今回ご紹介するのは中央日報に掲載された記事ですが、『広開土大王碑文、日帝が変造したに違いない』(機械翻訳、原題は“광개토대왕 비문, 일제가 변조한 게 맞다”)というタイトルで、『消えた碑文を探して』〔増補版/キム·ビョンギ著/原題:『사라진 비문을 찾아서』김병기著〕という本の書評です。
「好太王碑」というのは高句麗の好太王(広開土王)の偉業を称えて没後の西暦414年10月28日(碑文より)に建てられた顕彰碑であり、そこには、日本(倭)に関する記述があるので、歴史資料としても一級のものです。
詳細は後述しますが、高句麗の好太王の碑文から1883年(明治16年)に日本人が取った拓本は改竄されたものという説を1972年に在日朝鮮人の学者、李進熙教授が唱え、それは2006年に中国の学者が更に古い拓本を発見したことで改竄はないと分かり、一件落着しました。
この本の著者は、調べたら2005年5月30日に同じタイトルで本を出しているので、その翌年に中国の学者によって改竄説が否定されたことになります。
今回の本は「増補版」として出していますが、以下にご紹介する中央日報の記事から読み取れるのは、どうやら確たる証拠もなしに、「書道学者としての感覚(=一部の文字が字体が違う)→書き直したに違いない」と「否定された在日朝鮮人学者の説」を持ち出して、再度改竄だと反論しているようなのです。
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https://news.joins.com/article/23908232
広開土大王碑文、日帝が変造したに違いない
2020.10.31
414年に建てられた広開土大王碑の一部分に対する日本の解釈はこうだ。「百済と新羅は古くから高句麗の属民だった。そのためずっと朝貢してきた。しかし、日本が辛卯年に海を渡ってきて百済と○○(不明)と新羅を破って日本の臣民とした。」
日帝は広開土大王碑を利用して任那日本府の証拠に使った。
中国の詩学、書道の学者である著者キム・ビョンギ全北(チョンブク)大学中語中文学科教授はこの部分の最後を次のように解釈する。「しかし、倭(日本)が辛卯年以来、百済と○○と新羅に対して朝貢を入れ始めたので、高句麗は倭も臣民とした。」
著者は「属民」と「臣民」の差が分かるとこのように解釈できると見る。
まず属民は血縁関係にある時、臣民は一方的服従関係に使う言葉であることを資料で明らかにした。したがって日本が高句麗に朝貢を捧げる関係だったと見るのが妥当ということだ。
これが2005年の本の要点だったが、15年ぶりに増補版が出た。既存の主張を強化し、初版に対する反論に再反論をする内容だ。その間、著者は2018年JTBC「違いができるクラス」に出演して「漢字が分かってこそ広開土大王碑を正しく解釈し、歴史を取り戻すことができる」と主張し、オンラインでリアルタイム検索語に上がった。
増補版で著者は日帝が碑文を変えたともう一度主張する。碑文内容のうち「海を渡ってきて破った」という部分に該当する三文字「渡海破」が糸口だ。著者はこの字が合計1775字の中で他の字と形が全く違う点で改ざんと見る。操作前は「入貢于」すなわち、倭が朝貢を捧げたという内容だったと推論する。こうすれば「属民」と「臣民」を区分して使った理由も説明できるという。
1972年、在日史学者イ・ジニが提唱した日帝碑文改ざん疑惑も根拠に上げている。増補版で著者は「渡」の前に「来」が使われたことを見て日帝が文法に合わないほど改ざんしたという論拠を追加した。「来て」「渡った」という順序がおかしいからだ。
また、初版本に対して出た「碑文の解釈は歴史的状況に基づかなければならない」という反論に対して「碑文自体を徹底的に研究することがより重要だ」と再反論を行った。
著者が広開土大王碑を一文字ずつ見ることができたのは彼が書道家だからだ。儒学者である亡父キム・ヒョンウン先生と幼いころから漢文を学んだ彼は小学校の時『四字小学』を覚え『明心宝鑑』を読んだ。1982年、台湾で詩と書道を勉強している時、書店で広開土大王碑の拓本集に会った。美しい字体に魅了されて一文字ずつ全部まねて書くことを二回繰り返した。彼は「そのたびに詰まる文字があった」と言い、それがまさに改ざんしたと見る「来渡海破」部分だった。
