【韓国】韓国最大級の「前方後円墳」、調査したら日本の前方後円墳にそっくりなので再び塞いでしまう
嘗て伽耶(任那)があった韓国南部や百済があった西側には日本式の古墳が存在することで知られています。
日本では古いもので3世紀から見られる前方後円墳ですが、韓国で発見されるものは5~6世紀のもので、数は日本に比べると少なく、明らかに日本から伝わったものと考えられます。
今回発掘調査が行われたのは「長鼓峰古墳」(下図No.13)ですが、存在を確認した約40年後に内部を調査した所、日本の前方後円墳と造りがそっくりということが分かり、任那日本府の根拠となることを懸念して(?)、再び閉じてしまいました。
これ自体はいかにも韓国らしい出来事ですが、ブログ主は記事の論調に注目しました。(記事原文:한반도서 가장 큰 고대 무덤, 열자마자 덮은 까닭은…)
ハンギョレ新聞の記事を素直に読むと、この措置にやや批判的なニュアンスが感じられるのと、研究者に対する同情のようなものも感じられ、最後に紹介されるソウル大学国史学科のクォン・オヨン(権 伍熒)教授の言葉がそれを物語っています。
歴史学会に関しては日本もイデオロギー的に問題はありますが、この古墳が確認されたのが80年代初めで、その当時の任那日本府の存在を巡る日韓の論争の煽りを受けてか、内部調査の許可が下りず、その後、保全されていなかったので盗掘に遭ってしまい、昨年秋にようやく発掘調査が行われたのですから、いかに政治的な理由で“外野”(歴史学会?)から研究が阻害されたのかが読み取れます。
◇ ◇ ◇ ◇
https://news.yahoo.co.jp/articles/931f0cc72421cffb8101ea75be09622a6c9bf2fd
http://japan.hani.co.kr/arti/culture/39476.html
朝鮮半島最大の古代の墓、開けた直後に閉じた理由は
3/22(月) 9:09配信
[ノ・ヒョンソクの時事文化財] 長鼓峰古墳をめぐり考古学界で騒ぎに 日本の古墳に似た構造や祭祀の跡をめぐり議論 「追加発掘後に一般公開」とし、再び埋める 墓の被葬者は百済の統制を受けた倭人? 日本の右翼が任那日本府説の根拠にすることを懸念
最近発掘調査された全羅南道海南郡北日面方山里の長鼓峰古墳内部の石室。遺体を置く部屋への入口の玄門が正面にみえ、平らな板石をいくつか置いた床と砕いた石を整然と積んだ石室の壁面が見える。1990年代までに2回盗掘され、内部の遺物は大部分が失われた
朝鮮半島で最大の古代の単一の墓が、新年の始めについに開かれた。考古学者らは5~6世紀の日本の古墳とそっくりな墓の構造に驚き、すぐに土で覆われ再び埋められてしまったことにがっかりした。今年1月、国土最南端の海南(ヘナム)から聞こえた墓の発掘に続く覆土のニュースは、メディアには公開されなかったが、韓国国内の考古学界を騒がせた。
この遺跡は、全羅南道海南(ヘナム)の北日面方山里(プギルミョン・パンサンリ)の長鼓峰古墳だ。6世紀前半のものと推定されるこの墓の外側の墳墓と石室内部が、去年10月から今年2月まで、馬韓文化研究院の発掘調査により約1500年ぶりに明らかにされた。驚くべきことに、石室は日本の九州の外海岸と有明海一帯で5~6世紀に造成された倭人貴族の石室墓と、構造はもちろん墓の内部への入口をふさぐ前に行われた祭祀の跡までほとんど同じだった。
調査団は、後面の封土を掘り、墓の内部に通じる細い通路(羨道)に入り、内側を観察した。調査の結果、床に細長い板石を置き、上側に砕いた石(割石)を整然と積み壁面を作る、古代九州の石室墓特有の構造であることが明確だった。天井と壁面にも、日本の弥生時代以来の古墳の典型的な特徴である赤い朱漆が塗られた跡が残っていた。
出土品はほとんどが盗掘されていたが、墓の被葬者を明らかにする手がかりとなる遺物が相当数収集された。墓の内部への入口で発見されたふた付きの皿(蓋杯)10点が代表的だ。一部の蓋杯の中にはイシモチなどの魚の骨や肉類など祭礼での食事と推定される有機物の塊も検出された。「日本の古墳で確認された祭礼の遺物と類似の内容物と配置が注目される」と、チョ・グヌ研究院長は説明した。墓の内部を直接調べた慶北大学考古人類学科のパク・チョンス教授は「九州の倭人の墓に入った時と印象がまったく同じだった」と述べた。
