【軍艦島の真実】高島村の朝鮮人労働者の生活【『長崎附近の朝鮮村』1922. 6. 8. 東亞日報】
『軍艦島の真実』のサイトの「関連資料ライブラリー」に様々な資料があり、そこに朝鮮の新聞記事も掲示されています。
少し分かり難いのですが、ページの上部にある「書き起こし」というタブをクリックすると、掲載されているコンテスト(記事画像)を書き起こしたもの(朝鮮語記事の場合は日本語訳)も表示されます。その内の、「朝鮮人坑夫はいつから犠牲者になったのか-100年の軌跡」というトピックの扉の画像にもなっている『東亜日報』の記事の訳文をご紹介します。1922年(大正11年)6月8日付け記事です。
記事に高島村とありますが、端島(軍艦島)は現在の行政区では長崎市の高島地区という4つの島の一つで、その中で最も大きい島が高島で、ここにも高島炭鉱があったので、恐らく、ここで生活している朝鮮人の生活を紹介するものだと思われます。〔高島町観光サイト〕
端島に暮らしていた朝鮮人労働者の生活が窺い知れる記事です。
3「長崎付近の朝鮮村」(『東亜日報』1922年6月8日付)
朝鮮人労働者を500余人も使用するという三菱炭鉱会社の現況に触れてみようと、ある日の午後、記者は長崎市の高島村に向かった。船に乗り、朝鮮の単位で約50里[1里は400m]進んだところに見えてきたのは、樹木が生い茂る島の炭鉱の煙突からもくもくと立ち上がる煙である。ここには朝鮮人が170名ほど住んでいるが、彼らは皆、社宅に入っているため住宅の問題で困ることはない。一日しっかり働けば2円の給料を受けとるが、食事は会社で準備するものを実費40銭出して食べればよいし、衣服は労働者なので大した出費にはならない。本人さえしっかりしていれば、お金を貯めることもできるので、ここに来て2、3年で500~600円を貯め、故郷に送った者もいるという。妻子を連れてきた労働者の中には、その息子たちを現在、尋常小学校に入学させているが、成績がとてもよく、特に語学の才能があって、10歳そこそこの子供なのに、流暢な日本語でお母さんの通訳する子供もいる。
高島村からもう少し先に行くと二子島という島がある。ここにも朝鮮人坑夫が200名近くいるが、生活水準は先に記した高島村と変わらない。ここからさらに朝鮮の単位で10里ほど離れたところに、総坪数が1万坪程の小さな島がある。端島という島だ。ここにも朝鮮人が180人ほど住んでいるが、昼には深さ100尋(ひろ)余り[尋は両手を左右にのばした長さ]もある石炭洞窟の中で仕事をし、夜には社宅に帰って寝る生活だ。彼らの中には社宅から離れて暮らす家庭も何軒かあり、ここではなんと朝鮮のチマ・チョゴリを来た朝鮮人婦人が食事の支度をしている。(男たちはといえば)、昼は300尺[90.9m]にもなる深い洞穴の中で危険な石炭採掘の仕事をし、夜は広大な海の寂しげな波の音を聞きながら過ごす。
故郷を離れて暮らす彼らの胸中や如何? 炭坑で働く人に聞いてみた。他郷で暮らす歳月は耐え難いというが、われわれにとっては、なんでこんなに歳月が過ぎるのが早いのかと思う。朝鮮からやって来たのが数日前だったような気がするのに、いつの間にか6年にもなった。朝鮮もおそらくずいぶん変わったでしょう。学校もたくさんできたし、学生が多くなったでしょう? 時々故郷からくる友達の手紙をみると、本当にうれしい知らせが多い。ここでは、自分が頑張って仕事をしさえすれば、食べる心配もなく、朝鮮にいたときには、警察官による虐待が我慢できなかったのに、ここではそんなことはない。子供たちは皆、尋常小学校に送っているから日本語はうまいが、朝鮮語ができないので、家ではなるべく朝鮮語を使うようにしています。一日2円稼ぐ人は、石炭穴倉の中に入って仕事をしている人です、外で働いている人は1円20~30銭しか稼げません。
ここに来ている人は、慶尚南北道出身者が一番多く、その次は全羅南北道出身者、その次が忠清道出身者で、京畿道出身者はほとんどいません。ここでは数百円のお金を貯めると、故郷に帰る人が多いという。生活が困難であるために来たとしても、昼のあいだ土窟の中で働き、夜のあいだ、寂しげに繰り返す波の音を聞きながら、過ぎ去った日々を思いだす彼らの顔には、一言では形容しがたい物悲しい光が宿っていた。
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