【沖縄・首里城炎上】首里城はテーマパーク。が、しかし、単なるハリボテではない。
公開:2019-11-02 13:16:37 最終更新:2019/11/12 8:00
首里城の建物の大部分が焼失しました。
このエントリーの目的は、焼失直後の様々な反応について記録として残しておくものです。
■「これで世界遺産ではなくなってしまう」!?
ブログ主が火災に気付いたのはテレビのニュースですが、その時はまだ消火中で、ニュースでは炎上する首里城を悲しげに見守る人達の姿を映していました。また、消火後は周辺の住民へのインタビューが幾つか流れ、「沖縄のシンボルが...」、「県民の心の支えが失われた...」というような悲しみの声と共に「これで世界遺産ではなくなってしまう」という男性の声がありました。
「えっ?」と思いました。
首里城の部分はその土台というか遺構部分のみが世界遺産です。(城壁も世界遺産ではない。)
首里城は他の遺構群と共に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として2000年(平成12年)に世界遺産に登録されましたが、ブログ主もその時に新聞記事で、「あれ?いつの間にお城が建ったの?」と思い、「建物は世界遺産ではないのだ」と気付いたので、沖縄の人なら当然知っていると思ったのです。(復元した建物でも忠実に再現されたものなら文化的価値が認められる。)
すると、チャンネル桜の「沖縄の声」(ネット番組)でも、キャスターの方が、「殆どの沖縄県民は建物が世界遺産になっていると思ってる」と仰っていたので、ニュースでの男性の発言もなるほどと思いました。
以下は、この火災の後に知った(調べた)ことですが、
知らない人が多かったので。
上に建ってる建築物は殆ど世界遺産では無く、戦時中に焼失した首里城の跡が世界遺産。
1、2枚目の石垣の遺構がそれ。
正殿の一階からガラス越しに見れた。
今回焼失した正殿などは70cm位底上げされて、その上に建ってる。
戦前の消失前の正殿などは国宝だった。午前8:12 · 2019年10月31日
上のツイートに遺構の広範囲な画像がありますが、となると、正殿の地下以外は埋めてしまったことになりますが、それは世界遺産登録の妨げにはならなかったのか、あるいは、他の遺構群で十分だったのかも知れません。
そこで、首里城公園の公式サイトを見てみたのですが、驚くことに、世界遺産となった遺構については全く言及がないのです。そして、外観からは分かりませんが、正殿を取り囲む建物はカフェであったり、土産物店でした。(どちらも北殿)
それでは、そもそも、この首里城の再建はどんなコンセプトだったのでしょうか?
その前に、まずは、近年の歴史を振り返ってみます。
■廃藩置県後の首里城の変遷
今回の火災では沖縄戦での破壊ばかりがクローズアップされますが、それ以前に創建以来3度焼失しています。
廃藩置県(1871年)より遅れること数年、冊封体制にあった清と関係を清算するため、沖縄県の設置は1879年の琉球処分によってなされ、首里城に駐留した明治政府軍により改造されたそうです。本来なかった場所に窓が作られたり、壁が取り払われるなどしたそうです。(現代ビジネス『「世界遺産」は期待されすぎ!? 岩と虚構で成り立つ「首里城」、定番スポットの光と影 』岡本亮輔氏)
その後は主のいなくなった城は荒廃します。また、沖縄は明治以降財政が悪化、大正14年には政府に「植民地並みの特別会計を」と陳情する程財政が逼迫し、当時の首里市の市議会は首里城の取り壊しを決定します。
(画像は昭和20年の米軍の航空写真:左側の「ロ」の形の建物は尋常小学校だそうです。)
これを救ったのは東京帝国大学教授の伊東忠太(1867~1954年)らで、正殿の背後に琉球尚家の祖である源為朝と歴代王を祀る「沖縄神社」を創建、拝殿は正殿を利用しました。これにより、古社寺保存法の対象とし、国の予算が利用できるようになりました。
その後(1925年/大正14年)、国宝に指定され、国宝保存法の制定で国により保全されることになりました。名目は沖縄神社の社殿。昭和2年(1927年~)から7年の間に補強工事が行われました。(この項、惠隆之介氏の説明とAERAの記事【※3】、首里城公園のサイトより)
そして、戦火による焼失後は跡地に米軍によって大学が建てられていました。
■首里城は歴史テーマパーク
琉球大学の跡地利用という位置づけだと言うことが、後述する岐阜女子大学のサイトに書かれています。(再建プロジェクトの中心となった高良倉吉教授の言葉)
