【慰安婦問題】「沈美子氏は日本も認めた慰安婦」という韓国メディアの嘘
沈美子(シム・ミジャ)氏とは、2008年に死去した元従軍慰安婦と称していた女性ですが、2004年に他の元慰安婦と共に挺対協に反旗を翻したことが今回の李容洙氏の反乱で再び取りあげられています。
この時、記事に対する韓国人のコメントで「沈美子氏は日本も認めた慰安婦」という書き込みをしばしば目にして、不思議に思っていたのですが、どうやら、韓国メディアがそのように報道しているのだと、韓国の独立系メディア『メディアウォッチ』の記事で分かりました。
結論から言うと、彼女が日本政府に対して起こした裁判では、彼女が本当に元慰安婦かどうかは争点になっておらず、判決文に原告等の主張がそのまま記載されていることから勘違いしているだけです。
そんなことも確認しないのか?とは思いますが、恐らく、韓国社会では、元慰安婦と称する女性達の真贋など問題にならなかったのでしょう。Wikipediaか何かに書いてあることを、枕詞のように書いているだけだと思います。1995年に開設された「アジア女性基金」等の支給対象者も、基本的には韓国側に認定を任せているので、支給されたからと言って彼女等の証言を認めたものではありません。
その記事は、西岡力教授のFacebookの投稿を元に書いており、西岡氏の投稿はメンバー内だけで見られるようですが、全文を掲載しているので、ブログ主の覚え書きとして記事を機械翻訳して転載します。
元記事は『니시오카 쓰토무 “심미자 씨의 위안부 증언도 신빙성 결여”』(2020.05.22)というもので、機械翻訳すると『西岡力"シムミジャ氏の慰安婦証言も信憑性の欠如"』となります。
以下、翻訳をコピペします。(NaverのPapagoを使用。Google翻訳より韓国語の翻訳は精度が高い。/後ほど精査して、明らかに誤翻訳や誤字と思える部分は修正の予定。)
* * * *
西岡力"シムミジャ氏の慰安婦証言も信憑性の欠如"
日本裁判所で沈氏を'慰安婦として認め'したという韓国マスコミの報道はうそ
李宇熙(イ·ウヒ)記者
2020.05.22 12:57:24
日本裁判所で沈氏を'慰安婦として認め'したという韓国マスコミの報道はうそ
日本内の左翼たちの慰安婦関連の嘘を正してきた西岡彊(西岡力)麗澤(麗澤)大学客員教授が今回は韓国マスコミの慰安婦関連の集団誤報を指摘した。
西岡教授は21日、フェイスブックに'慰安婦シムミジャ氏の証言も信じられない問題について(元慰安婦沈美子氏の?(…)"と書き込んだ。
# 国内のマスコミが挺対協(現正義記憶連帯)を批判し、沈美子(シム·ミジャ)氏を正義で真実な人かのように包装することは、考えてみる問題だ。 写真=テレビ朝鮮キャプチャー
この文で、西岡教授は"最近、韓国ではマスコミや関係者たちがシムミジャ(沈美子)氏と関連、'、日本の最高裁判所が最初に慰安婦として認めた'と伝えている"、"しかし、これは次の二つの点で事実がない"と話した。
まず、沈氏などが日本政府を相手に提起した訴訟では慰安婦の歴史的事実は、争点がなかった。 戦後補償問題に関する条約の検討と法解釈などが争点だったにすぎないということだ。
西岡教授は"日本最高裁判所は'慰安婦認定'ということをしたところがない"、"シムミジャ氏は1991年12月6日に金学順ハルモニ氏ら慰安婦出身者たちと軍人・軍属出身者たちが東京地方裁判所(1審)を通じて日本政府を相手に戦後補償を求めて起こした訴訟で、第2次原告に参加した"と明らかにした。
沈氏らは最終敗訴した。 西岡教授は"被告人日本政府側はあくまでも条約や法解釈などの争点で戦って勝訴したこと"とし、"日本政府は、沈氏などが、自分が慰安婦だったと主張した部分を含めた歴史的事実については争点に争ったところがない"と強調した。 したがって"判決はシムさんらの主張がそのまま書かれているだけ"と彼は付け加えた。
西岡教授は"最高裁判所判決では'いわゆる従軍慰安婦関係のサンコイン'という表現が使われたが、これは原告の沈氏などがそう主張をし、被告人日本政府が、その点については争っていない結果にすぎない"と説明した。
二番目に韓国マスコミの報道とは違い、"シムミジャ氏よりも1年8ヵ月はもっと早く最高裁判所から判決を受けた慰安婦出身者が3人がいた"いうのが西岡教授の主張だ。
西岡教授は"ハスンニョ(河順女)氏を含めて、慰安婦出身者3人が女子勤労挺身隊出身者7人とともに、1992年12月25日に山口地方裁判所に補償を要求する訴訟を提起した"、"彼らは1998年4月に部分勝訴した。 しかし、2001年3月に広島高等裁判所では全面敗訴し、続いて2003年3月25日に最高裁判所でも上告棄却全面敗訴の判決が下された"と伝えた。
韓国メディアの集団誤報より重要なことは、沈氏の過去の証言そのものが荒唐無稽な部分が多く、信憑性が高くないという点だ。 つまり、彼女が本当に従軍慰安婦だったのかも明確ではない。