長鼓峰古墳は墳墓の長さが82メートル(溝を含む)、高さは9メートルに達する。皇南大塚などの新羅の慶州の大型古墳より大きい韓国国内最大級の墓だ。外見は日本で古代国家が成立する当時の墓の様式である前方後円墳(長鼓形墳墓)の形だ。前方後円墳は、墳墓の前方は四角い形で後方は丸みのある円形の特徴をとり、日本の学者が名付けた名称だ。日本の墳墓の形式である前方後円墳が古代の海上路の要所である全羅南道の海岸一帯に10基存在するという事実は、1980~1990年代に相次いで確認された。日本の右派勢力は、4~6世紀に日本が朝鮮半島南部を支配したという「任那日本府説」を裏付ける物証だと主張した。韓国と日本の学界で、埋葬された人物の出身地が朝鮮半島か倭国かをめぐり大きな議論となった。
長鼓峰古墳も議論の中で困難を経験した。80年代初め、学界に初めて報告された当時は、自然の地形である丘とみなされた。80年代半ばごろに嶺南大学のカン・イング元教授が発掘許可を申請したが、文化財委員会の許可が下りず、外側の実測しかできなかった。1986年に全羅南道記念物に指定されたが、保存措置がまともにとられず、90年代に2回盗掘された。国立光州博物館が2000年に盗掘の穴を確認し、緊急試掘調査により内部を一部確認したが、公式の発掘は20年後の昨年秋に始まった。
しかし、墓の石室は2月末に再び埋められた。研究院側は「新型コロナウイルスの防疫のための措置で、5~9月に墓の周溝の追加発掘の後に一般公開を推進する」と明らかにした。しかし、一部では発掘による波紋も考慮したものだという見方が出ている。調査内容は、朝鮮半島の前方後円墳の墓の被葬者の議論を再び引き起こす公算が高い。過去20年ほどの間、百済政府の統制を受けた倭人官僚や傭兵という説と、日本に移住し現地の墓の文化の影響を受け帰国した馬韓人または百済人という説など、多くの推測が出された。長鼓峰古墳から九州の古墳と瓜二つの構造と鉄鎧の破片や鉄の矢じりなどの武器類が埋められた事実が確認されたのは、韓国国内の学界に負担になり得る。日本の右派学者が再び任那日本府説の根拠にすることがあり得るという懸念まで出ている。
ソウル大学国史学科のクォン・オヨン教授の助言を思い出したい。「長鼓峰古墳は倭系統の墳墓の構造を有しているが、埋葬された人物を軽々しく断定してはいけません。外形、構造、遺物などを当時の情勢とともによく調べなければなりません。民族主義を越え古代人の観点まで考え、開かれたものの見方でアプローチしなければなりません」
◇ ◇ ◇ ◇
この記事のコメントも読んでみました。
韓国では、百済が文化程度の低い日本に文化を“伝えてやった”とか、百済が日本人の祖先だ等と教えられているようです。
そこで、この記事のコメントも、基本的には「倭(日本)が朝鮮半島南部を支配していた」ことを認めない内容のものが「共感/非共感」の数を加味すると圧倒的に多いのですが、中には百済が日本の属国だったことを知っている人もいるようです。(尤も、そういうコメントは「非共感」の数が多くなるのですが。)
それ以外には、この記事のニュアンスを汲み取ってか、「隠蔽」を批判するコメントも少なくありませんでした。また、これの延長かも知れませんが、やや分が悪いと思ったのか、「日本と百済は“交流”をしていたのだろう」とか、「日本に渡った百済人が、再び戻って古墳を築いたのだろう」というコメントも見受けられました。
« 【韓国】韓国人教授「ラムザイヤー論文は誤りだ!/ラムザイヤー論文によって植民地近代化論の虚構が現れた!」←どっちだよ | トップページ | 【悪意の教科書】山川出版の中学歴史教科書の『従軍慰安婦』復活【何が問題か】 »
« 【韓国】韓国人教授「ラムザイヤー論文は誤りだ!/ラムザイヤー論文によって植民地近代化論の虚構が現れた!」←どっちだよ | トップページ | 【悪意の教科書】山川出版の中学歴史教科書の『従軍慰安婦』復活【何が問題か】 »
コメント