【ラムザイヤー論文】「酌婦」は「娼妓」と同義語/酌婦の契約書【金柄憲所長のコラムより】
公開:2021-04-09 14:25:49 最終更新:2021/04/10 12:03
ラムザイヤー論文に多くの異論・反論が出ていることはご存知だと思いますが、保坂祐二・前延世大学教授(←定年退職したそうです)がつけた言いがかりに、「朝鮮人慰安婦の契約書がない」、「8割が文盲だった朝鮮人には契約はできない」、「酌婦と騙して慰安婦にした」というものがあります。
最後の「酌婦と騙して慰安婦にした」に関しては、仮にそうだとしても、「騙した主体」が誰なのかが問題になると思いますが、彼はそもそも「酌婦」がほぼ「娼妓(売春婦)」と同義語だったと言うことを知りません。
今回ご紹介する金柄憲(キム・ビョンホン)所長の『メディアウォッチ』のコラムで取りあげた記事(1925.8.17付『朝鮮日報』)は、まだ娼妓と酌婦が区別されていた時に酌婦として契約した女性に売春を強いた向井一之進という日本人が報じられており、更に、娼妓と酌婦が曖昧になる過程を説明しています。その他、慰安婦の契約書ではありませんが、記事にある酌婦の契約書の内容も掲載しています。
◇ ◇ ◇ ◇
取り敢えず、機械翻訳のママ掲載し、後ほど修正します。(2021/04/10修正済み)
[キム·ビョンホンのタイムトラベル(3)] 沙里院駅7人拉致未遂事件-3-3
他の新聞にない契約書が紹介された1925年8月17日付の朝鮮日報の記事
メディアウォッチ編集部 mediasilkhj@gmail.com
登録 2021.04.09 09:31:38
【キム·ビョンホン·韓国史教科書研究所所長】
沙里院(サリウォン)駅の7人の拉致未遂事件は当時、朝鮮(チョソン)日報、東亜(トンア)日報、毎日(メイル)新報、時代(シデ)日報の4紙に報道された。 沙里院が地域的に偏っている上、取材源の接触や警察からの情報取得が容易でないためか、新聞ごとに事実関係において多少の違いがある。 関連人物の数と場所が異なり、時間ごとの出来事の展開が異なる。 したがって、事件を再構成することは容易ではない。
そのうち「日本人に売られた酌婦、法律上契約解釈が問題」という題下の朝鮮日報の記事も同じだ。 200字原稿紙2.4枚の記事が一つの文章になっている上、その他の新聞と事実関係においても差異が見られる。 それでも筆者が注目する理由は、この記事には他新聞にはない契約書を載せて当時の礼昌記と爵父の雇用契約を理解する上で大きく役立つからだ。
沙里院警察署に日本人2人と朝鮮人女性6人が一緒だった。 すでに報道したところ、仕事は法律上問題に至り、相当な裁判をせざるを得ない事態に及んだので、その女たちの親たちの中、もしくは書信で新聞支局にその契約された事情を述べ、あるいはその契約書を持ってきて、到底その責任者である向井一之進の罪悪を受け入れることができないと言い、自分の娘が警察署から出ると言うまでもなく、自宅に連れて行くと言うので、その契約書を本警察署でも、あくまでも仕事を根本的にうまく処理せざるを得ないとして、日本大坂部のである。契約は以下のようにしているが、奸悪な香亭は未成年者の宝玉を19歳だと年をだまして売春まで強制的にさせ、金儲けで無実の罪に問われていた女性たちは反抗することにしたという。
(朝鮮日報、1925.8.17)
「法律上の問題に至り、裁判をせざるを得ない」とした言及から、結局、訴訟提起は既定事実と受け止めたようだ。 被害女性の両親には書信により契約書を新聞販売所に送ったり、警察署に関連書類を提出したりもした。 契約書を見た警察はまた、警察通り、事件を原則通りに処理するため、大阪金宮警察署に照会し、向井を呼び出したという。 その際、警察署に提出した契約書は、キム·ボオクの酌婦業契約書だ。
▲1925年8月17日付の朝鮮日報に報道された契約書。 以下の「酌婦業契約書」はこれを現代語に置き換えて再編集したものである。
提出された契約書の主な内容はキム·ボオクが契約金300ウォン(円)を受け取り、1年6カ月にわたり大阪の朝日程(朝日亭?)で酌婦稼業に従事するという内容だ。 残りはこの3つの要素による付随的な内容で、契約違反時の履行事項、付帯費用の負担、その他の証拠書類の提出などだ。 重要な点は最後に連帯保証人の署名捺印が必ず含まれるという点だ。 ここでは乙の実母、つまりキム·ボオクの親母キム·ヨンハンが捺印した。
