【アイヌ】利尻から見える北海道アイヌの歴史/アイヌは本当に先住民族なのか?【チャンネル北海道】
少し前の動画ですが、下記の動画の内容を覚え書きとしてブログに記録しておきます。
【ch桜北海道】[特別番組]利尻島から見える北海道アイヌの歴史[R1/7/15]
2019/07/15出演者(敬称略):小野寺まさる、西谷榮治(郷土歴史研究家)
「アイヌは本当に北海道の先住民族なのか?」、「明治より前は北海道はアイヌの土地だったのか?(占有、統治していたのか)」ということを考えるのに良い動画だからですが、それだけでなく、利尻島という島にこれほどの歴史があったのか、と驚いたからです。
番組は島の西側にある亦稚(またわっか)という場所から始まります。
亦稚には海辺からバスターミナルがある高台一帯に縄文~続縄文~擦文文化の遺跡が出土している。利尻の最も古い遺跡があるのは鴛泊(おしどまり)で、ここに住んだ人々は新潟辺りまで南下している。川筋に住み、鮭や鱒を採っていたと考えられる。縄文~続縄文~擦文遺跡は、ここ(西)だけでなく、南や北にもある。
アイヌ語の地名により、利尻島にアイヌが住んでいたことは間違いないが、遺跡等はない。実際にアイヌに関する記録は和人が来てから、文献でのみ分かる。(12:26~:縄文~擦文とアイヌが繋がるかどうかはまだ分かっていない。)
最も古いアイヌに関する記述は1600年代。また、1696年に朝鮮人が漂着してアイヌの人達に会った記録もある。
1807~1809年、ロシアが長崎で幕府に交易を求めるが応じなかったので、武力行使をして、択捉島(えとろふ)、利尻、樺太等を襲撃。それ以前から東北諸藩が警備をしていたが、ロシアに備え、会津藩士(252人)が樺太、利尻島の警備にあたった。そのため、会津藩士8名の墓が3箇所にある。(沓形字種富町、鴛泊字栄町、鴛泊字本泊の3カ所。4人は利尻島警備で、種富駐輪駐車公園敷地内の墓に眠る2人は、樺太警固を終えた帰りの船で亡くなった。)
当時、アイヌは60人台だったのではないかと言われている。
会津藩士が警護していた40年後(1848年/嘉永元年6月2日)、黒船が来る前にアメリカ人のラナルド・マクドナルドが利尻を訪れている。なぜ利尻だったのかは分かっていないが、ハワイの新聞で日本が紹介されており、それを読んでいたので開国前の日本を見てみようと考えたと思われる。当時のアメリカはハワイからサハリンの沖まで鯨漁をしていた。そこから南下して礼文島沖で下船して小舟で上陸したことが分かっている。
マクドナルドはここに1ヵ月ほどいた後、松前に行き、松前から長崎に送られる。そこで、森山栄之ら14名のオランダ通詞に英語を教え、彼等がペリーの通訳をしている。1849年春に長崎から軍艦に乗ってアメリカに戻る。
利尻島から世界史と日本史が見えてくる。
小野寺(スタジオ): 明治維新は1868年だが、それよりかなり早い段階、1807から1809年の間、江戸幕府はロシアの脅威を感じて利尻島に252人の会津藩士を送った。つまり、江戸幕府が統治していたと観ることができる。どう考えても明治時代まではアイヌが統治していたなどとは思えない。
19:28~(VTRの続き)利尻には1830年に建立された厳島神社(海の神様)があり、1838年に建立された元泊(もとどまり)神社は総本山となっているので、元泊地区が利尻の中心であった。
近くには運上屋(幕府が管理する場所請負人の交易場の経営拠点)もあり、ラナルド・マクドナルドはこの運上屋に約20日程幽閉された。
小野寺(スタジオ): 神社を見ても、ここがアイヌに統治されていたのかは疑問だ。実際に北海道には1100年代に建てられた神社もある。
運上屋は1870年に商い場として、和人とアイヌが取引をする場所として、幕府(松前藩)が管理をしていたことが分かっている。マクドナルドがここに20日間幽閉をされ、どのように処するべきか協議をしていたと言うことは、幕府としてしっかり管理していたことになり、北海道も統治されていたと考えられる。