このように彼は他の史学者が関心を持たなかった方向から広開土大王碑を調べることに20年を使った。書道学者が広開土大王碑の改ざんを主張することになった背景だ。
著者は既存の歴史書物から出発して広開土大王碑を解釈することは順序が間違った組み合わせ式研究と見る。代わりに広開土大王碑自体を徹底的に研究し、それに基づいて後代の記録が誤っているならば校正しなければならない、という主張だ。字を知り、字を通じて文章を眺めてきた研究は「我々自らの歴史観から私たちの歴史を眺めなければならない」という主張に向かっている。
訳はこちらのまとめサイト『KNC』さんからお借りしましたが、元は5chのスレッドです。
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問題となる部分は「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘□□新羅以為臣民」で、この部分は「百済・新羅は舊(=旧/もと)これ(高句麗の)属民なり、由来朝貢す。而るに倭、辛卯の年(391年)よりこのかた、海を渡りて百済・□□・新羅を破り、以って臣民となす」と解釈します。
上記はWikipediaの「好太王碑」と解釈部分はブログ主が学生の時に使った参考書を参照しました。しかし、左記Wikipediaによると、韓国での定説は「倭が辛卯年(391年)に来たので(高句麗は)海を渡って百残を破り、新羅を救って臣民とした」となっているようです。
本では「『渡』の前に『来』が来るのはおかしい」という主張のようですが、日本の解釈では「来」を「(辛卯年)以来」の意味で「よりこのかた」と訳し、韓国ではそのまま「来た」と述語と見なしているようです。(読者は漢字が読めないので、「~来」を日本のように解釈できることが分からないのでしょう。)
ここで、後述する「百済が日本を造った」に繋がるので、ちょっと記憶しておいて戴きたいのは、「高句麗が海を渡って百済を破り」、つまり、韓国人の歴史観は、現在の日本に百済があったことになっているようです。
この前後の出来事は朝鮮で12世紀に編纂された『三国史記』(百済本紀/新羅本紀)などで補うことができますが、そこには、倭が度々攻めて来ることや、王子を倭に人質として送ったこと、貢ぎ物を贈ったことなどが書かれており、好太王の碑文の、新羅や百済を倭が属国としたという日本の解釈とも辻褄が合います。(少なくとも和睦した後は同盟関係にあったと考えていいと思います。)
しかし、著者は「碑文の解釈は歴史的状況に基づかなければならない」(=他の歴史書と突き合わせて多角的に検証すべき)という反論に対して「碑文自体を徹底的に研究することがより重要だ」と、否定する姿勢です。
何より、キム·ビョンギ氏の解釈は日本人が碑文を改竄したしたことが前提なので、その科学的・物理的証拠もないのであれば成立しません。
記事中に“美しい字体に魅了されて一文字ずつ全部まねて書くことを二回繰り返した。彼は「そのたびに詰まる文字があった」”とありますが、「たった2回かよ!」という突っ込みはさておき、「字体が異なる(感じがした)」ことが根拠とは、呆れてしまいます。ネット書店の本の紹介欄によると、書いていて、この3文字だけリズムが違ったのだそうです。
しかし、そこから、いきなり「この3文字は実は『入貢于』だった」と言い切れるのがすごいですね。いつものことですが、「こうあるべきだ」が史実になっちゃうんですから。
以下は、2006年に碑文改竄が否定された時の記事(読売)です。(画像は5chで拾ったので、どこかのブログなどからの転載かと思いますが、お借りします。)
本の著者が指摘する「渡海破」の文字が見えますが、他の文字とは字体が違うように見えますか?
幸いなことに、好太王碑は現在の中国にあるので、韓国人には手を出せません。
【追記】ネット書店「yes24」の本の紹介を読むと、韓国人学者でも一応4割は2006年の調査結果を支持しているようです。(以下は機械翻訳)
この本一冊で私たちの歴史を立て直す!
