【慰安婦問題】『李承晩TV』慰安婦関連動画一覧
ブログ主の覚え書きとして『李承晩TV』の慰安婦関連動画のインデックスを作っておきます。(少しずつ更新します。)
- タイトルのリンクは日本語字幕付き動画/「字幕無し」は日本語字幕の無い動画(コメント欄で韓国人の反応が分かる)
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- 内容メモ
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- [日本軍慰安婦問題の真実] 1. 朝鮮戦争と韓国軍慰安婦(2019/05/17) 字幕無し/ブログ
朝鮮戦争中の韓国軍慰安婦
- [日本軍慰安婦問題の真実] 2. 1950-60年代の民間慰安婦(2019/05/24) 字幕無し/ブログ
朝鮮戦争後の米軍慰安婦を含む民間慰安婦
- [日本軍慰安婦問題の真実] 3. 1950-60年代の米軍慰安婦(2019/05/31) 字幕無し/ブログ
米軍慰安婦
- [日本軍慰安婦問題の真実] 4. 謝罪、妊娠、流産(2019/06/07) 字幕無し/ブログ
○文喜相(ムン・ヒサン)国会議長の失言(昭和天皇を戦犯呼ばわり)批判
○日本の数々の「謝罪」
○避妊・妊娠・流産に関する米軍慰安婦と日本軍慰安婦(慰安所管理人の日記より)の比較
- [日本軍慰安婦問題の真実] 5. 朝鮮の妓生(ギセン)、別範疇の慰安婦(2019/06/14) 字幕無し/ブログ
○妓生(キーセン)とは
○『赴北日記』・・・17世紀のある両班の日記。赴任地へ行くまでに「寝た」女性のことを記録した日記
○身分制による「性奴隷」
- [日本軍慰安婦問題の真実] 6. 公娼制の施行 ‐身分的性支配から商業的売春へ‐(2019/06/21) 字幕無し/ブログ
○1916年 朝鮮総督府警務総監部令第4号「貸座敷娼妓取締規則」(同年5月1日施行)
○公娼(licensed prostitute)とは届出をして営業する娼妓/性病検診の義務化
○1870年代にフランスとドイツを真似て公娼制度を導入
○江戸時代の「遊郭」から「貸座敷」制へ・・・開港以来、西欧から人身売買が批判されたため、一旦遊女を解放(但し有名無実化←1991年のラムザイヤー論文)
○朝鮮への公娼制度導入・・・身分的な支配から家父長制に移行し、娘の売買が可能になった(それまでは生活が苦しいと一家全体で奴婢となった)
○朝鮮時代の妓生、貸座敷、日本軍の慰安所は本質的に同じ
○「売春の大衆化」・・・1930年代半ばからは朝鮮人(朝鮮系日本人をここでは便宜的に「朝鮮人」と表記)も公娼の運営に積極的に参入
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7. 人身売買、公娼への道(2019/06/28) 字幕無し/ブログ
○娼妓(専業売春婦)と芸妓・・・併合による身分制度廃止に伴い、妓生はこれらに吸収される
○芸妓と酌婦は本来は売春禁止だが、求めに応じて売春を行った←娼妓と共に性病検診の対象
○当時の性病感染率は5%・・・厳格な衛生管理の下にあった(cf. 1950年代の韓国では22~24%)
○一般朝鮮人の利用が増加し、朝鮮半島では1930年代に三職種の合計人数において、「朝鮮人>日本人」となる
○「貸座敷娼妓取締規則」(1916年)では貸座敷業者は周旋(斡旋)業の兼業を禁じられた→周旋業者の発生
○日本の戸籍制度が導入され、「家族」や「戸主」という概念が生まれる。(しかし、倫理観は低い)
○性風俗業の業者と女性達は「契約」の関係/戸主の承諾書が必要→(戸主が娘等を売る権利)→人身売買へ
