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2019年11月の25件の記事

2019/11/30

【書籍】『日本帝国と大韓民国に仕えた官僚の回想』任文桓(イム・ムナン)著-(1)創氏改名

掲題の本は、たまたま知って興味を持ち読み始めたのですが、実際にとても面白いです。

まだ1/4程しか読んでいませんが、気付いたことをメモするつもりで記事にします。それは『創氏改名』(1940年/昭和15年)についてです。但し、「創氏改名は実は朝鮮人が望んでいた」などということを書く意図はありません。そんなことは恐らくあちこちに書いてあると思うからです。

ここで取りあげるのは、何故、『創氏改名』が日本統治時代の“悪政”のシンボルのように使われるのかを理解するヒントのようなものを発見したからです。

 

その前に、この本について簡単に説明します。

以下はAmazonの商品説明より。

 

16歳で日本に渡り、苦学の末、高文試験に合格し、東京帝大を卒業。朝鮮総督府に行政官として勤務。戦後は李承晩政権下で農林大臣をつとめた著者が、波瀾にみちた半生を、被害・加害者史観にとらわれることなく生き生きと描く。〝植民地世代〟が残した最も優れた回想録!(『愛と民族』一九七五年、同成社刊を改題・復刊)
内容(「BOOK」データベースより)

 

著者が生まれたのは日韓併合(1910年/明治43年)の3年前の1907年(明治40年)で、日本で進学するために友人と2人で日本に来たのが1923年(大正12年)です。官製留学のようなものではないので、最初は京都で人力車夫と牛乳配達をしながら予備校に通う生活をします。「被統治民族」という意識はあり、反骨精神は棄てていませんが、商品説明にもあるように、決して被害者意識にとらわれたものではありません。

この本に特徴的なことは、著者自身を「彼」あるいは「バウトク」(子供の頃の愛称)と三人称で書いていることで、また、描写がとても生き生きとしていて、まるで小説のように読むことができます。

今後も、関心を持ったトピックがあれば、ブログに書き留めていくつもりなので、本書の紹介はこの程度で切り上げ、本題の『創氏改名』について書くことにします。

 

 

任(イム)少年が最初に働いた工場で、呼び名をどうするか、ということになり、「任」の日本語の音読みは「ニン」なので「ニンどん」(京都なので「~どん」なのでしょう)と呼んでみたところ、おかみさんからどうも語呂が悪いと、「『ジンどん』にしなはれ」と申し渡され、必死に抗弁するエピソードが書かれています。

それは、「ジン」では「仁」になってしまい、姓が変わるからという理由です。

結局、「ジンどん」にされてしまうのですが、韓国では何か誓いを立てるとき、「もしその誓いに背いたら姓を変える」という表現があるそうです。

儒教の影響で、男系による万世一系を大事にする韓国社会だからだそうで、「姓を変えるのは犬畜生にも劣る」のだそうです。

日本では跡取り息子がいない場合、養子を取ることは珍しくありませんが、韓国ではあり得ないと書いています。

これを読んで、後世、日本統治時代を「悪」とする印象操作には『創氏改名』はうってつけのものだったのではないかと思いました。

『創氏改名』は「姓」を奪うものではありませんでしたが、同じ朝鮮人でも立場や家柄によって受け止め方は異なったのではないかと思います。ちなみに著者はこれを批判しています。

 

日本人が他国の習慣をとやかく言うのは避けるべきですが、李氏朝鮮ではいかに儒教(朱子学)により生活ががんじがらめになっていたかは韓国人自身が様々な形で書いています。

例えば、『日本の中の朝鮮紀行』(著:金 声翰)という本は東京帝大法学部で学んだ著者がジャーナリストとなって韓国の『京郷新聞』に連載(1984年)した文をまとめたもので、言葉の端々に「反日」が隠せないでいるのですが、『日本と韓国人』という章では、朱子学を「精神的な荒廃だけにとどまらず、現実の物質社会の破壊をも引き起こした」と言い、朱子学の厳格性によって支配されたために「産業、経済は萎縮し、国は貧困におおわれた」と書いています。

江戸時代の朝鮮通信使も、日本に来ながら日本から持ち帰ったものは「サツマイモ」くらいで、日本から何かを学ぼうとはせず、専ら関心があることは日本人の振るまいが儒教の礼節に適っているかどうかのみでした。(ブログエントリー:【書籍】『朝鮮通信使の真実』(石平著)/現代韓国に通じる『侮日・反日』と『精神的勝利法』

一方、日本は、と言うと、著者は「妥協」という言葉を用いていますが、「柔軟性」とか「受容力」のような意味合いで使っていて、例として「神仏習合」を挙げています。また、同じように儒教を取り入れながらも「科挙」は日本の実情に合わないと取り入れなかったり、西洋文物に接しても、受け入れはするが、日本独自のものは捨てず、その結果、科学技術の先端に立ち、東洋思想の研究でも先頭に立つ、と、褒めながらも悔しさを滲ませています。

84年頃の日韓の経済格差を覚えている人は理解できるでしょうが、そこに、「嘗ては文化的に上だったのに」という意識が加わるのですから、著者のような教養人ならその『恨』は相当なものだったと思います。(『恨』についてはこちらのエントリー参照。「恨み」とは異なる感情です。)

李氏朝鮮の時代、と言っても、いつ頃の話かは分かりませんが、朱子学の中でも「礼論」(礼節に関する理論)が支配しており、例えば、兄弟が諍いを起こすと兄弟不和の罪で火あぶりにされたり、寡婦が再婚すると、人の道に外れたとして奴婢にされてしまう、という世界だったそうです。

以前のエントリーで日本統治時代に出された『断髪令』について書きましたが、これも親から貰った身体に傷を付けるという理由で儒教の「孝」に背くことであり、断髪した息子を見て自殺した親までいたそうです。但し、田舎の人達はもう少し鷹揚で、「お父さんの髪がさっぱりした」と後々までも母親が喜んでいたことを書いている韓国人もいます。(『醜い韓国人』(著:朴 泰赫)/ブログエントリー:【書籍/儒教文化】『醜い韓国人』(朴 泰赫著)/なぜ、韓国人は頭を丸めて抗議する?

こうしてみると、とことん価値観の違う人達(だったの)だな、と思います。

 

ついでに、ここまでで興味深いエピソードをいくつかご紹介しておきます。

『日本帝国と~』の著者はこの本を1975年、60代後半で出版していますが、その当時は釜山に住んでいたそうで、その理由が面白いのです。

電機屋でテレビを改造して貰えば日本のNHKが観られたからで、相撲や大河ドラマ、歌番組を観ていたそうです。一緒に観ていた次男も自然と日本語を覚え、大河ドラマ『国盗り物語』(1973年)の豊臣秀吉と家康のやりとりを見て家康が嫌いだと言ったりしていたそうです。

これに続いて山岡荘八の小説『徳川家康』にも言及していますが、そう言えば、獄中の朴槿恵元大統領が『徳川家康』を読んでいると、少し前に記事で読んだのを思い出しました。

そこで調べて見たら、韓国語のWikipediaによると、韓国語タイトルは「大望」というそうで、こんなことが書かれていました。(Google翻訳/一部ブログ主が翻訳を訂正

「韓国では1970年に大望(全12巻)というタイトルで翻訳著作物の原著許可のない出版を許可していた当時大韓民国の著作権法に基づき、海賊版が出版され、ベストセラーとなり、2000年に徳川家康(全32巻)というタイトルで再翻訳された。」

朴槿恵氏が読んでいたのは正規版でしょうが、著者は海賊版を読んでいたのでしょう。

 

 

  


 

 

 

【YouTube】動画につけたコメントが他の人には表示されない場合がある

動画に付けたコメントが、自分には見えるのに、他の人からは見えない場合があるので注意して下さい。

 

ブログ主はYouTubeの動画は「観るだけ」のユーザーですが、動画投稿者(以下「管理者」と表記)からすると「イイネ」(高評価)数はもちろんのこと、コメントが多い方がステータスが上がり、有利になるのだと知ったので、書きたいことがあればなるべくコメントを残すようにしています。(特に、韓国関係の動画をupしていると、広告が付かなかったり、動画のタイトルによっては警告が表示されたりして苦労しているようなので。)

そこで気付いたのが、自分のコメントが、別のアカウントに切り替えて見ると表示されないという現象。

元々、YouTube側や管理者側の設定でコメントの内容(※)で自動的に非表示(「保留」)にすることがあるらしく(→コミュニティ『自分のコメントが表示されない』)、必ずしも、管理者の意図によるものではないようです。

※NGワード的なもの。これは管理者も設定できるらしい。例えばURLの貼り付けは禁止など。

 

たまたま気付いたのは、ブログ主はたまたま2つのアカウントを持っているからですが、2つのアカウントを持っていること自体は大した意図はありません。初めてコメントするときにアカウントを登録し(仮に「A」とする)、その後でアカウント作成手順をもう一度確認するために別のアカウントを作成(「B」とする)したため、YouTubeを視聴するときには自動的に後から作ったBでログオンされるので、コメントを書くときだけ一貫性を持たせるためにAに切り替えるということをやっているからです。(お気に入りのチャンネルはアカウントBに登録してしまった後だったので、こんな面倒なことをやっています。)

 

現象としては、アカウントAでコメントを書き終え、アカウントBに切り替えると自分のコメントが表示されていないというものなので、これは、他の人から見て「見えない」ということになります。

2つ以上のアカウントを切り替えるようなことは普通は面倒なのでしないと思うので、実は他人からは見えないコメントがあることに気付かない方がいるのではないかと思って記事にしてみました。

 

ところで、この現象は以前からなんとなく気付いてはいたのですが、あまり気には留めていませんでした。

これが気になったのは、自分のコメント(例の如く、アカウントAで記入)に管理者が「ハートマーク」をつけてくれて(「○○さんはあなたのコメントをお気に入りにしました』というメールが届く)、その後、その動画を再び、但しアカウントBで、観た時に表示されていないことに気付いたからです。

コメントが表示されないことの直接の原因は前述のような理由での「保留」だと思いますが、①管理者には見えていること、②管理者が意図的に(意地悪?で)非表示にしているわけでは無いこと(但し、管理者の設定したNGワードなどに引っかかっている可能性はあり)を知っておくべきかと思います。

なお、管理者側がこのコメントが「保留」になっていることが分かるのか、「保留」を解除して公開することができるのかは不明です。が、恐らく、分かっているようです。と言うのは、別の動画の管理者とコメント投稿者とのコメントでのやりとりで、「URLを禁止にしているので(コメントが表示されるように)一時的に外した」という趣旨のことを管理者が書いていたからです。

 

前述のハートマークがついたけど表示されないという件も、管理者に確認すればいいのでしょうが、そこまで手を煩わせるほどではないし、管理者さんは不快に思っているわけでは無いことが分かっているので放置しています。

 

  


 

 

 

2019/11/29

【竹島】韓国、ブラジルサンパウロで竹島の領有権を主張する展示

記録としてブログにメモしておきます。

 


https://this.kiji.is/572916605998154849?c=39550187727945729
韓国、ブラジルでも竹島領有主張
文化施設で展示
2019/11/29 07:46 (JST)

 

20191129_kyodo_brazil

 

【サンパウロ共同】ブラジル最大都市サンパウロにある韓国政府の文化広報施設「韓国文化センター」の一角に、竹島(韓国名・独島)の領有を主張する内容のパネルが展示されていることが28日分かった。在サンパウロ日本総領事館は同日までに、展示の中止を求める抗議文を送った。

 展示では、竹島の写真や地図の下に「独島は明確に韓国固有の領土である」などの説明文が韓国語とポルトガル語で記されている。日本総領事館は「極めて遺憾であり、日韓関係をさらに悪化させる」との抗議文をセンターに送り、韓国の総領事館にも対応を求めた。

 

 

  


 

 

 

2019/11/28

UCLAのトンデモ教授ジャレド・ダイアモンド「日本人の祖先は紀元前400年前に来た韓国人」w【Jared Mason Diamond】

Twitterで拾ったネタです。せっかく調べたのでブログにメモしておきます。

韓国のテレビ番組にUCLAで社会科学部地理学科を教える(Wikipediaより)ジャレド・ダイアモンド 教授が出演し、日本人の祖先は紀元前400年前に韓国(朝鮮半島)から渡ってきた韓国人と発言したというのです。

その番組の内容を報じた記事(Google翻訳-一部、固有名詞の訳を訂正)したものを転記します。

 


https://entertain.v.daum.net/v/20191127232202191
銃・病原菌・鉄」著者「日本人の祖先は韓国人」(チャイナはクラス)
2019.11.27。23:22
[テレビデイリーファンソヨン記者]「銃・病原菌・鉄」の著者のジャレド・ダイアモンドが現代日本人の祖先が紀元前400年前韓国人だと説明した。

 

20191127_jtbc_jared_diamond

 

27日夜放送されたJTBC教養番組「チャイナはクラス」では「銃・病原菌・鉄」の著者、ジャレド・ダイアモンドが出演して韓国の成長と危機、さらに全世界の危機と未来について話を交わした。

ジャレド・ダイアモンドは「現代日本人が北海道アイヌ人の末裔であり、朝鮮半島の農業技術を学んだ理論は偽りである。日本人はこの理論を信じたいことだ。しかし、正しい理論は、日本に移住した韓国人が農業を始め、現代日本人はその移住韓国人の子孫という説である」と述べた。

パネルのホン・チンギョンが「その言葉は、日本人の祖先が韓国人ということか」とドゥェムルオトと、ジャレド・ダイアモンドは「イエス(Yes)」と即答した。

彼は「韓国人が日本人の祖先という科学的証拠が多い。考古学的な証拠も多い。墓、瓶、鏡などである」と説明した。韓国の初期鉄器遺物が日本先史時代の遺物が類似していること。彼は「紀元前400年前、日本の農作物、動物たち、農業技術の両方韓国から来た」とし「遺伝的に見ても日本人は韓国人と最も近い。九州の日本人はほとんど韓国人だ。韓国人が紀元前400年前の閨秀に移住し、多くの子孫を産んで北に進出したのだ」と付け加えた

ジャレド・ダイアモンド は、「私は在職する米国UCLA大学で、このような講義をする日本人学生は気持ち悪いならない。「私たちが学んだことが間違っていた。韓国人の子孫だなんて」と嫌っている。試験時答案を書く嫌う」とし「しかし、幸いなことに、証拠が続いてくる。日本の遺伝学者たちの研究でも明らかになっている」と述べた。

[ティブイデイルリファンソヨン記者news@tvdaily.co.kr /写真提供= JTBC]

 

紀元前400年前というと、恐らく、「朝鮮半島から弥生人が来て、日本に稲作を伝え~」という説のことを言っているのだと思いますが、日本の歴史教科書にはまだこの説が書かれているとは言え、まがりなりにも科学者(進化生物学者、生理学者、生物地理学者)でこのレベルとは...

訳が変ですが、日本人の学生にこのことを教えると嫌がるらしいことが分かります。が、反論もできんのかい!

 

しかし、ブログ主は知らなかったのですが、ジャレド・ダイアモンド氏は日本語に翻訳された著作もいくつかあり、それなりに権威がありそうなのに、何故、韓国のテレビ番組で、こんな説を披露するのだろうと思ったら、韓国語に翻訳された『銃・病原菌・鉄』の商品ページを見て分かりました。

Yes24というネット書店の商品ページに書かれていた内容紹介です。

 

なぜいくつかの民族は、他の民族の征服と支配の対象に転落してしまいか。なぜ先住民はユーラシア人によって淘汰されてしまいか。なぜ各大陸のに文明の発達速度に差が生じたのか。「人間社会の様々な文明はどこはじめか?」という疑問を明快に分析し、1998年にピューリッツァー賞を受賞した本。2005年12月、新たに改訂新版が出版された。

進化生物学者の再レッドダイヤモンドは、銃と病菌と金属が歴史に与えた多大な影響について分析する。一度狩猟採集段階を越えて農耕をするようにされた社会は、文字と技術、政府、制度だけでなく、邪悪な病原体と強力な武器も開発することができた。そのような社会は、病気や武器の助けを借りて、他の民族を犠牲にさせ、自分たちの生活の基盤を新たな地域に拡大した。過去500年間、ヨーロッパ人が行った非ヨーロッパ人の征服は、このような過程を劇的に示し例だ。

今回発刊された改訂新版には、特に「日本人はどこから来た」という論文を載せて、現代の日本人の祖先が誰なのかを追跡する。彼はこの論文では規模は明らかではないが、韓国人の移住が明らか現代日本人に多大な影響を及ぼしたという方の手を挙げてくれていて興味深い読まれる。

 

ちなみにこの『銃・病原菌・鉄』(1997年)は日本語訳が2000年に出ているようです。〔倉骨彰訳『銃・病原菌・鉄――1万3000年にわたる人類史の謎(上・下)』(草思社, 2000年)〕そして、上に書かれているように、どうやら改訂版にこの説を加筆したようですが、その後の研究は目にしていないのでしょうか?