25:19~(VTRの続き)
小野寺: 博物館には様々な発掘物が展示されているが、ここに掲示されている年表(出土品一覧)をみると、アイヌ文化だけ出土品がない。また、和人がずっと住んでいた中で、いつアイヌが来たのか分かっていない。
小野寺(スタジオ): 亦稚(またわっか)は縄文~擦文の遺跡もあり、アイヌが住んでいたことも分かっている。こういう場所は北海道にもそうそう無い。もし、アイヌが縄文~擦文の人々の末裔だとしたら、同じ場所に更に進化した土器などがあるはずだ。擦文には金属製の製品もあったのに、擦文以降はそういったものも出土していない。
となると、昔からの定説ではあるが、アイヌはある時に北海道に侵略してきた狩猟民族であり、先住していた農耕民族はやられてしまったのではないか? アイヌが縄文のDNAを持っているとしたら、擦文の人々、特に女性を生かしていた可能性もある。
◇ ◇ ◇
以下は参考のため、利尻富士町のサイトにある「利尻島(利尻富士町)の歩み」より一部転記
(古代は略)
【旧石器時代】
1万3000年前 鴛泊小5.6年生見学 (港町1遺跡)栄町キャンプ場遺跡で石器が発見される。利尻島最初のヒトの生活跡。
海水面が上がりサハリンと北海道が分離し、宗谷海峡ができる。
【縄文時代】(1万2000~2300年前)
4500年前~ 円筒土器(港町1遺跡)縄文時代中期。野塚や港町1遺跡で円筒形の土器が発見される。
3500年前~ 縄文時代後期。本泊遺跡など。礼文島船泊遺跡では、集落から本州産のヒスイやイモガイ・タカラガイなどのアクセサリーが発見されている。
【オホーツク文化期】(5~9世紀末)
島内にある多くの遺跡で、集落が発見されている。クジラやクマを信仰し、漁労と海獣猟、ブタの飼育などを営み、大陸や本州との交易品として毛皮などを生産した。
【擦文文化期】(7~13世紀)
本州の律令社会の影響を受け、土師器や鉄、雑穀栽培などが伝わる。住居内にはカマドが設けられた。9世紀ころオホーツク文化も吸収される。
【アイヌ文化期】(13世紀~)
1644【正保元】年 蝦夷地図に「リイシリ」と記載される。文献史料に初めて登場した。
1670【寛文10】年 『津軽一統志』に、和人と利尻に住むアイヌ(300人ほど)との間で海産物の交易をしていた様子が記載される。この記事から、すでに松前藩によるリイシリ場所が開かれていたと考えられる。
1696【元禄9】年 朝鮮人李志恒ら、利尻島に漂着し『漂舟録』に記録する。
1765【明和2】年 本泊に交易施設である運上屋が置かれ、交易品としてアワビやナマコ、タラ、ニシンなどが取引される。
近江商人の岡田弥三右衛門が、松前藩から場所を請負う。
1787【天明7】年 フランス探検家ラ・ペルーズ、宗谷海峡通過中に見た利尻島を「ラングル島」と命名する。
1806【文化3】年 近藤重蔵と田草川伝次郎、訪島し『西蝦夷地日記』に記録する。
1807【文化4】年 ロシア人による利尻島襲撃事件が起き、商船が焼き払われ島民が捕虜に捕られる。
1808【文化5】年 会津藩士の(本泊、慈教寺)幕府の命により、会津藩士ら252名が利尻に派遣され北方警備にあたる。島内には、警備に伴い命を落した藩士らの墓8基が、鴛泊ペシ岬と本泊、種富町に残されている。
1823【文政6】年 近江商人の藤野四郎兵衛が場所を請負う。
1834【天保5】年 松前藩の測量士今井八九郎が利尻島を測量し、精巧な地図を作成する。
1846【弘化3】年 松浦武四郎、島内を踏査し『再航蝦夷日誌』に記録する。
1848【嘉永元】年 ラナルド・マクドナルド野塚にアメリカ青年ラナルド・マクドナルドが上陸する。吉村昭著『海の祭礼』の題材にもなった。
【近現代】
(以下略)
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