニンニクなど)が提供されず、不満を招いた。 終戦直前、凶作と米軍爆撃によって流通体系が円滑に作動できなくなると、朝鮮人は日本人と同様に食糧不足で困難を経験した。 その後、日本に渡った朝鮮人と朝鮮にいた農民の生活水準を体系的に比較する研究が必要である。〔←この部分は機械翻訳では分かり難い。論文の最後にカロリー摂取量を比較しているのでそのことか?〕
▲〔画像省略〕山の頂上がピース型に窪んだ佐渡鉱山の象徴「道遊の割戸」
佐渡鉱山は他の朝鮮人を動員した事業場に比べて家族と生活する者が多かった。 戦争以前から労働移民に来た朝鮮人、1939年以降、展示労務動員とは関係なく、日本に渡って就職した移民者たちが多かったためであるものと推測される。
佐渡鉱山をはじめ、戦時中に朝鮮人が行った事業場において、朝鮮人が日本人に比べ死者や重傷者が多いのは、特別な民族差別があったからではなく、事業場の労働需要と労働供給が一致した結果に過ぎない。 すなわち、健康な壮青年の日本人は軍隊に徴集され(海外にいる日本軍は1937年=95万人、43年=358万人、44年=540万人、45年=734万人だった。 戦時末期には20~40歳の男性の60.9%が軍にあり、200万人が死亡した)、朝鮮人が青年として健康だったため、坑内労働に配置された結果である。
佐渡鉱山の場合、他の事業場に比べて争議がはるかに少なかった。 1940年の動員の開戦後、朝鮮人集団行動は計3件だったが、その原因は寮で支給される食事量の不足、作業用品のレンタル費用、賭博で警察に通報された同僚を"救出"するための事件だった。
佐渡鉱山の朝鮮人逃亡者の割合は、他の事業場に比べてはるかに低い。 戦時労務動員された労働者多数が逃走するのは、朝鮮内でも同様だった、また、朝鮮人に比べてははるかに低い割合だったが、日本人ももかなりの規模に達する。
逃亡は「朝鮮人の抵抗」とは言えない。 彼らは、朝鮮人の約60%が動員された炭鉱や佐渡鉱山のようなその他の鉱山で地下労働をすることを忌避しただけだからだ。 事業所で働いて逃走する者はもちろん、旅行費用をかけずに安全に日本に渡航する方法で労務動員を利用した者、すなわち福岡など日本に到着するやいなや逃亡したり、大阪、京都、東京など途中の大都市で、あらかじめ連絡しておいた朝鮮人ブローカーの助けで逃走したり、契約期間終了後に帰還費用を会社から受け取った後に逃亡した者、家族は帰還させ、自分だけを逃走した者など、すべてが朝鮮に帰還せず、日本国内の保守や労働環境がもっと良い場所から戻ってきた。 これら逃亡者を探し出すための日本政府の特別な政策や手段は発動されたことがなく、摘発されても月給の20-40%に当たる罰金に処されただけで、最大の処罰は朝鮮への送還だった。 また、軍需工場や戦争施設を建設する現場でも、この逃亡者を喜んで高賃金で雇ったが、これらの事業場も現金が非常に豊かであったが、労働力が極めて不足していたためである。
佐渡鉱山でも1945年8月15日の終戦後に他事業場に就業していた逃亡者の多くが本来の事業場に帰社したが、これは他事業場と同様に佐渡鉱山側から逃亡者にも朝鮮への帰還費用を支給したためである。
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