 

なお、JTBCというのは朴槿恵前大統領の共犯とされた崔順実(チェ・スンシル)被告のタブレットに工作したメディアで、虎ノ門ニュースの映像を勝手に使って極右番組などと紹介したテレビ局です。

もう一つ疑問なのは、韓国人は、そもそも「韓国人」(韓民族?)はどこから来たと思っているのでしょうか?

日本人は日本人のルーツだけでなく日本語のルーツには昔から興味があり、最新の遺伝子研究(Y染色体ハプログループの分析)では、少なくとも日本人と韓国人の男性は別の人種であることが分かっています。

まさか、13世紀末に書かれた「檀君神話」を信じていて、初めから“韓民族”なるものがいたと思っているのでしょうか? 歴史的に見ても半島は何度も大陸側からの侵略を受けており、遺伝子的にもそれが現れています。
 

 

  


 

 

 

2019/11/27

【(自称)徴用工裁判】文喜相国会議長案「和解癒やし基金の残金6億使う」-あれ?韓国政府が肩代わりして10億まるまる残ってるんじゃ?

11月27日付NHKのweb記事で、韓国の文喜相(ムン・ヒサン)国会議長が総額280円規模の基金を作るとの案が判明したとのこと。これには「和解・癒やし財団」の残金6億円を日本政府からの出資金として扱う、とあります。(記事後述:【記事-1】)

 

新たな案は、日韓の企業が自発的に基金に寄付+韓国政府(運営費4.6億)+日本政府(和解癒やし財団の残金6億)→280億円規模の基金、とのことなので、日韓企業が270億円拠出することを想定しています。

今のところ「案」でしかなく、恐らく、前回の「日韓の国民の自由意志での募金」があまりにも韓国民から批判を浴びたので、修正案を観測気球として打ち上げたのでしょう。(→夕方のTBSニュースでは「個人」も含まれていると報じていました。)

韓国政府としては運営団体、即ち左翼活動家に資金を流す必要があるので、「基金」の形に拘っています。(沖縄県がやたらに「会議体」を立ち上げるのも同じ構図。)

 

ところで、「和解・癒やし財団」の残金6億を聞いたとき、あれ?韓国政府は10億円を肩代わりしたはずじゃ無かったの? と思いました。

そこで調べたところ、結論から言うと、元(自称)慰安婦と遺族に約44億ウォン(4.4億円)を支払った残金が6億円弱で、これが文議長の案の「日本政府出資分」の原資だと分かりました。

結局、韓国政府が肩代わりすると案は実行されなかったことになります。

 

念のため、時系列を調べて見たところ、以下のような経緯です。

 

2015年12月に日韓政府が合意。

2016年7月 「和解・癒やし財団」設立。日本、10億円拠出。

最初は、日本が「和解・癒やし財団」に拠出した10億円は全額「慰安婦」への支払いに充てて運営費は韓国政府が出す予定が、2017年度(朴槿恵政権時)に野党(現与党の「共に民主党」)が反対し、そこから運営費を10億から出すようになったようです。ただし、それでも運営費は年間数千万程度で、最終的には5億9千万ウォン=5千9百万円程を支出。(【記事-2】朝日)

財団解散までに、元(自称)慰安婦34人と58人の遺族に約44億ウォンを支給。(【記事-3】毎日)

2018年7月24日 中央日報〔日本語版〕: 韓国、「韓日慰安婦合意」日本拠出金10億円の代替予備費を編成

韓国政府は日本が拠出した10億円を韓国政府の予算でまかなうという内容の慰安婦合意後続措置を1月9日に発表。ただし、これに日本は反発。(→恐らく、現在に至るまでこのままだったと思われる

【記事より引用】女性家族部は日本政府の拠出金10億円を全額充当するための予備費支出案が24日、国務会議を通過したと明らかにした。この予備費は韓国女性家族部の「男女平等基金」から出捐され、具体的な執行方法などは日本と協議して決める計画だ。

2018年11月 財団解散発表 現在に至る。※この時点で57億8000万ウォン(約5億7800万円≈約6億円)の残金

 

20191127_otokoume

 

  

【記事-1】NHK


https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191127/k10012192541000.html
「徴用」問題 韓国議長の案 “日韓で約280億円規模の基金”
2019年11月27日 4時32分

太平洋戦争中の「徴用」をめぐる問題で、韓国国会のムン・ヒサン議長がまとめている解決策の詳細が判明したと、韓国メディアが報じました。日韓の企業のほか政府も参加しておよそ280億円規模の基金を作る構想だということですが、日本側は、そもそも費用を出すことに否定的で受け入れるかどうかは不透明な状況です。

韓国の複数のメディアは、26日夜、韓国国会のムン・ヒサン(文喜相)議長が、太平洋戦争中の「徴用」をめぐる問題の解決に向けて取りまとめを進めている法案の詳細が判明したと伝えました。

それによりますと、およそ3000億ウォン、日本円でおよそ280億円規模の基金をつくり、「徴用」をめぐる裁判の原告や、訴訟を予定している人など、およそ1500人を対象に、慰謝料などを支払う計画だということです。

基金の財源について、主要紙の「中央日報」は、日韓の企業が中心となって用意し、韓国政府が年間の運営費、およそ4億6000万円を支出するほか、慰安婦問題をめぐる日韓の合意で設立された「和解・癒やし財団」に日本政府が拠出した資金のうち、残るおよそ6億円も活用することで、日本政府も関わることになるとしています。

ただ、ムン議長は、今後、関係者と協議を行いたい意向で、内容が変わる可能性も指摘されています。

また、日本側は、そもそも費用を出すことに否定的で受け入れるかどうかは不透明な状況です。

 

【記事-2】朝日


https://www.asahi.com/articles/ASK5C5K4BK5CUHBI01K.html
慰安婦財団、日本の拠出金を流用 韓国側が運営費カット
ソウル=東岡徹 2017年5月11日23時25分

 慰安婦問題の日韓合意に基づいて韓国政府が設立した「和解・癒やし財団」が、厳しい状況に追い込まれている。今年度の運営費が国会審議で全額削減されたため、日本政府が財団に拠出した10億円の一部を充てざるを得ない事態に陥っている。財団の理事10人のうち2人が辞任し、財団の事業の推進力は失われつつある。

 財団は昨年7月の設立。事務所の賃借料など運営にかかる費用は韓国政府が全額支出し、日本政府が拠出した10億円はすべて元慰安婦の支援事業などに使われることになっていた

 財団関係者によると、韓国政府は16年度、運営費として約1億5千万ウォン(約1500万円)を支出。17年度は約4億ウォン(約4千万円)を政府予算案に計上したが、朴槿恵(パククネ)前政権下で最大野党だった「共に民主党」が反発。国会審議で全額削減され、財団は「やむを得ず(日本からの)拠出金の一部を使うことになった」としている。

 一方、財団は理事長を含めて10人の理事で構成されていたが、2人がすでに辞任した。財団関係者によると、日韓合意や財団に対する批判が高まったため辞任したという。理事の辞任によって財団の運営に直接の影響があるわけではないものの、文在寅(ムンジェイン)大統領は合意の再交渉が必要だとの考えを示しており、財団が事業を継続するのは難しくなるおそれもある。

 

【記事-3】毎日


https://mainichi.jp/articles/20181121/k00/00e/030/271000c
日韓合意「慰安婦財団」の解散発表 日韓関係に打撃
会員限定有料記事 毎日新聞2018年11月21日 12時58分(最終更新 11月21日 12時58分)

 【ソウル渋江千春】韓国の女性家族省は21日午前、2015年12月の慰安婦問題に関する日韓合意に基づき設立された「和解・癒やし財団」の解散手続きに入ると発表した。元徴用工を巡る訴訟で悪化している日韓関係にさらなる打撃を与える可能性がある。

 財団は16年7月に設立され、日本政府が拠出した10億円で、合意時に生存していた元慰安婦34人と58人の遺族に約44億ウォンを支給。10月末時点で財団に残っている残余金約57億8000万ウォン(約5億7800万円)は、日本からの10億円を韓国政府が肩代わりするために今年7月に設けられた「両性平等基金」の103億ウォンとあわせ…

 

 

  


 

 

 

2019/11/26

【韓国】韓国人の『恨(ハン)』とは何か?・「ハン」と「恨(うらみ)」、「オルバルダ」と「正しい」

最近、崔碩栄氏が興味をかき立てるテーマを提起してくれました。(アカウント名にツイートのリンクを貼ってあります。)

 

崔碩栄
@Che_SYoung

韓国を「恨の文化」として説明されることをよく見るが、韓国生まれ育ちの私としてはそれがよく分からない。もちろん、内部の人より外部の観察者の目が鋭く時もあるが、あまりピンと来ない🙄

 

私たち日本人は、特に韓国人が日本語で書いたものを表面的に理解してしまいがちです。それは、なまじ漢字で書かれると、単語の意味がずれていることに気付かないからでしょう。

もっとかけ離れた言語、例えば英語から翻訳したものなら、そのニュアンスまでを考えて理解しようとします(=翻訳者が工夫します)が、韓国(語)に関してはそれがなおざりになりがちかも、と考えるきっかけになりました。

 

そのいい例が「オルバルダ」=(道徳的に)正しい=です。

これについては以前、『【産経】韓国はなぜ約束守れない/「春秋の筆法」とは』で書いたのですが、簡単に言えば、日本では「約束を守ることは『正しい』」と考えるのに対し、韓国では「その約束が“道徳的”に正しくなければ反故にしてもいい」という考えです。

これを裏付けてくれるツイートをご紹介します。

 

RUKA feat.Maa
@Rukafeat_m
韓国人が言う올바른 역사 인식(正しい歴史認識)。日本語では正しい=嘘偽りなく事実であるという意味もあるが、韓国語の正しい(올바르다)は道理にかなっているという意味であり、事実かどうかは関係ない。道理というのは文化の違いで異なる為、彼らの世界で正しいとされることが「正しい」となる。

 

Orubarada

 

 

「オルバルダ」については後ほど続けるとして、「恨=ハン」と「恨(み)」について。

これは日本人が「いつまでも『恨み』を抱く韓国人」と短絡的に捉えがちですが、例えば、『帝国の慰安婦ー植民地支配と記憶の闘い』を著して、“元慰安婦の名誉毀損”だと訴えられた朴裕河氏がこのように説明しています。

 

朴裕河
@parkyuha
そもそも、「恨」とは復讐心とは程遠い感情です。悲しさを発することができず胸に溜め込んでしまうような状態のことです。基本は恨みではなく悲しさで、ため息で、抑制です。なんだかでたらめな解釈がまかり通っているようですね。

 

また、呉善花(オ・ソンファ)氏は以下のように書いています。

 

日本では怨恨の「怨」も「恨」もだいたい同じ意味で使われていると思う。しかし韓国の「恨」は、韓国伝統の独特な情緒である。恨は単なるうらみの情ではなく、達成したいが達成できない自分の内部に生まれるある種の「くやしさ」に発している。それが具体的な対象をもたないときは、自分に対する「嘆き」として表され、具体的な対象をもつとそれがうらみとして表され、相手に激しく恨をぶつけることになっていく。(『恨と火病と疑似イノセンスと― 異常な反日行為と心の病』より)

 

「悲しみ」や「嘆き」が中心となる概念ということですね。

ただ、なぜか『恨』について日本人に伝えようとしている韓国人は女性ばかりなのです。例えばこの人も。→『恨の国・韓国 (祥伝社新書)』金慶珠 (著)

少なくともブログ主が読んだ、韓国人男性によって書かれた本では『恨』に言及していません。冒頭の崔さんも男性です。

以下、少し長いのですが、Amazonより『恨の国・韓国 』の内容(「恨」の説明)を引用しておきます。

 

韓国語で「ハン(han)」とは、本来「ひとつ(one)」のことを意味します。完全な結合体のことで、「ひとつ」であるとともに、究極的にはまた、「すべて」を意味する概念です。 この「ハン」が崩壊するとき、韓国人の心は混乱し、挫折してしまいます。 そのときの、言うにいわれぬ感情・情緒を恨(ハン)と呼びます。 恨はただの恨みではなく、韓国人の理想を追求する感情、ものごとのあるべき姿を追い求めようとする意志。同時に、そうではない現実に対する嘆きや悲しみです。 悲哀の恨もあれば、怨恨の恨、現棒(ブログ主註:願望?)の恨もあります。この感情を理解できないと、韓国と韓国人はけっして理解できないと、著者は考えます。 けれども、日本人がそれを理解するのは容易ではありません。結局のところ、わからないのです。 日本人の和、韓国人の恨。この二つの相反するキーワードを論じ、「韓国がわからないのは理由がある」ことを検証していきます。 恨は韓国社会の各所に根強く存在しています。各章で具体的に見ていきます。あわせて、これから先、恨がなくなることはあるのかどうか、考えていきます。 日本人は水に流すけれど、韓国人はけっして水に流さない。歴史問題に象徴される相互不信の根本を探ります。

 

  

ここで「オルバルダ」に戻ると、ブログ主は短いやり取りですが、朴裕河氏とTwitterで言葉を交わしたことがあります。(リプライとリツイートが混在しているので、流れが分かるように時系列に並べました。後ほど各ツイートにリンクを貼ります。)

 

朴裕河
@parkyuha
9月28日
植民地支配が問題であったことを「法に違反する」として糾弾する考え方に私は賛成しません。法に頼らずとも問題を考えるツールはいろいろあるし、むしろ様々なことを見逃すことになるからです。

上記ツイートは別の方への返信で、ここでブログ主が下記のように口を挟みました。

大師100
@Daishi_hundred
返信先: @parkyuhaさん
失礼ですが、法律や憲法を遡及して適用することに、そもそも議論の余地はなく、あってはならないことなのですが、韓国の方はそれを理解していないように思われます。例えば、売春が合法だった時代の売春婦や斡旋業者を、現代の価値観で「売春は良くない」からと後世に罰することなどあり得ません。

朴裕河
@parkyuha
慰安婦問題に対する不法論にも私は賛成しませんが、そのことを問題視する考え方はそんなに単純なものではありません。


大師100
@Daishi_hundred
返信先: @parkyuhaさん
問題視というのは感情の問題です。
感情で法律を適用する韓国の司法、それをおかしいと思わない国民は、先進国では韓国くらいでしょう。
しかし、先生のような知識人がそのような認識であると知ったのは収穫でした。ありがとうございました。

朴裕河
@parkyuha
感情で動くことも多いですが(そしてそのことがそれ自体で非難されるべきことだとも思いませんが)、
併合不法論は20年前から自説を唱えた人がいて、それが受け止められてのことです。つまり知識人の問題なのです。今日はここまでにしましょう。まだ食事前なので。^_^

大師100
@Daishi_hundred
9月28日
返信先: @parkyuhaさん
ご丁寧に返信、ありがとうございました。感謝致します。

 

最後はやんわりと切り上げられてしまいましたが、話が微妙に噛み合わないのが分かるかと思います。

短文でのやりとりで、これだけで朴氏を評価(判断)するつもりもなく、また、ブログ主が朴氏の真意を理解していないのかも知れませんが、「過去の歴史的出来事への評価が後世に変わったとしても、それは国内の問題で、約束(二国間の協定)を破る理由とはならない」というブログ主の主張は理解されなかったように思います。

しかし、これも、朴氏が(母国語ではない)日本語で書いているせいかも知れないと、今回のことは考えるきっかけになりました。

 

 

  


 

 

 

2019/11/25

【GSOMIA破棄撤回】韓国のつまらないプライド/韓国は、日本が何に対して「謝罪した」と言っているのか?

