【韓国】朝鮮戦争時の『街頭徴兵』の実例
以前のエントリーでご紹介した「街頭徴兵(가두 징병)」で検索したところ、幾つかの記事が見つかったので、機械翻訳します。これを読めば分かりますが、朝鮮戦争〔1950年6月25日~53年7月休戦〕序盤に一気に北朝鮮に押し込まれた韓国政府は、法的根拠も無く、まるで ”人間狩り” のようにして若い男性を徴兵したようです。
これで、韓国人が日本統治時代の「徴用」に抱くイメージが理解できました。
最初の記事は前回のエントリーに追記したものですが、このエントリーに移動させました。
内容は、避難しようと家族で電車を待っていたところ、夫が連行されて、帰らぬ夫(父)を母娘二代に亘って待ち続けている、という2020. 06. 24の記事からの抜粋です。韓国語特有のものなのか、機械翻訳では家族関係を表す呼称が変なのですが、そのまま引用します。
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記事タイトル:『“남자들은 이쪽으로 줄을 서세요!”...수원역에서 징집돼 끝내 돌아오지 못한 아버지』(男の人たちはこちらに並んでください。水原駅から徴集され、最後まで帰れなかった父親)
(前略)この時期は漢江(ハンガン)防御線戦闘が行われた1950年6月28日から7月4日の間と推定される。 7月4日以降、北朝鮮軍がソウルを完全に掌握し、京釜(キョンブ)国道を通じて南に進撃するためだ。
お婆さん家族が仕方なく汽車を待っていたところ、水原(スウォン)駅前広場が急に騒がしくなった。
「トラックが1台来て、兵士たちが降りてきた。 軍人を見たことがなくて実はその時は軍人だとも知らなかった。 それで、軍人の一人が駅の入口に行って「男たちはこっちに並びなさい」と叫ぶの。 何度も叫んだのに何人かだけ出て行ってみんなぐずぐずと顔色ばかり見ていたよ。 それで兵士たちが人の間に入り込んできて、男たちにすぐに出て列に並ぶように強く求めたんだ」。
祖母が目撃した光景は、韓国戦争初期によく見られた街頭徴兵だ。 開戦初期、敗走を繰り返した国軍が窮余の策として召集令状もなく、腕と脚の健康な若い男性さえいれば無条件に兵力に連れて行ったのだ。
「軍人が来て父のところに出て並びなさいと言うんだ。 父が「妻と子供だけ置いては行けない」と言うので、「行って並ばなければ汽車に乗れない」と言いながら出て行けと押した。 雰囲気がどれほど険悪だったのか…。父が『汽車に乗るなら妻と子供も連れていく』と言うから悪口まで言って押しのけたんだ」。
結局、軍人によって半ば強制的に追い出され列に並んでいた李ギュモクさんは、今でも生死が確認されていない。 祖母の母親は夫が死なず、生きていると確信し、厳しい歳月をひたすら待ち続け、2008年、80歳でこの世を去った。
母の待ちぼうけは祖母が継いだ。 「いつもお母さんがそう言っていた。 お父さんが北に捕まってるって。 だから戻ってこれないんだよ。 お父さんがもし帰って来るかも知れないと思って引越しもしなかったの。 お母さんが再婚もせずに一人で私を育てながら本当に苦労したよ。」
李揆牧氏が運営していた鍛冶屋の跡地にはマンションが建てられ、知名度始興郡からソウル市衿川区始興洞(クムチョング·シフンドン)に変わったが、金さんが待つことだけは今日も続いている。(後略)
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こちらは、『소년병 강제징집, 국방부는 말이 없다』(少年兵強制徴集、国防部は沈黙)という2007.03.26付オーマイニュースの記事です。副題には、『「15~17歳で戦争に連れて行かれる」… 国防部、違法性を認めない』とあります。
記事によると、朝鮮戦争当時、約2万人の「少年兵」がいたそうですが、「学徒兵」や「学徒義勇軍」以外に街頭徴兵された者も少なくないそうで、記事から何人かの例をご紹介します。
