【樋口隆一名誉教授が語る祖父樋口季一郎】「命のビザ」軍人の人道/占守島の戦い
ポツダム宣言受諾後も日本軍は、北海道を、日本を、死守するために戦っていたのをご存知ですか? ユダヤ人に「命のビザ」を発給したのは杉原千畝だけではないことをご存知ですか?
戦後ほとんど語られない樋口季一郎(ひぐちきいちろう)について、孫である樋口隆一明大名誉教授が語っておられるのを最近続けて目にしたので、ここに覚え書きとして記します。
動画
- 松田政策研究所チャンネル: 終戦記念日特番『ユダヤと北海道を救った将軍。陸軍中将 樋口季一郎』ゲスト:明治学院大学名誉教授 樋口隆一氏
読売新聞(2020/08/19)『戦後75年 終わらぬ夏(番外編)』より
西洋音楽史の研究者として著名な樋口隆一・明治学院大学名誉教授が、祖父で陸軍中将だった樋口季一郎氏の生涯を追っている。隆一氏はユダヤ人難民救済や占守島の防衛戦など、今の時代からだこそ振り返る意義があると語った。(編集委員 三好範英)
樋口季一郎:1888年(明治21年)、現在の兵庫県南あわじ市生まれ。陸軍幼年学校、士官学校、大学校を卒業。シベリア出兵でウラジオストクなどに赴任。在ポーランド日本公使館付武官などを経て1937年ハルビン特務機関長。42年北部軍司令官、44年第5方面軍司令官。70年死去。
◆満州経由
祖父は軍人時代は世界各地に赴き、戦後は一切公職に就かず1970年に死去しました。戦後の一般的な意識では軍人と人道主義は結びつきませんが、祖父が満州国のハルビン特務機関長時代、ユダヤ人難民を救出したことは少しずつ知られるようになりました。
<1938年(昭和13年)3月、満州(現中国東北部)北西部のソ連国境のオトポール駅に、ナチスドイツなど欧州での弾圧を逃れ、シベリア鉄道などでやってきたユダヤ人難民が満州入国を求め押し寄せた。酷寒の地に留め置かれたユダヤ人たちは、人道的に悲惨な状況に置かれた>
ハルビンのユダヤ人有力者から助けを請われた祖父はビザ発給を満州国外交部に対して求めました。
特務機関は諜報や謀略活動を担う陸軍の組織で、ハルビン特務機関は満州国で大きな権力を持っていました。祖父の働きかけの結果、一説には2万人ともいわれるユダヤ人が、主に満州国から大連や上海、そして米国などに逃れることができました。
祖父はシベリア出兵(1918~22年/大正7~11年)で、ウラジオストクやハバロフスクに特務機関員として派遣され、対ソ連の諜報活動に従事しました。その後、ポーランド駐在武官も務めました。当時、欧州でユダヤ人がどういう境遇にいるかよく分かっていました。
また、祖父は「戦前の欧州では差別意識もあり、アジア人に家を貸すのはユダヤ人だった。彼等が困っている時に助けるのは当然だ」とも話していました。
◆ナチスドイツ
オトポールの件に先立ち、祖父はハルビンで開かれた「第1回極東ユダヤ人大会」で、ユダヤ国家の建設に賛成するなどユダヤ人に理解を示すあいさつを行っています。すでに日独防共協定(36年)を結んでいたドイツは抗議してきました。しかし、当時の陸軍は祖父の行動を不問に付しました。
<陸軍の中にはユダヤ人の経済力を利用し、対米関係悪化を避けるためにも、ユダヤ人と友好的な関係を保つべきだとの考えが合った。国内には反ユダヤ主義を広める動きもあったが、終戦に至るまで日本政府はドイツのような差別政策をとらなかった。>
祖父の名はイスラエルの団体「ユダヤ民族基金」(Jewish National Fund)の「ゴールデンブック」に感謝の印として記されています。イスラエル建国70周年の一昨年、エルサレムに行き、祖父が支援したビザ発給で生き延びたユダヤ人の子孫から、「あなたのおじいさんがいなければ、私はここには存在しない」と感謝されました。