どうでもいい話ですが、朝鮮日報の記事を保存しておきます。

これを読むと、GSOMIA破棄撤回の件で日韓双方が「勝利宣言」をしていることはともかくとして、①輸出管理の合意内容を日本側(経産省)が韓国より「7~8分遅れて」発表し、更に②日本側が「誇張して」発表したことに抗議、それに対して「日本側が謝罪した」(韓国発表)、「いや、謝罪していない」(日本側)、ということのようです。

 

遅れて発表したことは、“後出しジャンケン”のように捉えているようです。(一応、「同時に発表する」という約束はしていたようで、韓国側のキム・ユグン(金 有根)国家安保室第一次長がそのように発言しています。)

「誇張」というのは、局長官での「対話」と「協議」の部分でしょう。対話か協議かというのは言葉遊びなのでどうでもいい(※1)のですが、日本側の捉え方は「文在寅政権になって全く応じなくなった経産省同士の対話に韓国側が応じた」、韓国側としては「『輸出規制』を解除のための話し合いのことだ」と言いたいのでしょう。(→ブログエントリー『【GSOMIA破棄撤回】この期に及んで嘘をつく韓国政府』

まずは、行方不明になった戦略物資の行き先を韓国が申し開きするのが先で、それが「対話」(「協議」)なのです。また、いきなり局長級ではなく課長クラスで協議することを日本側(経産省)は発表しています。

 

【2019/11/29追記】※1 「協議」と「対話」の違いは元経産省の細川昌彦氏が以下のように説明しています。(日経ビジネス『韓国の“独り相撲”のGSOMIA狂騒を読み解く』2019/11/25)

 一般には分かりにくいが、国同士の「協議」と「対話」は、その意味が大きく異なる。きちっと使い分けるのが国際的にも常識になっている。つまり「協議」とは国同士の交渉の場であるのに対して、「対話」は交渉の場ではなく、単に意見交換して理解を深め合うものだ。
 韓国は日本の輸出管理厳格化の措置の撤回に向けて交渉する場だと国内的に言えるように、故意に「協議」と言い換えているのだ。
(・・・)韓国の輸出管理を審査する人数が極端に少なく審査体制が脆弱であることは申請をする民間企業の間でも衆目の一致するところだとささやかれている。法制度についても他国と比べて不備も指摘されている。輸出管理をきちっと審査する体制を整え、法制度も不備を直すことを確認して、大丈夫だと日本政府が判断できなければ何も事態は動かない。
 そうしたことを見極め、確認する場が「対話」だ。あくまで交渉するわけではない。

 

【2019/11/28追記】日本側の要求は毎日新聞を引用して韓国経済新聞が報じています。(記事は中央日報より。以下、一部引用)

 

毎日新聞は26日、日本政府関係者を引用し、「(韓国の) ホワイト国復帰まで数年かかる見通し」と報じた。GSOMIA問題と輸出規制を結びつけないという従来の立場を再確認した発言だ。

日本政府はホワイト国復帰の条件として
▼2国間政策対話が開かれていないなど信頼関係が損なわれている
▼通常兵器に関する輸出管理の不備
▼輸出審査体制、人員の脆弱性

--の3点の改善を主張する予定だという。これら条件は日本が持続的に要求してきたものだが、韓国政府は認めなかった内容だ。経済産業省の保坂伸貿易経済協力局長はこの日、自民党の会合で「3つがクリアされない限り、ホワイト国に戻すことはない」と述べたという。

しかし、これに対する韓国側の反応は...

産業通商資源部の関係者は「日本の一部の当局者の発言に関する報道を深刻に受け入れる必要はない」とし「対話をすることにしたので、日本の輸出規制の根拠を確かめ、お互い合意点を見いだす過程が重要だ」と述べた。

韓経:日本「韓国、ホワイト国復帰に数年かかる」…青瓦台「長くは待てない」警告

 

【2019/11/26追記】この「日本側の謝罪」について書いた韓国語記事を教えて貰いました。下は機械翻訳で肝心な部分が変な訳なのですが、正しい訳も教えて頂いたので括弧内に補足します。

 

日韓交渉局面を詳細に知っている外交消息筋は25日、「韓国側関係者が日韓軍事情報保護協定(GSOMIA・支所ミア)終了の条件付き延長を発表した22日、「輸出規制は続くだろう」という経産省の発表が出てきたことについて当日の午後9時頃日本大使館政務工事を招致して抗議した」と述べた。

この消息筋は「当時政務工事は、日本外務省次官人にされたリンゴのメッセージを伝えた」とし「そのメッセージには、「経産省の無理なブリーフィングの申し訳ない(経産省の発表に謝罪します)」という趣旨の表現が盛り込まれたと聞いている」とし「しかし、日本がこのようなを置いても「謝罪したことがない」は、式の嘘をついている」と説明した。

 

結局、具体的に何について謝罪したのかは言っていません。が、せいぜい、①についてではないでしょうか?

 

それと、返す刀で、韓国が主張している「GSOMIAは条件付き延長」を、アメリカ側が単に「更新」と言ったことも文句言っています。

アホくさ...

 


http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2019/11/25/2019112580007_3.html
青瓦台「安倍首相、良心からの発言なのか」
2019/11/25 08:40

 青瓦台の鄭義溶(チョン・ウィヨン)国家安保室長は24日、韓日軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の条件付き延長決定後の日本政府の態度について、「両国間の合意発表前後の日本の行動に深い遺憾を表明せざるを得ない。こうした行動が繰り返されるならば、韓日間の交渉進展には大きな困難が生じる」と述べた。

 22日の韓日合意直後、日本政府からは「日本の完璧な外交的勝利」だとする自己評価が聞かれた。安倍晋三首相が「日本は何も譲歩しなかった」と述べたとする日本メディアの報道もあった。鄭室長は2日後、韓国・ASEAN特別首脳会議が開かれる釜山で記者懇談会を開き、「牽強付会だ」と述べて細かく反論し、「(今回の合意は)文在寅(ムン・ジェイン)大統領の原則と包容外交の判定勝ちだ」と主張した。

 両国が来月末に韓日首脳会談の開催を目指す中、22日の合意の過程と評価を巡って衝突が生じた格好だ。鄭室長は「ある一方がとんでもない主張を行い、相手を刺激し続ければ、『こっちは何をするか分からないぞ』という警告の発言だ。(日本に)トライミー(こちらを試してみろ)と言いたい」と語った。

 朝日新聞は同日、安倍首相が周辺に対し、「日本政府は何も譲歩しなかった。米国がかなり強く出てきたので韓国があきらめた」と語ったと伝えた。産経新聞は前日、日本政府高官が「ほぼ日本のパーフェクトゲーム(完勝)だ」と述べたと報じた。「何も譲歩しなかった」という安倍首相の発言に関する報道を巡り、青瓦台幹部は「それが事実ならば、非常に失望だ。日本政府の指導者として、良心からの発言なのか検討せざるを得ない」と話した。

 合意から2日もたたずに韓日間のプライド争いが過熱している格好だが、両国政府は「対話の場」自体を壊すことはない見通しだ。鄭室長も「(日本側も)韓日間の合意内容にいかなる変化もないことを再確認した」と説明した。来月の韓日首脳会談も予定通り推進すると伝えられている。

 鄭室長は22日の合意内容の一部が日本メディアに先に報道されたこと、日本政府が「同時発表」の時間を守らず、7-8分後に発表したこと、日本の経済産業省の発表内容などを問題視した。鄭室長は「日本の一連の行動は『breach of faith(信義誠実の原則違反)』であり、外交ルートを通じ、そうした問題を指摘し、強く抗議した。日本の外務省は経済産業省が誇張した内容を発表したことについて謝罪した」と説明した。これに対し、読売新聞は同日夜、「外務省幹部は(韓国側に)謝罪した事実はないという反応を示した」と報じた。

 これに先立ち、日本メディアは両国の交渉過程について、「日本政府は韓国がGSOMIA終了猶予と世界貿易機関(WTO)への提訴中止で譲歩し、貿易規制を維持したまま、局長級対話に応じた」と報じた。安倍首相は事務方に「GSOMIAと輸出管理の問題はリンクさせない。絶対折れるな」と指示した(日本経済新聞)という。しかし、鄭室長は「そんなことならば、合意自体が成立しないだろう」と反発した。

 鄭室長は「韓国政府が日米の圧迫に屈服し、日本が外交的に勝利した」という日本側の主張についても、「牽強付会で全く理知的ではない主張を勝手に行ったものだ」と反論した。鄭室長は「むしろ(8月23日に)韓国がGSOMIAについて、(終了という)困難な決定を下した後、日本が韓国側に接近してきたことで交渉が始まった。今回の交渉は韓国政府の『判定勝ち』だ」と自己評価した。

 鄭室長は記者懇談会の最後に「GSOMIA延長とWTO提訴中止はいずれも条件付きで暫定的である点をもう一度強調する」とし、「今後の交渉は全てが日本の態度にかかっている」と述べた。日本の態度によってはGSOMIA問題が原点に逆戻りしかねないという「警告メッセージ」と読み取れる。外交筋は「韓日が近く始まる対話に先立ち、激しい主導権争いを展開している側面がある」と分析した。パク・チョルヒ・ソウル大教授は「韓日両国とも譲歩する名分が必要なので、相手を批判し、自分たちを正当化している。それぞれが自分たちの支持層だけに目を向け、国内政治に熱を上げている状況だ」と評した。

 一方、米国務省は22日の論評で、「GSOMIAを更新(renew)するという韓国の決定を歓迎する」と表明した。22日に青瓦台による発表を「猶予(suspend)」や「条件付き(conditional)延長」と伝えた外国メディアの報道とは開きがある。国務省はGSOMIAの維持を既成事実化しようとしているとみられる

 

なお、「(自称)徴用工訴訟」の問題では、河村建夫議員が中央日報のインタビューに答えて、勝手に「ムン・ヒサン議長の私案に対する安倍総理の感触」をペラペラしゃべっています。(韓国語記事

こちらの方がよほど日本にとっては問題ですが、これについてはエントリーを改めます。

 

 

  


 

 

 

2019/11/23

【GSOMIA破棄撤回】この期に及んで嘘をつく韓国政府

日韓GSOMIA終了があと6時間ほどに迫った時にニュース速報で「維持」が報じられました。(韓国記事後述)

この時、6時から経産省が記者会見を行うという報道もあったので、一瞬嫌な予感がしたのですが、実際にネットでその会見を観たところ、日本からは何の譲歩も無く、むしろ、韓国がGSOMIA破棄停止だけでなく、輸出管理についても譲歩してきたことを知りました。(動画は産経のYouTubeチャンネルで観ることができます。)

具体的には、下の1と2です。

 

  1. 韓国側がWTOプロセスの中断を外交ルートを通じて通知。(パネル設置=裁判のような状態=には進まない)
  2. 輸出管理協議の再開。課長級会合の開催を目指す。時期は未定。
  3. 輸出3品目の個別輸出許可、グループBの扱いに関しては変わらず。

 

但し、2の部分に関しては青瓦台は国民に嘘をついているようです。また、GSOMIA維持の前提条件として「いつでも破棄できること」などと言っていますが、再び破棄をしようとすれば今回のようにアメリカからの圧力がかかるのですから、強がりにもなっていません。

2の「輸出管理協議の再開」については、

 

青瓦台高官は「(半導体生産に使用される材料)3品目の場合、輸出管理運用を再検討できるようになり、ひいては輸出管理政策の対話を通じ、ホワイト国への復帰も議論できるようになった」と述べた。つまり、対話を通じ、3品目の輸出規制問題や輸出管理の優遇対象国「グループA(旧ホワイト国)」から韓国を除外した問題を元の状態に戻す可能性が出てきたとの説明だ。

 

などと、再びホワイト国待遇に復帰するための協議と嘘をついていますが、2019年07月05日に中央日報が報じたように、本来、定期的に二国間で行うべき対話が文在寅政権になって途絶えていることは日本側が問題視していたのです。(下記引用)

 

日本政府は輸出管理を協議する当局間対話チャンネルが最近3年間途絶えていると主張した。朝日新聞などによると経済産業省幹部は「輸出管理の日韓当局者がここ3年間で1度しか会議を開けずに意思疎通ができない中、最近になって半導体材料の輸出に絡んで不適切な事案が続いた」と述べた。

中央日報日本語版: 日本「韓国、不適切な事案あるが、内容は秘密」…切り札か(記事全文はこちらのエントリーに引用

 

つまり、今後、韓国側は不透明な輸入取引に関して説明をしなくてはならないのです。

中央日報韓国版では『韓国は「手形」を、日本は「現金」を受けた』のような記事がありましたが、韓国が受けたのは米国からの「鞭」でしょう。

ただ、失態を演じた文在寅大統領に対しては左派からの反発があるので、今後、反日政策を強めてくる可能性があります。65年の日韓請求権協定を破棄する動きは何ら好転をしていないのですから。これに対して日本政府は粛々と対抗措置を取るべきです。

 

以下は、GSOMIA破棄停止を伝える朝鮮日報(ソースは聯合ニュース)の記事

 


http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2019/11/22/2019112280278.html?ent_rank_news
GSOMIA破局回避 米圧力で譲歩し合い「土壇場の延期」
2019/11/22 23:23

【ソウル聯合ニュース】破局寸前だった韓日関係が22日、軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の失効期限まであと約6時間を残し、終了から一転、維持されることになった。

 韓国はGSOMIAの終了を「条件付き延期」、日本は輸出規制問題の解決に向け韓国と対話に乗り出すことを発表した。これで両国は関係悪化の発端となった日本の輸出規制問題を前向きに解決していくとの大枠で合意し、対話を通じて問題を解決できる最小限の時間を稼いだ。ただ、こうした措置が日本の輸出規制撤回につながるためには、これからの交渉が一層重要になったとの分析だ。

 韓国政府の今回事実上の延長を決めたのは、輸出規制問題で日本政府の態度変化の兆しがあったと判断したからだ。

 「日本の態度変化なしにはGSOMIAの終了が避けられない」との立場を示してきた文在寅(ムン・ジェイン)大統領が、日本の態度に対し、ある程度前向きに評価したとも言える。

 実際に日本の発表には「懸案解決に寄与できるよう、課長級の準備会議を経て局長級の対話を行い、両国の輸出管理を相互確認する」「韓日間の健全な輸出業績の蓄積および韓国側の適正な輸出管理運用のため、(規制品目と関連した)再検討が可能となる」などの内容が盛り込まれたと、青瓦台(大統領府)側は伝えた

 青瓦台高官は「(半導体生産に使用される材料)3品目の場合、輸出管理運用を再検討できるようになり、ひいては輸出管理政策の対話を通じ、ホワイト国への復帰も議論できるようになった」と述べた。つまり、対話を通じ、3品目の輸出規制問題や輸出管理の優遇対象国「グループA(旧ホワイト国)」から韓国を除外した問題を元の状態に戻す可能性が出てきたとの説明だ

 このように日本が態度を変えたのは、米国の外交圧力が作用したとの分析だ。韓米日の安保協力を懸念した米国は韓国と日本に対し圧力をかけ、ぎりぎりのタイミングで韓日両国が譲歩し合い、当面失効を回避する結果をもたらした。 

 文在寅(ムン・ジェイン)大統領は日本の態度変化に加え、GSOMIAの終了が韓日関係や韓米関係に及ぼす影響などを複合的に考えて決定を下したとみられる。

 文大統領としては米国からの圧力が相当な負担となった。一部では韓日のあつれきが韓米同盟にまで悪影響を及ぼすとの懸念も出ていた。

 このような状況で文大統領も韓日関係改善のきっかけを用意しようと努力する姿勢を示していた。今月4日に東南アジア諸国連合(ASEAN)関連首脳会議に出席するため訪問したタイ・バンコクで、ASEANプラス3(韓中日)首脳会議前に安倍晋三首相と11分間歓談したことも、その一環と受け止められる。

 したがって今回、GSOMIA終了の条件付き延期を決定したことで、堅固な韓米日の安保協力を維持するだけでなく、韓日関係の正常化の出発点になり得るとの期待も高まっている。

 12月に予定された韓中日首脳会談で文大統領と安倍首相による首脳会談も実現可能という見方も出ている。

 野党側を中心に提起された「韓米関係の悪化」に対する懸念を払拭(ふっしょく)する効果も予想される。

 ただ、韓日両国が解決しなければならない難題は多く残されているとの指摘もある。あつれきの根本的な原因の一つである強制徴用問題については、今回の外交ルートによる協議では議論されなかったという。

 また輸出規制問題についても、「対話の余地」が生じたものの、実際に輸出規制が撤回され、日本が輸出管理の優遇対象国「グループA(旧ホワイト国)」に韓国を再び入れるまでには、多くの過程が残っているとの指摘もある。

 この過程で議論が進展しなければ、GSOMIA終了が再び持ち上がる可能性もある。青瓦台(大統領府)関係者も「日本の輸出規制問題を解決するための協議が進行される間、暫定的にGSOMIA終了を停止するもの」とし、「われわれはこの文書(GSOMIA終了通知)の効力をいつでも再び発生させる権限を持っている」と強調した。

 青瓦台の姜琪正(カン・ギジョン)政務首席秘書官は、「GSOMIAの破棄撤回」などを求め、青瓦台前でハンガーストライキを続けている最大野党「自由韓国党」の黄教安(ファン・ギョアン)代表のもとを訪れた席で、「(日本と)対話してうまくいかないようであれば、GSOMIAを終了する」とし、「GSOMIA終了のカードは依然としてわれわれが持つ交渉カード」との認識を示した。

 与党関係者は「文大統領のこの日の決定は韓日関係の破局を防ぎ、関係正常化の道を進むための度量が大きい決定」とし、「韓国政府が誠意を見せただけに、次は日本が輸出規制を撤回するなど肯定的な回答をする番」と話した。

 

なお、テレ朝のスーパーJチャンネルがまたやらかしたようですw

 

20191122_asahi

 

  


 

 

 

【反日種族主義】李栄薫(イ・ヨンフン)先生来日記者会見動画(於:日本記者クラブ/2019/11/21)

記者会見の動画を見つけたので覚え書きとして。

 

質問する記者が「反日種族主義」の模様。信濃毎日新聞とか朝日とかw

この本について韓国の保守派議員からの反応がないので、『反日種族主義の闘争』(仮題)という続編の執筆も検討しているとのこと。

 

こちらは『李承晩TV』の動画。

 

なお、日本記者クラブには「朝鮮半島の今を知る」というシリーズの動画があるので、そのプレイリストのURLも貼っておきます。

 

 

  


 

 

 

2019/11/21

【活動家】李泳采(イ・ヨンチェ)恵泉女子大学教授/教授陣の8割は活動家

なんとはなしに「イ・ヨンチェ」で検索したら見つけた記事。

韓国のハンギョレ新聞のインタビュー記事ですが、記録として。(下の画像は画面キャプチャよりトリミング)

