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2021年5月の12件の記事

2021/05/29

【韓国】韓国人の言う『自尊心』(자존심)や『国格』(국격)とは何か?

このテーマでは以前も書いたことがありますが、より理解を深めたので、もう一度取りあげます。

韓国語を翻訳ツールを使って日本語に翻訳して読む時、あるいは、日本語を韓国語に翻訳して、確認の為にもう一度逆方向に翻訳し直して見ると、時々違和感のある単語があります。元の単語は漢字語(熟語)である時が多いのですが、なまじ同じ漢字だから、日本語の意味で解釈すると誤解してしまうのです。

例えば「自尊心」(자존심)。

この単語は、漢字の直訳ではなく、日本のカタカナ語のように、日本語の「自尊心」の発音(jajonsim)をそのままハングルで表したようです()。しかし、意味はずれていて、韓国語の意味は「体面」とか「メンツ(面子)」、あるいは「誇り」の方が適切です。「サムスンは我々の『自尊心』だ」のような言い方がよく見受けられます。(悪く言えば、「虚栄心を満足させてくれるもの」)

こうしたことに「文化」が現れるので、非常に興味深いと思っています。

もう一つ例を挙げると、日本語の「保守」を韓国語に翻訳すると「右翼」になることが時々あります。だから、よく韓国メディアが「右翼性向のある『産経新聞』」という言い方をするのですが、もしかしたら、日本語に翻訳した時の語感程は批判的ではないのかも知れません。(まあ、大抵は批判する文脈で『産経新聞』の名前が出てくるのですがw

 

※「発音をハングルで書き表しただけ」と判断するのは、「尊」に該当するハングルが漢字の「尊い」・「尊ぶ」を表していないようだからです。

20210529_jisonshin

 
* * * *

 

一方、『国格』はどうやら韓国語固有の造語のようです。(後述する「ナムウィキ」の『国格』の定義にそのように書いてありました。)

 

最初に『国格』という言葉を知ったのは、昨年話題になった、「駐ニュージーランド韓国大使の現地職員(男性)に対するセクハラ事件」で、当時の外務大臣の康京和(カン・ギョンファ)氏が「国格と主権を守るために、ニュージーランド側に謝罪はできない」と発言したことです。

何となく、『国家の品格』(藤原正彦著)という本の題名から、同じようなものかとも思ったのですが、それではどうも意味が通じません。

 

簡単に言ってしまえば、「国格(국격)」の「格(격)」とは、「格下」・「格上」の「格」で、「地位や力量の上下関係」を意味します。

調べた所、「格(격)」の韓国語には「品格」という意味もありますが、この場合はそうではありません。

Yahooとか2ch(5ch)のような韓国の掲示板の翻訳を見ると、「文在寅のせいで(我が国の)『国格』が溶けてしまった崩壊してしまった?)」というコメントをよく見かけますが、「文在寅のせいで韓国の国際的な地位が下がった」という意味です。

もちろん、序列とか、ランキングとか、日本人も意識しない訳ではありませんが、韓国人は何を持ってそれを判定あるいは自負するのか、というのが、先般の日韓両国首脳の相次ぐ訪米で露わになりました。

 

文在寅大統領が訪米した時の韓国メディアは、菅首相との「待遇」(?)の差を盛んに報道していました。

やれ、滞在日数だとか、バイデン大統領との会談時間だとか、昼食のメニュー(ハンバーガー vs. クラブケーキ〔crab cake〕)等です。

何故このようなことが漏れたのかは分かりませんが、事前にアメリカ側に「ハンバーガーは困る。できれば、正式な晩餐会を。文在寅大統領の好物は○○」といったことを伝えたという韓国メディアの報道もありました。

後から、「文在寅大統領は海産物が好物」〔=だから、米国はクラブケーキを出してくれた。我が国は米国に尊重されている。〕などと発表もしています。

 

20210529_red_carpet

持参した「レッドカーペット」の上を歩く文在寅大統領。
何故、持参したことが分かるかと言うと、本来、レッドカーペットは本物の絨毯だが、
両端が黒いので、玄関マットのような、裏がゴム引きの安物だということが分かる。

下は菅首相の到着時の出迎えの様子。(レッドカーペットはない)

20210529_red_carpet02

 

日本人なら、持参したレッドカーペットを敷くことの方がよっぽど「自尊心」が傷つくし、「国格」も下がると思うのですがねw

 

* * * *

 

それ以外の具体例は、「ナムウィキ(namu.wiki)」という韓国独自のWikipediaのようなサイトに見ることができます。

『국격』(国格)の定義に関しては『国威』に似た概念だと説明していますが、抽象的な説明なので省略します。「2 批判」の項を読むと韓国人が『国格』をどういうもので判断したり、態度に表すのかよく分かるので機械翻訳ママでご紹介します。

 

* * * *

 

2.批判

しかし、この単語は次のような点で批判を受けることができる。

第一に、国家は絶対的な価値として変わらないため、格という単語はふさわしくない。

国家が存立する限り、国家は絶対的な価値である。 もちろんその国は構成員によって解体され,再建されかねない. しかし、そのような場合に「格」を問う前に、その国家の構成員たちがすでに身に染みて感じているのだから、格を云々することは無意味だ。 結局、国家が構成員によって維持され存立する限り、国家は各国の国民にとって絶対的な価値であり、したがって国家の格は意味がないのだ。

第二に、国の格を問うことは、主権国家間の平等理念に反する。

いくら小さくて力のない国でも、儀典は一定の伝統的慣例がある。 もちろん、大国の使節は規模が大小の使節は小さいが、その規模に差があっても一定の伝統的外交儀礼が存在し、いくら小さい国でも一国の元帥級、長官級、大使級などによる儀礼よりも歓待する場合はあっても、儀礼より軽視する場合は失敗したり、最初から冒涜を与えようとする意図や外交担当者が無能な場合を除いてはない。 これは、現実世界の国力の差と国力の差にもかかわらず、主権国家の間は平等だという国際社会と国連の設立精神の志向点と理念を示唆するものである。

第三に、国の格というのは、国際社会への配慮、譲歩、寛容から湧き出るものであって、自国で何を誘致したとか、大統領が外国で演説する時に拍手を何回受けたとかで上がったりするものではない。 例えば、米国が国連の総意を無視してイラクに侵攻した時、米国の強力な国力と威力に国際社会が驚き、米国の「国格」が上昇したのか。 決してそうではなかった。 いくら現実が厳然と存在するとしても理想も厳然と存在するのであり、その両方を合わせることはできないのだ。 現実は現実であり、理想は理想だ。 国格というのは思いやり、霊宝、寛容のような人間の理想を追い求めることからも切り出せるものだ。 ネルソン·マンデラのような世界的指導者が尊敬を受け、その人物のおかげで南アフリカ共和国という国家の格もともに上昇したことが、これに対する根拠の一つである。

 

これを読むと、ネットなどで、何故韓国人が東南アジアの人々を見下したような態度をとるのか理解できます。

 

  


 

 

 

2021/05/18

【新しい歴史教科書をつくる会】横浜市教委、中学歴史教科書 再採択へ/教科書の「再採択」(採択替え)とは?【自由社いじめ】

まずは記事をご紹介します。

 

◇ ◇ ◇ ◇

 

https://www.tokyo-np.co.jp/article/104667
横浜市教委、自由社の検定合格受け 中学歴史教科書 再採択へ 
2021年5月17日 07時12分

 横浜市教育委員会は、市立中学校などで来年度から三年間使う歴史の教科書の採択を再び行うと決めた昨年八月に帝国書院の教科書を採択し、本年度から四年間の予定で使用を始めたが、新たに一社の教科書が検定に合格したことを踏まえた。市教委は「あらためて内容を調査して採択する手続きを踏むことを重視した」と説明している。

 十三日に開かれた定例会で議決した。八月末までに、昨年八月の採択で候補となった七社に、新たに合格した「新しい歴史教科書をつくる会」(通称「つくる会」)系の自由社を加えた八社の教科書から、あらためて採択を行う。

 文部科学省によると、同社の教科書は一九年度にいったん不合格となったが、昨年度に修正を加えて再申請し、合格。同省は今年三月、都道府県教委などに「採択替え行うことも可能」とする通知を出した。

 市内では2009年、十八区中八区で同社版を採択。2011、2015、2019年と全市域で同会系の育鵬社版、昨年(2020年)は帝国書院版を採択した。

※ブログ主註:2009年は横浜市では18の採択区に分かれていたが、その後、市全体で単一の採択区となった。2019年まで4年毎に採択していて、昨年も採択があったのは学習指導要領が変更になったから。なお、高校は学校毎に採択する。

 同会系の教科書の不採択を求める市民団体「横浜教科書採択連絡会」の佐藤満喜子さん(72)は「公平性を担保するために再度採択の手続きをするのはやむを得ない」と受け止めた上で、「新しい教科書を使い始めた直後にまた採択が行われることで教育現場が混乱しないか」と懸念を示した。 

 

◇ ◇ ◇ ◇

 

 

下図は教科書検定~採択のサイクル(4年間)を表しています。

 

20210518_textbook02

 

義務教育(小中学校)の教科書の採択は基本的に4年に1度行われます。つまり本年度(2021年/令和3年4月~)から使われる教科書は4年間同じ物を使うのですが、自由社の教科書が他社に1年遅れること昨年度末(~2021年/令和3年3月)に合格したため、横浜市は、自由社(「新しい歴史教科書をつくる会」)の教科書を加えた8社の教科書から、今年もう一度、再来年度に使う教科書を調査・採択し直す事を決定しました。

この 、基本的には4年に1度行われる“仕切り直し” の事を正式には「採択替え」と呼ぶのですが、記事では、分かり難いので、「再採択」という言葉を使ったようです。

この先4年間は採択される可能性が無いと思われていた自由社の教科書にもチャンスが訪れました。

本年度の採択替えで自由社の教科書が採択されるとは限りませんが、横浜市は教科書採択に関してはフェアに行うと言うことです。

しかし、「採択替えを行うことも可能」とあるように、義務では無いので、他の自治体が横浜と同様に採択替えを行うかどうかは不明です。是非、横浜市に続く自治体が現れて欲しいと思います。

 

それにしても、記事の最後の一文ですが、わざわざ、自由社の教科書の不採択を求める市民団体に取材するところがいやらしいですね。尤も、語っている内容は公平ですが。

 

別に、自由社の教科書は自虐的でないだけで、普通の教科書なのですが、はっきり言って、「つくる会いじめ」としか思えない検定が行われています。

他社ではOKな表現が自由社の教科書では検定意見がついたり。

一例を挙げると、浅草江戸資料館という博物館で撮影した写真を収録した所、ほぼ同じ写真であるにも関わらず、自由社には検定意見が付き、学び舎〔共産党系の教科書会社〕には付きませんでした。

 

20210518_textbook01

 

自由社の教科書に付けられた検定意見は以下の通りです。

指摘自由:生徒が誤解するおそれのある表現である。(映っている長屋の一角と四畳半が復元されたものであるであることが分からない)

 

意味が分かりません。

 

過去には、外務省チャイナスクール出身の野田英二郎元駐インド大使が「つくる会」の教科書を不合格にするよう工作をしていたこともありました。

 

20210518_textbook03

 

つくる会によると、上の記事のように、嘗ては外務省がひどくて、文科省(文部省)は基本的に教科書を合格させようと親身になってくれていたとのことです。故加戸愛媛県知事が文部省にいた頃だそうです。ところが、ある時点から、つくる会を排除するように変わったそうで、それが分かる記事をご紹介します。

ネットで見つけて保存しておいた産経新聞の『産経抄』ですが、平成7年(1995年)に日教組が戦後の教育の荒廃の責任を認め、文部省と協調路線を取るようになったが、実態は文部省と日教組の一体化で、ますます教育行政が歪められて行くこととなり、現在に至っている、ということが分かります。

 

20210518_textbook04

 

◇ ◇ ◇ ◇

 

なお、新聞に意見広告を出すために、つくる会では、5月24日まで、寄付を募っています。

 

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20210518_textbook06

 

  


 

 

 

連続企業爆破事件を扱った映画『狼をさがして』を街宣右翼が妨害

連続企業爆破事件を扱ったドキュメンタリー映画『狼をさがして』(監督:キム・ミレ)の上映を日本の街宣右翼が妨害したというニュースが韓国で流れたようです。

 

◇ ◇ ◇ ◇

 

機械翻訳ママ

https://news.kbs.co.kr/news/view.do?ncd=5187097&

[アンカー]

 

20210517_terrorist01

 

1970年代、日本帝国主義による戦犯企業にテロを加えた日本人の物語を描いた映画が、このほど日本で公開されました。

韓国人監督の作品で、日本の右翼がこれを「反日映画」とし、露骨な上映妨害に出た。

横浜からファン·ヒョンテク特派員です。

[レポート]

 

20210517_terrorist02

 

「映画上映が終わるとすぐ中止せよ」

横浜のある映画館の前。

スピーカー付き右翼車がいわゆる「騒音デモ」を起こしています。

日本の右翼デモ:『爆弾テロを繰り返してきた東アジア反日武装戦線』の資金を募金しようとする映画だ。

3月、日本で公開された映画の上映を中止させようと働きかけました。

映画は1970年代、戦犯企業に相次いで爆弾が仕掛けられた日本人の物語を描いています。

「戦犯企業は日本帝国主義の核心に寄生、植民主義に参加して植民地国民の血で体重を増やした」

一連の事件は、加害の歴史を消そうと努力していた日本社会に衝撃を与えました。

右翼がこの映画に激しく反対する理由もここにあります」

先週には映画館に男性2人が訪れ、「反日映画の上映を止めろ」と長時間騒ぎを起こしたりもしました。

劇場関係者:『映画館の中まで入ってきたのに、何が起こるかわからないので怖いじゃないですか。 身辺にとてつもない脅威を感じて非常門を通じて逃げました。

日本国内の30余りの映画館のうち1ヶ所は「騒音などで周りに迷惑をかけて大変だ」として結局映画を下ろしました。

配給会社側は法的対応を検討しています。

【馬奈木厳太郎配給会社諮問弁護士:「威力による業務妨害の疑いです。 刑事事件で警察や捜査機関に確かな調査を依頼しようとしています.]

