【書籍】『反日種族主義』感想-1.韓国人読者の目線で読んでみる
イ・ヨンフン(李 栄薫)元ソウル大教授等が著し、韓国でベストセラーとなった『反日種族主義』、ブログ主も入手し、現在読んでいる途中ですが、一番興味があったのは、「何故、この本が韓国人に受け入れられたのか?」という点です。
もちろん、韓国における「日韓関係史」の中で定説となっている「土地収奪論」や「徴用工」、「従軍慰安婦」などのテーマで、データを用いて論理的に解説しているので説得力がある、というのことは大きいと思いますが、本書の構成が絶妙なのだと感じました。
まず、本題に入る前のプロローグとして「嘘の国」と題し、「嘘をつく国民」、「嘘をつく政治」、「嘘つきの学問」、「嘘の裁判」という各項目の元、韓国がいかに欺瞞に満ちた国だという様々な“事実”を突きつけて読者を打ちのめします。プロローグの最後は「反日種族主義」ですが、ここでは簡単に説明されるのみで、「反日種族主義」は何か?という興味を喚起させます。
ここで、言うなれば“先制パンチ”を喰らった状態で、本論に読み進むと、次々と嘘の歴史が暴かれていきます。
第一部で最も多くページ数を割かれているのは「徴用工」の嘘ですが、これと大いに関係がある「日韓請求権協定」の問題にも触れます。
第二部は、主に、韓国人の「精神文化」をテーマにした項目が並びますが、読者によっては、この章が一番ショッキングではないかと思います。第一部で語られることは、まだ、学校教育や小説などに騙されたと、他人のせいにして自分を被害者の立場に置けます。しかし、第二部では、こうした嘘を受け入れてしまう自分達の「精神性」にも問題があると指摘されてしまうのです。
「竹島」の問題はこの章で扱われます。
なぜ、韓国人が竹島に固執するのか、これが韓国人固有の宗教観や自然観という、おいそれとは変えられないものに根ざしていると知るのは辛いことだと思います。被害者の立場から引きずり下ろされるわけですから。
最初にプロローグを先制パンチと書きましたが、野球に喩えると、自慢のエースを出したのに、いきなり先制ホームランを打たれたようなもので、ここで中押し(点)を取られるようなもの。そこでダメ押しとなるのが第三部の「種族主義の牙城、慰安婦」です。
もちろん、韓国人も完全に騙されていたわけでは無いと思います。
そのことを、ジャーナリストの崔 碩栄(チェ・ソギョン)氏がWEDGE Infinityに寄稿した文で説明してくれています。(2カ月で10万部『反日種族主義』、韓国人著者たちの受難 P.2)
筆者は所謂「在日○世」ではなく、大学で日本学を修めた後、来日した「ニューカマー(new comer)」で、両親からは特に反日教育はなされなかったそうです。
崔氏は言います。「これまで、何か違和感を覚えながらも解けずにいた頭の中のジグソーパズルが、次々と正しくはまって行くような『快感』を感じたからだろう。」と。
情報化社会になり、また、国内の閉ざされた言語空間以外に実際に自分で見聞きした知識が増えれば増えるほど、植え付けられた“記憶”との齟齬を感じる機会が増えるはずで、イデオロギーに凝り固まって耳を塞いでしまう人以外、教養が高い韓国人ほどその『快感』の度合いも高く、『反日種族主義』に書かれていることを受け入れられるのだと思います。
崔氏はこの本が受け入れられた理由としてもう一つ、「韓国社会のタブーに挑戦した著者達への称賛」も挙げています。
さて、第三部まで読んで“打ちのめされた”読者ですが、「エピローグ」で救いの手が差し伸べられます。
「救いの手」と書きましたが、新たな「目標」や「課題」を与えられると言った方が適切かも知れません。
現政権が、韓国の建国の精神である「自由民主主義」から「自由」の文字を取り去ろうとしていることの危険性が説かれているのです。
このエピローグに関しては、ブログ主は韓国人読者がどこまで理解できているのだろうか?と、少し疑問に思います。それは、韓国人がそもそも本来はネガティブな意味の「民主主義」という言葉を正しく理解しているのだろうかという疑問があるからで、もう少し詳しく説明した方がいいのではないかとも思うのですが、読者の理解度については、ブログ主は日本人なので分かりません。
とにかく、「現在は『亡国の危機』である」ことを呼びかけていることは伝わると思います。
ここで読者はある種の「使命感」を抱くでしょう。
エピローグについてはもう少し書きたいこともあるのですが、取り敢えずはこの本の「構成」に注目して感想のようなものを書いてみました。
最後に、エピローグに書いてある「種族主義」の定義を書いておきます。
「個人は全体に没我的に包摂され、
集団の目標と指導者を没個性的に受容する」
この本で読者は『“反日”種族主義』を克服したとしても、今後、韓国社会に蔓延る様々な「種族主義」と対峙しなくてはならないでしょう。
従って、エピローグはプロローグでもあるのです。
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