ユダヤ人難民救済では、外交官の杉原千畝(すぎはらちうね)氏(1900~86年)がリトアニアのカウナス領事代理時代、ユダヤ人難民に2000件以上の日本の通貨ビザを発給し命を救ったことが有名です。祖父が杉原氏に比べ知られていないのは、軍人を否定的に考える戦後の風潮もあったと思います。
現在、当時の日本とナチスドイツを同一視した主張をする国もあります。祖父のように人道主義に基づき行動する軍人がいたこと、日本政府はナチスの人種思想に同調しなかったことを伝えるのは意味があると思います。
◆ベルリンの壁
もう一つ祖父の軍人としての人生で欠かすことができないのが、千島列島東北端の占守島の戦い(※)指揮を執ったことです。
※ 「占守島」(しゅむしゅとう/しむしゅとう) 広辞苑では「しゅむしゅとう」が見出し語
<日本のポツダム宣言受諾(45年8月14日)後もソ連は、樺太や千島での侵攻を続けた。18日未明、ソ連軍は占守島(※しゅむしゅとう/しむしゅとう)への上陸を開始したため、第5方面軍司令官として札幌で指揮を執っていた樋口季一郎は「自衛戦争」として反撃を命令し、ソ連軍に自軍を上回る損害を与えた。>
祖父は長くソ連に関わってきましたから、「紳士ではない恐るべき横紙破り(※)」のソ連の性格をよく分かっていました。
※ よこがみやぶり[5] 【横紙破(り)】
〔上の立場にある人などが〕なんでもかんでも〔= 時には不合理な事や慣行に反する事まで〕自分の考え通りに しようとすること。また、そのような人。
〔日本紙の繊維が横には すっきり破れないことから言うとする説があるが、疑わしい〕
新明解国語辞典 第七版 (C) Sanseido Co.,Ltd. 2013
実際、ソ連の独裁者スターリンは、南樺太を拠点に北海道の半分を占領する意図を持っていました。トルーマン米大統領はスターリンに北海道占領を認めないと伝えましたが、日本軍の抵抗がなければ既成事実化を図ったことは十分に考えられます。
1961年に「ベルリンの壁」が築かれた時のことですが、当時神奈川県にあった祖父の家に遊びに行くと、中学3年生の私に、ベルリンはどこにあるか書いてみろ、と言いました。祖父はベルリンは東ドイツ領内の離れ小島のようで、そこが分団都市になったと説明してくれました。
もし、占守島で抗戦していなかったら、東京もベルリンと同じように半分ソ連に占領されていただろう、と孫に伝えたかったのだと思います。
私の母は終戦時19歳でしたが、祖父母と共に札幌に住んでいて、ソ連が進攻してきたときの自決用に青酸カリを渡されたと言います。北海道民の多くが終戦時、ソ連の北海道進攻の噂があったことを覚えていると思います。
当時、南樺太や千島列島には40万人、北海道には350万人の住民がいました。占守島や南樺太で戦死した将校や、犠牲になった民間人のことは決して忘れてはならないと思います。
◆玉砕に悔い
祖父は戦争についてはほとんど話しませんでした。家族に対しても秘密厳守というかつての情報将校の習い性もあっただろうし、人間は本当に悲惨な体験は話さないものです。
祖父にはやはり指揮を執ったアリューシャン列島のアッツ島の戦い(1943年/昭和18年)を玉砕に終わらせ、約2600人の将兵を死なせた悔いがいつまでもありました。
私が大学4年生の時、他界しますが、毎朝起きるとアッツ島を描いた絵の前で、戦死した部下の冥福を祈っていました。幼い時から遊びに行くたびにその姿を見て、子供心に痛々しく感じていました。
一昨年、祖父について札幌で講演する機会がありました。講演後、80歳を過ぎた男性が、「戦争が終わった後の戦闘で死んだ父親は無駄死にしたと言われてきた。そうではなかったのですね」と泣きながら話しかけてきました。その人の父親は樺太で戦死したということでした。
老人の涙を目の当たりにして、祖父のことを後世に伝えねばという強い思いにとらわれています。
(記事の文字部分を書き写し)
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