まず、キム·ボオクが受け取った300ウォンというお金は、契約金かつ前借金となる。 前借り金は文字通り「あらかじめ借りた金」という意味で、ここでは1年6カ月間酌婦稼業に従事することを約束してもらった金だ。 当然、契約期間中に返済しなければならない一種の借金であるわけだ。 当時、抱え主と礼記(?)·娼婦の雇用契約は、ほとんどがこのように前借金を媒介に締結された。
女性たちは契約期間内に顧客から受け取る花代を主人と6:4または5:5などの割合で配分し、そのうち自己に配分された分は前借金を返済した。 このように「年ごとに借金を返済する売春婦」を当時は「年妓生」と呼び、これらの年妓生契約はラムザイヤー教授が発表した「太平洋戦争当時の性契約」(Contracting for sex in the Pacific War)という論文の核心内容である「Indenturedprostitution」とも一致している。
一角において、年季奉公という言葉を用いることもあるが、奉公という単語が、献身奉公や滅私奉公のように、私利より公益を優先するという意味で、演技(娼妓?)の実情を正確に反映した用語とは言い難い。
問題はキム·ボオクが従事することにした酌婦だ。 酌婦は多くの男性を相手に笑いと情操を売る芸妓や娼妓のような女性職業をいう。 1924年、東亜日報の報道によると、酌婦·礼記·娼妓の根源を1894年の日清戦争時に日本軍に従って玄海灘を渡ってきた「日本娘」に置いている。 その後、朝鮮ではこのような女性職業が増えると同時に性病が蔓延すると、これを効果的に管理·監督するための公娼制を運営した。
公娼とは、公式的に売春行為を行うことができる娼妓をいう。 これとは違って歌舞や技芸を披露する芸妓や客のそばで酒を飲む作夫は少なくとも1930年代半ばまでは売春が許されない私娼だった。 もちろん、どの業種も官の許可を得て営業しなければならないという点は同じだった。
1920年代に入り、国際的に公娼廃止運動が野火のように広がり、1927年、日本内地で創期(娼妓?)を廃止し始め、1935年度には日本全土の公娼廃止を宣言したが、 だからといって公娼廃止がすなわち官許売春の廃止を意味するものではなかった。 売春空間である遊郭をカフェや料理店に改造し、チャンギ(娼妓)を酌婦に名前を変えて営業を続けるようにした、まさにごまかしにすぎなかった。 その後、礼記·娼婦の境界線が曖昧になり、礼記·酌婦の売春もだんだん黙認される傾向になった。
再び本論に戻り1924年末に作成したキム·ボオクの契約書には明らかに「酌婦に従事することにする」と明示した。 したがって、売春は不法であり、明白な契約違反だった。 しかし、チョ·イルジョン主人はキム·ボオクだけでなく、すべての女性に売春を強要し、これに応じない場合、服を与えないなどの方法で虐待を行い、売春を余儀なくされたという。
しかも、金宝玉は明治44年(1911)5月3日生まれで、1925年には14歳に過ぎない未成年者であるにもかかわらず、主人は年齢まで19歳と偽り、売春を強要した。 そのため、金宝玉の兄はそれを憤慨し、上記のような酌婦業契約書を提示し、訴訟を起こしたのである。
しかし、その後8月21日付の毎日新報に「沙里院料理屋組合」から7人の身代金の残り2千1百ウォンを一人に支払い、7人の女性を全員買う契約を結んだという記事以外に関連記事は見当たらない。 これに先立ち、全治10週間の傷害で告訴した少し先、10日拘留に直面した日本人の正式裁判の要請、キム·ボオク側の訴訟提起などで事態がますます険悪になり、料理屋組合側が身代金の支払いを条件に仲裁に乗り出したのではないかと推測するだけだ。
結局、沙里院駅の7人の拉致未遂事件は、一人のあらゆる悪巧みと女の反発、そして告訴告発にもかかわらず2,100ウォンという転借金が解決され、劇的に終わった事件と考えられる。 今や7人の女性たちは、料理屋組合とそれぞれ300ウォンという前借金を条件に再契約を結ぶことで、1年6ヵ月間の酌婦生活を続けることになったのだ。
◇ ◇ ◇ ◇
この記事とは離れますが、よく、「韓国政府はゴールポストを動かす」としばしば日本政府などが言いますが、慰安婦問題に関しては、韓国人に限らず「慰安婦=性奴隷」などと言う人達は「ルールを勝手に変える」という表現がピッタリだと思います。論点を変える、と言うことです。