そのことによって琉球大学が国立大学になりまして、キャンパスが狭いというので、首里城の跡に置かれたキャンパスから、現在の新しいキャンパスを求めて移転するということになり、琉球大学が移った後に、その場所をどのように使いますかという跡地利用検討というものが始まっていって、実は私はそのときから深くかかわったというわけです。
検討委員会が何度も開かれましたけれども、結論は、首里城の建物の復元を含む歴史公園として整備したらいいじゃないかというようなことに決まりました。誰が考えても、結論はそのようにしかならないわけですね。
■戻されなかった「沖縄神社」
なお、戦後移された沖縄神社は公園には戻されなかったそうで、現在では公園から1kmほど離れたところに小さな祠で祀られたままです。
■首里城はフィクションだが単なるハリボテではない
ブログ主は「心の支え」だったという人達を否定するものではありません。個人の感情は様々だからです。
実は、火災の報を聞いて真っ先に調べたのは、再建された首里城とはどんなものであったかということです。すると、再建プロジェクトに関わった人達の苦労の跡が分かり、ここで初めて首里城の焼失を惜しいと思いました。焼失した建物は考証や調査、宮大工【※2】や職人とも協力した研究の成果なのです。
資料が少なく、米国公文書館でカラー写真が見つかった(2014年)のは正殿再建(1992年)後のことだったようです。
Wikipediaの情報ですが、復元の為に屋根瓦の色を老人に聞いても、赤から黒までバラバラだったそうです。恐らく、御一新(明治維新)の後は関心もなかったのでしょう。こちらの那覇市歴史博物館のサイトでかなり解像度の高い写真が見られますが、ボロボロです。
この再建は「三度目の火災の後再建された1715年(正徳5年)から1945年(昭和20年)までの姿を基にしている」とのことで、その当時は「薩摩藩から2万本近い原木を提供」されたそうです。
とかく、中国風のケバケバしい色が話題にされますが、瓦の色はともかく、ブログ主の目には、正面の柱などは朱色が塗られていたように見えます。
【2019/11/12追記】2019/11/11放送のチャンネル桜『沖縄の声』で「友寄絵図」(ともよせえず/明治14年)というのを知りました。首里城全体を俯瞰した絵なのですが、御庭周辺のみをクローズアップしたのが下の図です。
前述のように、沖縄の廃藩置県は1879年(明治12年)だったので、この図は琉球王府時代を表していると言えます。この絵を見ると、正殿は玄関のみ朱色に塗られています。奉神門を見ても一部に「赤」い絵の具を使っているところを見ると、それ以外の薄い赤茶に塗られている部分は「赤」では無かったのでしょう。
また、昭和4年(1929年)に撮影された、正殿の前で空手の演武をしている写真(下図/Wikimediaより)を見ると、窓と窓の間の柱の色は濃くなっています。それで、改めて米国公文書館の写真を見ると、柱には朱色が残っているように見えます。恐らく、部分的に朱色を使ったというのが正しいのかも知れません。
正殿の前の灯籠が神社である事を物語っています。
再建プロジェクトについて詳しくは、
- 株式会社国建(くにけん)の歴史のページ/創業50周年(平成22年10月)を記念した記念誌『首里城を復元する』(PDF)
- 岐阜女子大学沖縄サテライト校の「首里城の復元と沖縄の文化 高良倉吉氏『3.首里城復元プロジェクト』」サイト
に書かれていますが、城内に植える木一つとっても、写真では正確な樹種が分からず、土を掘り起こして発見した根からガジュマルと判定したり、それはそれは地道な作業です。
とは言え、資料が乏しく、前述の現代ビジネスによると、復元された首里城にはかなりのフィクションがあるといいます。
もちろん、復元首里城は学術的にも精密な考証を経ている。しかし、あくまで学問的想像力に基づく再構成だ。たとえば正殿の建物は18世紀初頭の資料を元に設計されたが、そこに置かれた国王の椅子は15世紀頃の王の肖像画を元に製作された。本来、同時に存在することのなかったものが組み合わされており、復元首里城はブリコラージュ作品とも言える。
また、再建当時、中国風が強調された姿に批判的な意見もあったようで、再建プロジェクトでの考証に疑問を感じる他の専門家も少なからずいるようです。
