【創氏改名】朝鮮人の名前と戸籍制度/朝鮮人に人間らしい名前を付けるように指導したのは朝鮮総督府
このエントリーは、前回のエントリー(『【湿TV動画】創氏改名の真実/창씨개명의 진실』)でご紹介した京都大学の『朝鮮人の名前とその歴史』という講義資料を読んで理解したことを纏めることが目的です。
最初に結論から書くと、以下のようになります。
朝鮮総督府は統治時代に日本の「イエ」の概念を朝鮮に導入し、それまであった戸籍を日本式に改めました。改名は規則の範囲内で自由(許可制)でしたが、日本風の名前は禁止しました。(1911年10月26日付け朝鮮総督府令 第124号『朝鮮人ノ性名改称ニ関スル件』/前回エントリー参照)
しかし、朝鮮人(当時は朝鮮系日本人)が日本風の名前を欲し、これを許可したのが1939年に官報で公示された創氏改名の「改名」です。同時に「創氏」(家族姓)をつけることを義務化しました。この2つの届出が1940年2月11日~8月10日の6ヵ月間と、同時に行われたので誤解されているわけです。(過去のエントリー『「創氏改名」について多くの日本人も勘違いしていること』参照)
この間、朝鮮人の名前については、様々な改革が行われました。併合以前との最も大きな違いは、奴婢も姓名を持てるようにし、戸籍から「身分」の記載を削除し、人間らしい名前をつけるように指導したことです。
以下、時系列に見ていきます。
1897年 光武改革による戸籍の作成(光武戸籍・新式戸籍)
光武(광무/1897年 - 1907年)というのは朝鮮の元号で、光武元年10月に国号を大韓帝国に改称します。(cf. 1895年(明治28)4月、下関条約→清に朝鮮の独立を認めさせ大韓帝国が成立。)
これによって行われたのが「光武改革」で、戸籍の改革も行われました。(この改革を持ってして「朝鮮は自力で近代化できた」という主張もあるが、実態はどうだったのかはリンク先のイザベラ・バードの批評を参照)
光武戸籍は図-3のようなもので、男系の先祖が記載されており、女性(妻)の名前はありません。
『朝鮮戦争で生まれた米軍慰安婦の真実』(崔吉城著/ハート出版)によると、崔教授の母上は1898年(明治31年)生まれで、亡くなった時に戸籍を取り寄せたら、名前が無かったそうです。生前は「宅号」(出身地名+宅)で呼ばれていたと書かれており、上記を裏付けます。
「幼名」とは:(Wikipedia『朝鮮人の人名/伝統的愛称』より引用
子どもの死亡率が高かった庶民の間では、死の使いに気付かれることなく長生きすることを願って、子供にはしばしば幼名(ko:아명、兒名 )が与えられた[20]。これらの愛称はしばしば侮蔑的であり、今日では子供にはあまり使われない[21]。
結婚すると、女性は大抵は幼名を失い、出身の町を示す「テッコ」(택호、宅号)によって呼ばれた[20]。
図-3の解説引用:1897年(光武1年)11月に作成した江原道旌善郡臨渓面三里下臨渓洞第3戸、李元在の戸籍表である。旌善郡印が押されている。
朝鮮時代に作成された、家族事項を記して申告する書類である戸口単子と事なり、甲午改革以後新たに作成された戸籍表であることが特徴である。
戸主李元在は55歳、本貫は全州、職銜は幼学、生業は農業で、正月20日卯の時に出生したと記している。
四祖(父・祖父・曾祖父・外祖父)をみてみると、父は容聖、祖父は柳、曾祖父は洙天、外祖父は全鎬で、本貫は旌善である。妻沈氏は45歳で、2月19日生まれである。子供はなく、この戸は夫婦2人だけで構成されていた。あわせて、二間の藁屋を持っていると記されている。
1909年、民籍法制定。日本の戸籍制度導入。
これにより、女性にも名前がつけられ、奴婢も本貫(男系血族の祖先発祥の地名)と姓を持つことになります。戸籍に身分を記載することも廃止しました。図-4で「民籍編製への抵抗」とありますが、これはおそらく両班が抵抗したのでしょう。以下は、Wikipedia『韓国併合/身分解放』より引用)
統監府は1909年、新たに戸籍制度を朝鮮に導入し、李氏朝鮮時代を通じて人間とは見なされず、姓を持つことを許されていなかった奴婢、白丁などの賤民にも姓を名乗らせて戸籍には身分を記載することなく登録させた[38]。李氏朝鮮時代は戸籍に身分を記載していたが、統監府はこれを削除したのである。これにより、身分開放された賤民の子弟も学校に通えるようになった[38]。身分解放に反発する両班は激しい抗議デモを繰り広げたが、身分にかかわらず教育機会を与えるべきと考える日本政府によって即座に鎮圧された[39]。
また、1915年(大正4年)の官通牒240号では女性の名前のガイドラインが公布されます。
1911年(明治44年)日本風の名前の禁止(前回のエントリーより)
併合するやいなや日本風の名前を付ける者が現れたため、改名を許可制とし、日本風の名前を禁止します。
1925年(大正14年)朝鮮語固有語彙による命名の制限
「創氏改名」を話題にしたあるYouTubeのコメント欄で以下のようなコメントを見つけました。(機械翻訳ママ)身分の低い者の名前がどうだったのか想像できます。日本で在日朝鮮人の家族の元に生まれた李明博元大統領の父親の名前「ドクスェ」(덕쇠)がどんな語感なのか、ブログ主は韓国語が分からないのですが、惨めな名前だったのでしょう。韓国語のWikipediaによると1939年に「忠雨」と改名しています。
立場を変えてみよう。私が日帝だったら、あの未開の朝鮮人が私たちの偉大な日本人の名前を書くことを許さなかっただろう。したがって、創氏改名を非人道主義的とはいえない…。ところで日本が来る前は名前は両班(ヤンバン)だけ独占し、ほとんどの人は名前がなかった…ケトンイ、牛のフンイと呼ばれた…李明博(イ・ミョンバク)父の名がドクスェだったので、胸の痛い話だね。。。後で名前を変えたんだけどこれを戸籍洗濯したんだ…
1939年(昭和14年) 創氏改名
「イエ」の家族姓を義務化し、同時に、日本風の名前も許可しました。届出の実施は1940年2月11日~8月10日。(下記画像はWikimediaより直接表示)
図-12
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