右翼は3年前にも同じ方式で、慰安婦関連映画'沈黙'の日本国内の上映を妨害したが、裁判所の判決でブレーキがかかったことがあります。

横浜からKBSニュースファンヒョンテクです。

 

◇ ◇ ◇ ◇

 

日本人なら知っていますが、画像のような街宣右翼は暴力団です。

よく、街宣右翼は在日朝鮮・韓国人がやっているとも言われますが、正しくは暴力団にそういう人達が多いと言うだけでしょう。おそらく、このような映画にほとんどの普通の日本人、特に、70年代を多少なりとも知っている人は関心を持っておらず、上映に反対もしないでしょう。

表現の自由の侵害であり、彼らの行動は批判しますが、映画の公式サイトを見て、キム・ミレ監督も勘違いをしているように思いました。

以下、監督のコメントの引用です。

 

70年代の日本において、戦時中の日本国家に搾取され殺された東アジアの人々の「恨みと悲しみ」を胸に、自らが生活している社会の正義のため正しいと思ったことを行動に移し、最後までやり遂げようとした若者たちがいました。しかし、そのために8名の人が命を失い、多くの負傷者が出ました。彼らは逮捕されたのちに、刑務所の内外で長い期間にわたって、自らのために犠牲になった人々の死に向きあって生きねばなりませんでした。苦痛だったかもしれませんが、幸いにも「加害事実」に向き合う時間を持つことができたのです。8名の死と負傷者たち。それがこの作品の制作過程の間じゅう私の背にのしかかってきました。しかし、彼らと出会うことができて本当に良かったと思います。この作品は、私に多くのことを自問する時間をくれたからです。どう生きれば良いのか、今も考えています。観客の皆さんにも問いが生まれることを期待しています。

* * *

【キム・ミレ氏プロフィール】1964年、韓国生まれ。韓国外国語大学ドイツ語専攻を卒業後、韓国独立協会の運営委員を務める。2000年頃から韓国と日本の労働運動や人権問題に焦点を当てたドキュメンタリー制作を始める。 初の長編作品We are Workers or Not (03)はフリブール国際映画祭でドキュメンタリー賞を受賞。その後、日本の日雇い労働者を描いた『土方』(05)でソウル人権映画祭人権映画賞を受賞。2007年に韓国で起きた女性労働者の占拠運動を描いた『外泊』(09)は山形国際ドキュメンタリー映画祭のアジア千波万波部門特別招待作品に選出された。SANDA: Surviving (14)では韓国のDMZ国際ドキュメンタリー映画祭で最優秀韓国ドキュメンタリー賞を受賞した。

 

彼女は、犯人達が “日本によって植民地支配された朝鮮人” にシンパシーを抱いていると思っているのかもしれませんが、彼らは単なる革命思想を抱き、破壊行為をする理由をつけていただけです。

1976年には『北海道庁爆破事件』が起こりましたが、その犯行声明の冒頭は、「すべての友人の皆さんへ。私達日帝本国人は アイヌ 沖縄人民 チョソン人民 台湾人民 部落民 そしてアジアの人民に対する日帝の支配を打ち砕いていかなければならない。」というもので、『アイヌ革命論』などの既存の思想に乗っかって、ルサンチマン(弱者などが持つ憎悪や復讐心)を利用しているだけです。

連続企業爆破事件の実行犯が名乗った「大地の牙」、「さそり」、「狼」などという名称からは、“中二病” 的なものを感じます。(Wikipedia『三菱重工爆破事件』も参照)

彼らの行動に何らかの「意義」を見いだそうとしても意味のないことです。

 

浅間山荘事件』(1972年)はブログ主が小学生の時の出来事でした。それから、確か20年後だと思いますが、書店に関連書籍が並んでいたので、「彼ら(連合赤軍)が何故あのような事をしなければならなかったのか、もしかしたら、一部は理解できることがあるかも知れない」と思って、2冊ほど()購入して読んでみたのですが、語るほどの思想など持ってなかったことを知り、一片の共感も覚えなかった事を記憶しています。

※1冊は極左暴力集団の系譜等の概説から始まって事件全体を追ったもの、もう1冊は元メンバーの一人を取材したもの

今、このドキュメンタリーを観る人も、当時のブログ主のような好奇心かも知れないし、観たい人は観れば良いのです。ただ、監督の “バイアス” がかかっていることに注意すべきです。

70年代の極左暴力集団のテロのひとつであり、これだけ取り出して論じても全く意味がありません。

 

【映画評】 https://eiga.com/movie/94524/

 

◇ ◇ ◇ ◇

 

以下は『昭和63年 警察白書』より引用

 

第3節 「テロ、ゲリラ」の根絶を目指して
1 総合的な極左対策の推進

 警察は、極左暴力集団による違法行為に対して、これまでも全力を挙げて取締りを行い、社会の秩序の維持を図ってきた。

 「70年闘争」を中心とした集団武装闘争に対しては、「第1次羽田事件」等における警察活動を通じて得られた教訓を踏まえ、集団警備力の強化や装備資機材の開発整備を進めるとともに、捜査体制の整備充実を図り、現場での検挙活動を推進した。

 また、暴走する極左暴力集団の行動に対して国民の非難の声が高まったのと呼応して、広報等による警察活動への協力確保を図り、また、出撃拠点となっていた大学の封鎖解除を進めた結果、46年ころから集団武装闘争等の街頭闘争は鎮静化していった。

 一方、共産同赤軍派や日共革命左派神奈川県委、黒ヘルグループ等の小人数のグループは、革命を目指して直接行動に走り、連続企業爆破事件等の爆弾事件や猟銃強奪事件、金融機関連続強盗事件等を引き起こした。これに対して、警察は、情報収集活動の強化や徹底した被疑者の追跡捜査活動等を推進して、これらのグループ構成員を検挙し、グループそのものを解体した。

 しかし、そのような中で、極左暴力集団各派、とりわけ中核派や革労協等既成の大セクトは、46年ころから、組織構成員の大量検挙に伴う闘争力の低下、街頭闘争の行き詰まりや社会における孤立化の中で、闘争後退への危機感や焦燥感を募らせ、内ゲバや「ゲリラ」を専門とする非公然・軍事組織作りを推し進め、集団武装闘争から「テロ、ゲリラ」へと戦術を転換していった。しかし、極左暴力集団は、54年ころから新東京国際空港開港等により闘争主眼を失い、その活動は表面的には低調に推移した。

 そして、極左暴力集団は、数年にわたる組織、体制の再編、整備等の時期を経て、59年ころから再び活発な動きを示すようになり、59年以降261件に及ぶ「テロ、ゲリラ」事件を引き起こすに至った。

 特に、「テロ、ゲリラ」の攻撃対象は、民間会社、個人宅から、鉄道施設等にまで拡大し、しかも、60年からは、再び爆弾を凶器として使用するようになったことにより、その被害は大きなものとなった。

 また、これらの「テロ、ゲリラ」が、小さな組織ではなく、闘争力量の面で格段の相違がある中核派等の大セクトにより行われるようになったこと、その専門部隊である非公然・軍事組織により、極めて厳しい防衛を行いながら計画的に行われるようになったこと、発射装置を用いて爆発物等を遠距離から攻撃対象に撃ち込むなど一層巧妙となったことなどから、警戒警備や犯人の検挙等の警察活動の面で、新たな対策を講じることが必要となった。

 このため、警察では、61年5月4日の「迎賓館に向けた爆発物発射事件」を契機に、緊急対策を講じ、極左暴力集団の非公然・軍事組織を壊滅して「テロ、ゲリラ」を根絶するため、国民及び関係機関、団体の理解と協力を呼び掛けながら、総合的な極左対策を推進している。

 

 

  


 

 

 

2021/05/12

【韓国】臨清閣と民族精気【2017年8月15日の文在寅大統領の演説】

韓国の捏造された歴史により日本統治時代を悪とする代表的な例は「慰安婦」や「徴用工」などが有名ですが、韓国メディアの報道を見ていると、これ以外にもしばしば反日を煽動する記事を目にします。

その一つのキーワードは「民族精気」(민족정기:ミンチョクチョンギ)です。

例えば、2017年8月15日の「光復節」の文在寅大統領の演説にはこのような一節がありました。(訳は『The New Stance』より借用)

 

尊敬する独立有功者の遺家族の皆さん、

慶尚北道安東に「臨清閣」という由緒ある家があります。
臨清閣は日帝による強制占領期に全財産を処分し満州へと亡命し、新興武官学校を建て、武装独立運動の土台を作った石洲・李相龍(イ・サンリョン)先生の本家です。9人もの独立闘士を輩出した独立運動の産室であり、韓国のノブレス・オブリージュを象徴する空間です。
彼に対する報復で日帝はその家を貫通するように鐡道を敷きました。99の部屋を持つ大邸宅であった臨清閣は今も半分になったままの姿です。
李相龍先生の孫息子、孫娘は解放後の韓国では孤児院で暮らしもしました。臨清閣の姿がまさしく、私たちが振り返るべき大韓民国の現実です。
日帝と親日の残滓をきちんと清算できずに民族の精気を正せませんでした。

 

ここで話題になっている「臨清閣」は下の建造物で、すぐ脇に鉄道が走っており、駅(安東駅-既に廃駅)は画像の手前に1kmほど進んだ所にあります。

 

20210512_minzokuseiki01

 

この路線は「中央線」と呼び、鉄道の高速化を目的に安東駅を西に移転するのに伴い、「日本人が壊した臨清閣を元の姿に復元して、民族精気を立て直す」というのが、引用した演説の趣旨です。

この「民族精気」は韓国人でも上手く説明ができないそうですが、風水と結びついたナショナリズムで、「感情」に属するもののようです。

日本人が壊した民族精気を立て直すために過去に韓国政府が具体的にやったことが、「鉄杭」撤去(日帝が『地脈(龍脈)』を断ち切るために打ち込んだ鉄杭の撤去)とか、「朝鮮総督府」の建物の破壊です。〔共に金泳三(キム・ヨンサム)政権時〕

「鉄杭神話」は『反日種族主義』にも書かれています。

民間の迷信は日本にも「~は縁起が悪い」という類いのものがあるので、龍脈だの風水だのはいいのですが、これを韓国は政府レベルで “日帝の悪行” と結びつけ、大統領が演説で言及したり、韓国メディアが未だにそれを煽る記事を書くのは問題があり、これを韓国人が容易く信じてしまうとしたら非常に未開です。〔Wikipedia『日帝風水謀略説』〕

最近も、韓国の『毎日新聞』が5月3日付けで『[単独]安東臨清閣前の鉄路撤去現場に「日帝鉄杭」?』という記事を書きました。(原文:[단독] 안동 임청각 앞 철로 철거현장에 '일제 쇠말뚝'?→カイカイ反応通信:独立運動家の聖地から日帝鉄杭発見?=韓国の反応

 

さて、問題の「臨清閣」ですが、文在寅の演説の後、朝鮮日報の週刊誌『週間朝鮮』がその誤解を解く記事(2017.10.02)を書いています。

『일제는 고의로 임청각을 훼손했나?』(機械翻訳:日帝は故意に臨清閣を毀損したのか?)というもので、長い記事なので、先に簡単に結論を書いておきます。

記事を読んでも土地勘がないのでピンと来ないのですが、要するに、先(1931年)に慶北線の終点である安東駅があり、その約10年後(1942年)に中央線と繋げるためには、当時はこの川沿いの路線が現実的であった、ということです。

 

鉄道絡みで似たような話を紹介すると、京釜線の廃トンネルの入り口に刻まれている「嶽神驚奔」(山の神が驚いて逃げた)という文字は、当時、駐韓公使であった「林権助」の言葉ですが、これを「日帝強制占領期間に韓国人の信仰と文化をばかにした歴史」だと報じる記事が最近ありました。

実際に、迷信深い朝鮮人をなだめすかしてなんとか工事を完成させた京釜鉄道の人が林権助の所に来て、記念に何か字を書いて下さいと頼むので書いたのが「嶽神驚奔」だそうです。〔岩井尊人『林権助述 わが七十年を語る(1935)』の第44話「京釜鉄道が『嶽神驚奔』させる話」

ただそれだけの話なのですが、韓国メディアは悪意を持ってねじ曲げた記事にするわけです。

 

◇ ◇ ◇ ◇

 

記事の内、解説部分だけ引用して翻訳します。

http://premium.chosun.com/site/data/html_dir/2017/09/04/2017090401583.html

 

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しかし、1942年の中央線開通より約10年前に入った安東(アンドン)駅の位置と近隣地域の等高線が表示された地形図を確認してみると、中央線の線路は嶺南(ヨンナム)山を背にして洛東江(ナクトンガン=川)沿いの臨清閣(イムチョンガク)経由が不可避だったという指摘だ。 いわゆる「民族精気毀損論」を主張する人は「国道5号線が敷かれたコースに沿って安東南後面から安東大橋を渡り、北後面を通れば栄州に接近する移動距離を減らすことができた」と主張するが、この場合、当時この一帯で最も大きな町であり慶尚北道線鉄道の終点である安東駅を経由できないという致命的弱点がある。

安東に初めて鉄馬が入ってきたのは、中央線開通10年前の1931年、慶北線の占村(チョムチョン)~安東(アンドン)区間の開通と共にだ。 安東は朝鮮時代まで「安東大都護府」と呼ばれ、権門世族が多く住んだ大きな村であった。 朝鮮総督府は1913年にすでに京釜線の鉄路が通過する慶尚北道·金泉から尚州~占村(ムンチョン(聞慶)~醴泉~安東をつなぐ鉄道を開設する計画を立てていた。 「朝鮮鉄道」という私鉄会社は鉄道敷設免許を取得し、朝鮮総督府が1913年にすでに告示した路線に従って118キロの慶北線線路を敷いた。 安東邑城の南門の外に「慶北安東駅」という名の鉄道駅を開設した。 安東大都護府があった今の安東市内のウンブ公園(旧安東郡庁跡)から直線で300mほど離れたところに位置した鉄道駅だった。 あえて'安東駅'の前に'慶北'という名前を付けたのは'満鉄'(南満州鉄道株式会社)がすでに運営中だった'安東駅'(今の中国丹東駅)があったからだ。

問題になる中央線の鉄路が臨清閣(イムチョンガク)の前を通るようになったのは、安東に鉄道が敷かれてから10年余り経った1942年のことだ。 後日、満鉄総裁を務めた朝鮮総督府鉄道局長の大村卓一氏が立案した「朝鮮鉄道12ヵ年計画」に基づいて、京釜線·京義線に続く「第2韓半島縦貫鉄道計画」を立てながらだ。 こうした計画により1935年慶尚北道慶州から永川~義城~安東~栄州~堤川~原州~楊平を経て清凉里(チョンニャンニ、東京城域)に至る路線が確定した。 翌年の1936年に着工した中央線は、1942年に「京慶線」という名で開通した。 京城と慶州をつなぐという意味だ。

当時、中央線の鉄路を開設する時は、1937年の日中戦争の勃発で物資が不足していた時だ。 既存の線路を最大限利用しながら需要を確保することが不可避だった。 慶北北部最大の都市であり、当時までも慶北線の終点だった安東駅経由は当たり前だった。 現在は中央線·慶北線·嶺東線の3つの鉄路が交差する栄州駅が慶北北部鉄道交通の中心だが、当時は安東駅が鉄道交通の要地だった。 慶北線の終点が安東駅から栄州(ヨンジュ)駅に変更されたのは、朴正煕大統領時代の1966年、慶北線と嶺東線を栄州から直結させてからだ。 現在、栄州にある韓国鉄道公社慶北本部の前身である鉄道局は、1964年まで安東駅にあった。

すでに開設された安東駅を基点に鉄道が栄州に北上する場合、洛東江の堤防に沿って遡るが、安東の裏山である嶺南山の渓谷に沿って栄州に接近することは避けられない。 河川の堤防上に鉄道を敷設することは、日帝時代によく使われた方法だ。 鉄道開設と土地収用による民家被害を最小限に抑えることができ、鉄道開設とともに河川堤防を補強して夏の洪水に備えることができる様々な長所がある。 京釜線も密陽江(ミルヤンガン)と洛東江(ナクトンガン)堤防に沿って釜山に向かう。 ソウルでも京ウォン線(現·京義中央線に編入)の鉄路が漢陽(ハンヤン)都城を避けて漢江と中浪川(チュンランチョン)の堤防道に沿って北上することが確認できる。 さらに安東は、朝鮮時代の1605年、乙巳(ウルサ)年の大洪水時に安東邑城が崩れ、邑城門が流されるほど洪水に脆弱だった。 安東が洪水被害から解放されたのは、1976年の安東ダムの築造後だ。

急回転が難しい鉄道の特性上、安東駅から90度に方向を曲がって栄州に北上するためには、民家が密集している安東邑城を通らなければならない。 利害関係が複雑に絡んでいる都心のど真ん中に線路を開設するのは、今も頭の痛いことだ。 安東邑城の昔の地図を確認してみると、中央線の線路は民家被害を最小化するため、安東邑城南門の外の安東駅から東門の外に出た臨清閣の前を通る路線を確定したことが確認できる。 安東駅と林青閣はわずか1キロしか離れていないため、線路が避けるにはほど近い。

中央線敷設の際、安東駅を経由して洛東江(ナクトンガン)を横断する洛東江鉄橋が架けられたのも安東駅の重要性を傍証している。 安東洛東江(アンドン·ナクトンガン)鉄橋は、中央線敷設時の1938年に竣工した。 1934年に竣工した安東橋(人道橋)と並んで建設された。 日本による植民地時代 鉄道敷設の際、陸上工事に比べて費用が多くかかり、空気が長くかかる橋梁敷設を避けようとしたことは珍しくなかった。 湖南(ホナム)線を敷設する際、大田(テジョン)を分岐点に決めた理由は、錦江(クムガン)橋梁建設にかかる建設費用の増加と工期の遅延を防ぐためだった。 大田から分岐する場合、既存の京釜線の橋梁をそのまま活用することができた。 橋梁を架けたということは、それだけ重要度が大きかったという証拠だ。

民族の精気を断ち切るために、臨清閣の前に線路を敷いたということは、時期的にも合致しない。 1913年6月、臨清閣の堂主だった李相龍が臨清閣を日本人の岡間房次郎に売り渡したことは、2015年に初めて発見された売買契約書により確認された。 日本人の手に渡った臨清閣は、売られてから2ヵ月後、別の故·李氏一家に再び買収されたが、すでに李相龍先生の手を離れた状態だった。

 

◇ ◇ ◇ ◇

 

以下、記事の該当部分(原文)を引用

'나의 문화유산답사기'에 소개

유홍준 교수의 지적처럼, 임청각은 조선시대 민간 주택의 규모 상한선인 99칸 주택이다. 일제 때 집 앞으로 중앙선 단선철로가 개설되면서 99칸의 가옥 중 30칸 정도를 철로 개설을 위해 수용당해 지금은 70칸 정도만 남아 있다. 이 같은 역사적 사실에 임청각이 상하이임시정부 초대 국무령을 지낸 석주 이상룡(李相龍·1858~1932) 선생의 생가란 점과 맞물려 "일제가 민족정기 훼손을 위해 고의적으로 집 앞으로 철길을 냈다"는 설이 마치 정설처럼 돼버렸다. 문재인 대통령이 8·15 경축사에서 언급한 "그에 대한 보복으로 일제는 그 집을 관통하도록 철도를 놓았다"는 말에는 이런 시각이 고스란히 배어 있다.

