【李承晩TV】『日本帝国と大韓民国に仕えた官僚の回想』
これはブログ主のメモです。
前回のエントリーでも言及した『日本帝国と大韓民国に仕えた官僚の回想』の著者、任文桓氏を『李承晩TV』が紹介していたので、覚え書きとしてリンクを貼っておきます。
[인물 이야기] 임문환, 한 식민지 소년의 고학(苦學) 분투기
イム·ムンファン、ある植民地少年の苦学奮闘記
[인물이야기] 임문환, 총독부 관리, 그후
[人物物語] イム·ムンファン、総督府の官吏、その後
内容は、回顧録に書かれている、任氏の足跡の紹介で、コメント欄を読むと、視聴者の方は素直に感動していたようでした。
以下は、以前この本を読んだ時にブログの下書きを使って日韓近代史と併せて年表にまとめていたので、コピペしておきます。(赤字が任文桓氏に関わる事柄)
◇ ◇ ◇ ◇
임문환:イム・ムンファン(任文桓、日本名:豊川文夫、1907年 6月11日[1] 〜1993年 6月19日)は、日本植民地時代と大韓民国の官僚である。日帝強占期に東京帝国大学を卒業し、高等文官試験に合格して朝鮮総督府の官吏として勤務した。 第1共和国で長官を歴任し、その後は経済人として活動。
2008年に発表された民族問題研究所による親日人名事典収録予定者リストのうち官僚部門に選ばれた。
回顧録「日本帝国と大韓民国に仕えた官僚の回想」(韓国語版1974年、日本語版2011年)を残した。
1960年代初め、出生地である錦山(クムサン)の貧しい中高校生のために奨学金を喜捨した。
〔韓国語Wikipediaより。〕
1876年(明治9年):1875年江華島事件→日朝修好条規(江華島条約)では朝鮮を独立国として各国が承認。
1882年(明治15年):壬午軍乱(じんごぐんらん)により守旧派が改革派を追放
じんご‐ぐんらん【壬午軍乱】
1882年(壬午の年)朝鮮の漢城(現、ソウル)で起こった軍人たちの暴動。兵制改革に伴う軍人の不満、民衆の反日感情、大院君一派の煽動もあって、日本公使館襲撃事件にまで発展。その結果、済物浦(さいもっぽ)条約を締結。壬午の変。〔広辞苑〕
1884年(明治17年):金玉均ら開化派による甲申政変起こるも失敗。(金玉均の乱)
キム‐オクキュン【金玉均】
(Kim Ok-kyun)李朝末期の政治家。朝鮮開化派の指導者。朴泳孝らとともに、日本の援助を得ての改革と清国からの独立を意図し、1884年甲申政変を企てたが成らず、日本に亡命。のち閔氏(びんし)政権の刺客により上海で暗殺。(1851~1894)〔広辞苑〕
当時の日本では、壬午軍乱と甲申政変とを併称して京城事変と呼ぶ。
1894年(明治27年):東学党の乱勃発
南朝鮮で起こった農民暴動。カトリックの西学に対して東学と呼ぶ崔済愚指導の民衆宗教団体に、農民・兵士・不平分子が加わったもので、李氏朝鮮はこれを鎮めるため清の軍隊を要請(←江華島条約違反)。清国軍が救援出兵したため、日本軍も出兵。→日清戦争(明治27~28)へ。
1895年(明治28年):閔妃暗殺→皇帝、ロシア公使館へ(1896年2月11日~1897年2月20日)=俄館播遷(がかんはせん)
同年:金弘集(首相)による断髪令発令。反発する民衆による義兵運動へ。
1897年(明治30年):10月12日 高宗、国号を「大韓帝国」と改め、皇帝と称する。
1900年(明治33年):日本企業により京仁線(ソウル-仁川間)朝鮮で初めての鉄道開通。cf. 1872年:新橋-横浜間の鉄道開通
1901年(明治34年):ソウルに電灯の供給開始。
1904年(明治37年):第1次日韓協約では、日本は外交・財政権を取得して保護領に。財政顧問として目賀田種太郎(めがたたねたろう)が赴任。経済近代化に着手。→貨幣制度改革 明治38年頃より
1904~05年(明治37~38年):日露戦争
1905年(明治38年):ソウル-釜山間に鉄道開通(京釜線)
同年:ポーツマス条約(日露)/日韓保護条約(第2次日韓協約)で事実上保護領に。
1906年(明治39年):韓国総督府を設置(統監・伊藤博文)、「普通学校令」公布
1907年(明治40年):李完用、首相へ。ハーグ密使事件→「日韓新協約」(第三次日韓協約)締結。
ハーグ‐みっし‐じけん【ハーグ密使事件】
韓国の李太王が1907年(明治40)ハーグで開かれた万国平和会議に日本の侵略の真相を訴えるため密使を派遣したが、外交権は日本にあるとして会議参加を拒否された事件。→日本国内で合併すべしとの世論高まる。
1907年(明治40年):全羅北道錦山(現忠清南道錦山)に士大夫(両班)の家18代目として生まれる。
1908年(明治41年):軍隊解散、義兵運動の気運高まる。
1909年(明治42年):伊藤博文、安重根にハルビン駅で暗殺される。
1910年(明治43年):8月22日 韓国併合条約、「朝鮮」と改名、朝鮮総督府設置(初代・寺内正毅)
1911年(明治44年):朝鮮教育令公布、同年:朝鮮銀行設立
