【李承晩】韓国自由民主主義陣営の敗北、民族主義の勝利
韓国の初代大統領・李承晩(イ・スンマン/りしょうばん)は日本人にとっては「李承晩ライン」で日本漁船を拿捕、竹島を盗んだことだけでも「反日の権化」のような人物ですが、韓国史では「国父」である人物。しかし、これほど韓国国内の左右で評価が分かれる大統領もありません。
最近、韓国の有力紙『朝鮮日報』(保守的で発行部数1位という、日本で言うと『読売新聞』のポジション)が、李承晩に関する「進歩派」(実態は「従北左派」)の要人の発言を問題視して取りあげています。
国家報勲処(愛国者と退役軍人に関する政策の立案と実施を行う機関)の朴三得(パク・サムドゥク)処長が、李承晩没後55周年の追悼式で「李承晩博士」と呼び、「臨時政府大統領」とは言っても「大統領」とは紹介しなかったこと(【※参考記事①】)、韓国統一部(省に相当)長官に指名された李仁栄(イ・インヨン)氏が「李承晩はわが国の国父ではない、金九がなるべきだった」と発言したこと等(【※参考記事②】)。
金九(キム・グ/きんきゅう)とは李承晩と共に臨時政府の指導者的立場でしたが、外交を持ってして独立しようとする李承晩を「敗北主義者」と呼んだ武闘派であり、李承晩が失脚してアメリカに行くと、暴力とテロを対抗手段とした人物で、最後は暗殺されます。(李承晩が暗殺したと誤解している日本人が時々いるが、間違い)
日本の敗戦後、米国の信託統治下で指導者の勢力争いが起こりますが、簡単に言えば、共産主義、民族主義(金九)、自由民主主義(李承晩)の争いで、自由民主主義且つ反共の李承晩が勝利します。米国の傀儡と揶揄されても、路線としてはベストな選択でした。
韓国はこれによって、戦後、「反共・自由民主主義」陣営の一員としてスタートしたのであり、李承晩はその象徴であったはずです。
ところで、日本人にとって不思議なのは、韓国人は歴史に対して何かにつけて「善/悪」の二項対立で評価を下します。尤も、韓国人から見ると日本人は歴史に対して淡泊すぎるように見えるかも知れませんが、「為政者がやったこと」を評価するのは日本人はせいぜい戦国大名くらいまでで(江戸期では犬公方と呼ばれた綱吉くらい)、歴代首相に関しても「○○首相の時代にxxが起こった」のように、あまり出来事を個人(時の為政者)に帰する評価はしないように思います。
恐らく、個人に強力な権限が与えられる大統領制と議院内閣制の違いだと思いますが。
強力なカリスマ性を求められる大統領制は、大衆が扇動に弱い韓国には土台不不向きだったのでしょう。フランスでさえ、嘗ては強烈なカリスマ性を持つ大統領はいましたが、最近は小粒な人物ばかりで、大統領制は似合わなくなっています。
そして、度重なる李承晩卑下に対する『朝鮮日報』の反撃はというと、「竹島」を持ち出して李承晩を擁護・称賛したのです。(【※参考記事③】)
実際に、李承晩は民間人の虐殺など、叩けば埃が出る人物ですが、従北左派の批判に対抗する対立軸は「共産主義 vs. 自由民主主義」であるべきです。
しかし、『朝鮮日報』は「民族主義」という、間違った土俵に乗ってしまいました。
4月の総選挙でも、左派(共に民主党)陣営から『日韓戦』などと煽られて、保守陣営、実際は「左派ではない」というレベルですが、それに対抗するために選挙運動で「独島は我が領土」などという歌を唄い出す始末。
つまり、韓国では「保守派」は「反共・自由民主主義」という旗印ではもはや戦えないのです。
これが、このエントリーのタイトルに「韓国自由民主主義陣営の敗北」と付けた所以です。
韓国では少しでも日本を擁護、あるいは正当に評価しようとすると「土着倭寇」と罵られて、罵られた方はシュンとしてしまいます。韓国人なら(日本人も)誰でも「民族主義」というのは多かれ少なかれ持っているとは思います。そしてこれが「反日」というレイシズムの元凶となり、「反日種族主義」を払拭できない原因となっています。
しかし、本来、「民族主義」は「共産主義 vs. 自由民主主義」の対立とは別の次元の問題です。「次元」は「レイヤー(層)」と言ってもいいかも知れません。「民族主義」と「共産主義」あるいは「自由民主主義」は本来同時に存在しうる概念(イデオロギー)です。しかし、物事を多層的・多重的に考えるのが苦手なのか、民族主義を持ち出されるとたちまち議論ができなくなるのです。