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8. 売春業の域外進出(2019/07/05) 字幕無し/ブログ
○日本人のいる所には花街ができ、朝鮮人も中国、満州、台湾、日本本土等に進出
○満州事変(1931年)以降は朝鮮人の満州進出が増加するが、既に20年代には朝鮮人売春業がいた
○中国や台湾の娼館は日本人の好みに合わず、和服を着て日本風のもてなしをする朝鮮楼が繁盛した
○一方、朝鮮楼は台湾人の好みに合わず、台湾では公娼制度が定着しなかった
○1930年代、日本で公娼廃止運動が盛ん(キリスト教関係)→国際連盟からの批判→日本本土からの渡航に制限→朝鮮人娼妓がその隙間を埋める
○中国では上海など、日本軍がいる所に日本人が基盤を造り、後から朝鮮人が追いかけてくる/朝鮮人の料理屋や小売業、写真展、土建業等、軍の需要を見込んだ商売人の進出も盛ん→日本軍慰安所はこうした朝鮮人業者の延長でもあった
○日本本土ではもっと早くから朝鮮人が住みつき、30年代になると主要都市周辺に朝鮮人社会が形成され、25年の普通選挙開始により、朝鮮人の議員も誕生した
○シナ事変(1937年~)以降、朝鮮人労働者が大量に日本の工場や炭鉱へ→朝鮮人売春業も繁盛
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9. 日本軍慰安婦(2019/07/12) 字幕無し/ブログ
○士気高揚、性病予防、機密漏洩防止
○韓国人は長らく挺身隊と混同
○1937年に、日本軍は兵士150人当たり1名の慰安婦を充てる計画を立てた→280万の兵士に対し1万8千人/朝鮮人慰安婦は3500~5000人
○1942年に軍が支給したコンドームの数は3210万個→1日の使用数を求め、1人の慰安婦が5人/日を相手にしたとすると、慰安婦の数は1万7千人の計算になる。
○「拉致」のイメージは吉田清治の『私の戦争犯罪』(済州島で慰安婦狩りをしたというホラ話)+朝日新聞のデマ報道→約20年後にようやく撤回(2014年)
○しかし韓国人の多くは未だに信じており、そのイメージのドラマや映画も多く作られた→『サルウィン川に陽が落ちる』
○オーラルヒストリーの弱点:薄れた記憶、記憶の再生産、聞き手の要求を察知し迎合、支援金を失う恐怖
○慰安所は既に外地に進出していた業者を利用→監督・統制
○女性達は日本軍に連れて行かれたのではなく、親に売られ、周旋業者によって連れて行かれた→1939年~41年の『毎日新聞』には120余件の人身売買に関する記事(周旋業者は甘言などあらゆる手を使った)
○武漢の高森部隊近くにあった慰安所・・・塀で囲まれた敷地に慰安所や食堂、写真展、時計展などがあった/慰安所の利用規則
○欽州の慰安所・・・慰安所毎の女性の転入と転出の記録が残っている -
10. 或る慰安所の 帳場人の日記(2019/07/19) 字幕無し/ブログ
○「朝鮮出身の帳場人が見た 慰安婦の真実―文化人類学者が読み解く『慰安所日記』 」(日本語版は崔吉城著)
○慰安婦の契約に関する解説。
「募集と前借金」・・・業者が言葉巧みに女性を集めたが、「官」が徴集したのではない。
「稼業期間」・・・契約期間は2年ほどで終了。
「仕事と報酬」・・・週1回のような定休日はなかった。1ヵ月の売上は300~1,500円で、その内の50%を前金の返済。食費はただだったが、慰安所が衣装を高く売りつけているケースもあった。 -
11. 楯師団の慰安婦、文玉珠(2019/07/26) 字幕無し/ブログ
○2万6千円程の貯金をした慰安婦、文玉珠(ムン・オクジュ)の一生
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12. 果たして、性奴隷だったのか(2019/08/02) 字幕無し/ブログ