正殿以外の他の建物の内部はほとんどコンクリート製です。沖縄サミットの会場として使われましたが、再建プロジェクトは「歴史的建造物の再現」と「現代的な利便性」のバランスを取るのに苦労したのではないでしょうか。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191031/k10012158501000.html
首里城火災 焼失した7棟は
2019年10月31日首里城公園管理センターなどの発表によりますと、今回の火災では首里城の最も中心的な建物の「正殿」をはじめ「北殿」や「南殿」、「書院・鎖之間(しょいん・さすのま)」、「黄金御殿(くがにうどぅん)」、「二階御殿(にーけーうどぅん)」、それに、「奥書院(おくしょいん)」の7棟が焼けました。(中略)
琉球王国の象徴「正殿」国王が執務した「正殿」は漆が塗られた朱色の壁が特徴の高さ15メートル余りの木造3階建ての建物で、平成4年に復元されました。(中略)
そのほかの建物
北殿は外観は木造ですが、高さおよそ9メートルの鉄筋コンクリートの建物で、九州・沖縄サミットで各国首脳を招いて開かれた晩さん会の会場となりました。
南殿・番所は、外観は木造ですが、高さおよそ11メートルの鉄筋コンクリート2階建てで、資料の展示スペースとして活用されていました。
奉神門は、外観は木造ですが、高さおよそ10メートルの鉄筋コンクリートの建物で、正殿のある御庭に入る際の最後の門となっています。
このほか、書院・鎖之間は木造平屋、黄金御殿と二階御殿は鉄筋コンクリートと木造を組み合わせた造りになっています。
2000円札の絵柄となった守礼門は(しゅれいもん)、御庭から200メートル以上離れた場所にあります。
首里城をイデオロギーや政争に利用するな
最初に消失直後の県民の声をご紹介しましたが、SNS等を見ていると、なにやら不穏な声も散見されます。そこで早速、沖縄を愛する保守の方々からは「政治利用するな」という声が上がっています。
そもそも、平成の再建の当時からこのような声があったそうです。(篠原章氏ブログ『首里城燃ゆ』2019/10/31)
高良先生はしばしば、「復元作業の過程で左翼陣営の人たちから、“支配と搾取と奢侈の象徴である王族の城など復元しても無意味だ”と批判された。“そうじゃないんだ。大工や職人を中心に当時の琉球の大衆が身につけていた技術と文化の結晶が首里城なんだ。たんなる支配・搾取・奢侈の象徴などではない”といってもなかなか理解されなかった」と語っておられた。ぼくは高良先生この言葉に感動を禁じえなかった。
また、沖縄は本島でさえ地域差があり、現在は那覇市の一部ですが、「首里」はまた別の意識があるそうで、特に離島の方にとっては、重税に苦しめられた歴史があるので、左翼で無くとも、「圧政の象徴」というイメージがあるのだそうです。(人減らしの歴史を物語る場所もあります。)
今回もすかさず再建の話が出てくると、保守の間からも、理由は様々ですが、再建するなという意見やセンチメンタリズム全開の論調への批判が出始めました。一部をご紹介します。(下記ブログはどちらも『沖縄の声』キャスターの方)
- 狼魔人日記:『三跪九叩頭の儀式の象徴、首里城を再建する意味ってあるか?』2019-11-02
- 沖縄・日本・アジア・世界 内なる民主主義:『首里城が「沖縄の心」?』2019年11月01日
- チャンネル桜沖縄の声:『【沖縄の声】再建の前に琉球国と首里城の歴史を知ろう/個人の主張を一面トップで否定!個人攻撃する沖縄タイムスの記者[桜R1/11/5]』
10月31日と11月1日放送の『沖縄の声』でも、焼失は残念としながらも、首里城を「琉球独立運動」や「中国の属国化」の道具にするなという警鐘を鳴らしていました。
そう。首里城礼賛は「琉球王国の美化とそれを潰した明治(日本)政府」という沖縄特有の歴史観に繋がりやすいのです。沖縄では、「島くとぅば」と言って、本来地域毎に異なる方言を統一して「琉球民族」を意識させる教育を行っています。(なにやら、「アイヌ」と似た流れ)
極端すぎる意見でいちいちリンクは貼りませんが、「政府が再建したら、益々沖縄の基地負担を押しつけられるから、いっそのこと中国にでも頼ろう」というツイートも見かけました。これは“左翼陣営”の声。
11月1日の虎ノ門ニュースでは出演者の須田慎一郎氏が、「国の方針に逆らいながら金を無心する沖縄県」に対して多くの人が感じているであろう気持ちを想像して『(国民の)モヤモヤとする気持ち』と表現していました。
前述の篠原章氏はブログでイベント利用の多さに苦言を呈されていました。
