18世紀、済州島では日本語を話していた/司馬史観
前回のエントリーを書くために『日韓2000年の真実』(名越 二荒之助著)の朝鮮通信使の項を読んだのですが、そこに面白い記述を見つけました。
前回、日朝の関係修復後、釜山に造られた「草梁倭館」(1609年~)という領事館のような場所で交易を行っていたと書きましたが、朝鮮語の通訳として長く対馬藩に仕え、1723年、8代将軍吉宗の時代に毛利藩に転じた松原新右衛門という人物が、当時の朝鮮について書き残しているそうで、以下のような記述があるそうです。
九州の五島の先に済州島というのがある。この島の住人は、たいてい日本語を用い、日本の歌などをうたっている。今は朝鮮の領土となっているが、もともと日本から来たものが多く住んでいる。
と。
これを発見したのは作家・評論家の故大宅壮一氏だそうです。(サンモニに出演されている大宅映子氏の父上)
調べたところ、『炎は流れる』という全集に収録されているようです。(恐らく、『大宅壮一全集 第26巻 炎は流れるⅢ』の「日・韓併合の舞台裏 憎み合ってもわかれることのできない運命共同体の関係」辺りかと。)
古代の朝鮮には日本人が渡っていたことも分かっており、弥生時代から飛鳥時代には半島の南部に日本人が住んでいたので、済州島に日本人の子孫が住んでいても不思議ではないのですが、18世紀になっても日常的に日本語を話していたということに驚きます。済州島は古代には耽羅(たんら、ちんら)という国で独自の文化を持っていて、日本とも関わりが深かったのですが、15世紀には李氏朝鮮の支配下で同化されたということです。
松原新右衛門は、他にも色々書き残しているそうで、例えば、前述の「草梁倭館」については、「敷地は500間(900m)×300間(540m)あり、100間四方の大饗応場がある。そこには日本人がいつも500人くらい住んでいた。」のだそうです。
他にも、「朝鮮では、子供がいたずらをすると『倭奴来(日本人が来た)』と言う。日本人に対する恐怖がそれほど深く頭に染みこんでいる。」、「朝鮮には砂糖がない。」等々。
近世になっても済州島に日本人(「日本文化人」?)が住んでいたことは、領海という観念がなかったので、長州や博多の漁師は朝鮮沿岸に出漁していたし、逆に、朝鮮の漁民も日本に漂着していたので、この辺りの住民はこうして行き来、あるいは住みついていたのかも知れません。
ところで、現在、読売新聞『時代の証言者』(日経で言うと『私の履歴書』のような連載)で中西進氏(「令和」の考案者)のインタビューが連載されていますが、たまたま、今日のコラムでは「『憶良は渡来』司馬さん援軍」というタイトルで、中西氏が「山上憶良渡来人説」を発表した時のことを語られていました。歴史学者や国文学者から批判されたが、司馬遼太郎氏は支持してくれた、という内容でした。
学術的な議論は全く読んでいないので、それについては何も言いませんが、奈良時代に朝鮮半島から来た「渡来人」の中にはもともと日本人の子孫もいたのかも知れませんね。
なお、ここで言及されている「司馬遼太郎の応援」ですが、これが「朝鮮は兄の国」という『司馬史観』全開なのでご紹介します。
「私は憶良に何か、爛熟した場所から出てくる人生の感じ方、もしくは逆に長い歴史を持つ文明社会のなかからしか出てこない、何かを感じていたのです。(中略)渡来して来たのではないかと説を読んでいますと、ひじょうに目からうろこが落ちた。」(『日本の渡来文化』中公文庫より)
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