これ、大学も正体隠していないですね。

 

20130812_hankyoreh

  

記事全文

http://japan.hani.co.kr/arti/international/15369.html
[ハンギョレが会った人] 日本で市民運動を繰り広げるイ・ヨンチェ恵泉女学園大学教授
登録:2013-08-12 23:05 修正:2013-08-13 07:11
"日本右傾化、韓国政府が対話まで断つことは傍観だ"

写真キャプション: イ・ヨンチェ日本 恵泉女学園大学教授はインタビューで「李明博大統領の独島(トクト)訪問は日本の保守右翼が国民の不満を韓国に振り向ける口実を提供した」として「日本の市民社会に韓国全体に対する否定的な認識を持たせれば、かえって日本の右傾化を助けることになる」と話した。 東京/チョン・ナムグ特派員

 

"大学を卒業して1998年に6ヶ月間の予定で日本に来ました。 北海道にある障害者自活治療センターに一ヶ月間のボランティアをしに行ったが、一日は若い日本人夫婦の家を訪問することになりました。 私が韓国人であることを知ると、夫婦がひざまずいて日本政府の代わりに慰安婦動員に関して謝ると頭を下げたのです。"

 当時27才だったイ・ヨンチェ(42)は、その時大きな衝撃を受けた。‘飛行機でわずか2時間の距離にある日本について、これまで何も知らなかったんだな。’ドイツに留学に行く当初計画をやめ、彼は東京に居残った。 日本語を学び東大大学院に研究生として入った後、翌年慶応大大学院に進学して韓国研究で名高い小此木政夫教授の指導を受けて修・博士過程を終えた。 2006年に恵泉女学園大学はB・C級朝鮮人戦犯問題と日本の戦後賠償問題研究に大きな成果を上げた内海愛子教授の後任に志願者70余人の中から35才の若い韓国人イ・ヨンチェを選択した。 今は准教授(副教授)だ。 この頃、韓-日関係と関連した主要な懸案がある度に日本のメディアが常連のように呼ぶこの少壮学者は、自民党政権の復活後の日本の歩みを果たしてどのように見ているかが気になった。 7月30日、東京港区の大阪経済法科大学東京セミナーハウスで彼に会った。

インタビュー/チョン・ナムグ特派員 jeje@hani.co.kr

 

-恵泉女学園大学は伝統が非常に独特なようだ。

"韓国の聖公会(ソンゴンフェ)大、韓神(ハンシン)大と姉妹提携を結んでいるが、教授陣の80%が非政府機構(NGO)で活動した人々だ。 平和を重視し、学生たちは必ず園芸を学ばなければならない。 学生は誰もが自分の畑を持って年間に15種類以上の野菜を栽培している。"

 

-この間日本で市民社会運動に多く参加してきたし、韓国・日本の市民社会の掛け橋の役割もたくさんしたと承知している。

"大学院で勉強している間、日本の市民運動の国際部の役割をしている‘アジア太平洋資料センター’(PARC)の事務局の仕事をした。 2006年に‘靖国反対キャンドル行動’が始まった時から参加していて、同じ年に始まった韓国を勉強する人々の勉強会(KAJA, Korea and Japan Alternative learning group)の指導もしている。"

‘KAJA会’会員は現在40人余りだ。 当初、この集いは韓流ドラマと映画などを一緒に観て意見を交わすことから始まった。 次第にドラマや映画の背景になる韓国社会、韓国史に対する勉強へ拡大した。 勉強会は毎月開かれている。 会員たちは毎年一回ずつ韓国を訪問するが、これまでに民主化運動の聖地 光州(クァンジュ)と米軍基地がある平沢(ピョンテク)、東海岸の休戦ラインなどに行ってきた。

 

-1994年慶煕(キョンヒ)大総学生会長を務めるなど学生運動に参加した。 当時、韓国大学総学生会連合(韓総連)改革会の議長を務めもした。 1998年に日本に来て新しく目覚めたというか、そのような経験があったとすれば何か?

"大学院で勉強を始めた1998年、北韓がテポドンミサイルを撃った。 韓国人は深刻に考えなかったが、日本は大騒ぎだった。 以前は統一は南北の問題であり、私たち民族が共に努力すれば可能だと考えていた。 ところが日本から見ると、分断は国際問題であった。 日本の協力なしには統一が難しいことを悟った。 日本人たちが国家が犯した暴力を自ら顧みて反省する姿を見て、私は運動をすると言いながら国家が民衆に犯した国家暴力に対してあまりに知らずにいたと反省した。 国を離れて、国家が民衆に対して犯す暴力の構造を省察することになった。"

 

-代表的なものが靖国神社だ。

"国家が戦争を率いて一部の国民に犠牲を強要する構造の象徴物だろう。 国家が死を追悼することは政治的に利用されやすい。 それは日本だけの問題なのだろうか?"

15年前、私の前にひざまずいて
慰安婦について謝った日本人夫婦
政府は過去にそっぽを向いていても
国民はそうでないこともあることを悟った

 

-ところで日本では政治指導者が再び靖国神社を参拝している。 きちんとした戦後清算を強調してきた人々は度々疎外されていて、保守右翼勢力が力を増している。

"日本には保守源流とともに‘リベラル’に分類される現実主義勢力(穏健保守)が二つの大きな幹を形成し、現代日本を引っ張ってきた。 現実主義者は過去事清算の必要性を認めてきた。 それが東アジアに位置した日本の利益に符合するという考えであった。 今は自民党内で彼らの立場が非常に狭くなり、野党にも現実主義者が少ない。 彼らの実験が失敗したのではないかという考えを持つようになる。"

-なぜそのようになったと見るか?

"敗戦した日本に対する連合国の処理、日本の国際社会復帰、韓-日国交正常化過程など、日本が過去事を整理する3度の機会があった。 しかし、元祖植民主義者である戦勝国の限界、熾烈になった冷戦などの理由で日本の過去清算はうやむやになってしまった。 その結果、日本は侵略戦争と植民支配に対して本当に反省する機会を持つことができなかった。 自民-社会両党体制では、社会党があって保守源流の力があまりあらわれなかったが、保守源流が復帰するのは時間の問題であった。 社会党が弱くなり、リベラル保守が弱くなるや彼らが今前面に躍り出た。"

 

-リベラル保守、現実主義勢力が退潮した理由は何か?

"冷戦時代に彼らは国家運営において米・日同盟を一軸とし、韓・日協力をもう一つの軸と見た。 日本社会の中で相当な支持を得ることができた。 ところが1990年代初め、冷戦崩壊以後の時代にうまく対処できなかったようだ。 1991年自民党と社民党、新党さきがけが協力して北韓-日本の国交正常化に成功していたとすれば枠組みが変わったかも知れない。 しかしそうはならなかったし、自民党と社会党は共に崩壊の危機に陥った。 大きな変数は北韓の核・ミサイル開発だった。 日本は安保のためには米国だけに依存してはならず、独自の自衛が必要だという認識が強まった。 そうならば平和意識、すなわち自虐的歴史意識を先に打ち破らなければならないと保守派は考える。 保守派がまともに準備されない中で、現実主義勢力が民主党に集結した。 しかし、2009年執権に成功した民主党は、日本が当面する問題に対して無能をさらけ出したという評価を受けた。 3・11大地震に対する粗末な対処、北韓核問題や尖閣諸島を巡る中-日衝突に対する対処などで信頼を失ってしまった。 決定的だったのは消費税率を引き上げてアイデンティティまで崩れてしまった。"

 

-安倍晋三総理を前面に立てて新しく前面に躍り出た保守源流は日本をどこに引っ張って行こうとしているのか?

"日本国民の間には平和憲法に対する信任が非常に強い。 自衛隊を国防軍と明示して、天皇を国家元首とする憲法改定は容易ではないだろう。 だが、日本が平和国家から抜け出して(軍事力を保有し自衛権を行使できる)‘普通国家’になる道は開かれるだろう。 米国は中国が台頭する東アジアで、日本がそのような道を進むことを支持していると見る。"

 

-それに対する日本市民社会の認識はどうなのか?

"3・11大地震復旧の時、日本自衛隊の活躍はすごかった。 自衛隊は日本に必ず必要な存在として確実な席を占めた。 自衛隊を国防軍と明示するということを阻止することは容易ではなさそうだ。"

 

-日本の保守源流が日本を‘普通国家’に転換させるところで果たして止まるかが問題だ。

"普通国家になった後には‘強い国家’に進もうとする可能性がある。 憲法9条を変えようとするだろう。 この憲法条項はこの間、東アジアの軍備競争を防ぐ上で大きな役割を果たしてきた。 その価値を高く評価して、日本社会でもまともに実現されるよう努力しなければならない。 日本の市民社会の中でも安倍自民党が議席を一人占めしたことに対して強い危機意識がある。 7月21日の参議院選挙の翌日<共同通信>が実施した世論調査を見れば、内閣支持率が大幅に下がった。 牽制心理だと見る。"

 

-昨年8月、李明博大統領の独島(トクト)訪問以後、日本の韓国に対する見解が非常に肌寒くなった。

"日本が今、軍国主義に向かっていると誇大包装するのは良くないと見る。 3・11大地震以後、日本の市民社会の複雑な心も理解する必要がある。 長期不況を体験した日本は、3・11前から中国、韓国の成長に危機意識を感じてきた。 北韓も核開発で威嚇的な存在になっている。 大地震と原発事故で現在3つの県が機能不全状態だ。 内部に積もった怒りがある。 (李明博)大統領の独島訪問は日本の保守右翼が国民の不満を韓国に振り向ける口実を提供した。 東アジアカップ サッカー競技の時、韓国の応援団が横断幕を掲げたことも、あまりに韓国の視角だけから状況を見たようだ。 日本の市民社会に韓国全体に対する否定的認識を持たせれば、かえって日本の右傾化を助けることになる。"

 

-どこに希望を見出すことができるだろうか?

"私は日本の市民社会を信頼している。 高齢の世代には平和運動の長い歴史があり、3・11以後の脱原発運動に参加する若い世代も多い。 平和運動と脱原発運動が一つになることができれば、新しい道が開かれるだろう。 もちろん政界では野党の再編がなされなければならないが、それには時間がかかるだろう。"

オールド世代は平和運動の追憶
若い世代は脱原発運動
私は‘日本のろうそくのあかり’を信じる
憲法改定も容易なことではない筈だ

 

-韓国はどのように対処するべきか?

"韓国の市民社会は日本の市民社会に対する信頼を持って、より一層多様な接近を工夫しなければならない。 韓国政府もすべての対話を断ってはならない。 政府と専門家団体、市民社会が様々な方向で日本と交流し牽制をしても、日本の保守源流の暴走を阻めるかは展望がよく見えない状況だ。 対話もせずに暴走を牽制することはできない。 対話まで断つことは傍観するということだ。 韓国があらゆる事を拒否する姿を見せれば、日本の市民社会も良くは見ない。"

 

-両国言論の最近の報道はどのように評価するか?

"日本の言論も非常に一方的な報道だけをしている。 韓国社会の中の多様な考えが反映されていない。 日本政府・市民社会に韓国の姿を一面化させる危険がある。

 韓国の言論を見ても同じ問題意識を持つ。日本文部省が歴史歪曲教科書を検定通過させるや、その教科書の採択を阻止した市民運動が起き、大きな成功を勝ち得たことがある。 そのように日本にも色々な姿が共存している。 有名なバンドであるサザンオールスターズが最近新曲を出したが、‘近隣諸国の歴史を学ぼう、仲良くしよう’という趣旨の歌詞を含んでいる。 日本の右傾化を警戒し阻止しようとする多様な姿も同時に伝達することが望ましい。"

 
http://www.hani.co.kr/arti/international/japan/599268.html
韓国語原文入力:2013/08/12 20:00

 

関連記事(ブログエントリー): 恵泉女学園大学の李泳采(イ・ヨンチェ)教授と関西生コンとの繋がり

 

 

  


 

 

 

2019/11/20

【書籍】『反日種族主義』感想-1.韓国人読者の目線で読んでみる

イ・ヨンフン(李 栄薫)元ソウル大教授等が著し、韓国でベストセラーとなった『反日種族主義』、ブログ主も入手し、現在読んでいる途中ですが、一番興味があったのは、「何故、この本が韓国人に受け入れられたのか?」という点です。

もちろん、韓国における「日韓関係史」の中で定説となっている「土地収奪論」や「徴用工」、「従軍慰安婦」などのテーマで、データを用いて論理的に解説しているので説得力がある、というのことは大きいと思いますが、本書の構成が絶妙なのだと感じました。

まず、本題に入る前のプロローグとして「嘘の国」と題し、「嘘をつく国民」、「嘘をつく政治」、「嘘つきの学問」、「嘘の裁判」という各項目の元、韓国がいかに欺瞞に満ちた国だという様々な“事実”を突きつけて読者を打ちのめします。プロローグの最後は「反日種族主義」ですが、ここでは簡単に説明されるのみで、「反日種族主義」は何か?という興味を喚起させます。

ここで、言うなれば“先制パンチ”を喰らった状態で、本論に読み進むと、次々と嘘の歴史が暴かれていきます。

第一部で最も多くページ数を割かれているのは「徴用工」の嘘ですが、これと大いに関係がある「日韓請求権協定」の問題にも触れます。

第二部は、主に、韓国人の「精神文化」をテーマにした項目が並びますが、読者によっては、この章が一番ショッキングではないかと思います。第一部で語られることは、まだ、学校教育や小説などに騙されたと、他人のせいにして自分を被害者の立場に置けます。しかし、第二部では、こうした嘘を受け入れてしまう自分達の「精神性」にも問題があると指摘されてしまうのです。

「竹島」の問題はこの章で扱われます。

なぜ、韓国人が竹島に固執するのか、これが韓国人固有の宗教観や自然観という、おいそれとは変えられないものに根ざしていると知るのは辛いことだと思います。被害者の立場から引きずり下ろされるわけですから。

最初にプロローグを先制パンチと書きましたが、野球に喩えると、自慢のエースを出したのに、いきなり先制ホームランを打たれたようなもので、ここで中押し(点)を取られるようなもの。そこでダメ押しとなるのが第三部の「種族主義の牙城、慰安婦」です。

 

もちろん、韓国人も完全に騙されていたわけでは無いと思います。

そのことを、ジャーナリストの崔 碩栄(チェ・ソギョン)氏がWEDGE Infinityに寄稿した文で説明してくれています。(2カ月で10万部『反日種族主義』、韓国人著者たちの受難 P.2

筆者は所謂「在日○世」ではなく、大学で日本学を修めた後、来日した「ニューカマー(new comer)」で、両親からは特に反日教育はなされなかったそうです。

崔氏は言います。「これまで、何か違和感を覚えながらも解けずにいた頭の中のジグソーパズルが、次々と正しくはまって行くような『快感』を感じたからだろう。」と。

情報化社会になり、また、国内の閉ざされた言語空間以外に実際に自分で見聞きした知識が増えれば増えるほど、植え付けられた“記憶”との齟齬を感じる機会が増えるはずで、イデオロギーに凝り固まって耳を塞いでしまう人以外、教養が高い韓国人ほどその『快感』の度合いも高く、『反日種族主義』に書かれていることを受け入れられるのだと思います。

崔氏はこの本が受け入れられた理由としてもう一つ、「韓国社会のタブーに挑戦した著者達への称賛」も挙げています。

 

さて、第三部まで読んで“打ちのめされた”読者ですが、「エピローグ」で救いの手が差し伸べられます。

「救いの手」と書きましたが、新たな「目標」や「課題」を与えられると言った方が適切かも知れません。

現政権が、韓国の建国の精神である「自由民主主義」から「自由」の文字を取り去ろうとしていることの危険性が説かれているのです。

このエピローグに関しては、ブログ主は韓国人読者がどこまで理解できているのだろうか?と、少し疑問に思います。それは、韓国人がそもそも本来はネガティブな意味の「民主主義」という言葉を正しく理解しているのだろうかという疑問があるからで、もう少し詳しく説明した方がいいのではないかとも思うのですが、読者の理解度については、ブログ主は日本人なので分かりません。

とにかく、「現在は『亡国の危機』である」ことを呼びかけていることは伝わると思います。

ここで読者はある種の「使命感」を抱くでしょう。

 

エピローグについてはもう少し書きたいこともあるのですが、取り敢えずはこの本の「構成」に注目して感想のようなものを書いてみました。

最後に、エピローグに書いてある「種族主義」の定義を書いておきます。

 

「個人は全体に没我的に包摂され、
集団の目標と指導者を没個性的に受容する」

 

この本で読者は『“反日”種族主義』を克服したとしても、今後、韓国社会に蔓延る様々な「種族主義」と対峙しなくてはならないでしょう。

従って、エピローグはプロローグでもあるのです。

 

続きはこちら

 

  


 

 

 

 