하지만 1942년 중앙선 개통보다 10여년 앞서 들어선 안동역의 위치와 인근 지역의 등고선이 표시된 지형도를 확인해 보면 중앙선 철길은 영남산을 등지고 낙동강가에 있는 임청각 경유가 불가피했다는 지적이다. 소위 '민족정기 훼손론'을 주장하는 사람들은 "5번 국도가 놓여진 코스를 따라 안동 남후면에서 안동대교를 건너 북후면을 지나면 영주로 접근하는 이동거리를 줄일 수 있었다"고 주장하지만, 이 경우 당시 이 일대에서 가장 큰 고을이자 경북선 철도의 종점인 안동역을 경유하지 못하는 치명적 약점이 있다.

안동에 처음 철마(鐵馬)가 들어온 것은 중앙선 개통 10여년 전인 1931년 경북선 점촌(문경)~안동 구간 개통과 함께다. 안동은 조선 때만 해도 '안동대도호부(大都護府)'로 불리며 권문세족들이 많이 살던 큰 고을이었다. 조선총독부는 1913년 이미 경부선 철로가 지나가는 경북 김천에서 상주~점촌(문경)~예천~안동을 연결하는 철로를 개설할 계획을 세워두고 있었다. '조선철도(조철)'라는 사설철도(私鐵)회사는 철도부설 면허를 획득해, 조선총독부가 1913년 이미 고시한 노선에 따라 118㎞의 경북선 철로를 놓았다. 안동읍성(邑城)의 남문 밖에 '경북안동역'이란 이름의 철도역을 개설했다. 안동대도호부가 있던 지금의 안동 시내 웅부공원(옛 안동군청 터)에서 직선으로 300m가량 떨어진 곳에 자리한 철도역이었다. 굳이 '안동역' 앞에 '경북'이란 이름을 붙인 것은 '만철(滿鐵·남만주철도주식회사)'이 이미 운영 중이던 '안동역'(지금의 중국 단둥역)이 있었기 때문이다.

문제가 되는 중앙선 철로가 임청각 앞을 지나게 된 것은 안동에 철도가 들어온 지 10여년이 지난 1942년이다. 후일 만철 총재를 지낸 조선총독부 철도국장 오무라 다쿠이치(大村卓一)가 입안한 '조선철도 12개년 계획'에 따라 경부선·경의선에 이은 제2 한반도 종관(縱貫)철도 계획을 세우면서다. 이 같은 계획에 따라 1935년 경북 경주에서 영천~의성~안동~영주~제천~원주~양평을 거쳐 청량리(동경성역)에 이르는 노선이 확정됐다. 이듬해인 1936년 착공한 중앙선은 1942년 '경경선(京慶線)'이란 이름으로 개통됐다. 경성과 경주를 잇는다는 뜻이다.

당시 중앙선 철로를 개설할 때는 1937년 중일전쟁 발발로 물자가 부족할 때다. 기존 철로를 최대한 이용하면서 수요를 확보하는 것이 불가피했다. 경북 북부 최대 도시이자, 당시만 해도 경북선의 종점이었던 안동역 경유는 당연했다. 지금은 중앙선·경북선·영동선 등 3개 철로가 교차하는 영주역이 경북 북부 철도교통의 중심이지만, 당시만 해도 안동역이 철도 교통 요지였다. 경북선의 종점이 안동역에서 영주역으로 변경된 것은 박정희 대통령 때인 1966년 경북선과 영동선을 영주에서 직결시키면서다. 지금 영주에 있는 한국철도공사 경북본부의 전신인 철도국은 1964년까지만 해도 안동역에 있었다.


이미 개설된 안동역을 기점으로 철길이 영주로 북상할 경우 낙동강 제방을 따라 거슬러 올라가다가 안동 뒷산인 영남산 계곡을 따라 영주로 접근하는 것이 불가피하다. 하천 제방 위에 철길을 부설하는 것은 일제 때 흔히 쓴 방법이다. 철로개설과 토지수용에 따른 민가 피해를 최소화할 수 있고, 철도개설과 함께 하천 제방을 보강해 여름철 홍수에 대비할 수 있는 여러 장점이 있다. 경부선도 밀양강과 낙동강 제방을 따라 부산으로 간다. 서울에서도 경원선(현 경의중앙선에 편입) 철로가 한양도성을 피해 한강과 중랑천 제방길을 따라 북상하는 것을 확인할 수 있다. 게다가 안동은 조선시대 때인 1605년 을사년 대홍수 때 안동읍성이 무너져내리고 읍성문이 떠내려갈 정도로 홍수에 취약했다. 안동이 홍수피해로부터 해방된 것은 1976년 안동댐 축조 후다.

급회전이 힘든 철도의 특성상 안동역에서 90도로 방향을 꺾어 영주로 북상하려면 민가가 밀집한 안동읍성을 지나가야 한다. 이해관계가 복잡하게 얽힌 도심 한복판으로 철로를 개설하는 것은 지금도 골치 아픈 부분이다. 안동읍성의 옛 지도를 확인해 보면 중앙선 철길은 민가 피해를 최소화하기 위해 안동읍성 남문 밖 안동역에서 동문 밖으로 난 임청각 앞으로 지나가는 노선을 확정했음을 확인할 수 있다. 안동역과 임청각은 불과 1㎞ 거리로 철로가 피해가기에 지나치게 가깝다.

중앙선 부설 시 안동역을 경유해 낙동강을 가로지르는 낙동강철교가 놓인 것도 안동역의 중요성을 방증한다. 안동 낙동강철교는 중앙선 부설 때인 1938년 준공됐다. 앞서 1934년 준공된 안동교(인도교)와 나란히 놓였다. 일제강점기 철도 부설 때 육상공사에 비해 비용이 많이 들고 공기가 오래 걸리는 교량 부설을 피하려 한 일은 흔했다. 호남선을 부설할 때 대전을 분기점으로 정한 까닭은 금강교량 건설에 드는 건설비용 증가와 공기지연을 막기 위해서였다. 대전서 분기할 경우 기존 경부선 교량을 그대로 활용할 수 있었다. 교량을 놓았다는 것은 그만큼 중요도가 컸다는 방증이다.

민족정기를 끊으려 임청각 앞으로 철길을 놓았다는 것은 시기적으로도 부합하지 않는다. 임청각 당주(堂主)였던 이상룡 선생이 1913년 6월 임청각을 일본인 오카마 후사지로(小鎌房次郞)에게 매도한 것은 2015년 처음 발견된 매매계약서를 통해 확인됐다. 일본인 손에 넘어간 임청각은 팔린 지 두 달 만에 다른 고성 이씨 일가에 재인수됐지만 이미 이상룡 선생의 손을 떠난 상태였다.

이상룡 선생이 만주에서 신흥무관학교를 세운 것은 1911년, 임시정부 초대 국무령을 지낸 것은 1925년부터 1926년까지다. 중앙선 노선계획을 확정한 1935년보다 3년 전인 1932년 이상룡 선생은 이미 사망한 터였다. 게다가 중앙선 착공 당시는 1932년 이봉창·윤봉길 의사의 잇단 의거 이후 일제가 불온한 조선인으로 부른 소위 '불령선인(不逞鮮人)'에 대한 대대적인 단속이 이뤄지면서 독립운동은 사실상 와해상태에 있었다.

민족정기 훼손 주장이 맞다면 왜 일제가 뒤늦게서야 민족정기를 끊으려 나섰는지가 먼저 규명돼야 한다. 중앙선이 개설된 1930~1940년대는 세상물정에 어두운 유림(儒林)을 중심으로 철도에 대해 막연한 거부감을 보였던 구(舊)한말과 달리 철도의 중요성에 이미 눈뜬 시기다. 한때 번성했던 상주, 공주, 청주 등 대고을이 간선철도 노선에서 비껴가면서 몰락한 반면, 허허벌판이었던 대전은 경부선과 호남선 철도가 들어오면서 충남도청까지 옮겨올 정도로 급부상했다. 전국 각지에서 지역 유지들과 일본인 거류민을 중심으로 철도개설 청원이 오히려 활발했을 때다.

결국 중앙선 부설과 함게 임청각 일부가 수용돼 헐린 것은 사실이지만, 그 이유가 민족정기를 끊으려 했는지는 단정할 수 없다. 다만 여러 정황을 따져봤을 때 당시 상황에서 중앙선을 부설하면서 안동역에서 1㎞ 떨어진 낙동강변의 임청각을 경유하는 것은 불가피했다. 오히려 안동 관내를 통과하는 중앙선 철길 옆에 남아 있는 법흥동 칠층전탑, 안동역 주차장의 운흥동 오층전탑과 같이 철도부설에 따른 문화유산 파괴를 최소화하려는 흔적들이 여럿 있다. 임청각을 민족정기 훼손과 연관해 보는 것은 일제 때 벌어진 모든 일을 선악(善惡) 구도 속에서 바라보는 과도한 피해망상에 다름 아니다.

 

 

  


 

 

 

2021/05/08

玉城デニー沖縄県知事のツイート『山の神』

Twitterで玉城デニーのツイートがトレンド(話題)になっていたので、調べてみると、既にツイートは削除した後でしたが、画像を見つけました。

それがこれ。

 

20210505_tamaki_tweet

 

ほとんどは、このご時世(コロナ禍)で、BBQをすることに対しての批判ですが、『山の神』という表現に噛みついている人が結構いたのです。ジェンダー界隈ならまだ分かるのですが、そうじゃない人達も。

山の神とは「長年連れ添って(つまり古くなって)口やかましくなった妻」のことで、例えば、「もう一件飲みに行かない?」-「いやぁ~、うちの山の神がうるさいから、今日はこれで帰るわ」みたいな会話で使われます。

要するに「恐妻」(妻の勢いに押されて、いつも妻の思わくを恐れ気にする、夫の態度。「―家」)。

これを「女性を侮辱する表現」と批判しているようです。確かに「妻」の「卑称」(「尊称」の反対語)ではあります。

まあ、何の脈絡も無く「山の神」を使うデニーの言語感覚もちょっと変ですが、「親父ギャグ」みたいなもので、自分の妻を貶めてると同時に、自虐的な言葉でもあるわけです。

ちょっと面白かったのでエントリーにしました。

 

◇ ◇ ◇ ◇

 

https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/749601
「山の神」は妻を卑しめる呼び方との指摘も 玉城デニー知事のツイートに驚く識者
2021年5月7日 15:54

 沖縄県民に新型コロナウイルス対策を求めてきた玉城デニー知事が、ゴールデンウイーク中にバーベキューをしたと受け取られるツイートをしていた。県の要請を受けて時短営業している飲食店や感染対策のために飲み会を自粛している県民から、批判の声が相次いだ。

(中略ー飲食店業など、バーベキューを批判したり擁護する街の声を紹介)

 県専門家会議のメンバーの一人は「感染リスクがある行動だったかどうかが重要。参加時間が短いなどリスクが少ない場合でも、県民から誤解される可能性がある。気を付けてほしい」と話した。

 玉城知事はツイートの中で、妻を指す卑称とされる「山の神」という言葉も使った。女性史家の宮城晴美さん(71)=那覇市=はどういう意図で投稿したのか分からないとした上で「かつて男尊女卑で使われていた言葉で前近代的だ。知事という公の立場の人が使うのにふさわしくなく、驚いている」と語った

 

 

  


 

 

 

【慰安婦問題】『李承晩TV』慰安婦関連動画一覧

ブログ主の覚え書きとして『李承晩TV』の慰安婦関連動画のインデックスを作っておきます。(少しずつ更新します。)

  • タイトルのリンクは日本語字幕付き動画/「字幕無し」は日本語字幕の無い動画(コメント欄で韓国人の反応が分かる)
  • 「ブログ」はその動画に関する当ブログエントリーへのリンク
  • 内容メモ

 

◇ ◇ ◇ ◇

 

  1. [日本軍慰安婦問題の真実] 1. 朝鮮戦争と韓国軍慰安婦(2019/05/17) 字幕無しブログ
     朝鮮戦争中の韓国軍慰安婦
      
     
  2. [日本軍慰安婦問題の真実] 2. 1950-60年代の民間慰安婦(2019/05/24) 字幕無しブログ
     朝鮮戦争後の米軍慰安婦を含む民間慰安婦
      
     
  3. [日本軍慰安婦問題の真実] 3. 1950-60年代の米軍慰安婦(2019/05/31) 字幕無しブログ
     米軍慰安婦
     
     
  4. [日本軍慰安婦問題の真実] 4. 謝罪、妊娠、流産(2019/06/07) 字幕無し/ブログ
    ○文喜相(ムン・ヒサン)国会議長の失言(昭和天皇を戦犯呼ばわり)批判
    ○日本の数々の「謝罪」
    ○避妊・妊娠・流産に関する米軍慰安婦と日本軍慰安婦(慰安所管理人の日記より)の比較
     
     
  5. [日本軍慰安婦問題の真実] 5. 朝鮮の妓生(ギセン)、別範疇の慰安婦(2019/06/14) 字幕無し/ブログ
    ○妓生(キーセン)とは
    ○『赴北日記』・・・17世紀のある両班の日記。赴任地へ行くまでに「寝た」女性のことを記録した日記
    ○身分制による「性奴隷」
     
     
  6. [日本軍慰安婦問題の真実] 6. 公娼制の施行 ‐身分的性支配から商業的売春へ‐(2019/06/21) 字幕無し/ブログ
    ○1916年 朝鮮総督府警務総監部令第4号「貸座敷娼妓取締規則」(同年5月1日施行)
    ○公娼(licensed prostitute)とは届出をして営業する娼妓/性病検診の義務化
    ○1870年代にフランスとドイツを真似て公娼制度を導入
    ○江戸時代の「遊郭」から「貸座敷」制へ・・・開港以来、西欧から人身売買が批判されたため、一旦遊女を解放(但し有名無実化←1991年のラムザイヤー論文)
    ○朝鮮への公娼制度導入・・・身分的な支配から家父長制に移行し、娘の売買が可能になった(それまでは生活が苦しいと一家全体で奴婢となった)
    ○朝鮮時代の妓生、貸座敷、日本軍の慰安所は本質的に同じ
    ○「売春の大衆化」・・・1930年代半ばからは朝鮮人(朝鮮系日本人をここでは便宜的に「朝鮮人」と表記)も公娼の運営に積極的に参入
     