ただ、正殿や隣接施設を利用しての祭りが多いことは気になっていたし、今年の2月1日から首里城有料区域の管理者が国から県に移行したことについても不安は感じていた。(中略)歴史的建造物がほとんど残されていない沖縄県において、復元されたものとはいえ唯一の歴史的建造物といってもいい首里城にかかる負担がちょっと大きすぎるのではないか、と感じていた。
沖縄タイムスなどは早速、『首里城火災で政府与党、異例のスピード対応 選挙苦戦の沖縄で、県民の理解を引き出したい思惑か』(2019年11月3日)と穿った見方の記事を書いていますが、玉城デニーが早々に“物乞い”【※3】をしておいて、なんという言い草。
実際に、火災は首里城祭の最中で、火災がなければこの後、ロウソクやライトを使ったイベントと冊封の儀式(三跪九叩頭礼)のイベントが行われるはずでした。
次に再現されれば5度目の再建となるのですが、SNSで情報発信が容易くなった現在では一筋縄ではいかないようです。
どうやら、今後何百億もの国税が注ぎ込まれそうなので、国民の一人として意見を言わせて貰うと、次は「高価なおもちゃで遊ぶな」、「遊ぶなら外(中庭以外)でやるか、中でやるならディズニーランドのようなハリボテで十分」と言いたいです。
今回知ったのですが、首里城は本来はイヌマキの木【※4】で造られていたそうです。マキというのは日本では宮殿や寺社に使われることは少ないと思いますが、沖縄の気候には適した建材なのだそうです。
しかし、沖縄には既にイヌマキはなく、仕方なく県外から木材を調達したとのことですが、NHK(BS1)のニュースで、台湾から輸入した台湾ヒノキだと知りました。父親がヒノキを売ったという業者の方が「父の最後の仕事だった」と残念そうに語っているのを聞いたからです。一部は鹿児島と宮崎から調達したイヌマキを利用しましたが、今では入手困難だそうです。
ブログ主は一時、最後の宮大工と呼ばれた故・宮本常一氏に興味を持ち、様々な本を読んだり、実際に奈良に出かけて薬師寺や法隆寺を見学(拝観)したり、ビデオも購入したりするほど熱心だったので知っているのですが、薬師寺再建のためのヒノキは最早国産のものの調達がコスト面でも難しく、台湾ヒノキを使うことになりました。業者を見つけるのも簡単では無かったのですが、そんなに立派なお寺を建てるためならと承諾してくれた業者が見つかり、宮本棟梁が1本1本選びました。
その後、台湾では伐採制限が掛けられ、間に合って良かったという話を読んでいたので、首里城のためにヒノキを売ってくれたと知って少し驚きました。
せっかく売ってくれた貴重なヒノキを30年で灰にしてしまったのです。
歴史公園の整備もつい最近まで続いていました。再建するにしても国はホイホイとお金を出すのではなく、県民も再建プロジェクトに関わった方達の苦労を思い遣ったり、その費用の重みを噛みしめるのが先だと思います。
良心的な県民ならどれほど恥ずかしく思うでしょうか。
* * * *
【※1】 AERAの記事
https://dot.asahi.com/aera/2019110100086.html?page=2
首里城焼失に復元事業の権威が落胆 「沖縄伝統木材の調達が困難か」
2019.11.1 18:20(前略) 1912(明治45)年、首里城内に小学校(当時尋常高等小学校)が建てられると、荒廃した正殿が倒壊すると危険との判断から取り壊しが検討された。この動きを止めたのが、東京帝国大学教授の伊東忠太(1867~1954年)たちだ。1923年に沖縄で文化調査を行っていた伊東らは、正殿の取り壊しが間近に予定されていることを知り、内務省に保存の重要性を訴え、取り壊しの中止を要請。この電報が届き、取り壊しは寸前で回避された。
当時、文化財保護法は制定されておらず、城は1897年制定の古社寺保存法の対象外だった。このため、伊東たちは正殿の背後に沖縄神社を新たに建て、正殿を神社の拝殿と位置付けることで国の予算で修復できるよう取りはからった。
その後、正殿は国宝に指定。1929年制定の国宝保存法に基づき国の責任で保全されるようになった。しかし、1945年の沖縄戦で焼失。戦後、58年に守礼門が復元され、86年には国が国営公園整備事業として首里城の復元を決定した。
(中略)戦災で沖縄には巨木がほとんど残っていなかったため、前回の復元時は主に台湾産のヒノキを取り寄せた。ほかに、沖縄の特色を少しでも出したいとの思いから、沖縄で「チャーギ」と呼ばれるイヌマキ科の伝統木材を一部で使用したという。ただ、これも沖縄では調達できなかったため、鹿児島県と宮崎県で探し、沖縄へ運んだ。しかし今では、九州南部でも確保は困難だという。