朴ピルロさん(74)は清州(チョンジュ)中学5年生の時、韓国戦争を迎えた。 〔中略〕 大邱(テグ)で避難生活をしていたところ、洛東江(ナクトンガン)戦闘が激しくなると釜山(プサン)に移動し、強制徴集された。 16歳の幼い年だった。
「大邱を離れ、移動し続け、密陽に到着した際、街頭徴兵募集で入隊を勧められたが、学生証を提示して年齢に満たないことが確認され、徴集を免れ、南下し続け、1950年9月8日に釜山鎮に到着した。 釜山(プサン)に到着するやいなや再び街頭募兵にかかり、今度は学生証に表示された年齢を無視して徴集されたため、父親と別れて連れて行かれた。」
何の基準も無いようです。
崔ボクリョンさん(73)は15歳という若さで2回も強制徴集され、軍番2回を受けた。 崔氏が初めて徴集されたのは避難地の大邱だった。
「私は一人で南の方へ下った。 どれくらいかかったのかも分からず、ホームレスとなり、ほぼ飢えて大邱まで行き、達城(タルソン)公園で乞食のように過ごした。 1950年8月中旬頃、4人の現役軍人がトラックを持ってきて、手当たり次第に連れていった。 多くの学生とともに貨物自動車に載せられ、私服姿で洛東江(ナクトンガン)防御戦闘に投入された。」
崔さんは何の教育も受けることもできないまま、日本製の38式小銃だけを支給され、戦闘に参加した。 強制的に入隊して1ヵ月で最初の軍番を受けた。 しかし、同年10月、「まだ若い」という理由で帰宅措置となった。 しかし、故郷に戻って再び徴集された。
金グンシク(75)さんは、警察署の前を通りかかったところ、いきなり呼び止められたそうです。
「金浦に故郷の人々が集まるという話を聞いていたところ、東大門区城東交番の前を通りすがりに警察官に呼ばれて行ったら、今は状況が良くないので軍に行かなければならないと思い、東大門警察署に連れて行くのだった。」
生徒を学校に非常召集し、集団的に入隊させたケースも少なくなかったそうです。
チャン·ソンゴンさん(75)は休校中だったある日、学校の職員が家を訪れ、「学校に今すぐ来なさい、もし来なかったら銃殺されるかもしれない」と言うので学校に行ったところ、「ざわついていた音が消え、どこからか大きなエンジンの音がしたので後ろを振り向いたら、GMC(米国製ワゴン車)1台が学校に入ってきていた。 直ちにGMCが止まり、そこである人が降り、皆乗車せよと大声で我々はGMCに強制乗車された。 (中略←原文ママ)私はこのように17才の若さで強制徴兵された。」
この方達は、「国家有功者」として認めて欲しいと要請しましたが、国防部からの回答は「不十分だが、現在、参戦有功者礼遇法により、名誉(回復)と補償を行っている。 当時、国家が戦時状況下で起きた不可避な状況であったことを考慮すると、別途の補償法を制定することは現実的に多くの制限がある。」という事です。
記事によると、李承晩大統領は朝鮮戦争中の1950年8月、満14歳以上の男性を「動員」できる「緊急命令9号」(非常時郷土防衛令)を発布したそうですが、非正規軍を動員する措置だった緊急命令9号も、少年兵徴集の法的根拠にはならないと説明されています。
韓国の話なので、ある程度の補償がなされて、更に補償を求めているのかも知れませんが、これこそ、国を相手取って訴訟でも起こしたら、普通の国なら勝てるのではないでしょうか。
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韓国の保守の方は、李承晩大統領〔1948年~60年3月大統領に4選したが、不正選挙糾弾の四月革命で辞任しハワイに亡命、5年後に客死〕を崇拝しています。彼を否定してしまうと、大韓民国の否定になってしまうからという理由は分かります。また、解放から建国以前の3年間に権力争いをしていた有力者の中で、反共の立場だったのは彼しかいなかったのも分かります。しかし、全てが彼の責任ではないにしても、彼の在任期間中、韓国国民は幸せだったのだろうか?と考えると、疑問を感じずにはおられません。
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