西岡教授は"シムさんの話は国民学校に通っていた時、日本国の刺繍の上に無窮花(ブログ主註:ムクゲ→朝顔では?)の刺繍をしたことが問題になり、学校内で警官に強姦、拷問を受け、意識を失って目を覚ましたら福岡の慰安所だったという荒唐無稽な話"と明らかにした。(ブログ主註:数日間掛けて列車や船を乗り継がないと福岡には来られない)
これと関連して西岡教授は"警官が校内で学生を強かんしたり拷問したりすることはできない"とし"また日本軍はどうせ既に遊郭が存在し、公娼を利用できる日本国内では軍慰安所を設置したことがない"と指摘した。
結局、"このために福岡で慰安婦生活をしたという、沈氏の証言は福岡の遊郭で働いたこととしか解釈されていない"と西岡教授は指摘した。
西岡教授は"最近まで挺対協とともに反日運動を続けてきた李ヨンス氏も虚偽の証言をしてきた"とし"しかし、実は李ヨンス氏より早い時期に挺対協と激しく対立してきたシム·ミジャ氏の証言も信憑性に欠けるのは同じだ"と評価した。
西岡勉2020年5月21日にフェイスブックに掲載
最近、韓国ではマスコミや関係者たちがシムミジャ(沈美子)氏と関連、"日本最高裁判所が最初に慰安婦として認めた"と伝えている。 しかし、これは次の二つの点で事実ではない。
まず、日本最高裁判所は'慰安婦認定'ということをしたところがない。
シムミジャ氏は1991年12月6日に金学順ハルモニ氏(ブログ主註:おばあさん)ら慰安婦出身者たちと軍人・軍属出身者たちが東京地方裁判所(1審)を通じて日本政府を相手に戦後補償を求めて起こした訴訟で、第2次原告に参加した。 この裁判の原告に慰安婦出身者が9人がいた。
平成13年3月に東京地方裁判所では原告らが敗訴し、この時点ですでに死亡者の金学順氏、文玉珠氏の3名は原告から外された。 続いてシム·ミジャさんら6人が軍人·軍属らと控訴し、2003年7月に東京高等裁判所でも原告らが敗訴した。 彼らは最高裁に上告したが、2004年11月29日に最高裁で上告棄却判決が下された。
被告人日本政府側は、あくまで条約や法解釈などの争点で争って勝訴したものである。 日本政府は、沈氏などが、自分が慰安婦だったと主張した部分を含めた歴史的事実については争点に争ったところがない。 したがって、判決には沈氏らの主張がそのまま書かれているだけだ。
最高裁判所判決では"いわゆる従軍慰安婦関係のサンコイン(→上告人)"という表現が使用された。 もっとも、これは原告の沈氏らがそう主張し、被告人日本政府がその点については争っていない結果にすぎない。 慰安婦認定とは関係が無いのだ。(ブログ主註:最高裁判決文)
第二に、シムミジャ氏よりも1年8ヵ月はもっと早く最高裁判所から判決を受けた慰安婦出身者が3人がいた。
シムミジャ氏などの裁判とは違って、ハスンニョ(河順女)氏を含めて、慰安婦出身者3人が女子勤労挺身隊出身者7人とともに、1992年12月25日に山口地方裁判所に補償を要求する訴訟を提起した。(ブログ主註:釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟)
彼らは1998年4月に部分勝訴した。 しかし、2001年3月に広島高等裁判所では全面敗訴し、続いて2003年3月25日に最高裁判所でも上告棄却全面敗訴判決が下された。 つまり、シムミジャ氏などと比べて1年8ヵ月はもっと早く彼らが慰安婦出身者として初めて日本の最高裁判所の判決を受けたのだ。
そして、シム·ミジャさんは彼女を含めて計6人が並んで最高裁の判決を受けた。 シム·ミジャ氏以外の原告は、金蘭伊(キム·ランイ)、李貴文(イ·グィブン)、盧清子(ノ·チョンジャ)、金田公子(キム·ダギミコ/本名:朴福淳(パク·ボクスン)、金福善(キム·ボクソン)である。 つまり、沈美子さんは日本で2番目に最高裁判決を受けた6人に1人に過ぎないのである。
ちなみに、シム·ミジャさんの身の上に関する話自体が簡単に信じがたい。 国民学校に通っていた時、日本国地図の上に無窮花(ムクゲではなく朝顔ではないか?)の刺繍をしたことが問題になり、学校内で警官に強姦、拷問を受け、意識を失って目を覚ましたら福岡の慰安所だったという荒唐無稽な話である。
警官が校内で生徒を強姦したり拷問したりすることはできない。 また、"日本軍はどうせすでに遊郭が存在し、公娼を利用できる日本国内では軍の慰安所を設置したことがない。 このために福岡で慰安婦生活をしたという、沈氏の証言は福岡の遊郭で働いたこととしか解釈されていない。
最近まで挺対協とともに反日運動を続けてきた李ヨンス氏も、虚偽の証言をしてきた。 しかし、実は李ヨンス氏よりも早い時期に挺対協と激しく対立していたシム·ミジャ氏の証言も信憑性に欠ける。
秦郁彦著『慰安婦と戦場の性』によると、彼女は38度線よりも北の黄海道に住んでおり、1940年3月に強姦されて気を失い、気付いたら福岡の「慰安所」にいたと証言しています。そこから神戸、大阪の慰安所に移り、大阪で終戦(1945年)を迎え、53年まで日本の工場で働いてたそうです。西岡教授が指摘している通り、日本には慰安所などないので、単に日本で売春婦をしていただけだと思います。
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