○私が2007年に書いた『大韓民国物語』では慰安婦を性奴隷と記述した/影響を受けたのは吉見義明の『日本軍慰安婦』
○吉見義明の主張:慰安婦には行動の自由が無く監禁されていた/外出・通信・廃業などの自由が無かった/性交を強要された/暴力を振るわれ、花代は慰安婦に支払われなかった/高い化粧品や服を買わされた/借金に縛られ、増える利子に苦しんでいた〔債務奴隷〕/苦痛から逃れるために麻薬を常用/兵士達と共に玉砕を強いられた
○宋連玉(青山学院大学教授)の主張:日本軍慰安婦のみならず、国内の娼妓や芸妓なども性奴隷/公娼制そのものが性奴隷なので、その延長の慰安婦も性奴隷
○しかし、慰安婦は一定の条件を満たすと廃業は自由だった←欽州の史料(No.9の講義)、慰安所管理人の日記(No.10の講義)
○慰安婦はある種、個人事業主・・・業者は営業場所を提供し、収益の一部を分ける契約関係にあった
○慰安所業者も個人事業主・・・経営権を売買した
○前借金は1年半~2年で返済可能な額
○国内の娼妓や芸妓などが性奴隷では無かった史料・・・1923年の朝鮮のほぼ全道の娼妓、芸妓、酌婦の移動状況を表す史料/総数7527人で、新規参入3494人、削除3388人・・・年間44%の移動、就業年数は2~3年
○1930年代に朝鮮でも廃娼運動・・・当時の新聞に「性奴隷」の表現/しかし、歴史家は社会運動家の主観的意図から距離をおかなくては生らない/既に近代社会であり、身分的暴力ではなく商業的契約の時代/営業は許可制であり、性病検診も厳格/収支状況は監督官庁に報告の義務、等
○「性奴隷」論者は「性の略取」という部分だけを排他的に取りあげ、歴史的背景や社会的背景、文化的背景(男性、父や夫が女性を支配する家父長制)
○1955年の韓国国内の民間慰安婦の性病検診受診者は約11万人←表(cf. 1939年、42年は1万人以下)→慰安婦問題の本舞台は1930~40年代ではなく50~60年代←こうした歴史に多くの研究者や社会運動家は目をつぶっている/吉見も宋も韓国史や韓国社会を知らない/性病も流産も50~60年代の方がひどかった
○しかも運動団体は彼女達が日本からの癒やし金を受け取らないように強要し、政治的に利用し続けてきたのだ
- 13. 解放後の40余年間、日本軍慰安婦問題はなかった(2019/08/09) 字幕無し/ブログ
○1952~65年の日韓交渉では慰安婦など問題にならなかった/請求権協定は互いの債権・債務の解決に関するもので、損害賠償に関するものではない/被害と認識していたら持ち出していたかも知れないが、韓国政府は慰安婦を被害として見ていなかったからだ
○韓国の1950~70年の国史教科書でも言及していない/1982~96年に使われた教科書で初めて「女性達までもが侵略戦争の犠牲になった」と慰安婦をほのめかす表現/メディアでも扱っていなかった(慰安婦の言及はあるは、それは米軍慰安婦)
○1965年の映画に慰安婦が登場するが、兵隊をからかう下卑た女達という扱いで、当時の韓国国内の米軍慰安婦のイメージが反映していた。(解説の朱博士「現在、慰安婦をこんな風に描いたら命危ないでしょう」w)
○1974年の『女子挺身隊』という映画になると、広告に「補償して貰えぬ女性 数万の慟哭」という副題が付いている/但しこの映画は、ホステス映画(韓国で「夜の女性を描く映画」のジャンルのことらしい)で、女子挺身隊=被害者というイメージではない
○1979年の日本のドキュメンタリー映画「沖縄のおばあさん」(沖縄にいたペ・ポンギという元慰安婦の映画)・・・彼女はやっていたことが恥ずかしくて国に戻れず、沖縄に住んでいた。
○1984年、タイのノ・スボックという慰安婦がKBSの番組を通じて知られた