ついでに言えば、左派が持ち出す「軍事独裁」も、それが軍人による政権であっただけで、「文民政権」でも独裁的傾向は変わりません。外から見ると韓国は軍事政権の方が良く治まっているように見えるのは、共産主義に対して抑えが効いていたからで、所謂「民主化」された途端に、共産主義が自由に活動できるようになり、挺対協も生まれました。(参考:『【慰安婦問題】挺対協の正体』)
この「軍事政権 vs. 文民政権(なんちゃって民主主義)」も別の次元の問題。
従って、「親日」よりもずっと抵抗の少ないはずの「親米」でさえ、この「民族主義」を持ち出すと、南北統一を妨げる「敵」になり得ます。
個々の韓国人には様々な考えがあるでしょう。ブログ主は韓国人(個人)と大衆としての韓国人は区別します。しかし、全体としては「民族主義」と「全体主義」に飲み込まれてしまった韓国は、傍から見たら北朝鮮と同じようなものです。
* * * *
【※参考記事①】
https://news.yahoo.co.jp/articles/d7fc51921d372929d413810be22e138c29ae2387
朝鮮日報:李承晩「大統領」と呼ばずに「博士」と呼んだ国家報勲処長
7/20(月) 21:00配信朴三得(パク・サムドゥク)国家報勲処長が19日、李承晩(イ・スンマン)元大統領の逝去55周年の追悼式で、李元大統領を「大統領」ではなく「博士」と呼び、論議を呼んでいる。朴処長は李元大統領の略歴紹介の際に「臨時政府大統領」出身と述べただけで、追悼の辞の中では終始「博士」と呼んだ。これをめぐり、李元大統領を初代の建国大統領と認めることを渋る現政権のムードが投影されたものではないかとの見方が出ている。
朴処長はこの日の追悼式で「厳粛かつ敬虔(けいけん)な気持ちで李承晩博士の逝去55周年を迎えた」として「自由民主主義の大韓民国に献身した博士に深い敬意を表し、ご冥福を祈る」と述べた。朴処長の追悼の辞は全般的に李元大統領の業績を評価し、追悼する内容だった。しかし、朴処長は李元大統領の名前を呼ぶ際、主に「博士」という表現を用い、大統領と呼んだのは「臨時政府の初代大統領」と紹介したときだけだった。朴処長は李元大統領について「光復後の混乱の中でも大韓民国政府を樹立し、大統領中心制を確立した」と評価しながらも、初代大統領とは紹介しなかった。
政府の内外では、朴処長のこのような言及について、現政権の気流を反映したのではないかとの解釈が出ている。現政権は概して、李元大統領を初代大統領や建国大統領と呼ぶことに難色を示してきた。与党の一部では、李元大統領を「正統性が不足している」と批判してきた。このようなムードを反映するかのように、与党である「共に民主党」所属の国会議員はこの日の追悼式に1人も出席しなかった。文在寅(ムン・ジェイン)大統領は弔花を贈った。報勲処は公式のフェイスブックページでも「政府は1949年、李承晩博士に建国勲章大韓民国章を授与した」と紹介した。
李元大統領の呼称をめぐる論争に、報勲処は「博士と大統領は両方とも李元大統領を呼称する通常的な表現」だとしながらも「今後、呼称の使用には細心の注意を払い、誤解のないようにしたい」と説明した。朴処長は予備役中将(陸士36期)出身で、第5師団長、国防大学総長などを歴任。昨年8月に皮宇鎮(ピ・ウジン)前処長の後任として現政権で2人目の報勲処長に任命された。
【※参考記事②】
https://news.yahoo.co.jp/articles/2452b8589a3bdeef045c22485e3451dd51210ba4
朝鮮日報:韓国統一相候補「李承晩はわが国の国父ではない、金九がなるべきだった」
2020/07/23李仁栄(イ・インヨン)韓国統一部(省に相当)長官候補者は23日「李承晩(イ・スンマン)大統領が国父だという主張には率直に言って同意し難い」と述べた。
李仁栄氏は同日の国会人事聴聞会で「李承晩政権はかいらい政権か」というパク・チン議員(未来統合党)の質疑に対し「国民による選挙を通じて政府が設立されたため、その実体的な真実を見るとき、かいらい政権という主張には距離を置いている」と述べた。
その上で「われわれの国父は金九(キム・グ)であるべきだったという歴史認識を抱いている」と述べた。
李仁栄氏は李承晩政権について「独裁的性格を持っていることについて批判が多く、独立運動の過程で妥協した部分と妥協しなかった部分に対して評価が分かれている」として「かいらい政権だと断定することについてはさまざまな意見がある」と述べた。