  7. 7. 人身売買、公娼への道(2019/06/28) 字幕無し/ブログ
    ○娼妓(専業売春婦)と芸妓・・・併合による身分制度廃止に伴い、妓生はこれらに吸収される
    ○芸妓と酌婦は本来は売春禁止だが、求めに応じて売春を行った←娼妓と共に性病検診の対象
    ○当時の性病感染率は5%・・・厳格な衛生管理の下にあった(cf. 1950年代の韓国では22~24%)
    ○一般朝鮮人の利用が増加し、朝鮮半島では1930年代に三職種の合計人数において、「朝鮮人>日本人」となる
    ○「貸座敷娼妓取締規則」(1916年)では貸座敷業者は周旋(斡旋)業の兼業を禁じられた→周旋業者の発生
    ○日本の戸籍制度が導入され、「家族」や「戸主」という概念が生まれる。(しかし、倫理観は低い)
    ○性風俗業の業者と女性達は「契約」の関係/戸主の承諾書が必要→(戸主が娘等を売る権利)→人身売買へ
     

  8. 8. 売春業の域外進出(2019/07/05) 字幕無し/ブログ
    ○日本人のいる所には花街ができ、朝鮮人も中国、満州、台湾、日本本土等に進出
    ○満州事変(1931年)以降は朝鮮人の満州進出が増加するが、既に20年代には朝鮮人売春業がいた
    ○中国や台湾の娼館は日本人の好みに合わず、和服を着て日本風のもてなしをする朝鮮楼が繁盛した
    ○一方、朝鮮楼は台湾人の好みに合わず、台湾では公娼制度が定着しなかった
    ○1930年代、日本で公娼廃止運動が盛ん(キリスト教関係)→国際連盟からの批判→日本本土からの渡航に制限→朝鮮人娼妓がその隙間を埋める
    ○中国では上海など、日本軍がいる所に日本人が基盤を造り、後から朝鮮人が追いかけてくる/朝鮮人の料理屋や小売業、写真展、土建業等、軍の需要を見込んだ商売人の進出も盛ん→日本軍慰安所はこうした朝鮮人業者の延長でもあった
    ○日本本土ではもっと早くから朝鮮人が住みつき、30年代になると主要都市周辺に朝鮮人社会が形成され、25年の普通選挙開始により、朝鮮人の議員も誕生した
    ○シナ事変(1937年~)以降、朝鮮人労働者が大量に日本の工場や炭鉱へ→朝鮮人売春業も繁盛
     

  9. 9. 日本軍慰安婦(2019/07/12) 字幕無し/ブログ
    ○士気高揚、性病予防、機密漏洩防止
    ○韓国人は長らく挺身隊と混同
    ○1937年に、日本軍は兵士150人当たり1名の慰安婦を充てる計画を立てた→280万の兵士に対し1万8千人/朝鮮人慰安婦は3500~5000人
    ○1942年に軍が支給したコンドームの数は3210万個→1日の使用数を求め、1人の慰安婦が5人/日を相手にしたとすると、慰安婦の数は1万7千人の計算になる。
    ○「拉致」のイメージは吉田清治の『私の戦争犯罪』(済州島で慰安婦狩りをしたというホラ話)+朝日新聞のデマ報道→約20年後にようやく撤回(2014年)
    ○しかし韓国人の多くは未だに信じており、そのイメージのドラマや映画も多く作られた→『サルウィン川に陽が落ちる
    ○オーラルヒストリーの弱点:薄れた記憶、記憶の再生産、聞き手の要求を察知し迎合、支援金を失う恐怖
    ○慰安所は既に外地に進出していた業者を利用→監督・統制
    ○女性達は日本軍に連れて行かれたのではなく、親に売られ、周旋業者によって連れて行かれた→1939年~41年の『毎日新聞』には120余件の人身売買に関する記事(周旋業者は甘言などあらゆる手を使った)
    ○武漢の高森部隊近くにあった慰安所・・・塀で囲まれた敷地に慰安所や食堂、写真展、時計展などがあった/慰安所の利用規則
    ○欽州の慰安所・・・慰安所毎の女性の転入と転出の記録が残っている

  10. 10. 或る慰安所の 帳場人の日記(2019/07/19) 字幕無し/ブログ
    ○「朝鮮出身の帳場人が見た 慰安婦の真実―文化人類学者が読み解く『慰安所日記』 」(日本語版は崔吉城著)
    ○慰安婦の契約に関する解説。
    「募集と前借金」・・・業者が言葉巧みに女性を集めたが、「官」が徴集したのではない。
    「稼業期間」・・・契約期間は2年ほどで終了。
    「仕事と報酬」・・・週1回のような定休日はなかった。1ヵ月の売上は300~1,500円で、その内の50%を前金の返済。食費はただだったが、慰安所が衣装を高く売りつけているケースもあった。

  11. 11. 楯師団の慰安婦、文玉珠(2019/07/26) 字幕無しブログ
    ○2万6千円程の貯金をした慰安婦、文玉珠(ムン・オクジュ)の一生
     

  12. 12. 果たして、性奴隷だったのか(2019/08/02) 字幕無し/ブログ
    ○私が2007年に書いた『大韓民国物語』では慰安婦を性奴隷と記述した/影響を受けたのは吉見義明の『日本軍慰安婦』
    ○吉見義明の主張:慰安婦には行動の自由が無く監禁されていた/外出・通信・廃業などの自由が無かった/性交を強要された/暴力を振るわれ、花代は慰安婦に支払われなかった/高い化粧品や服を買わされた/借金に縛られ、増える利子に苦しんでいた〔債務奴隷〕/苦痛から逃れるために麻薬を常用/兵士達と共に玉砕を強いられた
    ○宋連玉(青山学院大学教授)の主張:日本軍慰安婦のみならず、国内の娼妓や芸妓なども性奴隷/公娼制そのものが性奴隷なので、その延長の慰安婦も性奴隷
    ○しかし、慰安婦は一定の条件を満たすと廃業は自由だった←欽州の史料(No.9の講義)、慰安所管理人の日記(No.10の講義)
    ○慰安婦はある種、個人事業主・・・業者は営業場所を提供し、収益の一部を分ける契約関係にあった
    ○慰安所業者も個人事業主・・・経営権を売買した
    ○前借金は1年半~2年で返済可能な額
    ○国内の娼妓や芸妓などが性奴隷では無かった史料・・・1923年の朝鮮のほぼ全道の娼妓、芸妓、酌婦の移動状況を表す史料/総数7527人で、新規参入3494人、削除3388人・・・年間44%の移動、就業年数は2~3年
    ○1930年代に朝鮮でも廃娼運動・・・当時の新聞に「性奴隷」の表現/しかし、歴史家は社会運動家の主観的意図から距離をおかなくては生らない/既に近代社会であり、身分的暴力ではなく商業的契約の時代/営業は許可制であり、性病検診も厳格/収支状況は監督官庁に報告の義務、等
    ○「性奴隷」論者は「性の略取」という部分だけを排他的に取りあげ、歴史的背景や社会的背景、文化的背景(男性、父や夫が女性を支配する家父長制)
    ○1955年の韓国国内の民間慰安婦の性病検診受診者は約11万人←(cf. 1939年、42年は1万人以下)→慰安婦問題の本舞台は1930~40年代ではなく50~60年代←こうした歴史に多くの研究者や社会運動家は目をつぶっている/吉見も宋も韓国史や韓国社会を知らない/性病も流産も50~60年代の方がひどかった
    ○しかも運動団体は彼女達が日本からの癒やし金を受け取らないように強要し、政治的に利用し続けてきたのだ
     

  13. 13. 解放後の40余年間、日本軍慰安婦問題はなかった(2019/08/09) 字幕無し/ブログ
    ○1952~65年の日韓交渉では慰安婦など問題にならなかった/請求権協定は互いの債権・債務の解決に関するもので、損害賠償に関するものではない/被害と認識していたら持ち出していたかも知れないが、韓国政府は慰安婦を被害として見ていなかったからだ
    ○韓国の1950~70年の国史教科書でも言及していない/1982~96年に使われた教科書で初めて「女性達までもが侵略戦争の犠牲になった」と慰安婦をほのめかす表現/メディアでも扱っていなかった(慰安婦の言及はあるは、それは米軍慰安婦)
    ○1965年の映画に慰安婦が登場するが、兵隊をからかう下卑た女達という扱いで、当時の韓国国内の米軍慰安婦のイメージが反映していた。(解説の朱博士「現在、慰安婦をこんな風に描いたら命危ないでしょう」w)
    ○1974年の『女子挺身隊』という映画になると、広告に「補償して貰えぬ女性 数万の慟哭」という副題が付いている/但しこの映画は、ホステス映画(韓国で「夜の女性を描く映画」のジャンルのことらしい)で、女子挺身隊=被害者というイメージではない
    ○1979年の日本のドキュメンタリー映画「沖縄のおばあさん」(沖縄にいたペ・ポンギという元慰安婦の映画)・・・彼女はやっていたことが恥ずかしくて国に戻れず、沖縄に住んでいた。
    ○1984年、タイのノ・スボックという慰安婦がKBSの番組を通じて知られた
    ○80年代には慰安婦をテーマにした小説が書かれた/『エミの名前は朝鮮ピーだった』(1982年)・・・ピーとはprostituteの事
    ○つまり、80年代までは慰安婦とは「哀れで面目がない女性」だった・・・当時の人は慰安婦がどういう女性か知っていた
    ○90年代に吉田清治の本がきっかけで、韓国人は「新たな記憶」を作る/その後、被害者として慰安婦を扱った映画や小説が生み出される/そのイメージを裏付けるような元慰安婦の証言が出てくる
     
     
  14. 14. 挺対協は、日本軍慰安婦問題をこのようにして大きくした(2019/08/16) 字幕無しブログ
    ○3つのプレイヤー:挺対協、日本政府、韓国政府
    ○1990年11月 挺対協(韓国挺身隊問題対策協議会)発足←韓国協会女性連合会(梨花女子大の尹貞玉教授)・・・70年代から妓生観光を批判/根源に慰安婦があると考えて日本や東南アジア等で調査し、1990年1月「挺身隊 怨魂の足跡の取材記」発表→日本政府に強制連行の謝罪を求め、証言を収集→1991年8月14日 金学順の記者会見
    ○1992年1月 吉見義明が“日本政府が慰安婦の募集と慰安所の設置に関与していた証拠史料”を発表(宮沢喜一首相訪韓の直前)→1992年4月 加藤(紘一 ) 談話→1993年8月 河野談話
    ○挺対協と日本側活動家との連携/国連等国際機関でのロビー活動
    ○補償問題:金泳三は日本に補償を求めず、1993年6月 “被害者”に対する支援法制定、生活補助金等を支給
    ○1995年8月 村山談話→「女性のためのアジア国民平和基金」で慰労金→挺対協は元慰安婦の慰労金受け取りを妨害→金泳三政権で慰労金支給→金大中政権で慰労金(日本からの慰労金支給者は対象とせず)→2007年 アジア平和国民基金解散
    ○挺対協は慰安婦問題を国際社会にアピール
    ○2011年12月 日本大使館前に慰安婦像設置(ウィーン条約違反)→2016年8月 南山(ナムサン)に記念公園
    ○2015年 慰安婦合意→2018年 「和解癒やし財団」解散(韓国側の一方的破棄)
    ○2016年 元慰安婦等、賠償を求めてソウル地裁に提訴(日本は主権免除を理由に参加せず)
     
  15. 15. 韓日関係が破綻するまで(2019/08/23) 字幕無し/ブログ
    ※これ以降、仕掛かり中
     
  16. 日本軍慰安婦問題の真実(完)(2019/08/30) 字幕無し/ブログ
     
  17. 慰安婦論争-(1) 彼女達は、果たして手ぶらで帰ったのだろうか(2019/10/22) 字幕無し/ブログ
     『反日種族主義』出版後の批判に対する反論
     
     
  18. 慰安婦論争-(2)それでも「強制動員」なのか(2019/11/01) 字幕無し/ブログ
     『反日種族主義』出版後の批判に対する反論
     

 

ラムザイヤー論文関連の動画

 

◇ ◇ ◇ ◇

 

一旦ここまでで公開します。

 

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2021/05/05

【慰安婦問題】杜撰な「慰安婦被害者」認定

慰安婦被害者法撤廃や反日銅像の撤去を求めて活動されている国史教科書研究所の金柄憲所長のFacebookに興味深い記事のリンクが貼られていたので、全文をご紹介します。

どうやら慰安婦を支援する団体のサイトのようで、「慰安婦被害者」の認定の難しさや自治体による支援の格差などを伝えたいようですが、いかにいい加減な認定をしているのかがよく分かります。この記事が書かれた日付は分かりませんが、2014年8月に書かれたもののようで、生活支援金などの金額は変わっている可能性があります。

大半(8割以上)は90年代に認定されましたが、2000年代にも認定を受けようとする自称・元慰安婦は数百人いたようです。

 

◇ ◇ ◇ ◇

 

https://story.asiae.co.kr/comfortwomen/sub03_02.htm

나는 위안부였다(私は慰安婦だった)

죽어도 말하기 싫은 그 얘길 자꾸 하라니... (死んでも言いたくないその話をしきりにしろなんて...)

この8日、慶尚北道の朴○○(92)さんが追加登録されたことが、先週、遅れて伝えられ、現在、政府に公式登録された慰安婦被害者は238人(生存者55人)に増えた。 パクさんは現在、大邱(テグ)のある療養所にいることが確認された。

※5月2日に1名死去し、現在(2021/05/05)の生存者は13名。金柄憲所長のFacebookによると、2016年8月29日に完成した「南山記憶の地」(慰安婦の名前が刻まれたモニュメント)の慰安婦のリストは247人、挺対協と対立してリスト除外された「世界平和ムクゲ会」のメンバーが8人。現在女性家族部に公式登録された「生活安定支援対象者」は240名、とのこと。

慰安婦被害の登録者のうち、84%(200人)が1990年代に申告をした。 特に、1993年には153人が一度に登録した。 当時は、1991年に故キム·ハクスンさんが公開証言した後、通報センターが開設されるなど、さまざまな措置が取られた時期だった。

 

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政府が被害者として登録された人に限って提供する生活安定支援金も、この時から支給され始めた。 それなら、慰安婦被害申告ㆍ登録はどんな手続きで進められるか。

 

정부 차원의 면담 대신 시민단체가 면담(政府レベルの面談ではなく、市民団体が面談)


2001年に保健福祉部から慰安婦被害者登録業務を移管された女性家族部はホームページに被害者登録手続きを指摘しておいている。 まず、韓国内居住者の場合、居住地の市·郡·区に「対象者登録申請書」を作成し、提出しなければならない。 国外居住者は在外公館に登録申請をする。 申請書には身元情報の他に強制動員状況、現地生活、帰還状況などを記入するが、調査段階でこれを確認する作業が集中的に行われる。 インタビュー回数など調査指針は特にない。 申告者の健康状態によって面談の可能性や回数が異なるためだというのが、女性家族部側の説明だ。

それなら、被害者が大勢登録した1990年代の被害者登録システムはどうだったのだろうか。 今とは違って、当時は政府レベルの面談すらなかったという。 供述書、写真、目撃者の証言などが盛り込まれた書類で、書面審査だけを経て被害者登録が行われたのだ。 これについて女性家族部の関係者は、「審議委員会が1993年から存在したが、書面審査の進め方、面接の進行状況などについては正確に把握しにくい」と語った。

当時、政府レベルの面談を代わりにしたのは韓国挺身隊研究所など、慰安婦関連市民団体の面談だった。 女性家族部は2004年12月から「対日抗争期強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者等支援委員会(以下、支援委員会)」にこの業務を依頼した。 調査過程のうち、被害者のインタビューは最も重要で困難な業務に属する。 調査者を逮捕し、動員状況、慰安所生活など辛い記憶を一つ一つ聞くことは容易ではない。 しかも、被害者の大半が高齢であるうえ、痴ほうなどの精神疾患を患っている場合、正確な証言を聞くことは難しい

つまり、大半(8割以上)の「慰安婦被害者」は市民団体レベルで、書類審査のみで認定された。2004年からは政府が関与したが、外部の支援委員会に委託している。面談もこれ以降行われるようになった。