2019/11/19

18世紀、済州島では日本語を話していた/司馬史観

前回のエントリーを書くために『日韓2000年の真実』(名越 二荒之助著)の朝鮮通信使の項を読んだのですが、そこに面白い記述を見つけました。

前回、日朝の関係修復後、釜山に造られた「草梁倭館」(1609年~)という領事館のような場所で交易を行っていたと書きましたが、朝鮮語の通訳として長く対馬藩に仕え、1723年、8代将軍吉宗の時代に毛利藩に転じた松原新右衛門という人物が、当時の朝鮮について書き残しているそうで、以下のような記述があるそうです。

 

九州の五島の先に済州島というのがある。この島の住人は、たいてい日本語を用い、日本の歌などをうたっている。今は朝鮮の領土となっているが、もともと日本から来たものが多く住んでいる。

 

と。

これを発見したのは作家・評論家の故大宅壮一氏だそうです。(サンモニに出演されている大宅映子氏の父上)

調べたところ、『炎は流れる』という全集に収録されているようです。(恐らく、『大宅壮一全集 第26巻 炎は流れるⅢ』の「日・韓併合の舞台裏 憎み合ってもわかれることのできない運命共同体の関係」辺りかと。)

古代の朝鮮には日本人が渡っていたことも分かっており、弥生時代から飛鳥時代には半島の南部に日本人が住んでいたので、済州島に日本人の子孫が住んでいても不思議ではないのですが、18世紀になっても日常的に日本語を話していたということに驚きます。済州島は古代には耽羅(たんら、ちんら)という国で独自の文化を持っていて、日本とも関わりが深かったのですが、15世紀には李氏朝鮮の支配下で同化されたということです。

 

松原新右衛門は、他にも色々書き残しているそうで、例えば、前述の「草梁倭館」については、「敷地は500間(900m)×300間(540m)あり、100間四方の大饗応場がある。そこには日本人がいつも500人くらい住んでいた。」のだそうです。

他にも、「朝鮮では、子供がいたずらをすると『倭奴来(日本人が来た)』と言う。日本人に対する恐怖がそれほど深く頭に染みこんでいる。」、「朝鮮には砂糖がない。」等々。

 

近世になっても済州島に日本人(「日本文化人」?)が住んでいたことは、領海という観念がなかったので、長州や博多の漁師は朝鮮沿岸に出漁していたし、逆に、朝鮮の漁民も日本に漂着していたので、この辺りの住民はこうして行き来、あるいは住みついていたのかも知れません。

 

関連記事:『百済の陵山里古墳群の棺は日本にしかないコウヤマキで造られていた/発掘調査は日本統治時代

 

ところで、現在、読売新聞『時代の証言者』(日経で言うと『私の履歴書』のような連載)で中西進氏(「令和」の考案者)のインタビューが連載されていますが、たまたま、今日のコラムでは「『憶良は渡来』司馬さん援軍」というタイトルで、中西氏が「山上憶良渡来人説」を発表した時のことを語られていました。歴史学者や国文学者から批判されたが、司馬遼太郎氏は支持してくれた、という内容でした。

学術的な議論は全く読んでいないので、それについては何も言いませんが、奈良時代に朝鮮半島から来た「渡来人」の中にはもともと日本人の子孫もいたのかも知れませんね。

なお、ここで言及されている「司馬遼太郎の応援」ですが、これが「朝鮮は兄の国」という『司馬史観』全開なのでご紹介します。

「私は憶良に何か、爛熟した場所から出てくる人生の感じ方、もしくは逆に長い歴史を持つ文明社会のなかからしか出てこない、何かを感じていたのです。(中略)渡来して来たのではないかと説を読んでいますと、ひじょうに目からうろこが落ちた。」(『日本の渡来文化』中公文庫より)

 

 

  


 

 

 

 

2019/11/18

【書籍】『朝鮮通信使の真実』(石平著)/現代韓国に通じる『侮日・反日』と『精神的勝利法』

公開:2019-11-18 09:06:10  最終更新:2019/11/20 10:31

2017年10月に「朝鮮通信使」に関する資料が『世界の記憶』(Memory of the World)に登録されました。(記事後述)

念のために書いておきますが、『世界の記憶』であって、どこにも「遺産」という言葉は入っていません。これは資料の保護とアクセスしやすさを目的にするもので、その資料が本当に歴史的価値があるのか、あるいは真実なのかということは、これを決定する委員会は単に文書管理の専門家なので判定できません。2015年に中国が申請した「南京大虐殺文書」が登録されたことがいい例です。おまけに、「南京大虐殺文書」は公開すらされておらず、アクセシビリティ(accessibility)も担保されていないのです。

いい加減、ユネスコなどに権威を求めるのはやめたらいいと思いますが、「資料の保護」という意味では登録することは無駄ではないのでしょう。

 

さて、ブログ主は、このニュースで久しぶりに「朝鮮通信使」という「歴史用語」があったことを思い出しましたが、それ以来忘れていました。それを再び石平氏の新刊のタイトルで思い出したのです。

それは、『朝鮮通信使の真実 江戸から現代まで続く侮日・反日の原点』 (WAC BUNKO 313/2019/11/4) というタイトルで、副題からも分かるように、日本に来朝した朝鮮通信使達が、大阪や京都、江戸などを旅して、その繁栄と壮麗さに驚きながらも、散々悪態をついている屈折した心境にスポットを当てて書いたものです。

「水車」を見て驚いたり、宿舎で「蚊帳」を見て驚いたり、前述のように繁栄した大都市を見て感嘆しながらも、日本の自然や日本人を侮辱する言葉を日記に書き付けているという事が、著者は、現代まで続く「侮日・反日」の原点と見なしています。

新書版のボリュームなので、朝鮮通信使の全容を掴むことはできませんが、このような切り口は著者ならではで、面白い視点だと思います。

 

著者は日記での「憂さ晴らし」を魯迅の『阿Q正伝』に見られる『精神的勝利』の手法だと考察しています。

『阿Q正伝』における『精神的勝利法』については著書の中でも説明されていますが、ここではブリタニカ国際百科事典の説明などを元にご紹介します。

この本は1921~22年に発表された魯迅の小説で、日雇い農民阿Qは辛亥革命(※)に憧れるが、最後は強盗犯として革命軍に銃殺されます。彼は愚かで力も無いのに自尊心だけは強く、例えば、相手が弱そうだと思うと喧嘩をふっかけますが、たいていは負けます。しかし、「負けてやったのだ」と考えて優越感に浸り、その優越感が崩れると「自分で自分を軽蔑できた」と大人物になったと思い込みます。『精神的勝利法』、『面従腹背』、卑屈と傲慢の二面性など、封建社会の奴隷の典型的人物で、当時の国民性を鋭くえぐった本です。
※辛亥革命:1911年辛亥の歳に武昌に挙兵し、清朝を倒した中国の民主主義革命。12年1月孫文が臨時大総統に就任して共和制を宣言、中華民国が誕生。

 

では何故、李氏朝鮮における高位高官である使節団が阿Qのような奴隷根性に満ちているかと言えば、彼等は、日本に『朝貢』にやってきたからです。将軍にお目見えするときは「四拝半」と呼ばれる屈辱的な儀式を行わなくてはならず、自尊心が傷つけられました。

朝鮮では空理空論を唱えて生産性のない両班か下層の奴婢の社会に分かれていたので(ごく一部、医者などは中間層)、職人のような技術職は蔑まれていたため、中産階級のような精神はなかったのではないかと思います。支配者として搾取する側か、搾取される側かの2種類の人間によって構成されていたためです。

一方、日本には武士や農民以外には町人層がおり、豊かな町人文化を育んでいました。

 

『朝貢』と書きましたが、これは朝鮮(韓国)ではまた別の見方がなされているようで、例の如く、「高度な文化を伝えてやる」為に日本に行ったと説明されているようですが、その儀礼(四拝半礼)や、家康が祀られている東照宮へ参拝させられたりする事からも分かるように、明らかに朝貢であろうと著者は言います。そこでまた悔し紛れに東照宮をけなすのです。

実際に、朝鮮からは200年間に渡り、将軍代替わりごと12回来朝しているものの、日本からは1609年に国交回復を祝うため、日本から300余人の使節団を送っている他は一度も使節団のようなものは派遣されていません。

朝鮮通信使の人数は少ないときで300、多いときには500名にも及び、これを大阪から東海道を、案内役などを含めた3千人もの人数を道中させ、ある意味見世物にするのですから、江戸幕府の威光を知らしめるのに格好のものだったでしょう。これと同様なことは琉球に対しても命じていました。

 

画像は朝鮮通信使とは関係ありませんが、沖縄県那覇市の城間幹子市長が2017年に中国・福州市の名誉市民を贈られたときの使節団だそうです。朝鮮通信使の絵図はネットで見られますが、似たようなもので、見世物そのものです。

 

20170116_shiroma

 

ここでふと、大学受験に使った参考書を見てみました。『要点整理 日本史』(第3刷:昭和54年(1979年)2月1日)です。

すると、面白いことに気付きました。

 

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「来朝」という言葉は、単に「来日」の意味もありますが、「外国・属国の使者などが朝廷へ来て礼物を献上すること。」(デジタル大辞泉)という意味もあります。そこで、同参考書の他のページを見てみると、例えば、フランシスコ・ザビエルは「来日」、ペリーなら「来航」のように書き分けています。

朝鮮通信使が世界の記憶に登録された頃に、「友好使節」と、対等な立場であるかのような表現で、現在はそのように認識されている様ですが、この参考書が書かれた当時、歴史界、少なくともこの本の著者は「来朝」という言葉をわざわざ使っていたのです。

同時期にブログ主が使っていた山川出版の『日本史用語集』でも「朝鮮通信使④():朝鮮の慶賀使節。1605年に日朝和議なり、07年に来朝。以後将軍代替わりごとに来朝。12回に及ぶ。」と書かれています。

 

※ ④というのは、当時13種類の歴史教科書の内、4社の教科書に記載されているという意味で、ブログ主の記憶では「あまり重要度は高くないが、レベルの高い試験には出るかも知れないので要注意」という歴史用語です。ちなみに、上の画像にもある、明と行っていた『出会貿易』は⑤です。

 

ああ、この頃から朝鮮人はこうだったのだ、と納得できる楽しい本です。

 

上に、現代の韓国では「朝鮮通信使は高度な文化を伝えてやるために派遣された」という認識だと書きましたが、通信使もそのつもりで来日したのかも知れません。しかし、日本の方が遙かに進んだ技術があることを目の当たりにしました。それを阿Qばりの『精神的勝利法』で精神の平衡を保つところなど、現代韓国人と少しも変わりません。

 

朝鮮通信使の目的としては、ブログ主の個人的見解では、秀吉の朝鮮出兵で互いに抱いた猜疑心を払拭するため、双方とも「下心はない」ことを確認し合うことが大きかったのではないかと思います。それは、第8回(1711年)の接伴役となった新井白石が「一方的に敵情視察されている」と警戒しており、和睦から100年経っても決して気を許してはいないからです。この辺りは現代のお花畑の政治家とは異なります。

 

* * * *

 

以下、『日韓2000年の真実』(名越 二荒之助著)という本から少し補足します。

この本の著者(編者)は日韓の歴史教科書のすりあわせを行う協議会に参加され、第1回の日韓(韓日)教育文化協議会では「和して同ぜず」の精神で、韓国側の「挺身隊と慰安婦を同一視」する発言を訂正したりしています。比較的韓国に対しては優しい立場で書かれた本ですが、この本の良さは「歴史秘話」が豊富なことです。

 

石平氏の著書にも書いてありますが、そもそも日朝和議は対馬の宗氏(うじ)が望んだことで、そのために、「国書偽造事件」も起こしています。

公正を期すために書くと、対馬と朝鮮の関係は対馬が朝貢する立場でした。(このことから、韓国では「対馬は韓国の領土」などという歴史の捏造がなされるのでしょう。

 

朝貢は確かに屈辱的なのですが、実際は朝貢する側の方が見返りが多いのです。それは、琉球を独立国のように偽装してまで薩摩藩がシナとの貿易を行わせ続けたことからも分かると思います。

では、対馬はどのように貿易を行ったかというと、1609年に釜山に造られた10万坪の敷地を持つ「草梁倭館」(領事館のようなもの)で行われました。朝鮮通信使によって日本が書物などを入手したことは日本側のメリットではあったでしょうが、実際は、釜山でも様々な書物を手に入れることができました。

領事館から1.5里より外に出ることは禁止されていたにも関わらず、朝鮮で出版されている書物は悉く持ち帰り、それ(漢文)に送り仮名や返り点をつけた本を日本で出版、多くの人が研究したそうです。これを書いているのは金聲翰氏という、日本統治下の韓国で生まれ東京帝大で学んだ韓国人作家で、日韓の「学習熱」を比較した文章の中で紹介されています。

一方の朝鮮通信使は日本から書物を持ち帰ることはしませんでした。漢学では自分達の方が上だと無視したとしても、それ以外の事にもさほど関心を持たなかったそうです。

金氏も石平氏と同様、朝鮮通信使は日本の都市や商工業には興味がなく、彼等の関心事と言えば、日本人の言行が朱子学の礼法に適っているかしか興味が無かったと書いています。唯一の例外は農業に興味を持ち、対馬からサツマイモを持ち帰ったそうです。(『日本の中の朝鮮紀行』)

金氏は「(礼法に適っていないと見ると、)自分達と直接関係が無ければ笑い、関係があるものは無理強いしてでも正さずにはすまなかった」と、石平氏と同様のことを書いています。

 

前述のように、朝鮮通信使の接待は、第8回(1711年)の接伴役となった新井白石の意見によって改革されます。

毎回、宿泊費や接待費、土産物に百万両の経費がかかったそうで、一方、朝鮮側の経費は30万両程度だったそうです。

 

白石曰く、「第一にお金がかかりすぎること、朝鮮が通信使を送ってくるのは武力では適わないから文章の上手いものを送ってきて恥を雪(そそ)ぐ狙いがある。日本の使節は漢城には行けないので一方的に敵情視察をされる。また、朝鮮は信義に薄い国だ。秀吉が出兵したときは明に助けて貰いながら、明が清に攻められたときには援軍を一兵も送らなかったではないか。」(

 

※これは『国書復号記事』に書かれているようです。こちらのブログ記事より該当部分を引用させて頂きます。

夫朝鮮 狡黠多詐 利之所在 不顧信義 蓋穢貊之俗 天性固然
(現代語訳)朝鮮人というのは狡くて人を騙す、利があれば信義など顧り見ない人々である。 しょせん「穢貊-わいばく」な野蛮人だ、こうした性格はうまれ持った天性である。

 

彼は将軍と朝鮮の三使節が面接をするときに将軍の座を一段高くしたり、接待の食事の質を制限したりしました。

これに反対したのが、対馬藩の外交を担当していた雨森芳洲(1668~1755)で、この人物は石平氏の著書にも登場しますが、誠意を持って朝鮮通信使をもてなしたにも関わらず、石平氏の言葉を借りれば「ヘイト」されています。

雨森芳洲は新井白石に反論して、

「朝鮮人は詐(いつわ)りが多いと言うが(ブログ主「多いぞ。」)、詐りが多くてどうして国が成り立ってゆこうか。(「それが成り立ってるんだよなあ。」)外国との交際は『誠心』を持って接することである。」と言っています。

 

現代と同じような議論を18世紀にもしていたわけですね。

但し、この二人の激論の中心は将軍(征夷大将軍)の称号をどうするか、という問題です。

それまでは「大君」(これは英語にもなり、「tycoon」となりました。※)だったのですが、この言葉は朝鮮では次期国王(=皇太子=世子)以外の王子の呼称だったので、「日本国王」と呼ぶべきだというのが白石の意見で、これに芳洲が反発して議論になったのだそうです。

 

※ ty・coon / taIkúːn / (変化形の発音 tycoons )
【日本】
[名] [C]
①(実業界・政界の)大物, 実力者, ボス
▷ a business [media, newspaper, property] tycoon
実業界の大物[メディア王, 新聞王, 不動産王].
②[or T~] 大君, 将軍《徳川将軍に対する外国人の呼称》.

ジーニアス英和辞典 第5版 (C) Taishukan, 2014-2015
 

 


https://www.nikkei.com/article/DGXMZO22913440R31C17A0MM0000/
「朝鮮通信使」「上野三碑」が世界記憶遺産に
2017/10/31 10:07

国連教育科学文化機関(ユネスコ)は31日(日本時間)、歴史的価値の高い文書などを対象にした「世界の記憶」(世界記憶遺産)に、江戸時代の朝鮮王朝が派遣した外交使節「朝鮮通信使」に関する資料の登録を認めたと発表した。群馬県高崎市の古代石碑群「上野三碑(こうずけさんぴ)」も登録が決まった。

審査を行った国際諮問委員会(IAC)の勧告を受け、ボコバ事務局長が78件の登録を承認した。「世界の記憶」の日本国内登録は計7件となった。

国内ユネスコ委員会が推薦した第2次世界大戦中にユダヤ人を救った岐阜県出身の外交官、杉原千畝の資料「杉原リスト」は登録されなかった。

朝鮮通信使は朝鮮国王が徳川将軍家に派遣した使節団。対馬(長崎県)や江戸を経て、徳川家康が祭られる日光東照宮(栃木県)まで、一行が通った地域に外交文書や行列の様子を記した絵などが残っており、日韓の関係自治体や民間団体が共同で計333点の登録を申請していた。


また上野三碑は飛鳥、奈良時代(7、8世紀)に現在の群馬県高崎市に建てられ、国の特別史跡に指定されている山上碑、多胡碑、金井沢碑の総称。681年建立の山上碑は完全な形で残る石碑としては国内最古とされる。いずれも漢字で刻まれ、東アジアの文化交流を示す遺産として同市などが申請した。

記憶遺産を巡っては前回審査の2015年、中国の「南京大虐殺」関連資料が登録されたことに日本政府が反発。制度の改善を求めてユネスコ分担金の支出を一時凍結した。ユネスコは次回の19年審査から、事実関係や歴史認識で見解の相違がある案件は、関係国からの意見聴取の手続きを導入するなど、審査の見直しを決めている。

 

 

  


 

 

 

 

2019/11/14

【韓国】脱北者を強制送還。レーダー照射事件の目的も見えてきた?

