【ラムザイヤー論文】李宇衍博士のワーキングペーパー:朝鮮の特殊事情
前回のエントリーでご紹介したように、李宇衍(イ・ウヨン)博士が、ラムザイヤー論文に係る論文(working paper)を公表されました。
ここでは、その論文の中で李宇衍博士が解説する朝鮮の特殊事情について、少し詳しく見ていきたいと思いますが、先に結論めいたことを書いてしまうと、「既存の売春婦がたくさんいた朝鮮で、彼女達を慰安婦としてリクルートする事の方が合理的である」という事を検証されています。
ラムザイヤー教授の論文でも、戦争が始まる前、1920年代から既に朝鮮女性は海外〔大半は中国だと思いますが、〕で売春をしていたと指摘されていました。また、『李承晩TV』でも李栄薫(イ・ヨンフン)博士が、日本人が進出した所は、それを目当てとする様々な職業、カフェーや売春宿のみならず、写真館などが進出していたので、慰安所もその延長だという講義をされていました。〔李承晩TV:『8. 売春業の域外進出』〕
下は、working paperがどのような構成か、見出しだけ抜き出して、簡単な補足説明を付け加えたものですが、朝鮮社会の特殊事情については主にⅤ章で述べられています。そこで、Ⅴ章のポイントとⅥ章をご紹介することにします。
Ⅰ はじめに
Ⅱ ラムザイヤーの論文に対する反日誹謗中傷
Ⅲ ラムザイヤーの主張 (ラムザイヤー論文のポイントを説明)
1. 年季奉公の契約
2. 慰安婦の労働条件の改善について
Ⅳ ラムザイヤー論文に対する批判と再批判 (ラムザイヤー論文に対する批判に李宇衍博士が反論)
1. 朝鮮人募集人 vs. 日本政府 (責任は朝鮮人の募集人か日本国家か、という議論。アメリカ軍の「戦場の性」に関するダブルスタンダード<ピューリタン的潔癖さを建前にして、実際はベトナム戦争で慰安所を経営していた>や、ドイツ軍の慰安所<日本の慰安所とよく似たシステムを運営していた>も紹介)
2. "強制的な徴用 "と "誘拐-人身売買" (註:誘拐と人身売買を組み合わせた犯罪行為を李宇衍博士は「誘拐・人身売買」と名付けている)
3. "契約書は存在しない" (契約書はあった、という反論:前エントリー参照)
Ⅴ 慰安婦はどこから来たのか? (日本軍慰安婦になる経緯)
1. "身売り"
2. 売春婦から慰安婦へ
Ⅵ 結論
* * * *
Ⅴ 慰安婦はどこから来たのか?
◆「Miuri」(身売り)は文字通り解せば「身体を売る」だが、年季奉公と同様の契約である。強制連行や「誘拐-人身売買」よりもはるかに頻度が高かったと思われる。前者は合法だが、後者は違法である。
◆「身売り」を朝鮮のノビ(奴婢)の人身売買と同一視するのは誤解である。後者は所有権が永久に移動する。が、日本人が来るまで朝鮮には身売りのような習慣がなかったので、日本統治時代の朝鮮人は「身売り」を「人身売買」と呼んでいた〔=同一視していた〕ので注意が必要。
◆李氏朝鮮時代にはノビの人身売買は「チャマエ(jamae)」と呼んだ。意味は「自分自身を売る」である。最後にチャマエが記録されたのは1910年である。
◆日本統治時代の朝鮮では、当時の新聞によると、人身売買や身売りは深刻な社会問題になるほど日常茶飯事だったようである。ある朝鮮人慰安婦は、「慰安所の主人よりも、自分を売り飛ばした父親の方が憎い」と語っている。
◆(上記のような朝鮮の習慣があったため、)娘を「身売り」した両親からすれば、慰安所の募集人から渡されたお金は、娘と引き換えに受け取った代金だが、募集主からすれば、この金は前金で、返済されるべき金であった。朝鮮では、娘の取引は、違法な人身売買と合法的な身売りの境界線にあった。
〔以下は数字が含まれるの正確に和訳して引用〕誘拐や拉致で警察に逮捕された容疑者の約9割が検察に送致された。しかし、起訴されたり裁判にかけられた容疑者はごくわずかだった。1924年から1941年にかけて、合計40,553人の容疑者が送検されたが、起訴されたのは2,506人にすぎなかった。1924年から1943年まで、警察に逮捕された87.5%が起訴されなかった。そして、裁判にかけられた者の85%が有罪判決を受け、実刑判決を受けたのである。つまり、二つの犯罪で警察に逮捕された者のうち、裁判で最終的に有罪になったのは、わずか10%ほどだったのである。これは、合法的な身売り契約が、不法な誘拐-人身売買よりもはるかに多く、売春の募集人または所有者と、将来の慰安婦またはその親の両方によって選択されたことを示すもう一つの証拠である。
◆慰安婦になるルートとしては最も可能性が高いと思われるのは既存の売春婦の募集だ。1940年頃に朝鮮総督府が集計した朝鮮人売春婦の数は約1万人で、戦場となった中国や満州など、朝鮮人が存在した地域には、約8000人の朝鮮人売春婦がいた。これは公娼(認可された売春婦)の数であり、無認可の私娼はもっと多いかも知れない。また、京城(ソウル)にも有名な売春街があり、素人の娘をリクルートするより、彼女達から募集する方が遙かに簡単であった。