最近登録した朴○○さんの場合がこれに当たる。 朴さんは孫娘が申告して面談を行ったが、おばあさんは「9歳の時日本に行った」、「戦争を会って一生苦労した」などの発言はしたが、「日本軍慰安婦だった」との発言はなかったという。 被害状況を具体的に明らかにしなかったため、審議委員会では被害者かどうかを決めるのに最後まで苦心した。 しかし、孫娘はお婆さんのうつ病を治療した医者の所見書など医療記録を証拠として提出した。 また、寝言などを注意深く聞いてみると、慰安婦被害者であることを暗示する単語を口にした。 紆余曲折の末に朴さんは、慰安婦被害者に登録された

おいおい、寝言かよw

 

피해자 등록시스템의 한계 (被害者登録システムの限界)

実際、被害者でないにもかかわらず、政府支援金などの恩恵を狙って虚偽の申告をする可能性も排除できない。 ある市民団体の関係者は、「被害者登録者の中で話をするのが大変だったためか、それとも友人や親戚の経験を自ら経験したことのように登録しておいて、これが発覚するのを恐れての事なのか分からないが、具体的な被害状況についての説明を拒否する人もいた」と語った

より正確な証言を確保するために、韓国挺身隊研究所は調査指針を準備している。 50人余りの被害女性をインタビューしたヨスンジュ研究員は「被害者であることをはっきりわかっている欠片を集めるのに注力する」、「例えば日本軍規模と慰安婦管理システム、慰安所の描写、慰安所生活を中心とした質問の答弁を聞き、これをもとに被害者であるかどうかを判断する」と話した。

現在、余暇部は14人の審議委員で構成された審議委員会を置いているが、インタビューなど調査活動を土台に作成した報告書を検討し、必要に応じて申告者家族のインタビューを行うこともある。 虚偽申告者をふるいにかけるための措置であるわけだ。 過去より手続きが複雑になったわけだが、実際の支援委員会の慰安婦処理現況(2005年2月~2008年6月)によると、この期間の間、計386件の被害が報告されたが、被害者に登録された人は22人だけだ。 一部ではこれについて「申告手続きが難しくなったためではなく、被害者としてカミングアウトすることを決心した被害者は1990年代に登録を終えたため」と話す。

動員時期を計算してみると、現在80-90代の高齢者なのに過去を問いただすのであって、今になってあえて被害者だと明らかにすることができるのかということだ。 2012年に被害者登録をしたパク·スギさん(92)は「孫が就職、大学入学などで故郷を離れてから被害者であることを明らかにすることを決心した」と話した。 「慰安婦だった」〔と告白すること〕は周辺の視線と偏見を本人だけでなく、家族も耐えなければならないという事実が気が使われたためだった。

今まで家族の立場を気にしてたのか? 生活費が欲しかったのか?

 

'생존' 피해자 발굴에만 급급(「生存」被害者の発掘に汲々)

動員された慰安婦の数が数万~数十万人と推定されるのに比べると、これを申告ㆍ登録した被害者数はごく少ない。 生存者を中心に被害届が出されたためだ。 チョン·ヘギョン支援委員会課長は「生存被害者の発掘にだけ焦点が当てられている現在の実態調査方式に問題がある」と指摘した。 また、中国側被害者を中心に実態が把握されたという指摘も出ている。 00年代序盤、政府は実態調査に着手し、中国を重点的に調査した。

当然、中国に連れて行かれた被害者の事例が多く知られている。 しかし、東南アジア各地に広がっていた慰安所は、各地域ごとに運営方式や雰囲気が違っていた。 例えば、中国で慰安婦生活をした被害者たちは10代で年齢が低い反面、タイなど東南アジア地域に連行された彼らは20代など、相対的に年齢が高かった。 年齢を考慮すれば、被害者の多くは故人になった可能性が高い。 生存被害だけでなく、死亡被害などへと調査対象を拡大すべきだという指摘が出ている理由でもある。

調査過程で無理なインタビュー進行は止めるべきだという意見も出た。 最近、インタビューが行われたあるおばあさんは、アルコール中毒の症状とうつ病、痴呆症の重症患者だった。 認知症が深刻で、男の甥だけ見分けるほどだ。 精神状態が完全でないノさんは、被害事実を覆すことが多かったが、女性家族部は心理治療士まで動員して、1ヵ月間調査を進めた。 被害者であることを立証するためのやむを得ない過程だが、ひどすぎたということだ。 この過程を見守ったある関係者は、「軍服を着た人はいましたか?「という質問に対し、目つきなどおばあさんの反応を見て判断したが、できないことだと思った」と答えた。

ここまで認知症が進んだ状態で、誰が申告したのか? あわよくば支援金を得ようとする家族がいるのか?

 

피해자 지원금, 지자체마다 지급액 달라 서울 70만원, 충청도 0원(被害者支援金、自治体ごとに支給額が異なるため、ソウル70万ウォン、忠清道0ウォン)

女性家族部は公式に確認された慰安婦被害者に限って生活安定支援金を支給している。 今月8日に公式登録された支援金は1時間に4300万ウォン、毎月支給される予定だ。(4300万ウォンは一時金?/原文:지난 8일 공식 등록된 1명은 일시간 4300만원과 함께 매달 이 지원금도 지급될 예정이다.) 国内だけでなく、海外生存者(5人)に対しても支援内容は同じだ。

1993年から支給されたこの支援金は、1人当たり月101万2000ウォン(14年基準)だ。 06年から支援した看病費は年間1人当たり1230万ウォンを限度に支給する。 治療事業費の名目では今年2億1200万ウォンの予算が策定された。 女性家族部の関係者は「年度ごとに物価上昇率を反映して生活安全支援金と看病費などの支援金を増額している」と説明した。

余暇部で支給すること以外に、各自治体は別途の生活安定資金を支給している。 財政規模が異なるため、支援金額はまちまちだ。

グラフ「지자체별 지원금액」(自治体別の支援金額)省略

15人の被害者が居住しているソウル地域が月70万ウォンで、支給金額が最も大きかった。 ソウル市の関係者は「昨年50万ウォンだったが条例制定と同時に70万ウォンに増額した」と説明した。 「ナヌムの家」がある京畿道広州(キョンギド·クァンジュ)は月60万ウォンをお婆さんたちに支給している。 光州市(クァンジュシ)と京畿道(キョンギド)がそれぞれ70%、30%ずつ負担している。

大邱市は、月50万ウォンの生活安定資金を支援しており、達西区は区が自主的に20万ウォンを追加支援している。 達西区(タルソグ)に住むお婆さんの場合、市と区を合わせて70万ウォンの支援金を受けることになる。 自治体の支援とは別に、大邱地域の場合、郭病院が1995年から無料で医療サービスを提供している。 医療費だけでなく、葬儀まで無償で支援している。

このほか、釜山(プサン)と蔚山(ウルサン)は20万ウォンで支援金額が同じであり、全羅北道(チョンラブクド)と全羅南道(チョルラナムド)はそれぞれ10万ウォン、25万ウォンを渡している。 慶尚北道(キョンサンブクド)の場合、浦項市(ポハンシ)から25万ウォン、慶尚南道(キョンサンナムド)は試薬代の名目で月15万ウォンを支給している。 昌原市はこれとは別に、年に3回、15万ウォンを見舞金の形で送っている。 忠清北道と忠清南道地域は別途の支援金がない。

 

 

  


 

 

 

2021/05/04

【韓国】「慰安婦、親の借金を返すために志願」と書かれた英語の韓国史教科書が出版されて大騒ぎ

この教科書は2020/12/1 に出版された『The Making of Korea in East Asia - A Korean History - 』という本で、著者はハワイ大学の日系アメリカ人、チズコ・アレン(Chizuko T. Allen)博士。

記事は後述しますが、どうやら、米国在住の韓国人教授が見つけて、韓国メディアに“ご注進”したようです。

【2021/08/15追記】その後、査読をするまで出版が延期になったという記事を読みました。〔『シンシアリーのブログ』参照:「慰安婦は契約によるもの」米国大学教材、いったん出版を中止することに

 

 

 

アレン教授は産経の英文webサイト『Japan Forward』に『反日種族主義』の書評も書かれています。

 

 

Amazonで問題の教科書を調べると、朝鮮半島の古代史から現代史までをカバーしているにも関わらず、総ページ数は192なので、概略程度でしょうが、その中で慰安婦を取りあげるのですから、アレン教授の“意図”を感じますw

 

◇ ◇ ◇ ◇

 

http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2021/05/03/2021050380212.html
「慰安婦、親の借金を返すために志願」…米国の韓国史教材が物議
2021/05/03 20:50

 米国で出版された大学の韓国史教材に「日本軍の慰安婦は、親の借金を返すために前金を受け取る契約を結んで自ら体を売った女性だ」という内容が盛り込まれていることが確認された。この教材は韓国のオンライン図書購入サイトで購入できることも分かった。ただし現在は新型コロナウイルス感染拡大の余波で、購入が困難な状況だ。

 米国の州立大学、イースタン・イリノイ大学史学科のイ・ジンヒ教授は2日(現地時間)、米国の教材専門出版社「コネラ・アカデミック・パブリッシング」が日本の右翼の歪曲(わいきょく)された歴史観を盛り込んだ教材『東アジアでの韓国の形成:韓国史』(The
Making of Korea in East Asia: A Korean History)を昨年12月1日に出版し、広報してきたと明らかにした。

 日系米国人学者のチズコ・アレン・ハワイ大学博士が執筆したこの教材は、古朝鮮から21世紀にかけての韓国の歴史を扱っている。

 教材には、朝鮮が日本の植民地になった後の状況について「1930年代、朝鮮人の売春ブローカーらは、より多くの収益を得るために朝鮮人の売春婦を満州や日本、中国に送った」との内容が書かれている。

 問題になった部分は「一部の女性は朝鮮人ブローカーに騙されたり拉致されたりしたが、それ以外の女性は自ら体を売ったか、家父長制度の下で家長の借金を返すために、前金を受け取った上で2-3年間売春に従事する契約書に署名した」と主張している。

 旧日本軍の慰安婦についても、こうした朝鮮人たちの売春婦募集方式がそのまま適用されたという論理が盛り込まれている。これは、慰安婦問題を「売春業者」と「予備売春婦」間の契約行為だと規定したハーバード大法科大学院のマーク・ラムザイヤー教授の論文「太平洋戦争の性契約」とそっくりだ。

 アレン博士はこのところ日本の右翼学界と連携し、積極的な活動を展開している。

 2016年にも李栄薫(イ・ヨンフン)元ソウル大教授と朴裕河(パク・ユハ)世宗大教授の主張を引用した慰安婦関連の論文を、日本の「モラロジー道徳教育財団」(ブログ主註:旧・モラロジー研究所)の歴史歪曲団体「歴史認識問題研究所」に発表し、類似の内容の主張を国際学会に発表して物議を醸した。

 モラロジー財団は、ラムザイヤー教授を役員に迎え「日本文明研究フォーラム」を立ち上げて支援しているのに加え、日本の右翼学者らの集結地と呼ばれる麗澤大を運営する類似宗教財団www)だ。

 現在、カリフォルニア州をはじめとする米国の一部地域の高校教材には、旧日本軍慰安婦の被害が記述されている。しかし日本の右翼の主張を盛り込んだ大学の歴史教材が出版されたことで、歪曲された歴史認識が米国内で広まりかねないとの懸念が出ている。

 出版社側は、歴史歪曲を盛り込んだ教材を出版した経緯を尋ねるイ教授の質問に対し「この教材は、同じ分野の専門家たちが審査する『査読』を経ていない可能性があるとみられる」として「さらなる調査を実施する」との反応を示したことが分かった。

 

◇ ◇ ◇ ◇

 

ま~た出版社に難癖つけてる。

つける薬のない人達だw

しかし、『反日種族主義』の出版、ラムザイヤー教授の論文と、確実に潮目は変わってきているように思います。

 

  


 

 

 

【慰安婦問題】1950~60年代の韓国の売春婦(3)米軍慰安婦

今回は、「3」の動画、米軍慰安婦に関する動画を取りあげます。

 

  1. [日本軍慰安婦問題の真実] 1. 朝鮮戦争と韓国軍慰安婦(2019/05/17)
  2. [日本軍慰安婦問題の真実] 2. 1950-60年代の民間慰安婦(2019/05/24)
  3. [日本軍慰安婦問題の真実] 3. 1950-60年代の米軍慰安婦(2019/05/31)

 

朝鮮戦争(1950年6月~53年7月)が終わって、韓国軍慰安婦(特殊慰安隊)は無くなりますが、その後も売春婦(=当時は総称として『慰安婦』と呼ばれた)や、それに準じる職業に従事する女性は増え続けます。その中核をなすのは、『米軍慰安婦』でした。韓国に駐留する米兵相手に“春を売る”女性達です。

朝鮮戦争当時の慰安婦はともかく、既に売春が禁じられた時代での米軍慰安婦の存在は、後に、左翼活動家にとって、保守政権(特に、軍事独裁政権)への攻撃材料になりました。

 

以下、李栄薫博士の解説(要約)です。小見出し(◆~)は適宜ブログ主がつけたものです。

 

◇ ◇ ◇ ◇

 

[日本軍慰安婦問題の真実] 3. 1950-60年代の米軍慰安婦

 

◆米軍慰安婦を含めた民間慰安婦の推移

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この数字は性病検診を受けた女性の実数である。

1955年から発刊された「保険社会統計年報」で見ると1955年には110,642人の女性が性風俗に従事していた。それが1962年以降の経済成長の勢いと共に、1966年には391,713人に増え、その内、専業とする慰安婦は61,833人から250,964人に増えている。

数ヶ月ないし1年未満で廃業した女性も多いので、前回の講義で見たように、毎年2~3万人が新規に参入し、平均1年4ヵ月程就業したので、2万6千人から3万9千人が特定時点の絶対数ではないかと思われるが、それも確実ではない。

年齢は3/4が20代。(表省略

5年毎の国勢調査で把握している性別・年齢別の総人口と対比すると、1955年では20代女性の5.8%、1960年では5.1%、1966年は11.1%で、性売買を専業とする慰安婦のみの比率は、それぞれ、3.2%、3.1%、8.1%となる。

要するに、1966年になると、20代の女性の10人に1人が何らかの性売買業に従事し、12人に1人が売春を専業にしていた

これは戦争だけでは説明できない。膨張した民間慰安婦の一部は米軍慰安婦だった。

 

◆米軍慰安婦の数

民間で使用された名前は「洋嫁」(ヤンセクシ)、「洋公主」(ヤンゴンジュ/字幕は「洋姫」)、「洋ガルボ」(ヤンガルボ)、「洋夫人」(ヤンブイン)、基地村女性など様々であるが、公式な呼称は「米軍慰安婦」または単に「慰安婦」だった。

1970年代になると、民間の売春婦を慰安婦とは呼ばなくなったが、米軍慰安婦だけは1990年代まで慰安婦が行政用語だった。

正確な米軍慰安婦の数は分からないが、5.16(1960年の朴正煕の軍事クーデター)以降、朴正煕政権は全ての基地村の慰安婦を協会か組合に強制登録させたが、当時の新聞はよく「1万人」と報道していた。更に、未登録者が3000~4000人程おり、総計は1万3~4000人とも言われた。

取り敢えず、1万人として、先程算出した特定時点の民間慰安婦人数(2万6千人から3万9千人)とで計算すると、1950~60年代の民間慰安婦の1/3~1/4が米軍慰安婦で、これが中核をなしていたと言える。

 

◆米軍慰安婦の数・年齢・従事期間・収入〔韓国人相手の慰安婦との比較〕

全国の基地がある所に基地村があった。

基地村女性の実態は、1964年にパク・デダンという人が群山市の保健所に登録された韓国人相手の慰安婦188人と米軍相手の慰安婦132人についての修士学位論文(「慰安婦達についての社会医学的な調査研究ー群山地区を中心にー」)を書いている。