○80年代には慰安婦をテーマにした小説が書かれた/『エミの名前は朝鮮ピーだった』(1982年)・・・ピーとはprostituteの事
○つまり、80年代までは慰安婦とは「哀れで面目がない女性」だった・・・当時の人は慰安婦がどういう女性か知っていた
○90年代に吉田清治の本がきっかけで、韓国人は「新たな記憶」を作る/その後、被害者として慰安婦を扱った映画や小説が生み出される/そのイメージを裏付けるような元慰安婦の証言が出てくる
- 14. 挺対協は、日本軍慰安婦問題をこのようにして大きくした(2019/08/16) 字幕無し/ブログ
○3つのプレイヤー:挺対協、日本政府、韓国政府
○1990年11月 挺対協(韓国挺身隊問題対策協議会)発足←韓国協会女性連合会(梨花女子大の尹貞玉教授)・・・70年代から妓生観光を批判/根源に慰安婦があると考えて日本や東南アジア等で調査し、1990年1月「挺身隊 怨魂の足跡の取材記」発表→日本政府に強制連行の謝罪を求め、証言を収集→1991年8月14日 金学順の記者会見
○1992年1月 吉見義明が“日本政府が慰安婦の募集と慰安所の設置に関与していた証拠史料”を発表(宮沢喜一首相訪韓の直前)→1992年4月 加藤(紘一 ) 談話→1993年8月 河野談話
○挺対協と日本側活動家との連携/国連等国際機関でのロビー活動
○補償問題:金泳三は日本に補償を求めず、1993年6月 “被害者”に対する支援法制定、生活補助金等を支給
○1995年8月 村山談話→「女性のためのアジア国民平和基金」で慰労金→挺対協は元慰安婦の慰労金受け取りを妨害→金泳三政権で慰労金支給→金大中政権で慰労金(日本からの慰労金支給者は対象とせず)→2007年 アジア平和国民基金解散
○挺対協は慰安婦問題を国際社会にアピール
○2011年12月 日本大使館前に慰安婦像設置(ウィーン条約違反)→2016年8月 南山(ナムサン)に記念公園
○2015年 慰安婦合意→2018年 「和解癒やし財団」解散(韓国側の一方的破棄)
○2016年 元慰安婦等、賠償を求めてソウル地裁に提訴(日本は主権免除を理由に参加せず)
- 15. 韓日関係が破綻するまで(2019/08/23) 字幕無し/ブログ
※これ以降、仕掛かり中
- 日本軍慰安婦問題の真実(完)(2019/08/30) 字幕無し/ブログ
- 慰安婦論争-(1) 彼女達は、果たして手ぶらで帰ったのだろうか(2019/10/22) 字幕無し/ブログ
『反日種族主義』出版後の批判に対する反論
- 慰安婦論争-(2)それでも「強制動員」なのか(2019/11/01) 字幕無し/ブログ
『反日種族主義』出版後の批判に対する反論
ラムザイヤー論文関連の動画
- ハーバード大教授の慰安婦論文を正しく読む(2021/02/12) 字幕無し/ブログ
- '慰安婦契約'の証拠(2021/02/20) 字幕無し/ブログ
- 有名たアメリカの教授達のラムザイヤーの批判を見てみると...(2021/03/09) 字幕無し/ブログ
- 吉見義明教授のラムザイヤー批判を見てみると -慰安婦性奴隷論者の知的破綻(2021/03/13) 字幕無し/ブログ
- 河允明事件で見る植民地朝鮮の人身売買市場(2021/03/18) 字幕無し/ブログ
- 日本軍慰安婦が性奴隷ではない理由 - 慰安婦前借金取引の正体(2021/03/27) 字幕無し/ブログ
- 植民地期末の裁判記録で見た、酌婦と娼妓の経路(2021/04/08) 字幕無し/ブログ
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一旦ここまでで公開します。
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