■地元の職人に技術を継承
一方で前回より有利な点もある。復元のための図面などの資料がそろっていることに加え、建築や彩色を担う職人が沖縄の地元で育っていることだ。復元事業の当初は、宮大工や漆職人を本土から招いていたが、長期にわたる事業の間に地元の職人に技術が継承されているという。
「これは首里城の復元に長い時間をかけてきたおかげかもしれません(笑)。だから今度は、技術的なことは地元の人たちで十分対応できるはず。そこは安心材料です」(鈴木さん)
10月31日朝に首里城焼失のニュース映像をみたとき、鈴木さんは「俺は30年間、何をやってきたんだろう」と落胆したという。だが、未来に宝を残す、タスキをつないだ一人であることは間違いない。
【※2】 福井新聞記事
https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/964728
首里城復元した宮大工ら言葉失う
福井の職人、全焼に「ショック」
2019年11月1日沖縄戦災復興の象徴とされた首里城復元工事の中心を担ったのは、福井県の宮大工たちだった。職人の技が惜しみなく注がれた首里城が全焼した10月31日、正殿の屋根が焼け落ちるテレビ映像を目の当たりにした宮大工は「あまりにもショック」と肩を落とした。
復元に携わったのは藤田社寺建設(福井県永平寺町)。越前大仏の建設に台湾ヒノキを使用していたことから、同じ木材での復元を目指す正殿工事の要として白羽の矢が立った。1992年の完成まで、10人を超す精鋭が3年以上現地に滞在。現地の宮大工と汗を流した。
当時、副棟梁として図面や施工管理を担った山本信幸さん(61)は「当時としては木造建築最大級の復元工事。地元愛の強い沖縄の県民性もあり、ものすごい重圧だった」と振り返る。そうした中、心魂を注いで一大プロジェクトを成し遂げただけに、正殿が焼け落ちる映像に「あまりにもショック。言葉を失った」と肩を落とした。その一方、「一から復元に携わった人間として少しでも役に立ちたい」とも語った。
首里城一帯の復元は2018年まで続き、藤田社寺建設は正殿に隣接する御殿などの工事も担った。三浦博之社長(62)は「来年には傷んでいた正殿の柱を入れ替える予定だったのに…」とショックをあらわにし、棟梁の近藤克昭さん(40)は「再び復元するには10年、20年を要するかもしれないが、早く元通りになってほしい」と願った。正殿復元に合わせ現地で採用された沖縄出身の與那原幸信さん(53)は「セキュリティーが厳しかった正殿で、どうして火が出たのか不可解」と話した。
【※3】 産経記事
https://www.sankei.com/politics/news/191103/plt1911030012-n1.html
首里城復元費、振興予算と別なら「県民安心」 玉城沖縄知事
2019.11.3沖縄県の玉城(たまき)デニー知事は3日、焼失した那覇市の首里城復元に必要な経費について、沖縄振興予算とは別枠での措置を求める声が与党内で上がっていることについて「そのような話で政府が決定していただけるのであれば、この上ないことだ。多くの県民も安心するだろう」と述べた。那覇市内のホテルで記者団の質問に答えた。
玉城氏はまた、「首里城の件に関しては政府としっかり協力してやっていきたい」と語った。沖縄の本土復帰50年にあたる令和4年までにまとめる首里城再建計画を検討する枠組みに関しては「国の動向とうまくリンクできるように、カウンターパートの県として動けるようにやっていきたい」と説明した。
首里城復元経費をめぐっては、公明党の斉藤鉄夫幹事長が2日に「沖縄予算に圧迫が加わらないような形でやるべきだ」と述べていた。政府は3年度まで沖縄関係予算3千億円台を確保するとしているが、今回焼失した正殿など7棟は前回復元時に約73億円を投入している。
これに先立ち、玉城氏は県功労者表彰式典に出席し、「一刻も早い首里城の復元に向けて全力を尽くしてまいる」と語った。
【※4】 FNN記事
沖縄にゼロからイヌマキの森を作る。首里城を守るためにできることとは?
<SDGsのランナー>高良倉吉さん
2018年9月1日
- 沖縄県の首里城に必要な樹木イヌマキ
- 1992年の復元作業で調査をすると沖縄に1本も無かった
- 将来の修復で使うため、25年前から地道な植樹作業を続ける
(以下略)
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