昨日(11月13日)のBSフジ・プライムニュースで櫻井よしこ氏が言及していたので知っている方も多いかと思いますが、船で脱北したと思われる北朝鮮人を韓国政府が板門店で北に引き渡すということが起きました。

櫻井氏も昨年の自衛隊哨戒機へのレーダー照射事件と関連付けて話されていたのですが、ブログ主も同様なことを感じたので、覚え書きとしてメモしておきます。日本とは直接関係ないとは言え、あれだけ曺国(チョ・グク)氏のスキャンダルを報じていたのですから、文在寅政権のスキャンダルとして報道しないのも不思議な気がします。

現在、韓国では反文在寅デモに加え、この件も政権批判のネタになっているようです。

ブログ主はたまたま第一報を見ていたのですが、その時は、脱北者(?)2名は、「北に戻れないと自殺する」と言ったので引き渡したという説明で、そもそも、北に戻されたら粛正されるのは目に見えているので、この説明も納得いかなかったなのですが、その後、新たにこの2人が16人を殺害した犯人だと報道されました。(もう1名いたが、自ら北へ上陸と説明)

また、この強制送還は当初公表されず、議会でスマホを操作している国家保安室第一次長のスマホをメディアがズームで撮影、そこに北への送還を指示しているメッセージがあったので発覚しました。

もし、殺人事件が本当なら、そのことをどのように知ったのか?と考えると、この強制送還事件は、北朝鮮と打ち合わせをしてのでっち上げであり、措置ではないかと思われます。(どこの記事で見たのかはっきり覚えていませんが)船は消毒して証拠隠滅してしまったということも読みました。

この事件は、昨年のレーダー照射事件も、一部で囁かれたように、「脱北した要人を北の依頼で拿捕したのではないか」という疑惑により信憑性を与えるものだと思います。瀬取りという説もありましたが、貨物船でもなく、瀬取りをするような船には見えず、この時も、異常なスピードで生存者を北に引き渡していました。

韓国では「北の住民も韓国民」と憲法で謳われているそうで、仮に殺人犯であろうと保護する義務があり、北に強制送還したことは「人権蹂躙」であると在外公館から批判されているそうです。少し前には脱北した親子が餓死したという事件があり、数ヶ月前から、脱北者への支援が薄くなっているという報道もあります。

 

以下、初期の報道の内容ですが、より正確な情報なので『統一日報』(在日コリアン向けの新聞)のweb記事を引用しておきます。

 


http://news.onekoreanews.net/detail.php?number=86678&thread=01r04
脱北船員を秘密裏に北送
司法主権放棄との批判噴出
2019年11月13日

 韓国政府は7日、東海上で北韓限界線を越えた船舶の乗組員2名を、板門店から北韓へと追放した。問題は、彼らが韓国に亡命する意思を示したにも関わらず、政府は「犯罪者追放」と言わんばかりに北韓へ強制送還した点だ。憲法上、北韓住民であっても亡命の意思を示せば韓国国民として対処するというこれまでの慣例を無視した形だ。今回の措置に対し、政府が憲法違反及び司法主権を放棄したとの批判の声が高まっている。(ソウル=李民晧)

  亡命の意思を示す北韓住民を北送(追放)したのは、南北分断以来初めてだ。

統一部は同日午後に臨時の会見を開き、2人の北韓住民を北送したことについて「2日、イカ釣り船が東海北韓限界線(NLL)を越えた。船内で仲間の乗組員(漁夫など)16人を殺害した凶悪犯を北韓へ追放した」と明かした。

政府の発表によると、殺人犯は当初3人だったが、うち1人は船が北韓の金策港に戻った際に下船。残り2人は、関係当局による合同尋問調査中に亡命を求めたという。

犯罪者であっても、亡命の意思を示した者については国内の司法手続きに則り、調査と裁判を経て処罰を決定すべき事案だ。極刑であれ無期懲役であれ、韓国司法部の判断に委ねるべき部分だ。犯罪捜査の究明と併せ、これに連動して国内での厳密な法的・制度的検討が必要な事案だと指摘される所以だ。

しかし、政府が2人を秘密裏に強制送還しようとしたことが判明。北韓の乗組員を北送した事実が明かされたきっかけも偶然の産物だった。7日、国会に出席した青瓦台国家安保室の金有根1次長の携帯電話メッセージをメディアのカメラが捉え、公開されたのだ。メッセージには、板門店の共同警備区域(JSA)大隊長(中領)が金次長に送った送還計画が書かれていた。その中には「北の乗組員らが送還に反発して自害する危険があるため、赤十字社の関係者ではなく警察がエスコートする予定」「今回の送還について、国家情報院と統一部間の見解はまだ整理できていない。午前中に追加で検討する予定」との内容が含まれていた。

現役の軍将校である中領が青瓦台安保室に直接報告したということは、政府のシステム及び軍隊の指揮系統が崩壊していることに他ならない。また、セキュリティが脆弱な携帯電話のメッセージで保安事項を報告することも問題として指摘される。

鄭景斗国防部長官はこの日、国会国防委員会全体会議に出席し、北の乗組員2人の北送について「メディアの報道を見て知った」と語った。

国防部はさらに中領が送ったメッセージ内容について、メディアで公開される前に鄭長官が把握していたかとの質問に対し「(船舶曳航など)軍事的措置の状況については長官が報告を受けていた。北韓住民については、軍事措置ではなく国防部の報告事案ではないと判断した」と明かした。

もしこの件をメディアのカメラが捉えていなければどうなっていたか。秘密裏に北送し、事後報告の形をとっていたであろうことは明らかだ。

今回の事件に対し「韓半島の人権と統一のための弁護士団体(以下韓弁)」は「明白な憲法に反する措置。憲法によると、北韓住民であっても我が国の国民だとしている。本人が韓国の実質的管轄範囲内に入り亡命の意思を示せば、当然韓国国民として受け入れ、本人が犯した罪に対しては憲法の推定無罪の原則に則って韓国で司法権を行使しなければならない」と主張した。北韓離脱住民法第9条には、「殺人など重大な非政治的犯罪者は保護対象者として決定されない場合がある」という規定がある。韓弁側はこれに対し「この条項は脱北者の定着支援金など保護による恵沢を付与しない場合の根拠に過ぎない。亡命の意思を示した者の受け入れを拒否して追放、強制送還する根拠には成り得ない」と主張した。即ち、北韓離脱住民法は脱北者が受けられる支援の恵沢を排除できるという趣旨であり、犯罪捜査と処罰までを放棄せよとの意味ではないというものだ。
今回の件で韓国は、北韓に逆利用される余地を与えたとの指摘もある。反体制支持者が脱北してきた場合、犯罪者として北韓から送還を求められたら応じるという悪しき前例を作ったからだ。北韓は今も、脱北者を「犯罪者」「反逆者」「拉致された者」などと主張し、送還を要求している。

一方、北韓離脱住民法第8条(保護決定等)は、統一部長官が脱北者保護の可否を決定する場合は脱北者対策協議会の審議を経るよう規定されている。3日間の政府調査と部署合同会議の末に追放を決定した過程で、実際に協議会での審議が行われたかどうかを疑問視する声も多い。北韓にこびへつらうため、政権は主権すら放棄しているという批判が高まっている

 

 

  


 

 

 

 

2019/11/13

【川崎】多摩川の道祖神と川崎宿/飛脚の料金はいくらくらい?【東海道】

川崎は東海道五十三次の宿場町の一つで、現在もJR川崎駅近くに旧東海道が残りますが、当時を偲ぶものはほとんどありません。

しかし、江戸から川崎に渡る「六郷(ろくごう)の渡し」があった場所の近くには、ひっそりと道祖神が佇んでいます。

 

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左側に映っている道路は多摩川の土手の上の道なので、近所の方や散策する人くらいしか通らないので、ブログ主も2年ほど前にウォーキングをしていて初めてこんなところに道祖神があるのを知りました。

 

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1枚目の画像の背後に見えるタワーマンションがある辺りは、昔、コロンビアの工場がありました。この辺りの町名は「港町(みなとちょう)」ですが、故美空ひばりさんの「港町(みなとまち)十三番地」のタイトルはこれにちなんだものです。

 

下は旧東海道と現代の地図との対比ですが、六郷の渡し跡は赤い線の右端に位置し、道祖神はこのすぐ近くにあります。

 

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多摩川にかかる六郷橋は箱根駅伝でお馴染みかと思います。

旧東海道とほぼ並行に走っている広い道路が通称「イチコク」(第一京浜国道15号線)ですが、明治期の1號國道は旧東海道のことだそうです。(【出典】Wikipedia「国道15号線」)

 

少し、六郷橋や川崎宿について補足しておきます。

徳川家康の時代(慶長5年)に長さ百九間の六郷橋が架かりましたが、その後、度々水害で流されます。八大将軍吉宗の時代に長崎から江戸に象が上りましたが、その頃には橋がなく、舟を並べてその上に板を渡し、仮設の橋のような物を作って象が渡ったと言われています。(画像は歌川広重〔1797-1858〕の東海道五十三次『川崎宿』)

 

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川崎宿と言えば東海道五十三次の宿場町ということはご存知だと思いますが、初めから宿場ではありませんでした。家康の命で六郷橋がかけられたときに伝馬制が敷かれて宿駅が設けられ、品川-神奈川宿の距離が長くて両宿の負担が過重になったため、遅れて元和9年(1623年)に川崎宿が設けられました。当時の川崎は寒村だったので、この使役はとても重荷だったそうです。

「伝馬」とは宿駅に常備されて公用の人や荷物の継ぎ送りに当たった馬で、ここで荷物を積み替えたわけです。今で言えば、宅配便の集配所のようなものですね。

『東海道五十三次』の「次」とは「継」のことで、まさしく、箱根駅伝の襷のように荷物などのリレーの中継点だったわけです。

宅配便で思い出しましたが、江戸時代、江戸から京都へ手紙を送る飛脚には到着の日数を確約するシステムがあったそうでです。

旧東海道にあり川崎宿の歴史を学べる「東海道かわさき宿交流館」で知ったのですが、日にちの確約がない“普通便”ようなものは現在の金額に直すと1,000円程度の料金、6日を確約する定六(じょうろく←これだけは覚えていました)が2,000円。これを4日で送る“速達便”もあったそうですが、これは高くて24万円だったそうです。

調べたら、飛脚は江戸-京都間を3~4日で走ったとのことなので、これは速達便ですね。

 

 

  


 

 

 

 

2019/11/11

【首里城】那覇市や沖縄県への寄付は再建に充てられず!?「再建するのは国だ!」

公開:2019-11-11 18:02:50  最終更新:2019/11/12 9:35

首里城祭のイベントに協賛していた沖縄タイムスがこんなことを書いています。

那覇市や県は寄付金を国に渡してしまうと自由に使えないために渡さない方針だと言うのです。

那覇市や沖縄県に寄付をしても再建費用には充てられずに「ポッケないない」される恐れがあります。

 


https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/496161
首里城火災 集まった寄付金はどこへ? 県から国への移譲は困難か
2019年11月11日

 首里城火災を受け、沖縄県や那覇市には県内外から多くの寄付金が集まっている。正殿など焼失した建物部分は国の所有で、再建などの大規模な修繕費は国が負担する取り決めだ。那覇市は寄付金の県への移譲を検討。県は知事直轄組織で使途を検討する方針で、謝花喜一郎副知事は「文化財等は県で取り組まなければならない」と述べるなど、文化財の修復や収集などに取り組む姿勢を見せている。

◆熊本城と異なる枠組み

 2016年4月の熊本地震で大きく損壊した熊本城については、熊本市と熊本県が復旧のための支援金を募った。634億円の被害総額に対し、熊本城の所有・管理者である同市には、現時点で42億円弱が集まった。17、18年度に県に寄せられた約4億1500万円も補助金として市に支出されている。同市はシンボルとして位置付ける天守閣の修復に優先的に取り組んでおり、10月には「大天守」の修復が完了した。

 一方、首里城は国営公園であり、所有者は国だ。正殿をはじめとする建物の再建は国が担うことになり、熊本城のケースとは枠組みが異なる

◆那覇市は県への移譲を検討

 首里城火災の当日から寄付金を受け付け、8日までに4億円以上を集める那覇市は、寄付金を県に移譲することを検討している。県の担当者も「那覇市の意向を受け入れる形で調整したい」と話し、受け入れ時期などを調整している。

 一方、再建を担う国へ県が寄付金を移譲することは難しい状況だ。県から国への自発的な寄付は可能だが、県の担当者は「(国へ寄付しても)使い道を県が決めることはできない」と指摘。政府関係者も「(国、県、市の)3者で役割分担して取り組む」形が望ましいと話す。

 県は寄付金の使途について、知事直轄組織の「首里城復興戦略チーム」や、関係課長等で構成する「首里城復旧ワーキンググループ」で検討するとしている。

 同ワーキンググループをまとめる県都市公園課の玉城謙課長は「収蔵物の復旧、復元、再建に必要な技術者を集める費用や、建築資材の調達などが考えられる」と具体的な使途を挙げた上で、その決定には国との調整が必要だとした。

 玉城デニー知事は7日、「国と話し合い、受け取った寄付の使途を明確にしたい」と述べ、できるだけ早期に国との協議を行い、寄付金の使途を決めたいとの意向を示している。

 

【2019/11/12追記】こちらは琉球新報の『首里城再建 識者の見方』という記事で沖縄大学・沖縄国際大学特別研究員 宮田裕氏の寄稿文。(こちらのツイート(@bot58781879さん) より)

 

要するに「金は国が出すべき」という意見ですが、

沖縄は27年間の米軍統治で国家予算の恩恵を受けられなかったのだから、
国は「償いの心」を持つべき。

だって。まるで「日帝36年」の恨みw どこの韓国よ。

 

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【首里城火災】火災発生当時、正殿前には木造の舞台が設置されていた

メジャーなメディアは報道しませんが、火災発生直前に業者が作業していたのは、正殿前の大きな木造の舞台でした。

 

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画像はこちらのツイート(@YamatoTakeru_20さん)から拝借しました。

赤い丸印は埋め込み式の放水銃があるところです。

恐らく、今年新たに開催予定だった「組踊300周年記念」用の舞台で、正殿の前に3~4mはありそうな壁があります。舞台の袖で、材料は恐らくベニヤ板かなにかでしょう。

 

下は、那覇市が2017年12月に消防訓練をしているところです。

 

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左端の放水が埋め込み式放水銃からのものです。

放水銃はこれ以外に3基、合計4基ありました。

なお、11月2日付け毎日新聞web記事で『 首里城火災 国が「放水銃」1基を事前に撤去 4基も使用できず /沖縄』と、まるで国が悪いようなことを言っていますが、記事を読むと、2013年に黄金御殿を増築する際に撤去されたもので、記事に添えられた図にもそう示されています。

こういう見出しとかリード部分で印象操作するのが毎日の悪いクセです。

 

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 記事より

 当初は正殿の北側、東側、南側にそれぞれ1基と正面の御庭に2基の計5基があったが、13年12月に完了した黄金御殿の復元工事に伴って南側の1基が撤去された。

 同財団の広報担当者は「復元工事は11年から13年にかけて行われ、この間のいずれかの時期に撤去された」と説明。

 

NHKが情報開示を請求して消防署が公開した火災の動画がありましたが、署員が駆けつけたときには既に壁は焼け落ちて、手前にせり出した舞台が残るのみです。これも間もなく炎に包まれます。

 

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鎮火後の写真に投光器が写っていますが、これは左側の舞台の袖の「壁」の内側でしょうか。もう一枚の写真を見ると右側の壁の内側にも投光器があったようです。

 

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電源は全て正殿向かいの奉神門から取っていたとの証言ですが...