この中で、韓国人相手であれ、米軍相手であれ、慰安婦を英語で「prostitute」としている事に留意

1991年に日本軍慰安婦問題が提起されると、人々は「comfort girl」と呼んだが、「prostitute」の方が正しいと思う。

論文によると、米軍慰安婦の平均年齢は27歳、韓国人相手の慰安婦の平均21歳よりも6歳高い。

学歴も米軍慰安婦の方が高い。韓国人相手の慰安婦は中学中退以上の学歴は少数であるのに対し、米軍慰安婦は高卒ないし大学中退者までいた。

アメリカ人と結婚してアメリカに行くことを目的にして慰安婦になったこともあったと知られている。

従事期間は、韓国人相手の慰安婦は平均2.5年であるのに対し、米軍慰安婦は平均3.0年

履歴を見ると、戦争の被害で家庭が破壊され孤児院を転々としたり、極貧で女中生活をしたケースが両社共通して高く、ある程度の年齢になると「友人誘い」や「男性誘惑」のケースが最も多かった。

米軍慰安婦の特異な点として、北朝鮮出身者が6人、日本と中国出身者が9人もいたことだ。このことは、米軍慰安婦の平均年齢が高いことと、30歳以上の年齢が多かったことと密接に関係がある。

解放の時(1945年)、10歳前後の子供で、親について北朝鮮から来た、或いは、日本や中国から本国に帰還したケースと言える。血統が日本人や中国人のケースもあった。研究によると、1970年代まで、基地村には日本人や中国人の女性がいたそうだが、彼女等は韓国人の夫から捨てられたケースが殆どだったそうだ。しかし、群山地区の女性達がそうだったのかは、解放の当時、子供だったことを考慮すると疑わしい。

論文の著者は、慰安婦達が1日に何回性交したか迄も調べた。

韓国人相手の慰安婦は1日に平均5.5回の性交をしたのに比べ、米軍慰安婦は1日に平均1.7回だった。〔表省略〕米軍慰安婦の半分近くは契約同居の形態で、相手が固定された場合が多かったからだ。そうでない慰安婦は基地村のクラブに行き、遊びに来る米兵相手に、所謂「ショートタイム」か「ロングタイム」の営業をした。

 

平均月収は韓国人相手の慰安婦が3,455ウォンに対し、米軍慰安婦は11,423ウォンもあった。

 

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毎月の生活費はそれぞれ2,062ウォンと8,757ウォンで、月の貯蓄額は1,393ウォンと2,666ウォンだった。米軍慰安婦の経済状態が良かったことが分かる。

1964年当時の製造業従事者の平均月収は3,800ウォンあまりで、女性従業員は2,500ウォン程度だったので、慰安婦はかなりの高収入と言える。

それ故、数多くの女性、特に、就業機会がない低学歴の極貧階層の女性達が毎年この産業に進出していった。

 

◆米軍慰安婦を保守政権批判に利用する韓国の左翼活動家

このような米軍慰安婦の問題を、今日どのように理解し、評価すべきだろうか?

1991年に日本軍慰安婦問題が提起されると、それと共に米軍慰安婦の問題も提起された。基地村を訪れて、米軍慰安婦の生活実態を調査し、彼女達を支援するために社会団体や宗教団体の活動も活発に展開された。また、数々の研究もなされた。

『米軍慰安婦、基地村の隠された真実』という元慰安婦のキム・ジョンジャ氏の回顧録がある。基地村の包主(ポジュ、抱え主)の債務奴隷の罠にはまり、苦しんでいた一人の女性の悲しい人生が書かれている。数多くの女性達が基地村で殴り殺されたり、病死したり、自殺した。東豆川の基地村では週に1回はそのようなことがあったそうだ。

しかし、米軍慰安婦の問題を社会に告発した運動団体の全ての主張に同感することはできない。私は、延べ数十万人とも考えられる全ての慰安婦がそのように悲惨だったとは思わない。

概して米軍慰安婦は韓国人相手の慰安婦より良い境遇で、韓国人相手の慰安婦はより残酷な「人肉市場」であった。

運動団体は米軍慰安婦が国歌の暴力だと批判し、同時代の朴正煕や全斗煥政権の責任だと主張して賠償を要求している。その上、彼らは慰安婦の問題を韓米同盟のせいにしている。

朴正煕政権は基地村の浄化事業を行った。慰安婦の登録制を実施し、性病検診を強化した。彼ら運動家は、清潔な性サービスで、韓米同盟を強化する意図だったと解釈している。

ひいては政府が慰安婦を外貨稼ぎのために動員したとも主張しているが、そのような主張には同意できかねる。

朴正煕政権が1962年に売淫行為防止法を制定しながら慰安婦の存在を認めたことは確かに偽善的だ。

運動家は米軍慰安婦を日本軍慰安婦と同様の関心を持つべきだと主張しているが、その主張は正しいと思う。

しかし、おかしいことに、日本軍慰安婦の問題に関わっている団体はそれに同調しない

米軍慰安婦と日本軍慰安婦は何が違うのでだろうか? その答えが「反日種族主義」だと思う。

日本軍慰安婦と告白した女性達は140人もいるが、米軍慰安婦だったと告白した女性はあまりいない。更に、朝鮮戦争当時の韓国軍慰安婦だと名乗り出た者は1人もいない。

何故か? 彼女達を保護・支援し、民族の聖女と崇める集団情緒の反日種族主義がそこでは作動しないからだ。

 

◇ ◇ ◇ ◇

 

ブログ主がある程度国際情勢を理解できるようになったのは就職した1980年代ですが、当時、韓国にさほど興味がないブログ主としては、韓国と言えば『バッタもん』(模造品やB級品)の生産地と『キーセン(妓生)観光』(=売春ツアー)くらいのイメージでした。それと共に、周辺、と言っても、ソ連や北朝鮮絡みですが、軍事的なトラブルを起こす国でした。このイメージが劇的に変わるのが1988年のソウル五輪以降(その前年に大韓航空機爆破事件)なのですが、少なくとも80年代の韓国は、客観的に見て、貧しくて不安定な国だったのです。

今回のテーマ『米軍慰安婦』や『キーセン観光』は、確かに、朴正煕(1961にクーデター/63~79年)や全斗煥(1981~88年)といった軍事独裁政権と重なります。

しかし、政府の奨励があったにせよ、その時代を必死に生き抜いた女性達がいただけのことだと思います。

BS1でしょっちゅう再放送をしてる、日本人の『戦争花嫁』も、当時、米兵と自由恋愛をする機会を考えると、ふと、慰安婦的な人だったのかな?とも思いますが、現在、平穏に暮らしている彼女達に偏見など抱きません。

韓国人の多くに感じる特徴は、過去を反省して現代や未来に生かすのではなく、現代の価値観を持って過去を糾弾してばかりいることです。「空間認知能力」という言葉がありますが、「時空認知能力」みたいなものが欠如しているのではないかと思います。時系列とか、その時代背景とかそうしたものを無視して、現代の感覚・感情で判定することが多い気がします。しかも、それが発揮されるのは、他者を攻撃する時だけで、自分は顧みないのです。

『李承晩TV』を観ていても、非常に論理的に分かりやすく説明してくれていて、実際にネットでは論理的に考えられる人が少なくないのに、何故これがマジョリティにならないのだろう?と不思議に思うのですが、韓国社会には、知的レベルの格差による葛藤が、日本よりも大きいのではないかと思います。


 

  


 

 

 

2021/05/02

【慰安婦問題】1950~60年代の韓国の売春婦(2)民間慰安婦

前々回前回と、韓国軍慰安婦、即ち、朝鮮戦争(1950年6月~53年7月休戦)の「特殊慰安隊」について見てきました。今回ご紹介する動画「2」では主に1955年と1958年の統計資料が扱われます。既に公娼制度はなく、朝鮮戦争の直後であり、米軍相手の売春婦も含まれている、という前提になります。

また、「慰安婦」という言葉は「売春婦」の意味で韓国社会に定着し、1960年代まで行政用語として使われます。

 

  1. [日本軍慰安婦問題の真実] 1. 朝鮮戦争と韓国軍慰安婦(2019/05/17)
  2. [日本軍慰安婦問題の真実] 2. 1950-60年代の民間慰安婦(2019/05/24)
  3. [日本軍慰安婦問題の真実] 3. 1950-60年代の米軍慰安婦(2019/05/31)

 

以下、李栄薫博士の解説(要約)です。小見出し(◆~)は適宜ブログ主がつけたものです。

 

◇ ◇ ◇ ◇

 

[日本軍慰安婦問題の真実] 2. 1950-60年代の民間慰安婦

◆女子挺身隊と日本軍慰安婦の混同、そして「集団幻想」へ

1991年に日本軍慰安婦問題が日韓の争点となって以来、韓国運動団体、歴史学界、政界の対応は少なくない問題があった。

 

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1997年以来、中・高校の歴史教科書には「日帝が太平洋戦争の末期に『女子挺身勤労令』を発表し、女性の労働力までも動員したが、その中の一部は戦線に送られ、『日本軍慰安婦』として犠牲にされた」と述べられてきた。また、「挺身隊として動員された数は数十万、あるいは20万もあったが、慰安婦として犠牲にされた女性の数は少なくとも数万人」とされている。

しかし、これは事実ではない。「女子挺身勤労令」は、あくまでも日本で施行されただけで、朝鮮では公布あるいは施行されなかった。

職場や学校単位で挺身隊が組織されて国内または日本の軍需工場に行って何ヶ月か勤労した事例はあっても、日本に行ったケースは2千人程度と推算されているだけだ。

その中で慰安婦として連れて行かされた事例は1件も報告されていない。

にもかかわらず、韓国の教科書は、調べればすぐに事実では無いと判明されることを事実のように述べてきた。

いつの間にか形成された「集団幻想」に基づいて歴史を述べてきたのだ。

 

◆4種類の性風俗業:ダンサー、慰安婦、接待婦、密娼

慰安婦と言う用語は日本軍慰安婦制度を起源にしているが、1945年の解放以降も残り、1960年代まで韓国軍慰安婦や米軍慰安婦などと使われたり、民間の売春婦も慰安婦と呼んだ。1955年から政府が発刊した「保険社会統計年報」にもその用語が公式に使われている。1957年の「伝染病予防法施行令」では「慰安婦とは売淫をする女性で週2回の性病検診の対象」とされている

1955年の性病検診実績に関する「保険社会統計年報」を見ると、性病検診の対象となる女性、即ち性売買の産業に従事する女性は、ダンサー(dancer)、慰安婦(prostitute)、接待婦(entertainer)、密娼(harlot)の4種類に分類されている。

「ダンサー」は接客店で踊る女性で、日本統治時代には踊りと歌を職業としながら自宅から職場に通う女性で芸妓と呼んだが、ダンサーはその後身ではないかと思われる。「慰安婦」とは遊郭か私娼街(売春街)に入居して性売買を専業とする女性を指す言葉で、日本統治時代は娼妓と呼んだ。「接待婦」とは飲食店か料亭で客を接待する女性で、日本統治時代には酌婦と呼んだ。「密娼」は、旅館、茶房、カフェなどで従事する女性で、売春を兼業していた。日本統治時代はこれをカフェ及びバー女給と分類した。

 

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1955年の1年間、全部で11万642人の女性が検診を受けた。その内、2万2,659人が初診で、1955年にこの産業に侵入した女性の数となる。

これが1958年には若干増加して11万9,578人だった。そのうち慰安婦だけを数えると、1955年に6万1,833人から6万5,692人と増加している。

性病の感染率は平均22~24%もあった。朝鮮総督府の統計によると、1937年の朝鮮人の娼妓と酌婦の性病感染率は5%前後だったので、解放と戦争の混乱期に性売買の産業がどれほど無分別に膨張したのかが分かる。また、韓国政府の保険行政が事実上麻痺していたことを語っている。

「保険社会統計年報」は、性病検診の対象となる、性産業に従事する女性達の年齢分布や教育程度に関する情報を載せている。保健所が身上記録簿が管理していた女性で、全部で5万6,182人がその母集団で、その殆どは慰安婦だと思われる。

 

◆性風俗従事者の内訳(年齢、学歴、前職、従事期間)

資料を見る(画像キャプチャ省略)と、性売買は15歳から始まり、20~24歳が一番多い(47.1%)。30歳以上は8.3%に過ぎない。

接待婦の学歴は、57%が無学で、その内23%は文盲でハングルも読めず、34%はハングルは理解できた。小学校を卒業したものは36%。当時の女子としては高学歴とされる中学校及び専門校の卒業が6.8%もあるのは彼女達が米軍相手の慰安婦だからである。

米軍を含める民間人を相手とした慰安婦達の履歴、勤続期間、労働の実態、所得水準に関しては、1960年代初めの頃、1961年~64年の間にソウル大学校の保険大学院に提出された幾つかの保健学の修士論文から参照できる。3編の論文対象にして調査した。

慰安婦になる前の前職を調べた調査がある。ソウル市(1961年)の600人とソウル市城東区(1963年)の144人、群山市(1964年)の保健所に登録された188人を対象にしたものだ。

※全羅北道群山市。有名な売春街がある。

 

ソウル市では女中出身が最も多く、群山では孤児出身が最も多かった。

戦争で家庭が破壊されて孤児院を転々としたり、極貧階層で父母の保護を受けられなかったり、家庭不和で家出、あるいは捨てられた女性達が女中あるいは他の接客業に従事した後で慰安婦になるのが最も一般的だった。生活苦で私娼街に流れて来たケースが最も多いが、先に性風俗の業界に進出した似たような境遇の友人からの「友人誘い」も重要なきっかけとして作用した。男子誘惑か売られたケースも少なくないが、これは人身売買のこと。友人誘いも人身売買のケースが多い。

 

期間は地域によって異なる。

ソウル市の保健所に収容された女性は1ヵ月未満から5~10年にも生る多様な分布を見せているが、加重平均すると平均1.1年。城東区の場合は平均6ヵ月だが、論文によると集団娼ではなく、散娼(組織に属さずに個人で客を引く娼婦)が多かったようだ。しかし、群山市は全国でも有名な集娼地域である。ここは最も長く、2.5年だ。

2年または5年以上この産業から抜け出せないケースも少なくない。

特定の抱え主(ポジュ、楼主)に縛られず、個人または何人かが同業の形で従事した場合はその期間は長くない。ソウル城東区がそうだったと思われる。しかし、群山の場合は有名な集娼村で、そこでは半分以上の人達が2年以上滞留した。

ここでは多くが債務奴隷的な状態にいた可能性が高いと思われる。

群山市開福洞の有名な通称テキサス村では2003年に大きな火災(※)があって、12人の売春婦が焼死した。当時、慰安婦達は部屋が外からロックされており、逃げ出すことができなかった。2003年でもそうだったので1950~60年代は言うまでもないだろう。

※2002年の誤り? なお、韓国では通称「テキサス村」は複数あり、集娼村(売春街)の通称らしい。Wikipedia『ミアリテキサス』によると、ソウル市の下月谷洞や千戸洞の売買春業者が、米国の西部劇映画で描かれた、1階で酒を飲み2階で売買春を行う18世紀の居酒屋に着眼し、既存の私娼街と自分たちを区分するために、自らをテキサスと呼び始めたことに由来する由。「弥阿里テキサス」や「千戸洞テキサス」などと呼ばれ、日本で言うと、「○○銀座」のような感覚なのかも知れない。

2000年代初頭には売春街での火災が相次いでいる。〔詳細後述〕

 

ソウル市の城東区と群山市の慰安婦については一日に何人の客と接していたかも調べられていたが、城東区の144人は1日平均3.7人、群山市の188人は平均4.43人だった 群山市の場合1日の性交回数も調べられたが平均5.51回だった。

 

これらの調査を通じて、韓国軍の慰安婦と民間慰安婦は結局同質の存在だと思うようになった。

韓国軍の慰安婦の供給源は民間の慰安婦だった。

 

◆性風俗従事者の所得

月所得についてはソウル市城東区で月平均5,556ウォン群山市は平均3,455ウォンだった。物価の差や所得水準の差が反映している。

抱え主と売上の半分を分けることを前提にして花代(揚げ代)を計算すると城東区は100ウォン、群山市の場合は52ウォンと計算される。

1963年と64年の産業統計から製造業従事者の平均賃金は3,180ウォンで1,964年は3,880ウォン、女性の製造業従事者の平均賃金は2,000ウォンから2,500ウォンだった。