◆慰安婦問題が政治化する前の1984年、韓国で最も左翼的で反日的なメディアであるハンギョレ新聞社の社長を務めていた宋建鎬(1927年生まれ)は、著書『日帝支配下の韓国近代史』で次のように述べている。:1937年末の南京侵攻後、徐州作戦が始まった頃、日本当局は朝鮮のブローカーに、貧しさのために売春婦として働いていた多くの女性を中国に移送するよう指示した。彼女たちを「慰安所」「臨時慰安所」「陸軍保養所」と呼ばれる日本軍の施設に入れ、日本兵の遊び道具にしたのである。
◆1944年に日本海軍のために働いていた朝鮮人民間人労働者3人が捕虜として捕らえられた際の米軍の尋問記録で、慰安婦の事を聞かれ、次のように答えている。:私たちが太平洋で見たすべての売春婦は志願者か、彼らの親によって売春婦として売られた人々だ。 これは韓国的な考え方だが、日本人が女性を直接的に「徴集(direct conscription)」したら、年寄りや若者が激怒して立ち上がったことだろう。 男たちは怒り、何が起ころうとも、日本人たちを殺害しただろう。〔Military Interrogation Service Captured Personnel & Material Branch, Composite Report on Three Korean Navy Civilians, List No. 78, Dated 28 Mar 45〕
◆義弟が経営するラングーン、ビルマ、シンガポールの慰安所で管理人していた男の日記があるが、彼の妻は大邱で旅館を経営していた。旅館には売春婦が付きものなので、妻のツテで慰安婦を募集することは容易に考えられる。〔朝鮮出身の帳場人が見た 慰安婦の真実―文化人類学者が読み解く『慰安所日記』〕
◆韓国の元慰安婦の多くは、雇用詐欺や親の取引の「被害者」であったと述べているが、慰安所に行く前に売春婦として働いていたことを直接、明確に証言した人はいない。韓国では、この事実を公表すると「社会的な死」を招く。
Ⅵ 結論
慰安婦の募集方法としては、強制連行、誘拐・人身売買、身売り契約、既存娼婦の募集の4つが考えられるが、3番目と4番目が大半を占めている。であるから、ほとんどの場合、慰安婦とその親、募集主や所有者の間で経済的な契約が結ばれていた事実を受け止めるべきである。たとえ契約書がなくとも、一定の様式で行動する経済主体が存在すれば、契約当事者はその合意に基づいて行動したことになる。このことは、契約の存在を示している。性サービスが一種の労働である限り、これらの契約は、労使間の通常の労働契約と何ら変わるところはない。最終的には、慰安婦は性奴隷ではなく、性労働者であったということになる。
契約書の不存在を根拠に契約の存在自体を否定するには、ラムザイヤー教授の考える契約の実体である、前金の支払い、契約期間の存在、売上の分割比率などの要素が存在したことに対して反論しなければならない。しかし、これまでのところ、彼の論文に対する批判は成功していない。この点では、ラムゼイヤー教授が提起した議論は、現在でも、国際的なアカデミズムが慰安婦問題について新たな議論を始める絶好の機会として残っているのである。
* * * *
ブログ主は、ハーバード大学の学生新聞サイトで議論をしていた時から、韓国人を含めた外国人に「年季奉公」(身売り)を理解させるのが “鍵” だと思っていました。日本人には雇用形態の一種という事は当然の理解ですが、“大金を伴う女性の移動” なので、人身売買と捉えられてもしかたがありません。ラムザイヤー教授は既に1991年に日本の公娼制度に関する論文を書いており、2020年の論文ではそれが参考資料として提示されていたのですが、恐らく、論文批判をしていた人達はそれすら読んでいないのではないかと思われます。
« 李宇衍博士のワーキングペーパー『Ramseyer’s Paper, Criticism against it, and Counter-criticism for it』 | トップページ | 【もう春か】ソメイヨシノと済州島の王桜/桜と朴正煕大統領 »
« 李宇衍博士のワーキングペーパー『Ramseyer’s Paper, Criticism against it, and Counter-criticism for it』 | トップページ | 【もう春か】ソメイヨシノと済州島の王桜/桜と朴正煕大統領 »


















































test

コメント