以下、電源の供給場所についてメモしておきます。

 

11月1日 06:20 沖縄タイムス:焼失した首里城で作業の業者 終了時に電源を二重チェック 「異常なかった」

那覇市消防局も会見で、機材の電源は南殿付近から引いているとし、「現段階の聞き取りなどで、イベント設営と正殿の出火原因の関係性はないと思う」との見方を示した。

 

11月6日 07:06 沖縄タイムス:首里城の焼失施設と城郭 建設費260億円 防火設備「規定を満たし十分」 沖縄県、県議会で答える

首里城火災を受け、沖縄県議会は5日、総務企画、土木環境、文教厚生の3常任委員会を開き、(中略)総務企画委で、宜保勝参事は、30日夜からイベント準備で作業していた業者は自家発電と一部奉神門から照明や音響の電気供給を受けていたと説明した。奉神門と火元とみられる正殿の電気系統が同一かどうかは分からないという。玉城満氏(おきなわ)の質問。

 

舞台が無かったからと言って初期消火ができたわけではないでしょう。

しかし、文化財ではないにしても文化財級の材料(現在は輸出不可の台湾ヒノキ)や職人技で丹精込めて建造された正殿を、舞台用のセットか何かくらいにしか考えていない管理団体の扱いには疑問を感じます。何が「ウチナンチュの心のよりどころ」だと。

有料エリアでイベントをしないと儲からないからだと思いますが、かと言って御庭は狭い。そこで、正殿にピッタリ付けて舞台がないとならないのです。

片瀬江ノ島駅舎(←ググってね)みたいなもので十分じゃないでしょうか。

 

 

  


 

 

 

 

2019/11/10

【首里城】火災原因が特定されるまで国は安易に再建を約束してはいけない

公開:2019-11-10 16:57:25  最終更新:2019/11/11 18:33

前回のエントリーでは現時点で判明している火災発声直近の状況をまとめました。

断定はできませんが、管理ミスによる失火の可能性もある得る状況で国が再建を約束しましたが、これには反対です。

 

玉城デニー沖縄県知事は、火災時、観光客誘致のために韓国を訪問中でしたが、火災の方を受けて切り上げて帰国するとすぐさま中央政府に行き、再建費を無心しました。年間約3000億円の復興予算とは別枠でと念を押して。

しかし、彼が真っ先にすることは、管理者のトップとして、国の資産を燃やしてしまったことを国や国民に謝罪することでしょう。

そして、那覇市もすぐにクラウドファンディングやふるさと納税での支援を呼びかけましたが、まず、市民や県民に呼びかけるべきでしょう。もちろん、県外から寄付したい方は大勢いるのでそうした窓口を作ることは良いのですが、「沖縄の魂」だのなんだの言っているくせに手回しが良すぎて他力本願ばかりが目に付きます。

なお、お金に色が付いているわけではないので、ふるさと納税だと一緒くたにされて市の財政に入るだけですよ。

沖縄選出の日本維新の会の下地議員が安室奈美恵さんに歌を首里城再建を祈念する歌を唄って欲しい(=再建費用を稼いで欲しい)という厚かましいお願いをして炎上していました。

早速、沖縄県では再建プロジェクトチームを立ち上げるとかで、県民の声を集めるために玉城デニー知事の直属の「県民会議」も設置するそうですが、「万国津梁会議」のようなお仲間を潤すための組織のようにならないでしょうか。

【2019/11/11追記】やはり、那覇市や沖縄県に集まった寄付は、国に渡してしまうと県が自由に使えないため渡さないと言い出しました。→ブログエントリー『【首里城】那覇市や沖縄県への寄付は再建に充てられず!?「再建するのは国だ!」

 

ただ、再建にはやる玉城デニーを牽制するように、衛藤晟一沖縄北方担当相が防災対策を含めた復興計画をと発言しました。

 


https://www.sankei.com/politics/news/191108/plt1911080007-n1.html
衛藤沖縄北方相、首里城焼失 「防災対策の不備の指摘ある」
2019.11.8
 衛藤晟一(せいいち)沖縄北方担当相は8日午前の記者会見で、火災で焼失した首里城(那覇市)について「防災対策の不備があったのではないかとの指摘もある」と述べ、復元には防災の観点を踏まえる必要があるとの認識を示した。

 衛藤氏は首里城の復元の方向性について「有識者や専門家、県とも十分に話をする」と強調。その上で、「前回の復元時の資料などを参考に議論を進め、基本コンセプトをまとめていく」と述べた。

 

マスコミも火災当初は首里城の建造物は「世界遺産ではない」ことに極力触れないようにしていました。沖縄県民もそのことを知らない人が多いと知りましたが、恐らく他県ではテレビニュースだけを断片的に観ている人は知らないのではないでしょうか。

 

今回の事故がきっかけで過去の記事なども読んでみましたが、そもそも、再建前は「圧政の象徴」と、特に左翼陣営からは反対の声が多かったようです。

また、11月5日付け読売新聞に寄稿された沖縄初の芥川賞作家である大城立裕氏の文にはこのようなことが書いてありました。1992年の再建を祝う祝賀行列で冊封使節の仮装行列を見た時の感想だそうです。

「戦前にはかつて中国と縁が深かった歴史については、公には劣等感をよんでタブーであった。日本の一員であることを誇りにしていたから。」

しかし、これは、「琉球の独自文化に目覚めた自覚の証」と喜ばれています。

ネットで大城氏のインタビュー記事を読んでみると、「捨て石にされた」とか、お決まりの歴史観のようですが、上述の戦前の雰囲気というのは思想とは関係ない者で、意外な発見でした。

 

前回のエントリーにも書きましたが、首里城の運営・管理は、「美ら海水族館」と共に今年の2月から国から沖縄県に移譲されました。自由に色々なイベントができるようにという理由だそうで、例えば、首里城でオペラを計画したところ、国から「琉球の文化ではない」と却下されたことを書いているブログを見つけました。その方は、県への管理移譲を喜んで、「かつて苦い思いをしたことがある」と上記のようなエピソードを書いていたのです。

管理移譲については、沖縄タイムスの社説(『[首里城運営 県移管へ]地元との関係を大切に』2017年6月7日)にこのようなことが書いてありました。

 

民主党政権下の2012年5月、宜野湾市で開かれた復帰40周年記念式典で、野田佳彦首相は首里城を「18年度をめどに県に移譲する」ことを明らかにした。

当時、県民の中には「琉球王国のシンボルである首里城を取り戻す」という発想から、県への移譲を歓迎する意見があった。地元の声に応えて県への移譲を打ち出した形だが、政府の中で各種経費の削減圧力が高まっていたことも見逃せない。

(しかし、維持管理にはコストがかかるという専門家の意見を紹介し、)

まずは今後の維持経費を精査する必要がある。国が引き続き所有権を保有するのであれば、維持経費についても応分の負担をするのが筋

 

沖縄タイムスの主張も含まれているのでしょうが、建てて貰っておいて「首里城を取り戻す」って...

そして、お金、お金...

さもしいんですよ。

 

今回の事故で政府が復興支援を約束すると、選挙で苦戦を強いられている沖縄で、県民の要望に応えることで理解を引き出したい思惑もにじむ。などと感謝もせずに穿った見方をしています。これも沖縄タイムス。(『首里城火災で政府与党、異例のスピード対応 「政争の具にしてはならない」』2019年11月3日)

 

スプリンクラーがなかったことを指摘されると『県幹部は「大家さんは国だと例え、「スプリンクラーなど、勝手には新しい設備は付けられない」と、所有者と管理者の関係性を説明する。』。

これも沖縄タイムスですが、発言者は沖縄県幹部です。(『「大家さんは国だ」 首里城、スプリンクラーが未設置だったワケ』2019年11月7日)

もしかしたら、県の管理になって電気設備を“魔改造”したからこのような火事が起きたかも知れないのに。

 

更に、管理していた財団は、保管していた文化財の状況を聞かれ、「何がどこにあるか分からない」と言って答えられませんでした。(『首里城に所蔵されていた国宝級の工芸品 被害状況分からず 財団は「現在確認中」』2019年11月1日)

 

担当者は、収蔵品の保管先に関しては「現段階ではどこにあるのか正確な場所を把握できていない」と話す。首里城内で収蔵庫などに保管されていた場合は焼失の可能性があるが、首里城以外の場所で保管されていたかを含めて同財団が確認を進めているという。

 

沖縄県でも玉城デニー県知事の言動や管理体制を批判する方も多く、上述したことは県民が言っている訳ではないのに、メディアが、市が、県がこんな調子なので、「だから沖縄県は...」と馬鹿にされるのです。

県民こそが怒るべきことではないでしょうか。

 

 

 

  


 

 

 

 

【首里城火災】21時頃に正殿内にいた財団職員と業者は何をしていたの?

公開:2019-11-10 11:04:41  最終更新:2019/11/10 15:13

このエントリーは後ほど図や記事などを追記して大幅に加筆修正する予定ですが、取り敢えず、出火(失火?)場所等、状況をメモします。

報道だと情報が小出しになるので、位置関係や状況が今一つ掴みにくいのですが、簡単にまとめると下の図のようになります。

 

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首里城祭の期間中のため、火災の直前は準備のために業者と指定管理団体の職員、そして公園内には警備員がいたことになります。(意図してか知らずか分かりませんが、報道は「公園関係者」という書き方をするときもあります。)

今年の2月1日から公園の管理が国から沖縄県に移譲され、指定管理団体に決まったのが「美ら島財団」です。(施設の所有者は国で県は賃貸料2億円を払っている。)

 

11月にはイベントが目白押しで、例えば、1日(金)に「国王・王妃出御」(三跪九叩頭礼をやる催し)、2日(土)と3日(日)の昼間は琉球踊、夜は「万国津梁灯火」(キャンドルやライトで装飾)、琉球踊(正殿石段を舞台として利用した画像がある)が予定されていました。

 

上図左側に時系列の一部を転載しましたが、21:00に業者が、21:30に財団職員が正殿奥の「南側バックヤード」に入って(退出して?)います。従ってその時間帯は開館時間中と同様に正殿内には照明が点けられていたはずで、財団職員が退出後の21:35に警備員はシャッターを閉めますが、この時には巡回せず、照明は21:30に自動的に切れる仕組みなので、照明も消していません。

右側の図に分電盤から延長コードが伸びていますが、これにはLED照明が繋がれていました。このコンセントと扇風機、防犯カメラの電源は分電盤から直接取っています。産経の記事によると、公園関係者(恐らく警備員)が「LEDは点けたままかも知れない」と答えているので、LEDの電源は自動的には落ちない仕組みで、この3つ(延長コード、扇風機、防犯カメラ)は自動ブレーカーの対象外なのです。

 

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記事:https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/495199 より

 

そしてその約5時間後に火災が発生します。(2:40 火災報知器鳴動)

火災の前の1:05には庭(御庭)で作業していた業者66人と職員3人が撤収し、警備員は巡回をしますが、正殿内は確認していません。

 

その後の検証で、「火災前は3~4メートルの1本のコードだったとみられる延長コードは、焼けて数センチごとの細切れの状態で見つかった。30カ所以上の熔融痕が確認された。」と報道されています。(『首里城火災 コード溶けた痕30カ所 正殿北東の電気設備 火災直前に白い発光体の映像も』)

これがLEDが接続されていた延長コードで、2月から使用していたそうです。(2月1日から正殿の裏側の庭が新たに公開され、恐らく、正殿のこの部分もそれに合わせて公開したため、照明が必要になったのでしょう。)

今まで、警備員以外は庭で作業していた業者(上記業者と同一かは不明)が電源は奉神門から取っていた(←当初は「南殿付近」と報道されていたが実際は正殿の正面の奉神門)と証言したくらいで、21時頃に正殿内にいた業者と財団職員が何かに気付かなかったのか?などの証言が出てこないのは不思議です。

まだ断定はできませんが、もし、管理ミスと判明したら、沖縄県は被害者から一転、国に弁済しないといけない立場になるんですが...

以下、後ほど追記します。→長くなるので記事を分けました

 

 

  


 

 

 

 

2019/11/07

와세다 대학에서 문희상 의장에게 야유 "사과해라!"

 

 

 

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タイトルは、日本語(早稲田大学で、文喜相議長に野次「謝罪しろ!」)→韓国語(와세다 대학에서 문희상 의장에게 야유 "사과해라!" ) に機械翻訳した後、再度日本語に翻訳(早稲田大学でムン・ヒサン議長にブーイング"謝罪しろ!」)して確認しました。

 

 

  


 

 

 

 

【韓国】早稲田大学で公演中の文喜相(ムン・ヒサン)国会議長に野次【動画】

5日、早稲田大学国際和解学研究所が文喜相(ムン・ヒサン)国会議長を招いて講演会を催しましたが、途中、聴講者から罵声が飛びました。

「上皇陛下に(対し、床に)頭をこすりつけて謝れ!」、「日韓関係を言うなら、それが当たり前だろ!」

 

 

 

キャプチャ。

 

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木村太郎氏:早稲田の学生の野次が全てを物語ってる。だって、何も謝ってないじゃないですか。誰に謝ってるのか。日本の国民に謝るんじゃ無くて、これはやっぱり、上皇陛下に謝るべき話なんで。「申し訳ありませんでした」と言うなら本当だけど、「私が言ったことが報道されて、それが失礼だったから謝ります」って話じゃ無いでしょ。

 

木村氏の仰るとおりで、それに、たまたまカメラが入ってニュースに流れたから国民もこの“謝罪もどき”を聞いたのですが、早稲田大学国際和解学研究所内で言ったに過ぎません。上皇陛下にはもちろんのこと、日本国民に謝罪したわけでもないのです。

韓国メディアの報道も調べて、ニュース動画なども見ましたが、ざっと見たところ、野次が飛んだことは報道されていないようでした。(「문희상 와세다」〔文喜相 早稲田大学〕で検索。)

 

なお、この来日はG20の国際議長会議への出席のためでした。

当初、3日の会議はドタキャンして、5日に予定されている「講演会」だけ出席する、という報道があり、(これは、韓国メディアの報道を見た方が、「3日の会議のキャンセルは誤報」とツイートしていらっしゃいましたが)この時に「講演会」はどこで?と思った方は少なくなかったのではないでしょうか?

そこで検索して見つけたのですが、既にサイトは削除されていました。しかし、キャッシュはまだ残っていたのでスクリーンショットを撮っておいたのが下の画像です。

 

20191105_waseda

 

早稲田大学国際和解学研究所で調べたら構成メンバーは分かりますが、所長は浅野豊美という教授です。

と、思っていたら、昨日(11月6日)のBS日テレ『深層ニュース』に出演されていました。

もう、完全に韓国の代弁者で、彼にとって「和解」というのは、日本側の一方的な「謝罪」なのだと理解しました。

日韓友好議員連盟もそうですが、相手の言うことばかり聞くようなら、真の「和解」など永遠にできないでしょう。

と言うか、「和解できない状態」が彼等のレゾンデートル(存在理由)だからかもしれませんね。

 

 

  


 

 

 

 

2019/11/06

【琉球処分】戦後の沖縄言論界で歪められていった沖縄の歴史【歴史学者 玉城有一朗博士講演】

先日の首里城火災をきっかけに、以前観た動画を観直してみました。

沖縄の歴史学者である玉城有一朗博士の講演動画で、テーマは「琉球処分」です。

そのことを書く前に、ある動画(沖縄の声)のコメント欄を読んで気付いたことがあるので、書き留めておきます。

下は、以前のエントリーに掲載した、平成の首里城再建後に米国公文書館で発見された沖縄戦での焼失前の首里城の写真ですが、これとこれ以外のモノクロの写真を見たときに、ブログ主の印象は「古い学校か何かみたいだな」でした。あるいは「神社みたい」と。

 

Syuri02

 

仮に建物全体が朱色でも、中国風というよりは神社のような雰囲気だと思わないでしょうか?