しかも、小学校卒以下の学歴の無学な女性には製造業に就業の機会すらなかったので、慰安婦の月収は当時としては相対的に高い水準だったと言える。

そこで最貧困階層の低学歴女性達が年々2万人以上性風俗の産業に進出し、その内1万人以上が専業の売春婦となっていった。

そして大体1~2年で廃業して他の職種に移っていったが、不幸にも抜け出せない女性がいて、少なくない証言が残っている。

民間慰安婦の場合、政府の管理と監督が疎かで、前述のように性病も蔓延しており、悪徳な抱え主の債務奴隷的な支配は末端の警察・官吏との賄賂で繋がった結託の下で公然と行われていたし、日常的な暴力もあった。

私もそのような光景を見たことがある。1976年の頃だった。ソウルの東大門の外側にある昌信洞(チャンシンドン)で家庭教師をしていた頃、東大門付近は私娼街が発達していた。その路地で男が若い女を殴っていた。女はしゃがんで拝むようにしていた。私は何もできなかった。

思うに、日本軍慰安婦の問題が提起された時、多くの韓国人が見慣れたこういう光景を思い出したのではないだろうか

 

◇ ◇ ◇ ◇

 

最後の部分を視聴した時、ブログ主は心理学用語の『投影』()を思い出しました。

 

※投影(projection):フロイトの精神分析の概念のひとつで、防衛の一種。自分の無意識にある不快な内容が、他人の性質であるかのように感じられること。自己のとある衝動や資質を認めたくないとき、自分自身を守るためそれを認める代わりに、他の人間にその悪い面を押し付けてしまうような心の働きをいう。たとえば「私は彼を憎んでいる」は「彼は私を憎んでいる」に置き換わる。

 

韓国人が日本人を悪く言う時、大抵これが当てはまります。例えば、日本人の蛮行と主張する拷問や処刑方法も、中国や朝鮮で行われていた方法にそっくりなのです。

私娼街での火災による売春婦の焼死も同様です。

記事によって犠牲者の人数が微妙に異なるのですが、2000年9月に群山市大明洞で火災があり、監禁され売春を強要されていた5 人の女性が火事によって死亡する事件が起きています。2001年2月14日には釜山市琓月洞の風俗店で4人が焼死、2002年1月29日には群山市開福洞で、監禁部屋で外から鍵を掛けられて監禁されていた14 人の被害者女性が亡くなった火災事故がありました。

韓国は1961年に「淪落行為等防止法」が制定(※1)されます。2004年には「淪落行為等防止法」を改善した所謂「性売買特別法」が制定(※2)されました。

※1 但し、米軍基地周辺104箇所は対象外。Wikipedia『韓国軍慰安婦』より。(cf. 日本は1957年「売春防止法」施行-58年 赤線廃止)
※2 
よくネットで揶揄される、売春婦達による「売春させろデモ」はこの施行11周年、即ち2015年の事のようです。

 

また、慶尚北道浦項(ボハン)市では2010年7月7日から11年6月13日にかけて、別の痛ましい事件が起こりました。売春婦8人が連続して自殺したのです。前借金が返済できず借金が膨らんだ女性が自殺すると、その保証人になっていた仲間の売春婦が悲観して次々に自殺したそうです。〔記事後述

これらの事件・事故が起きたのは慰安婦問題が提起された後ですが、『李承晩TV』などの慰安婦関連の動画のコメント欄で、1980年代、90年代まで人さらいがあったとか、貧しい家の子供が女中として他家に売られた(引き取られた?)いうコメントを時々目にします。

「慰安婦=性奴隷」というのは日本の戸塚悦郎弁護士が作りだした虚構ですが、これを容易に信じてしまう原因が韓国社会にある(あった)ような気がします。

 

◇ ◇ ◇ ◇

 

https://s.japanese.joins.com/JArticle/131509
2889%利子の借金で連続自殺
2010.07.26 11:07

遊興業店女性従業員などを相手に高利子で貸しつけた私債業者たちが多数警察に検挙された。

遊興業店女性従業員自殺事件を捜査中の慶北浦項南部警察署は25日、不法消費者金融業を営んだ疑い(貸付業などの登録及び金融利用者保護に関する法律違反)で浦項地域の消費者金融業者30人を逮捕し、イ某容疑者(38)ら7人に対して逮捕状を請求した。またキム某(48)ら23人を同じ容疑で書類送検した。

警察によるとイ容疑者らは2006年1月から最近まで自殺した遊興業店従業員イ某さん(32、女)とキム某さん(36、女)に1回に100万~500万ウォンずつ貸し、最低、年間133%で最高2889%の利子を受け取った疑いがもたれている。元金と利子を返すことができなければこれを再び元金に入れて利子を請求し、2人の借金は急激に増えた。消費者金融業者たちはイさんとキムさんが適時に借金を返すことができないとまた300万ウォンを貸し、元金未返済額と利子を返すという名目で250万ウォンを控除して50万ウォンだけよこしたと警察は明らかにした。

利子制限法は貸付業登録をしない人がお金を貸す場合、年間30%以上利子を受けることができないように規定している。2人は死亡する直前、元金と利子を合わせてそれぞれ1億ウォンの借金があり、互いに保証をした状態だった。イ容疑者ら消費者金融業者たちは主に夜明けの時間を利用して2人に「金を返せ」「早く借金を返せ」「(居酒屋に)押しかける」と言った電話をし、携帯電話文字メッセージを送るなど1日40~50回ずつ債務弁済を強要した。

警察関係者は「2人が高利子に耐えることができず、さらに借金をしてそれを返すようにしたが、次第に返済能力がなくなり、自殺したものとみられる」とし「借りたお金は生活費として使ったものと推定される」と話した。警察の調査結果、消費者金融業者たちは2008年1月から最近まで遊興業店従業員など80人と1400回にわたり、総額25億ウォンの取り引きをしたことがわかった。

浦項市南区の遊興業店女性従業員として働いていたイさんとキムさんは借金がかさむとこれを悲観して7、8日、自分の家で首を吊って自殺した。10日にはイさんと同じ店で働き、親しく過ごしてきたムン某さん(23)が彼女の死に衝撃を受けて自殺した。

 

 

  


 

 

 

2021/05/01

【慰安婦問題】韓国軍の「特殊慰安隊」-慰安婦達はどこから来たのか?【2002年の韓国の記事から】

前回のエントリーで予告したように、『オーマイニュース」の②の記事をご紹介します。①は以下にリンクだけご紹介します。

 

韓国軍も'慰安婦'運用した 
【創刊2周年発掘スクープ①】日本軍従軍経験の遺産 02.02.22 15:16l 最終更新 02.02.26 21:51
アーカイブ(魚拓):https://archive.ph/Va2Q8

 

前回書いたように、恐らく日本軍慰安婦のシステムを真似したと思われるので、韓国軍が直接慰安所を運営すること以外は似ています。

下の記事では、韓国人は日本軍が女性を強制連行したと思っているので、異なると主張していますが、強制連行などしていないので、ほぼそっくりと言うことになります。別の言い方をしたら、強制連行神話が崩れたら、韓国人は日本軍慰安婦を批判できなくなるのです。

違いは、①「慰安所」的なものは韓国軍が直接運営した。(日本軍の場合は民間の業者)、②韓国軍兵士は支給されるチケットでサービスを受けた。(日本軍の場合は「軍票」というお金代わりのものを兵士が自腹で払った)、③国連軍兵士(米兵)も慰安婦を利用したことでしょう。

ただ、軍が直接慰安所を運営したのなら、軍と慰安婦の契約はどのようになっていたのでしょうか? 恐らく、韓国軍は個々に女性と契約したのではなく、既存の業者から派遣させたと思いますが、それでは、業者と慰安婦の契約はどのようなものだったのか? 残念ながら、今回ご紹介する記事ではその部分は分かりません。

2014年には、「公娼が禁止されていたにも関わらず米軍慰安婦として働かされた」として、韓国人女性が韓国政府を相手に訴えを起こしましたが、部分勝訴のようです。(Wikipedia『韓国軍慰安婦』#韓国と米国に対する慰安婦訴訟

個人的には、韓国軍慰安婦と日本軍慰安婦を比較することで見えてくるものがあると思っているのですが、何しろ、『後方戦史』は閲覧禁止と、事実上の「焚書」状態であり、韓国軍の支出明細も公開されていないでしょう。業者と慰安婦の間の契約書は公文書ではないので、この現物を見つけることは困難だとは思います。と言っても、事件化したものから想像がつくのですが、それは別の機会にご紹介します。

 

◇ ◇ ◇ ◇

 

以下の記事は、機械翻訳後に誤訳と思われる箇所は原文の単語を確認してできる限り修正しています。

http://www.ohmynews.com/NWS_Web/View/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0000067635
アーカイブ(魚拓):https://archive.ph/VEhG3

韓国軍「特殊慰安隊」は事実上の公娼
[創刊2周年記念の発掘の特ダネ]韓国軍も'慰安婦'運用した②
02.02.26 19:00l 最終アップデート 02.02.28 11:05l

キムダン(dangk)記者

記者が忠清南道論山の陸軍第2訓練所に入所した1980年当時までは、論山訓練所の塀を越えると、いわゆる「毛布部隊」に出会えた。 当時訓練兵だった記者が「毛布部隊」を直接目撃したわけではないが、訓練所の助手や基幹兵たちは自分たちが「毛布部隊」と遭遇し「激戦」を繰り広げた「舞踊談(武勇伝?」についてよく話していた。

「毛布部隊」は訓練所の塀の外で毛布一枚を「武器」にして訓練兵たちを相手にする娼婦たちの俗称。 このような移動式の毛布部隊員の話は、美談や神話のように聞こえた。 しかし、軍が直接慰安部隊を設置して運用したなら、問題が変わる。

▲韓国軍の韓国戦争期間'慰安婦'運用事実を報道した日本<朝日新聞>2月24日付の記事。(太い船内) 画像はこちら

この2月22日<オーマイニュース>に『韓国軍も“慰安婦”運用した』発掘企画記事の第一回分が報道された後、独自(読者?)の反応は大きく三つに分類することができる。

第一に、軍の暗い恥部を公開して反省しようということだ。 第二に、旧日本軍慰安婦(慰安婦)制度とは異なる「公娼」であることから、違法ではないということ。 そして最後は公娼であれ私娼であれ、軍が戦時に士気高揚のために慰安婦を利用したことが何が間違いかということだ。 この2回目の記事は主にその2番目の反応と直結した回答を盛り込んでいる。

この発掘企画記事の最初のバッチ(で見たように、韓国軍が1951年頃から1954年まで'特殊慰安隊'という名前で、固定型あるいは移動式慰安婦制度を導入して運用したことは否定できない歴史的事実だ。 その事実は、陸軍本部が1956年に編纂した公式記録である『後方戦史』(人事編)と目撃者の証言から裏付けられている。

『後方戦史』に掲載された「特殊慰安隊実績統計表」には、1952年度に4個小隊で編成された慰安隊89人が、年間20万4560人の兵力を「慰安」したと記されている。 慰安婦1人が、1日平均6∼7人の将兵を慰めたのだ。 また、蔡命新(チェ・ミョンシン)・チャギュホン・キムヒオなど予備役将軍たちも韓国戦争期間に経験した慰安婦制度について「明かしたくない恥ずかしい軍部の恥部だが、事実だ」と証言している。

もちろん、韓国軍慰安婦制度は、旧日本軍'従軍慰安婦'制度を真似したにもかかわらず、二つの制度は本質的に異なる。 韓国軍慰安婦は、慰安婦動員方式や規模などでも旧日本軍従軍慰安婦と比較にならないが、何よりも後者は強制性を帯びている国家動原体制の一環として施行されたという点が異なる

しかし、そのような根本的な違いにもかかわらず、韓国軍慰安隊は設置の同期や運営方式面で日本軍従軍慰安婦制度を真似て、似たような姿をしているのも事実だ。 例えば、慰安所の前で列になって慰安婦を待っている軍人らと、戦闘力損失を防止するため、定期的に性病検診をする軍医官の姿などは日本軍従軍慰安所の風景と大差ないのだ。

また、軍票(日本軍)の代わりに、チケット(韓国軍)などの代価が支払われた取引形式で運用された点も、外見上、似たような形だ。 日本の右翼はこれを掲げて軍慰安所制度を一種の公娼制のように正当化したりもする。 しかし軍票は日本の主要銀行がいつでも貨幣に交換する一種の「有価証券」だった。 また、公娼制が国家が女性の性を統制した場合であれば、慰安所の場合は戦時という状況で国家よりも強力な力を発揮する軍が管理·運営の主体という点で被害女性に対する人権蹂躙は深刻にならざるを得なかった。

 

韓国軍「特殊慰安隊」は事実上の公娼

ところが注目すべきことは、当時韓国軍が設置·運営したこの「特殊慰安所」、すなわち固定式慰安所の性格が事実上の公娼であったという点だ。 例えば、軍の公式記録には「休戦によってこのような施設の設置目的が解消されたことにより、公娼廃止の潮流に順命し、短期4287年3月、これを一斉に閉鎖した」(『後方戦史』148~149頁)となっている。 軍自ら「特殊慰安隊」を公娼(こうしょう)と認めているのだ。

檀紀を西暦に換算すると、慰安所を一斉に閉鎖したのは1954年3月である。 ところが、1947年11月11日に米軍政庁が公布した公娼廃止令(法律第7号)が発効したのは1948年2月からだ。 明確な記録はないが、慰安所設置時点は1951年と推定される。 したがって、軍は公娼廃止令にもかかわらず、1951年から1954年まで約3年間、不法に公娼を設置·運営する犯罪行為を行なったのだ。

結局、軍が「公娼廃止の潮流に乗って慰安所を閉鎖した」という記録は、一見事実のように見えるが、実際には自身の犯罪行為を隠蔽するために事実を巧妙に歪曲したものだ。 軍は政府の公娼廃止令にもかかわらず、事実上の公娼を3年間も不法運営しながらも、「公娼廃止の潮流に順命して閉鎖」したように記録しているためだ。

では、朝鮮戦争当時、軍慰安所を設置·運営する犯罪行為の主体は誰だろうか。 これについては、まだ明確な記録や証言は見つかっていない。 ただ、韓国軍の'慰安隊'運用事実を初めて提起した金貴玉(キム・キオック/キム・ギオク)博士〔慶南(キョンナム)大学北朝鮮専門大学院客員教授〕は『後方戦士』と予備役将軍たちの回顧録そして関係者の証言などをもとに、このように主張する。

「特殊慰安所」、すなわち軍慰安所は陸軍によって設置されたのは間違いない事実である。 当時の韓国軍の作戦体系上、軍慰安隊の設置および管理問題について、上は国連軍の最終承認の下で運営されたものと推定され、下は特殊慰安隊部隊長の責任の下で総括されたものと見られる。"

国連軍の最終承認の下に運営されたという推定は、1950年7月、韓国政府が陸海空軍の作戦指揮権を国連軍総司令官に委任したことに基づいている。 しかし、『後方戦史』も明らかにしているように、慰安所の運営は戦線ではなく後方に限られていた。 また、慰安台設置は作戦指揮権の範疇に含まれないため、国連軍の最終承認の下で運営されたという推定は、説得力を欠いている。

しかし、当時、国防部と陸軍の首脳部はこのような不法行為の責任から自由にできないものとみられる(国防部に合同参謀会議が設置された時点は'特殊慰安隊'を閉鎖することわずか一ヵ月前の1954年2月なので、合同参謀は、慰安婦の設置・運営の係船上で除外される)。

慰安所を設置·運営した時点での歴代の陸軍参謀総長は、△第5代チョン·イルグォン中将(1950.6~1951.6)△第6代イ·ジョンチャン中将(1951.6~1952.7)△第7代ペク·ソンヨプ大将(1952.7~1954.2)△第8代チョン·イルグォン大将(1954.2~1956.6)などだ。 1951年と推定される設置時点でみると、鄭一権(チョン·イルグォン)、李鍾賛(イ·ジョンチャン)両総長のうちの一人だ。

1948年の創軍当時の軍首脳部の人脈の大半は日本軍·関東軍出身だったが、両総長とも日本陸軍士官学校出身だ。 韓国戦争時代に慰安婦制度を目撃したキムヒオ将軍(予備役陸軍少将)の"過去日本の軍隊従軍経験のある一部の連帯の幹部たちが、部下の士気高揚のための発想から生まれたもの"という証言は彼に対する手がかりを提供している。 金貴玉博士も「軍慰安婦の創設の企画者が確かに日本軍や関東軍出身者であったり、それに影響を受けた者と推定できる」と明らかにする。

軍関係者らは、イ·ジョンチャン総長が1952年の釜山政治問題で軍の政治的中立を力説した「真の軍人の象徴」と見なされてきた点に照らして、ひとまずチョン·イルグォン総長の方に軍慰安隊設置·運営の可能性の比重を置いている。 一方、当時の国防部長官の中では、第2代申成模長官(1949.3~1951.5)と第3代李起鵬長官(1951.5~1952.3)のいずれかが設置を承認したものと推定される。

 

韓国軍慰安婦、これらは誰か?