パク・チン議員によると、李仁栄氏は1987年9月、全国大学生代表者協議会(全代協)の第1期議長を務めていた時期に書いた「同志よ、前進! 同志よ、闘争!」と題する文書で「(米国が)李承晩かいらい政権を支持して民族解放闘争の旗をずたずたに引き裂こうと画策し…」と書いた。また「世界の民衆の仇敵アメリカ侵略者のファシズム的統治は、韓国での全ての悪の根源になり…」とも主張した。
【※参考記事③】
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2020/07/24/2020072480011.html
【コラム】東京で出会った李承晩
2020/07/26逝去55周年を迎えた李承晩(イ・スンマン)元大統領に対する執権勢力の侮辱が相次いでいることから、ここをもう一度訪れようと考えた。「独島は日本の領土」と主張する日本政府の「領土・主権展示館」だ。日本側の意図とは裏腹に、李承晩が日本に対抗して独島を守るために努力した業績が見て取れる場所だ。安倍内閣は今年1月、独島と尖閣諸島(中国名:釣魚島)、クリル列島(北方領土)の領有権を主張する展示館を、東京のど真ん中に移転・拡張してリニューアルオープンした。
21日に再び訪れたこの展示館は、コロナ禍の中でも開館していた。「独島館」には依然として横10メートル、縦3メートルの大型パネルがあり「韓国の独島不法占拠」の過程が詳しく説明されている。1951年のサンフランシスコ平和条約前後の李承晩政権と国際社会の動きを日誌の形で展示している。
独島は1945年の日本の敗亡と共に自動的に韓国の領土と認められたわけではなかった。米国の立場が二転三転し、独島が竹島(独島の日本名)となりかねない危険千万な状況もあった。このとき李承晩の強い決断と国際感覚が光を放った。日本の領土・主権展示館は韓国の「不法行為」を強調し「1952年の李承晩ライン(平和線)」についてこのように記述している。
「李承晩韓国大統領は海洋主権宣言を発出し、いわゆる李承晩ラインを公海上の広範な海域に一方的に設置するとともに、このラインの中に竹島を取り込んだ」「その後、同ラインを侵犯した日本の漁船を拿捕(だほ)する事案が済州島南方の漁場を中心に多数発生するようになり、船員が抑留されるなど問題が深刻化した」
李承晩の平和線が宣布された1952年は、(朝鮮半島は)どのような状況だったのか。当時は金日成(キム・イルソン)の同族殺害、南侵による戦争中だった。開戦初期の絶体絶命の危機は免れ、休戦交渉が始まったが、あらゆることが不確実だった。皆が38度線の近くだけを見ていた。そんなときにも李承晩は海外の状況を詳しく読み解き、国際社会を驚かせる決定を下した。サンフランシスコ平和条約の発効の3か月前に平和線を宣布し、独島に対する実効的措置を取った。続いて1954年には独島に灯台を設置した。警察の警備隊も派遣した。日本がこれに抗議する口述書を送付してきたが、一蹴した。逆に独島の風景をデザインした記念切手3種を発行し「独島は韓国の領土」であることを明白にした。
このような歴史が記された独島館は、じっくり見ていると日本政府が李承晩をいかに恨んでいたかが感じられる。植民支配の清算のために1951年から始まった韓日交渉では、謝罪と賠償を強く要求し、日本は頭を悩ませた。在任時期が李承晩と重なっていた当時の吉田茂首相は、李承晩に恐れを抱いた。吉田元首相が最も嫌いな人物として政敵だった河野一郎農林相(河野太郎・現防衛相の祖父)と李承晩を挙げたことは、日本では有名な話だ。
李承晩は35年間、地図から消えていた国の再建のために執権初期に日帝時代の専門官僚らを起用した。このため「親日派」という汚名を着せられたが、実際には日本側にとって手ごわい人物だった。
そのような李承晩が、大韓民国の建国を否定的な目で見る文在寅(ムン・ジェイン)政権の法務長官から制憲節(憲法記念日、7月17日)にあざ笑われた。19日の追悼式では報勲処長から建国大統領とまともに呼んでもらえなかった。与党議員らは一人も追悼式に出席しなかった。今日の大韓民国が存在することとなった功労者につばを吐く行為に他ならない。最近、大韓民国の国民の民心が急激に現政権から離れているのは、単に「狂ったような住宅価格」や「性認知感受性(性差別社会の中で、声を上げにくい被害者の心理を考慮すること)不足」だけが原因ではないはずだ。
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