【慰安婦問題】1950~60年代の韓国の売春婦(1)韓国軍慰安婦「特殊慰安隊」
『李承晩TV』の慰安婦に関する動画を初期の頃から観直しています。
- [日本軍慰安婦問題の真実] 1. 朝鮮戦争と韓国軍慰安婦(2019/05/17)
- [日本軍慰安婦問題の真実] 2. 1950-60年代の民間慰安婦(2019/05/24)
- [日本軍慰安婦問題の真実] 3. 1950-60年代の米軍慰安婦(2019/05/31)
朝鮮戦争の時に「韓国軍慰安婦」がいたことは衆知の事実ですが、韓国では「特殊慰安隊」と呼ばれ、国連軍(主に米兵)も彼女達を利用していました。
これを明らかにしたのは韓国の金貴玉(キム・キオック/キム・ギオク)慶南大客員教授で、2002年のことでした。韓国陸軍本部が1956年に編纂した『後方戦史(人事篇)』を研究したものです。
1の動画はこの研究をベースにして李栄薫博士が解説しているので、今回はこの動画をご紹介します。
以下、動画の要約です。(前半約9分くらいは、過去、日本軍慰安婦に対しての自分の認識が誤っていたという訂正なので省略)
◇ ◇ ◇ ◇
[日本軍慰安婦問題の真実] 1. 朝鮮戦争と韓国軍慰安婦(2019/05/17)
1951年に、当時朝鮮戦争中の韓国軍は兵士達に性的慰安を提供する「特殊慰安隊」(※)を創設した。
※詳しくは「2」の動画で解説されるが、「慰安婦」という用語は売春婦という意味で韓国に定着し、1960年頃まで行政用語として用いられた。
1956年に陸軍本部が編纂した『6.25事変後方戦史(人事編)』によると、特殊慰安隊は「兵士の士気を高揚し、性的要求を長期間解消できない事による不作用を予防することを目的として設立された」とされている。
ソウルには3つの小隊があり、江陵、春川、原州、束草には1つずつ中隊があった。
特殊慰安隊は1つの地域に留まることもあったが、部隊の要請により、各部隊に出動して慰安を提供することもあった。陸軍戦史によると、江陵の場合、中隊は8つの小隊で構成されており、各小隊に配属された慰安婦は平均20人だった。特殊慰安隊に所属した慰安婦の人数は常時およそ700人程度だと推定することができるが、人の入れ替えがあるので、総数はその何倍、あるいは何十倍にもなると思われる。
慰安婦達は性病予防のために週2回、検診を受けた。
画面の表(省略)は、『後方戦史』に出てくる1952年の1年間のソウルの第1~3隊と江陵の第1小隊のみ慰安の実績を表しているが、4つの小隊で常時89人の慰安婦がおり、彼女達が1952年の1年間に20万4,560人の兵士が慰安された。
これから計算すると、慰安婦が相手にする兵士は、月平均1万7,047人、日平均560人、慰安婦一人当たりの被慰安兵士は6.3人になる。つまり、慰安婦一人が一日に性交する人数は平均6人。この数字はこれから慰安婦を論じる際に他のケースでも一貫しているものがある。
車圭憲(チャ・ギョヒョン)という退役軍人の回顧録によると、24人用の野戦天幕に収容し、簡易天幕を張ってから兵士達を受け入れた。兵士達は天幕の前に列を作って順番を待ち、軍が配球したチケットを渡して慰安を受けた。
キム・ヒホという将校は「連隊から隷下(=その指揮下の)中隊に、昼間の8時間ずつ6人の慰安婦を『第5種補給品』として、士気高揚のために多額を払ってソウルから連れてきた」と回顧している。
このことから、慰安婦を補給品として認識して扱ったことが分かる。日本軍が慰安婦を軍需補給品(※)として管理したことから影響を受けたと言うことができる。
※『武漢兵站』(山田清吉著/1978年)でも分かるが、慰安婦は兵站係が管理した。
キム・ヒホの回顧録から、陸軍本部が編纂した『後方戦史』で紹介された特殊慰安隊以外にも部隊長の裁量によって、ソウルなどの売春街から慰安婦を募集して臨時的に運営した場合もあると推察できる。
私は慰安婦をトラックで運んだ経験のある元曹長にインタビューしたことがあるが、憲兵達から見つからないようにドラム缶に彼女達を入れて運んだということなので、合法的なことではなかったのだろう。
天幕を張ると韓国兵だけでなく、米兵も来たと言っていた。
韓国軍慰安婦に関して最も詳しい回想を残しているのは蔡命新(チェ・ミョンシン)将軍だ。(※)
※省略。19歳の童貞の軍曹にチケットをやり、恥ずかしがる軍曹を無理矢理慰安婦によって「男」にさせたという話が紹介される。