それなら、果たして軍慰安婦、これは誰だろうか。 ところが、既存の資料はどこにも慰安婦の正体に対する言及はない。 金貴玉博士によると、ただ、何人かの文献では少なくない期間、日帝軍慰安婦たちが韓国戦争当時、性的売買業に流れたという経験的な陳述による推定があるだけだ。 1996年から、束草(ソクチョ)でウォルナムミン(ベトナム?研究をしてから初めて韓国軍慰安婦問題について関心を持って関係者たちをインタビューしてきた金博士の推定によると、慰安婦の正体と類型はいくつかに分けられる。

金博士がまず注目したのは、小規模ではあるが日本軍国主義の'慰安婦'募集の形を抜き取って似た形の慰安婦が存在したという事実だ。 それはまさに北朝鮮派遣工作員と慰安婦の'不幸な出会い'だった。 匿名を要請した元工作員出身者とのインタビューを通じて、金博士が明らかにしたこの第一タイプは拉致と強姦によって'慰安婦'になったケースだ。

途中省略・・・この部分で金博士の「北朝鮮の女性兵士を拉致して慰安婦にした」という見解が示される。)

予備役将軍たちが覚えているもう一つの類型は、私娼から買い取ってきた貧しい女性たちに関するものだ。 これらの女性に対する「慰安」の対価は、師団の恤兵(じゅっぺい※)部や連隊の人事処が支払ったということだ。 しかし、これらの証言でも明らかになっている明らかな事実は、戦時下に特別慰安隊を利用すること以外にも前方の部隊は、必要に応じて、軍慰安婦を採用できるか分からないものとみられる。 それで金博士は、軍当局が明らかにした慰安隊の廃止時点についても次の問題を提起する。

※恤兵:物品または金銭を寄贈して戦地の兵士を慰めること(や、歌手や芸人が兵士を慰問したこと) =慰問 。恤兵部はそれを運用した部門。

「軍部隊が公式運営した公娼としての慰安隊は、1954年3月に消滅したかもしれないが、北派工作員の証言では事実上の慰安隊が存在している。 その慰安所は、私娼として存在するが、軍部隊が「厚生費」の名目で公式に支出し、北派工作員に対する褒賞の形で存在してきたようだ。」

それなら朝鮮戦争当時、韓国軍慰安婦の規模はどの程度だっただろうか。 金博士は「現在としては韓国戦争当時、公式・非公式的な慰安婦の規模を知る由もない」と前提しながらも「ただ、戦争直前私娼の規模を上回ると推定されるだけだ」と話す。

ところが、関連記録によると、1947年11月、米軍政庁が公娼廃止令を発表する直前の1947年10月20日時点で公娼の規模は2124人だった。 しかし、翌年2月に公娼廃止令が発効した後の1948年10月末になると、私娼は5万人余りに急増する。 また、朝鮮戦争が終わった後、売春をする女性は約30万人に増える。 公娼が廃止され、私娼は急増したのだ

一部の女性学者たちは、このように、性売買女性が増えたのは、生活苦だけでなく、「日帝末期、数千人の慰安婦たちが解放後、故郷へ帰ってきて生計を立てず、娼妓に転落」したのにも原因があったものと推定される。 しかし、他方では、これで例に挙げた場合のように、民間女性たちが拉致と強制の形で慰安婦になった事例)もあったのだ。 以下は金博士の指摘だ。

※途中省略した部分に北朝鮮人民軍の女性兵士を拉致したケースと、人民軍に協力した韓国人女性を拉致したケースが語られている。

「もし一歩譲歩して、従軍慰安婦が過去、公・私娼出身だったとしても、戰前の5万人余りの公・私娼が戦後30万人に増えた問題と関連づけてみると、説明できない。 軍慰安婦がどのように動員されており、その規模はどのくらいだったかについて確実に究明することはできなくても、まだ韓国戦争当時、軍部の責任を受け持った者たちが生存しているので、政府当局はこの問題について真相を究明する責任がある」

 

◇ ◇ ◇ ◇

 

①の記事では、朝鮮戦争当時の特殊慰安隊は年間少なくとも20万人はいたと書いていましたが、前回のエントリーで李栄薫博士が仰っていたように、人民軍の女性兵士(それに協力した「アカ」の韓国人女性を含めても)では、とても賄えないでしょうし、元日本軍慰安婦もせいぜい数千人です。では、どこから慰安隊が来たのかと言えば、記者自身が冒頭で書いているではありませんか。「毛布部隊」と呼ばれる、1980年頃にいた自発的売春婦と同じでしょう。現に、貧しくもない現代の韓国女性も世界中で売春しているではありませんか。ましてや、50年代の貧しい韓国で、戦争中で職もなく、職があったとしても学歴も技術も無い女性にできることの筆頭は売春です。

 

韓国政府が朝鮮戦争時に慰安所を作ったことを現在の倫理観で批判するつもりはありません。

確かに、韓国では1947年11月に公娼を廃止する指示が米国によって出され、朝鮮戦争当時は禁止されていました。しかし、日本も占領軍から女性を守るために「性の防波堤」として元公娼などをかき集めたのです。そして、1946年にGHQに公娼廃止の指令を受けて、米軍用慰安施設は閉鎖されたのですが、部隊によっては公然と慰安婦を求めて来たのです。

崔吉城教授の『朝鮮戦争で生まれた米軍慰安婦の真実』にも記述がありますが、Wikipedia『慰安婦』#韓国軍・在韓米軍国連軍 慰安婦にも書かれている通り、米兵による強姦が多発したのです。

 

朝鮮戦争時には敵国ではない韓国において国連軍がソウル市北部の村で日中、シェパードを連れて女性を捜索し、発見後に強姦に及んだり、またジープにのって民家を訪れ女性を強制連行して性暴力をはたらいたり、韓国人兵士が韓国人女性に性暴力や性拷問をはたらいたといわれ[232]、また性暴力をうけたのは女性だけでなく、10歳位の男子がフェラチオを強要され喉が破裂したこともあった[232]。

 

このソウル市北部の村とは、崔教授が住んでいた村のことで、ご自身が直接見聞きされたことです。その後この村がどうなったかというと、売春婦が続々と集まって来て、村人は家を提供し、その村は「売春村」になったのだそうです。韓国人の倫理観からは売春婦は蔑まれる対象でしたが、その時は村の女性を救ってくれたことと、村人も収入を得たので、不思議な連帯感があったようです。

なお、この本で、村に住んでいた共産主義者の大学生に協力していた女性の事が語られます。その女性は韓国軍に連行されて10日間以上も拘留され、散々暴行をされて子供が産めない身体になってしまったそうです。この女生は崔教授の又従兄弟なので事実でしょう。

このエピソードから想像するに、捕虜となった女性の人民軍兵士も、その時の慰みものにしたとしても、特殊慰安隊に組み込むことはなかったと思います。逃げないように常時見張っている必要がある慰安隊など、非効率極まります。

 

また、「1948年10月末になると、私娼は5万人余りに急増する。 また、朝鮮戦争が終わった後、売春をする女性は約30万人に増える」とありますが、前回のエントリーで触れたように、1955年には売春を専業とする女性だけで61,833人になっています。

 

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【河野談話】「河野談話を取り消せ!」という人達は正しく『河野談話』を理解しているのだろうか?

先日、馬場伸幸衆院議員の、「『(いわゆる)従軍慰安婦』という表現」と、「朝鮮半島出身労働者に関する『強制連行』・『強制労働』に関する」質問主意書に対する閣議決定された答弁書が公表されました。

これに対して中韓、特に韓国が強い反発を示しており、また、国内でも、「『河野談話』を継承したことについて失望した」と言う声も多く聞かれます。

ブログ主は心情的にはこの国内の声に同調しますが、一方で、「河野談話を取り消せ」と言う人は、どれほど『河野談話』を理解しているのだろう?と疑問に思います。

 

◆「広義の河野談話」と「狭義の河野談話」

まず、河野談話とは官房長官記者会見の中で①談話文が朗読され、その後の記者との質疑応答で②強制連行を認める発言をした事の2つに分けることができます。〔以降、「談話文」と「発言」と呼ぶことにします。〕

韓国などは、一連の記者会見での官房長官の発言なので、①と②を併せて「河野談話」と理解しています。一方、日本政府はあくまでも「談話文」(←①、正式には『慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話』)を「河野談話」と言っています。つまり、「広義の河野談話(①+②)」と「狭義の河野談話(①)」があるとも言えます。

 

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韓国メディアが河野談話を報じるニュースを編集した動画(ニコ動)のキャプチャ

 

河野洋平氏の記者会見自体は閣議決定されたものではありませんが、その後、例えば安倍総理が2015年の日米首脳会談後の記者会見で「(河野談話を)継承し、見直す考えがない」と発言したのも、今回の答弁書で「政府の基本的立場は、平成五年八月四日の内閣官房長官談話(以下「談話」という。)を継承しているというものである。」と書かれたのも「狭義の河野談話」のことです。河野洋平氏と記者との質疑応答はあくまでも河野洋平官房長官個人の発言だからです。

 

◆「談話文」そのものは朝鮮人女性の強制連行は認めていない

官房長官記者会見の全文テキストがないので産経の記事を以下に引用しますが、記者が念を押すように質問したのは、「談話文」だけでは、日本軍や日本政府による「強制性」や「強制連行」が認められないから言質を取りたかったのです。

 

 --河野談話発表後の記者会見で、記者から強制連行はあったという認識でいいか、と質問された。それに対し河野氏は「そういう事実があったということで結構です」と答えた。公文書の記述など客観的な文書は見つかったのかという質問には「強制ということの中には、物理的な強制もあるし、精神的な強制もある。精神的な強制は官憲側の記録に残るというものではない」と答えた。いわゆる慰安婦の議論をするときに、強制性というのは集めるときに日本の軍、業者の誰かによって、強制的に集められたかどうかが問題だ

河野洋平が出演した8月13日放送のBSフジ『プライムニュース』を記事にしたもの

 

「談話文」はその後も政府が何度も継承すると公式に認めているので、政府の統一見解です。一方、河野氏個人の「発言」は河野洋平自身で取り消すしかないのです。

今回の答弁書に関して韓国がギャーギャー言っているのは、日本政府が「発言」部分、即ち、「強制連行」を、事実ではないと否定したからです。〔質問主意書と政府答弁全文は以前のエントリー参照

 

ここで改めて「談話文」をブログ主の注釈付きで読んでみて下さい。「官警の直接の関与(③)とは何なのか」、「当時の朝鮮半島に於いて、特に『募集』の主語が誰なのか(⑤)」が曖昧な悪文であることはブログ主も十分理解していますが、強制連行は認めていません。(わざと誤読できるように書かれている、とも言える。)

 

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今では、この河野談話が韓国政府との密約の上で作られた文だと言うことは分かっていますが、密約と言えども、国家間ですりあわせた文章を一方的に破棄をするのは、韓国政府と同じようなレベル()に堕ちます。談話文に不備があるとは言え、ここでの謝罪は、その後の慰安婦合意にも引き継がれているので、簡単に談話文は取り消せるものではないのです。

※今では、「強制性を認めれば二度と慰安婦問題は取りあげない」という約束を韓国政府が破ったことは周知の事実。

 

もう一度書きますが、「広義の河野談話」の“キモ”は、韓国にとって「強制連行」なのですから、現政権が談話文だけ取り消しても意味はないし、一度発言したものを無かったことにもできません。今回、「強制連行」をピンポイントで否定したことに意義があるのです。

韓国メディアが騒いでいるのですから、“効いてる”証拠です。

それに、吉田清治の発言や朝日新聞の報道が虚偽だということも、今回の答弁書には盛り込まれました。だから、ブログ主はこの答弁書は現在できうるベストな閣議決定だと評価します。

 

◇ ◇ ◇ ◇

 

なお、今回、河野官房長官記者会見のフル動画がないかと探した所、慰安婦研究の権威の一人、秦郁彦教授がプライムニュースに出演した時のの発言を元にしたニュース動画が見つかったので、ご紹介します。

 

アナ:「いわゆる従軍慰安婦」に関する河野談話の作成過程を検証したチームのメンバーで現代史家の秦郁彦氏が昨夜、BSフジのプライムニュースに出演し、「河野談話は義援金を出すことを日本国民に納得させるため、悲惨さを誇張して出されたものだ」との認識を示しました。

(以下、プライムニュースの映像を交えながらニュースが続くので、発言を部分的に紹介)

秦:(強制連行の)文書上の証拠が出てこない。何かの、義援金みたいなものをとにかく出そうと。そうすると国民に対して説明しなきゃいかんわけです。要するに、慰安所の生活が非常に悲惨であったと。そこへですね、(焦点を)絞らなきゃあかん。私は対日本国民向けの説明の必要性から(河野談話が)出てきたものではないかと考えている。

(中略)

アナ:そして、(秦氏は)河野談話が発表された当日の事務方が作成した元々の文書には「官憲等~」の文言と「総じて~」の文言は入っていなかったと指摘し、これらの文言が河野官房長官以上のレベルで入った証拠になると述べ、政治的な判断があったとの認識を示しました。

 

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その上で秦氏は、河野談話が明示した慰安婦募集への「官憲等の加担」については、「実際にはほとんどないと考えていい」と指摘しました。

今回の検証結果について河野官房長官が、「新たに付け加えることも差し引くこともない」とコメントをしたことに対し、秦氏は、「河野さんに責任があるのに他人事みたいだ。日本人の通常の感覚では『お騒がせして申し訳ない』とか、『不徳の至りだ』とかの言い方をするものだ。」と批判しました。

アナ:今回の検証作業のきっかけとなる国会質疑を行った日本維新の会の山田宏衆議院議員は同じ番組で、「談話は元慰安婦16人の証言を元に作ったわけではないことが明らかになった。河野氏は外で談話を出すのではなく、国会できちんと説明するべきだ。議長まで務めた人のやることではない。」と批判し、河野氏の参考人招致の必要性を強調しました。

 

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【おまけ】

◆山田宏ch:慰安婦問題 朝日新聞の嘘を暴いた!山田宏の歴史的質疑(2014年2月20日 衆議院予算委員会)

◆Wikipedia『慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話』#河野談話の検証

◆日本政府の河野談話検証報告書:外務省 トップページ > 外交政策 > その他の分野 > 歴史関連 > 日本政府による調査と内閣官房長官談話

慰安婦問題を巡る日韓間のやりとりの経緯~河野談話作成からアジア女性基金まで~(平成26年6月)
 日本語:https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000042166.pdf
 英語:https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000042167.pdf

 河野談話作成過程等に関する検討チーム
 弁護士(元検事総長) 但木 敬一(座長)
 亜細亜大学国際関係学部教授 秋月 弘子
 元アジア女性基金理事,ジャーナリスト 有馬 真喜子
 早稲田大学法学学術院教授 河野 真理子
 現代史家 秦 郁彦
 事務局(内閣官房、外務省)

 

  


 

 

 

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