今回の増補版では金石学的に文字一つ一つを細かくチェックし、文法的に碑文の文脈の前後連結関係を計算して日帝の変造証拠をさらに補強した。 また、初版出版後に提起された一部の中国学者と韓国学者の誤った主張に対する反論も準備した。 初版から15年が過ぎたが、依然として「日本と中国の学者の90%が文字の変造がないと信じており、国内学者の中でも40%程度はこの見解に同意」(韓国日報)のが現実である。 歴史は過去の記録であると同時に、現在を映す鏡として現在も生き生きと生きている。 どのような社会的雰囲気で歴史を見るかによって、歴史的事実は異なる。 そのような意味で、すべての歴史は現在の歴史である。 歴史歪曲を止めることにこの本が大きく貢献することを望む。
しかし、なぜ、韓国がこのような解釈に拘るのか不思議に思われるでしょう。
それは、韓国では「任那日本府」の存在など、4~6世紀に日本(倭)が朝鮮半島南部を支配していたことを認めたくないからです。それどころか、韓国人の歴史観は「日本は百済(や高句麗)が造った」というものなのです。
これは、ブログ主もネットの記事やYouTubeのコメント欄でしばしば目にします。反日ではない韓国人も「日本は百済が造った同じ民族なのだから仲良くすべきだ」みたいなことを書くので、ブログ主はその都度反論していますが、あまりに「日本は百済が~」と書く人が多いので、韓国では定説なのでしょう。
しかし、朝鮮半島には所謂「和式古墳」と呼ばれる、日本の古墳の後期の形のものが現存したり、日本人の痕跡は様々(※1)あり、また、中国の文献、例えば『魏志倭人伝』で知られる『魏志』の「韓伝」にも、以下のような記述があり、朝鮮半島南部は日本であった(日本が支配していていた)証拠はいくつもあります。また、白村江の戦い(※2)で敗れた百済人を受け入れた事が分かる史跡も日本国内にはあります。
韓在帶方之南、東西以海為限、南與倭接。方可四千里。有三種、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓。
【解釈】韓は帯方郡の南に在り、東西は海で尽き、南は倭と接する。地積は四千里ほど。韓は三つに区分される。一つ目は馬韓、二つ目は辰韓、三つ目は弁韓という。
つまり、南は海には接していないことになります。
※1 当ブログエントリー参照
※2 はくそんこう‐の‐たたかい【白村江の戦】 ‥カウ‥タタカヒ
663年、白村江で、日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍との間に行われた海戦。日本は、660年に滅亡した百済の王子豊璋を救援するため軍を進めたが、唐の水軍に敗れ、百済は完全に滅んだ。(広辞苑より)
豊璋の弟・勇は生き残り、日本に逃れています。
以下はブログ主の『要点整理 日本史』より。
ここでも朝鮮半島に古くから倭人が住みついていたと書かれています。
但し、この頃(この本を使っていた高校生時代)は気付かなかったのですが、やはり戦後の左翼学者による自虐史観によって、朝鮮半島の一部を支配していたとは書けず、住みついていたという表現になっているのだと思います。
「記紀」(古事記と日本書紀)を「神話」に追いやり、「歴史書」と扱うことがタブーとなってしまったのも一因です。
この辺りのことは、『知っていますか、任那日本府』(大平裕著)に書いてありますが、この時代の歴史に関して韓国人が好き勝手に言うのは、(慰安婦だの徴用工だのと同様)日本人学者のせいでもあるのです。
好太王碑の碑文や他の歴史資料を読むと、日本人(倭)は、朝鮮半島に領土を持ち、戦国時代さながらに暴れていたことが分かるのですが、その部分をぼかすから、何故、白村江の戦いにわざわざ日本が百済の加勢をしたのかも良く理解できないのだと思います。
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実際にこのような古代史観かどうかは分かりませんが、参考として2つの記事を引用します。
https://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20160208/frn1602081540007-n1.htm
日本列島も朝鮮の領土 史上最凶ウリジナルの理屈 (1/2ページ)
2016.02.08
他国の文化を何でも「わが国発祥」にしてしまう韓国の“ウリジナル”(韓国語の「ウリ=我々」をもじった造語)。日本の歌舞伎や相撲、寿司、桜のソメイヨシノまで「韓国起源」と言って憚らない彼らが、ついに「日本列島は古代朝鮮の領土だった」と言い始めた。
今年1月7日、韓国ネットメディアの『共感ニュース』に「日本人は高句麗語で数を数える」という見出しの記事が掲載された。記事は、戦前の日本人学者による研究を引き合いに、日本の数詞「3(みっつ)、5(いつつ)、7(ななつ)、10(とお)」が、古代高句麗語の「3(ミル)、5(ウジャ)、7(ナヌン)、10(トォク)」と同語源だとした。
また、「5000を超える韓国語と日本語の語彙は語源が同じ」「平安時代の日本人1059姓のうち、324姓が韓半島からの渡来人のものだった」とする日韓の比較言語学者チームの研究を紹介し、「渡来人の言語が日本語の母体となり、日本の古代文化を作った」と結論付けた。
この学者チームは、韓国の大学で教鞭をとる日本人教授をリーダーとし、過去にも複数の媒体で同様の説を唱えてきた。たとえば、日本語の「車」は韓国語の「クルダ(転がる)」と「マル(馬)」の合成語、また「並ぶ」は「ナラニハダ(並ぶ)」から転じた言葉だという。
確かに、日本は言語的・文化的に朝鮮半島の影響を受けていることは間違いない。しかし、そこから突然論理が飛躍する。「言語が同じだから、もともと日本は朝鮮の領土だった」というのだ。
2007年、この日本人教授が韓国誌『週刊京郷』に寄稿。「日本列島は古代高句麗領土」という見出しで教授の説が掲載され、韓国人ネチズン(ネットユーザー)のナショナリズムに火をつけた。(以下略)
日本人教授とは誰なんでしょうか?