最初は「20万人の女性を性奴隷にするために強制連行し(、殺し)た」というような主張をしており、「吉田清治が済州島で慰安婦狩りをした」等と言っていたので、今でも多くの韓国人は、「3~4人の日本軍兵士が少女の腕を掴んで連行していく姿」をイメージしていると思います。
しかし、吉田証言が嘘だと分かると、強制連行説は下火になり、慰安婦を政治問題にした中心人物の一人、吉見義明教授も、「広義の強制」などと言い出しました。
そして、以前からもそういう声はありましたが、『反日種族主義』の出版や、良心的韓国人(←韓国人の言う「良心的日本人」と異なり、正しい意味での「良心的」な学者の先生方等)の努力で、特に当時の朝鮮半島では悪徳業者が跋扈していたことも知られるようになると、「慰安所を設置したことが悪い」という論調に変わってきています。
これに対して、韓国軍や国連軍も慰安所があっただろと反論しても無駄なように、「“植民地にした”こと(不当な占拠)が悪い」というようになりました。所謂「徴用工裁判」の大法院判決がまさしくこれです。
慰安婦の場合も「無理矢理日本人にされ、日本の戦争に巻き込まれたのだから、賠償しろ」という風になっていると感じます。
「日韓基本条約」の交渉の過程で韓国側が「併合条約等は無効」と主張して譲らなかったので、第2条で、「1910年8月22日以前に大日本帝国と大韓民国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される。」という玉虫色の表現になりました。
大法院判決が日韓基本条約の“卓袱台返し”と言われる所以です。
おそらく、慰安婦や“徴用工”という各論を使って、日韓基本条約を事実上書き換えることを狙っているのだと思います。
もちろん、日本側からすると話にならないことですが、「慰安所の設置」と「不当な占拠」はセットになっていると考えるべきです。
ラムザイヤー論文を否定するような人々は、ラムザイヤー教授を含めた日本側がクリアしなくてはならない条件を変えてくるようなものです。同時に、“少女の腕を掴んで拉致した”と思い込んでいるような人達(例えば、慰安婦像に騙されるベルリンの人達)を新たに増やそうとしている訳です。
一刻も早く、海外の慰安婦像は撤去させなくてはなりません。
国際世論に関してはもう少し考察すると、20万人という数字はさておき、既に、強制連行は、少なくとも韓国政府レベルでは主張していないと思います。(個々の韓国人はまだ映画などのイメージを持っているかもしれませんが。)
しかし、国際世論に関しては、ラムザイヤー教授が論文で扱った「年季奉公契約」が『鍵』だと思っています。仕組みそのものは、慰安婦や一般的な娼妓だけでなく、商店や職人の見習い(丁稚奉公)などでもあった契約制度ですが、慰安婦の場合、実態は「人身売買」と紙一重のものがあります。特に欧米人の目からはそう見えるかもしれません。もちろん、日本軍は女性が慰安婦になった経緯には関与していないのですが、女性が所謂「苦界に実を落とす」経緯に、特に朝鮮半島では戦前から人身売買ネットワーク(人肉市場)があり、全体的に見ると、日本軍の慰安所はその一端に組み込まれてしまいます。年季奉公契約を知らない欧米人から見ると、「人身売買された女性が慰安所で日本軍兵士の相手をさせられた」という短絡的な見方になるのも、ある意味理解できます。
現在、李承晩TVや金柄憲所長は、当時の人身売買ネットワークについて解説をしており、また、韓国人も80年代くらいまでそうした事件があったことを覚えている(動画のコメント欄にちょくちょくそういう書き込みがあります)ので、むしろ、当時の日本や朝鮮半島の状況に関する相互理解は欧米人よりは容易かも知れません。
強制連行されたと信じている外国人に対しては、その誤解を払拭するのはもちろんのこと、今後はラムザイヤー論文を拡張させるような議論で、「慰安婦」というものを日韓の公娼・私娼の歴史や社会背景や慣習と共に捉え、アピールしていくことが重要ではないかと思います。
« 【慰安婦問題】吉元玉氏をヨーロッパまで連れて行き、肋骨が折れているのに歌まで唄わせていた尹美香(ユン・ミヒャン)【挺対協】 | トップページ | 【慰安婦問題】収養父・収養母/朝鮮半島における「身売り」【金柄憲所長の解説動画】 »
« 【慰安婦問題】吉元玉氏をヨーロッパまで連れて行き、肋骨が折れているのに歌まで唄わせていた尹美香(ユン・ミヒャン)【挺対協】 | トップページ | 【慰安婦問題】収養父・収養母/朝鮮半島における「身売り」【金柄憲所長の解説動画】 »
コメント