この話を非難することはできないし、慰安婦制度を肯定するつもりもない。
歴史は決して道徳的な批判や断罪をするものではない。歴史家はあったことをできるだけ公正且つ客観的に叙述して伝えるだけだ。
特殊慰安隊は売春を禁止した国家施策に逆行する矛盾した活動(※)ではあるが、戦争遂行のために不可避な事だったと弁明し、休戦の8ヵ月後、特殊慰安隊の設置目的が解消され、1954年3月に特殊慰安隊は閉鎖された。
※1947年11月14日 公娼制度廃止
だからといって、以降、軍隊の周辺で性売買が消滅したわけではない。
1955年、政府は保険社会統計を作成するに当たり、民間の売春婦を慰安婦と称した。なので、朝鮮戦争当時の特殊慰安隊は、民間の慰安婦が部隊にしばらくの間営業の場所を移したものに過ぎない。
金貴玉教授は、特殊慰安隊の供給源として、捕虜として捕らえた北朝鮮人民軍の女性兵士か共産主義者とされた不純勢力の残余だと主張しているが、それには同調できない。捕虜の女性兵士に性的暴行が加えられたと言う主張に対しては同調できるが、彼女達を特殊慰安隊のような部隊として編成し充当したと見る証拠はない。
1952年3月頃は戦線は現在の休戦ライン付近に固着され、以降、捕虜が大量に発生する余地は殆ど無かった。
朝鮮戦争当時、軍慰安婦と同じ6万人の民間慰安婦が存在していたので特殊慰安隊を組織することは難しくなかった。キム・ヒホの回顧録の通り、韓国軍の慰安婦は軍が多額のお金を使って民間から募集した女性達だった。
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基本的には、日本軍の慰安婦を導入したもので、2002年2月22日付『オーマイニュース』の『【創刊2周年発掘スクープ①】 日本軍従軍経験の遺産』〔韓国語〕という記事では、キム·ヒオ将軍は、初めて慰安隊を目撃した瞬間、直感的に「これは、かつて日本軍内の従軍経験がある一部の幹部が、部下の士気高揚の発想から始まったものだ」と思ったと書かれています。
大きな違いは、日本軍が、慰安所の運営を民間業者にやらせた〔但し、慰安婦の検診などで直接的に軍も関与した〕のに比べ、韓国軍では、軍が直接慰安所を運営していたことです。
動画の解説での注目すべき点として、「朝鮮戦争当時、6万人の民間慰安婦がいた」ことが挙げられます。
李栄薫博士がそうだと言っている訳ではありませんが、韓国では、韓国軍慰安婦は既に売春婦となっている女性に働く場を与えたのだという主張もあります。
では、その売春婦はどこから湧いてきたのでしょうか?
日本軍慰安婦だった女性でしょうか?
詳しくは「2」の動画で扱いますが、性病検診の対象者(つまり、売春婦またはそれに準じる職業)の統計では、例えば1955年の初診者は22,659人となっています。1958年では23,769人です。新しく性風俗の世界に入る女性がそれだけいるという意味です。廃業する売春婦もいるので、増減どちらもあるはずですが、総数も61,833人(55年)から65,692人(58年)と、4千人弱増えています。
下は、1930年末の朝鮮在住の日本人と朝鮮人娼妓の前職の比較です。
ここでは、日本人女性の娼妓の約6割が芸妓・酌婦・娼妓と売春婦またはそれに準じる職業が前職で、一方、朝鮮人女性は家事手伝い・女中・人妻・農業が前職であることが多いのが分かります。しかし、著者の秦郁彦教授が「既経験者も元を正せばやはり農業などから身売りされたはずで、十年前後のサイクルの違いに過ぎないとも言えよう」と書いているとおりだと思います。
元日本軍慰安婦と称する女性達の証言も、慰安婦の年齢制限(朝鮮では17歳以上)もあり、初めての性風俗業が日本軍慰安婦とはとても思えない話が多いのも事実です。
なお、1955年~1958年の頃の接待婦の学歴は、57%が無学で、その内23%は文盲でハングルも読めず、34%はハングルは理解できたそうです。(動画「2」より)
多くの韓国人にとって、何故か、日本統治時代“だけ”は朝鮮人女性の貞操観念が強いらしいのですが、結局、貧しくて学の無い女性が手っ取り早く稼げる職業と言えば、水商売とか売春婦だと言うことだと思います。
上述のオーマイニュースの記事はほぼ動画と同じことが書かれているので省略しますが、次回は同じオーマイニュースの次号の記事をご紹介します。
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