https://www.news-postseven.com/archives/20160208_382841.html?DETAIL
「百済、新羅が日本作った」が韓国の定説 東アジアにも領土
2016.02.08 07:00 SAPIO
キリスト、ソメイヨシノ、剣道……、様々な他国のものを何でも「自国発祥」にしてしまう韓国の“ウリジナル”(韓国語の「ウリ=我々」をもじった造語)だが、ついに「日本列島は古代朝鮮の領土だった」と言い始めた。
朝鮮半島に「高句麗」「百済」「新羅」が鼎立した“三国時代”(4~7世紀)に「百済が日本を植民地支配していた」と、古代史研究家で高麗大学名誉教授のチェ・ジェソク氏が主張するほか、韓国の大学で教鞭をとる日本人教授が「日本列島は古代高句麗領土」と仮説を述べているのだ。さらには、日本の地名や山、峠、島、寺院など27の名称に高句麗・百済・新羅・伽耶の地名が使われていることなどを根拠に「日本は古代朝鮮の直轄領土だった」というのだ。
これらの主張に疑問を呈するのが、『日朝古代史 嘘の起源』の著書もある評論家の室谷克実氏だ。
「『魏志』には倭人伝の前に韓伝があります。それによると、百済は朝鮮半島に50ほどある国のひとつだった。一方、当時の日本には卑弥呼が統一した国がありました。そのような状況でどうやって百済が日本を支配するのでしょうか。
また、韓伝には『(韓は)東西は海をもって限りとなし、南は倭と接する』との記述もある。つまり、朝鮮半島南部が倭人の地であったことを中国の史書が示しているのです」
ここで、掲載した図をご覧頂きたい。(図省略。元記事でご覧下さい。) これは、韓国の歴史研究家が自身のブログで公開した「朝鮮三国時代の勢力図」を元に本誌が再現したものだ。
注目すべきは、日本を含む東アジアの広域を「朝鮮領土」としている点だ。これは一般的な韓国人の古代史観を投影した図と言われている。前出・室谷氏が語る。
「韓国では『百済や新羅が日本を作った』というのが定説となっています。日本統治時代の朝鮮の歴史家、申采浩は『カタカナなどの日本文化はすべて百済人が作った』と主張した人物で、古代朝鮮による中国支配説も唱えました。
一方、同時期の歴史家、崔南善も日韓古代史に言及し、『百済も高句麗も新羅も日本に多くの植民地を持っていた』と書いています。韓国の学者が主張する古代史の主張のほとんどは、この二人の影響を受けたもので、古代史観の“源流”とも言える。実証的な研究をほとんどせず、先人が構築した仮説を鵜呑みにし誤った歴史認識を拡散させているのです」
昨年は、政治資金疑惑の渦中にいた韓国の李完九首相(当時)が、「百済が日本を作った」と発言。日本の歴史教科書を批判し話題となった。近年、再び日韓の古代史がクローズアップされるようになった背景には何があるのか。
「韓国では、古代史をナショナリズムの扇動や政治家の保身に利用してきた経緯があります。『東アジアを支配し、日本に文化を教えたのは我々だ』と煽ることで国民の溜飲を下げ、不都合なことから目を逸らせる。古代史と絡めた主張や発言は今後も次々と出て来るでしょう」(室谷氏)
日本を「古代朝鮮の領土」と信じ込む韓国人の主張は、史上“最凶”のウリジナルと言えそうだ。
※SAPIO2016年3月号
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