1912年(大正元年):朝鮮土地調査令公布(~1918年 土地調査事業終わる)
1919年(大正8年):(12歳)三・一独立万歳事件/斎藤実(さいとうまこと)総督着任、「文化統治」へ。
友達と「万歳」を叫んでいるのが見つかり、警察に取り調べを受ける。黒板に名前を書かされて、次に父親の名前を書けと言われたので、背伸びして自分の名前よりも高い位置に書くと、警官に褒められて釈放される。
1920年(大正9年):産米増殖計画始まる。
1923年(大正12年):(16歳)来日。/下関から東京に向かう途中、知人に会うために京都で下車。関東大震災を免れる。人力車夫や牛乳配達などをしながら予備校に通う。
1924年(大正13年):京城帝国大学開校(日本としては6番目の帝国大学)
1925年(大正14年):(18歳)同志社中学2年に編入。(当時の中学は5年制)→1929年(昭和4年)22歳で卒業/第六高等学校入学
1926年(大正15年):李完用死去
1927年(昭和2年):野口遵(のぐちしたがう)が朝鮮窒素肥料株式会社設立
1930年(昭和5年):朝鮮窒素の興南窒素肥料工場が操業開始、朝鮮窒素、赴戦江(現・北朝鮮)に当時東洋一のダム建設。cf. 1930年 台湾の烏山頭ダム完成。
1932年(昭和7年):(25歳)岡山県第六高校卒業
1934年:高等文官試験合格
1935年(昭和10年):3月(28歳)東京帝国大学法学部卒業
1935年:東京の拓務省に採用され朝鮮総督府への出向を命じられる→京畿道内務省学務課
1936年(昭和11年):南次郎総督着任。内鮮一体化を推進、満鮮拓殖会社設立
1938年:(31歳)日本人より2年以上遅れて約3年の見習い期間が終了し、高等官となり京畿道 龍仁郡守を任じられる。
1939年(昭和14年)国民徴用令に基づき、朝鮮でも徴用開始
1940年(昭和15年):創氏改名(創氏は義務、改名は任意。元の姓〔本貫〕はそのまま維持される)
1940年(昭和15年):朝鮮総督府殖産局事務官
1945年(昭和20年):終戦→米国統治へ
日本で学んだ官僚は居づらくなり、辞職。
国内の民族陣営は二派に分かれ、アメリカから帰国した李承晩と中国にいた臨時政府も仲違いをして4派の勢力があった。
45年末、臨時政府の申翼煕が任氏等30名ほどを官僚として採用。
1948年(昭和23年):
4月3日 済州島事件
済州島四・三事件は、1948年4月3日に在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にある南朝鮮の済州島で起こった島民の蜂起に伴い、南朝鮮国防警備隊、韓国軍、韓国警察、朝鮮半島の李承晩支持者などが1954年9月21日までの期間に引き起こした一連の島民虐殺事件を指す。
5月31日 憲法制定国会が開院され、いきなり、李承晩から憲法ならびに政府組織法起草専門委員(30名ほど)に任命される。専門委員は10名ほどがワイマール憲法に精通しており、内閣制度に傾いていたが、李承晩国会議長がいきなり内閣制度への不満をぶちまけ、大統領制度への転換を強く要請、委員の思惑とは別に、憲法草案は変更されていく。最後に思いがけない一条が追加される。親日民族反逆者を探し出してこれを処断するために国会に特別委員会を設けるという内容。→「反民族行為処罰法」但し殆どは処罰されず、尻すぼみに終わる。
7月17日 大韓民国憲法発布 20日に李承晩を初代大統領に選出
姪が商工部長官に任ぜられると、次官となって補佐して欲しいと頼まれる。50日で辞任。42歳
1950年(昭和25年):
6月25日 北朝鮮による南進、朝鮮戦争勃発(~53年7月休戦)
指名手配され、自首の奨励がなされるが、自首した者はその後行方知れずとなる。家族と別れ、90日間の逃避行。この間、戦況の変化により、追う者と追われる者の地位が逆転する。(共産主義に同調した人間が形勢逆転して南軍の戦車を歓迎すると共産軍に機銃掃射される、等、誰が味方で誰が敵か分からない状態。)
6月27日 李承晩、ソウル脱出
6月28日 北軍、ソウル占領
8月20日 釜山に首都
9月15日 マッカーサー、仁川上陸 28日、ソウル奪還 29日、李承晩、韓国軍に北進命令(38度線突破)
10月15日 マッカーサー、トルーマン大統領とウエーキ島で会談「中共軍は出てこない。感謝祭(11月23日)までに朝鮮戦争はおわる。」
10月20日 平壌占領 (~53年7月休戦)
1950年:金融通貨運営委員会委員
韓民党と李承晩の断絶。韓民党よりは親日の方がマシだと登用される
1950年:保健省次官
1951年:農林部長官
1952年:朝鮮商船社長
(途中省略)
1966年:三洋観光社長
1972年:釜山プラザホテル社長
1977年:釜山プラザホテル会長
1993年:6月19日 没
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