その理由は「唐破風」(からはふ)という玄関の屋根(下図)で、そり曲がった曲線状の破風だということに気付きました。これは桃山時代(16世紀後半、豊臣秀吉の時代)の建築の特徴で、「唐(から)風の破風」という意味ですが、まごうこと無く、日本建築なのです。

 

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下の画像は鎌倉の建長寺(鎌倉五山の第一の寺)の境内にある「唐門」の画像です。

 

Kenchoji_karamon

 

それが、再建された首里城がミニ紫禁城のような中国風味なのは、破風の下や柱の派手な装飾と前に立つ龍柱のせいかもしれません。

  

* * * *

 


【一般社団法人日本沖縄政策研究フォーラム仲村覚 】坂東忠信講演会 特別講師・玉城有一朗 歴史学者/2015/01/18

 

以前も当ブログで何度か「琉球処分」(琉球の廃藩置県)については書いていますが、この講義では徐々に沖縄歴史界で支配的な学者や言論により、本来は歴史上の出来事である「琉球処分」が、政治的な意味合いをもって使われるようになった経緯が分かります。正味30分程の講義ですが、固有名詞などが聞き取りにくいのと、広く目に留まるように文字にしておくのがこのエントリーの目的です。

以下、玉城有一朗先生の講義内容(発言内容)を要約し、適宜ブログ主が補足説明を括弧内などに追加します。

 

* * * *

 

琉球処分とは何か。結論から言うと 琉球国、琉球藩に対する廃藩置県の貫徹である。それは、当時の行政文書を調べれば分かるが、沖縄の歴史学会ではそういうことが認められていない。私が2001年に論文を書いたが、圧力がかかって公表ができなかった

そもそも「琉球処分」、あるいは「廃藩置県」と当時の人達は言っていたが、この歴史の評価が始まったのは1913年(大正3年)で、時期としては第一次世界大戦(1914年~)の頃、日本は不況のさなかにあり、沖縄の経済をどのように振興させていくのかという意識が県当局にあった。

太田朝敷(おおたちょうふ)という、当時は「開化党」に属していた言論人が琉球新報紙上で1913年に述べた評価は、「琉球処分は実質的に征服と言うことになってしまった。本土に比べると、7年乃至8年は遅れる形で沖縄県が設置されるまでの政治改革があった。琉球藩が廃止され沖縄県が始まるのに3~4年かかってしまったことは沖縄県にとって重荷になってしまった。」という趣旨の論説を発表している。

本土では、1869年(明治2年)7月、版籍奉還で日本の土地(版図)と人民(戸籍)が天皇陛下に奉還された。

その時、琉球国は鹿児島県の管轄地として一旦日本国に入っている。その時、奄美やトカラ(列島)大隅国(おおすみのくに)に再統合されている。

それから2年後、1871年(明治4年)7月に廃藩置県全国の藩を廃して府県が置かれ、中央集権化が完全に達成された。同年末には北海道のほか3府72県が置かれた。)が行われ、この段階で逆らった藩があったとしたら、明治政府は軍隊を送ってでも県を設置させると鎮台(ちんだい=軍隊)を編成。沖縄の直近では熊本の鎮台があった。

本土ではさしたる混乱も無く県が置かれ、琉球についてはどうするか議論されていたが、1871年11月に宮古、八重山の漁師達が台湾に漂着して54名が現住民に虐殺されるという事件(台湾事件、宮古島島民遭難事件、あるいは牡丹社事件)が起きている。

大久保利通が全権として北京に行き、清朝の官僚と交渉。これ以前の1871年9月13日(明治4年7月29日)に日清修好条規という対等な条約をに結んでいたので、国家間の交渉ができた。(台湾事件は台湾側では牡丹社事件と呼ばれ、清は「台湾は教化が及んでいない『化外の地』である」と責任を回避したので、日本政府は1874年4月に西郷従道(さいごうつぐみち)を指揮官として台湾に派兵=征台の役=し、台湾南部を占領。日本との開戦を避けたい清政府は賠償金を支払う。

丁度明治政府が沖縄の取り扱いをどうするかという議論をしている頃であり、大久保利通は宮古・八重山の漁民は日本国民であると主張し、新政府はこれに言葉を返せなかったと外交記録が残っている。

知事選挙(2014年 翁長雄志氏が現職の仲井眞弘多氏を破って当選)の前後にある先生が厚い本を出した。その中で、この文書が曲げて解釈されている。「琉球人は琉球国の国民であり、日本の国民でも中国(清)の国民でもない」と。その点については機会を見つけて正すべき事は正さないとといけないと思っている。

琉球処分という言葉が段々と変化している。

戦前に於いては沖縄県は日本国の一部であるという評価をする人が大半であった。

伊波普猷(いはふゆう)という沖縄学の大家が「琉球処分は一種の奴隷解放なり」と書いている。要するに、琉球処分に先立つ薩摩300年の苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)、即ち圧政を取り除いて、沖縄の人々を自由に至る道を開いたということ。本土とは同時に廃藩置県はされなかったが、日本の一部であるという認識が戦前は共有されていた。

戦後、1969年(昭和44年)前後に「琉球処分論」が沖縄の歴史学会で起きた。

丁度この頃、ベトナム戦争(1960~75年)もあり、世界の動乱と沖縄を関連させて評価しようという動きがあった。そこで「民族統一」が議論に上ってきた。太閤検地の理論化を行った安良城盛昭(あらきもりあき)という歴史家が、「上からの他律的な民族統一である」という視点に立ち、「当時の東アジア情勢の中で、日本国が近代主権国家として欧米と対等に互していくためには国境線の確定に取り組んでいたのではないか」とし、再度琉球処分を評価し直すべきという問題提起をした。

しかし、それに対して正面から応えることは、私が手を付けるまでは無かった。

安良城先生の意見に反論を唱えた先生がいたが、この方の説が現在は日本の歴史教科書では紹介されている。それは、「琉球処分というのは台湾事件をきっかけとして、1872年の琉球藩設置に始まり、1881年の(清との)「琉球分島」交渉決裂までの10年間の政治過程をもって「琉球処分」を定義する、と言う説。つまり、「台湾事件がきっかけで琉球国が武力で日本に併合された」という、「琉球国は元々日本では無かった」という前提に立つ説である。

この評価が出てきたのが1969年から72年、沖縄の本土復帰前後。

それから時間が経ち、4~5年前(動画は2015年なので2010年頃となり、この辺りの時系列は不明瞭だが、冒頭の説明によると2001年私が安良城盛昭の「上からの他律的な民族統一ではないかということを検証しろ」という問いに応えるべきではないかと論文を書いたところ、発表を止められてしまった

それから5年位して西里喜行(にしざときこう)という、沖縄の書店にも置かれているような近代の通史を書かれた先生だが、西里先生に因れば、「琉球処分とはまだ日中間で未解決の琉球帰属問題の中で最も決定的な時期を以て琉球処分という」と、少し定義をずらして、学問の言葉ではなく、どちらかというと政治上の言葉に置き換えられていくのがだいたい2005年頃から。

それまた4年後に、比屋根照夫(ひやねてるお)先生という政治思想史の専門家より、「琉球処分というのは歴史家の定義を越えて、沖縄の人々の中に定着していった『抑圧』を指す象徴的な言葉である。つまり、『抑圧』そのものが琉球処分である」と、学問ではなく、政治の言葉として定義してしまった。

この状況を危ないと私は思っている。

学問の装いをしながら一定の政治目的の実現の為に歴史の資料が曲げて解釈されたり拡大解釈される、あるいは都合のいいように書き換えられて、都合の悪いことは隠されたり薄められたりしている。そういう流れに正統性を与えてしまっている。

 

あと、新聞紙上等を見ていると、琉球処分というのが国際法に違反しているという理論がある。(『沖縄対策本部■新たな沖縄の歴史戦「琉球処分違法論」と無防備な日本政府』(2014/7/20)参照)

結論としては、琉球処分については国際法を適用する理由がない。

琉球処分は国際法によって規制、是正されるような事件ではない。

何故かというと、明治維新から明治12年の日本あるいは中国に国際法が適用されていたと考えていた国はない。その当時の国際法とはヨーロッパ中心で、(ヨーロッパから見たら)ヨーロッパが文明国であり日本や中国はヨーロッパに啓蒙されていくべき対象であった。

ヨーロッパと東アジアは対等でなかった。もし、日本と中国(清)間で戦争が起きたら、ヨーロッパ人が乗り込んできて分割、植民地化されるような時代だった。

その当時の中国を見たら分かる。アヘン戦争後(1839年~1842年)の南京条約で清の各地は分割されてイギリス・ドイツ・ロシア・フランス各国によって分割されて植民地にされていく。そういう時期に日本が琉球処分や台湾出兵の時に粘らなければ、沖縄も欧米諸国の植民地になっていた可能性がないとは言えない。

それだけ緊迫した情勢が明治維新期の日本の国際環境としてあった。欧米は日本やあるいは琉球を対等な存在とは見ていないので、琉球処分が国際法に違反する事件であったという評価は当たらない。

また、現在の国際法で琉球処分が違法と考えている方がいたらそれも間違いである。

何故かというと現在の規定を遡及して過去の事件に当てはめるのは法律の解釈としては成り立たない。従って、現在の国際法は琉球処分を批判する根拠にはなり得ない。

台湾事件は最終的に清が賠償金を支払った。

このことは、宮古・八重山、つまり琉球の人々は日本国民であることを認めたことになる。1874年(明治7年)のことである。

その当時、ベトナムに目を転じると、フランスが今のメコンデルタ一帯を植民地とする。清とベトナムとの冊封体制の一角が崩れたのが台湾出兵と前後するこの時期である。

 

※Wikipedia『ベトナムの歴史』「フランス領インドシナ」の項より引用

1887年 - 1945年。詳細はフランス領インドシナを参照

ベトナムの植民地化を図るフランスは、1883年の癸未条約(英語版)・1884年の甲申条約(英語版)によってベトナムを保護国化した。ベトナムへの宗主権を主張してこれを認めない清朝を清仏戦争で撃破し、1885年の天津条約で清の宗主権を否定した。1887年にはフランス領インドシナ連邦を成立させ、ベトナムはカンボジアとともに連邦に組み込まれ、フランスの植民地となった。阮朝は植民地支配下で存続していた。

 

その後、1875年に清への進貢船(琉球から進貢使が国書・貢物を乗せて中国に赴いた船/1874年が最後の進貢船)が停止されたことを受けて、清が抗議行動を行う。

これに呼応したのが所謂「脱清人」(明治初期の琉球処分に反対して清国に亡命し、琉球救援を要請した琉球王国における一部の人々)や、「白党、黒党」の「黒党」と呼ばれる親清国派である。

こうした士族の動きを抑えきれなかった琉球王府に対して明治政府がとったのは熊本の鎮台を琉球に派遣して沖縄県を設置することである。

脱清人や黒党の動きがなければ円満に沖縄県の設置ができたかもしれないが、彼等が外国政府の力で明治政府に対抗しようとした。そのためにやむなく明治政府は派兵した。(実際は無血開城)この辺りの評価を行う歴史家は学者は少ない。東アジアの国際情勢や中国等の歴史を考えながら評価をしていきたいと思っている。

 

* * * *

 

このエントリーを書くために玉城有一朗博士のプロフィールを調べようと検索してみても、琉球史に関する著書や論文が見当たりません。

講演の内容で想像がつきますが、沖縄にとって不都合な歴史観を発表しようとすると“干される”ということが分かります。

ここでは、Viewpointの『「抑圧」の象徴として政治利用 「琉球処分」の再考』(2015/2/02)という記事(会員向け-有料会員でなくても登録すれば読める記事)に書かれていた当時のプロフィールのみ以下に引用させて頂きます。

 

 たまき・ゆういちろう 「沖縄の歴史を取り戻そう」――常にこう訴える玉城有一朗氏は、昭和52年沖縄県那覇市生まれの歴史学者であり政治学者。琉球大学法文学部政治学科を卒業後、同大学大学院に進み、日本政治を中心とする歴史学および国際政治学を専攻。平成22年に博士号を取得、翌年には県内地方銀行に就職した。平成25年に現在の研究所に勤務、沖縄の歴史を研究、特に「琉球処分」の政治的な解釈に疑問をもち研究に取り組む。「琉球処分の間違った解釈が今日の沖縄の人の心に引き継がれている」との見地から「琉球処分」の正しい解釈を広めようと努めている。

 

さて、玉城有一朗博士によると、よく言われる「琉球王国」ですが、以前は「琉球国」と呼ばれていたようです。これは江戸時代に「○○国」と呼んでいたのと同じレベルなのを、さも独立国として存在していたかのようなキャンペーンの一貫のようです。と思ったら、首里城の再建や首里城公園の整備に携わった高良倉吉教授が『琉球王国』という本を著していました。

考えてみれば、首里城再建プロジェクトに関われたということは、そういう“立ち位置”の方だということは理解できます。

首里城の外観を中国風に寄せたのも頷けます。

このエントリーでは明治維新の「琉球処分」を取りあげましたが、これは1609年以降、薩摩の支配下置かれていたことを意味します。

そうだったのか「沖縄!」』(仲村覚氏、他著)の石井望・長崎純心大学准教授が書かれた章に詳しく文献も提示されて説明されていますが、1617年に明石道友が福建に渡航し、明国は薩摩による琉球併合を承認したことは記録(『皇民實録』)残っており、次の王朝の清国もこのことを知っていました。

  

20191031_nhk_syuri01

  

上の画像は今回の火災で焼失した建物を示した画像ですが、北殿はシナの官吏を接待するための建物で中国風、南殿は日本式で、薩摩藩の役人が詰めていた建物でした。(リンク先は首里城公園のサイト)

江戸幕府の禁教令も八重山まで届いていました。1624年には石垣島に宣教師が来て有力者の石田永将(いしだえいしょう)が改宗、一門に広めたことで処刑されています。(八重山キリシタン事件)

下は以前のエントリー『【尖閣諸島】中国政府がぐうの音も出なかった資料とは-明時代、中国人は尖閣への航路さえ知らなかった』に掲示した図ですが、台湾より北は薩摩が制海権を握っていたのです。

20180330_senkaku01

「琉球王国」というのはシナとの貿易をするためのカモフラージュであったのです。

 

他の玉城有一朗博士の動画などをメモする予定ですが、一旦ここまでで公開します。

 

 

  


 

 

 

 

2019/11/05

百済の陵山里古墳群の棺は日本にしかないコウヤマキで造られていた/発掘調査は日本統治時代

以前読んだ『法隆寺を支えた木』(NHKブックス/西岡常一、小原二郎著)という本を読み返してみました。

 

この本の著者の一人、西岡常一氏というのは最後の宮大工と呼ばれた方で、法隆寺の大工棟梁として昭和の大修理をや薬師寺の再建を手がけられました。もう一人の小原二郎(こはらじろう)氏は建築や木材工学の専門家で、小原氏の書かれたパートは木材についての学術的な記述になります。

公開:2019-11-05 12:18:56  最終更新:2020/11/16 7:58

先日、首里城のことを調べていて、首里城にはイヌマキ(犬槙=所謂「マキ」【※1】)が使われていたことを知り、それで、この本の小原氏のパートにマキのことが書かれているのを思いだしたからです。

 

【※1】 いぬ‐まき【犬槙】
マキ科の常緑高木。いわゆるマキのこと。元来はスギをマキと言ったのに対して、この種をいやしんでの名。暖地に自生。高さ20メートルに達する。樹皮は灰褐色で縦にさけてはげる。葉は線形。5月に小花を開く。種子は緑色で、基部にある仮種皮が赤色。材は耐久・耐虫性にすぐれ、器具用、特に桶類に適する。クサマキ。漢名、羅漢松。

広辞苑 第六版 (C)2008 株式会社岩波書店

 

「2 古代人と木」(P.162~)の章に書いてありますが、「古事記」と「日本書紀」には53種、27科40属の樹木が登場するのだそうです。

素戔嗚尊(スサノオノミコト)髭や胸毛などを抜いて撒くとが木が生え、尊はそれぞれの用途を指示するという逸話が紹介されていますが、「ヒノキは宮殿に、スギとクスノキは舟に、マキは棺に使え」と教えたということを書かかれているそうです。(詳細後述)

 

現在の韓国、百済の陵山里古墳群(ユネスコ世界遺産)を調査した尾中文彦博士は全ての棺にコウヤマキ( 高野槙【※2】)が使われていることを発見しました。コウヤマキは世界で一属一種、日本にしかない木です。つまり、日本から運んだものだったのです。(PDF『季刊 森林総研』No.34 P.1

 

【※2】 こうや‐まき【高野槙】 カウ‥
(高野山に多く産するからいう)日本特産のスギ科の常緑高木。会津地方と木曾地方より西に自生。高さ約40メートルに達する。樹皮は赤褐色でヒノキに似、葉は輪生。春、雄花・雌花を生じ、花後、球果を結ぶ。材は桶・船材・橋梁材としてすぐれ、樹皮は「まいはだ」と称し、水槽・船などの空隙をふさぐのに用いる。木曾五木の一つ。姿が美しく、庭園などにも栽植。ホンマキ。クサマキ。

※ブログ主註:コウヤマキは秋篠宮家の悠仁親王の「お印」ともなっています。

 

Korea_kofun01

 

小原教授は博物館で実物を見て、想像を遙かに超えた大きさだと驚いたそうですが、当時の日本人は既にそれだけの木材を伐採し、海を越えて運ぶという技術を持っていたことになります。

尾中博士はまた、朝鮮楽浪の古墳の棺材もコウヨウザン(広葉杉)というヒノキ科の木材で造られていることを調べました。これは中国には産しますが、朝鮮には分布しません。更に、楽浪と韓国の慶州の「金冠塚」古墳群からクスノキ(楠)も出土していますが、クスノキは日本や台湾、中国南部にのみ分布しており、済州島以外、朝鮮半島には分布していません。

日本の遺跡から出土する木製品も用材はおおよそ決まっており、例えば、登呂遺跡から発掘された田舟(深田で、苗・刈穂や肥料を運ぶ舟。苗舟)は素戔嗚尊のお言葉通りスギで造られていました。

日本人はこのように「木」というものを昔からよく知っていたわけです。

 

さて、百済の古墳の棺材がコウヤマキだということを韓国では知られているのだろうか?ということが気になるかも知れません。

たまたま尾中文彦博士のことを調べていて見つけたのですが、「棺材が日本にしか無いコウヤマキ」という事実が重要なエピソードとして使われている韓国の小説があるようです。〔チェ・インホ (최인호/崔仁浩)という作家の『第四の帝国』(제4의 제국)〕

ただ、事実とフィクションを織り交ぜたようなスタイルらしく、読者がこれを事実だと受け止めているかは分かりません。

 

なお、陵山里古墳群と同時(2015年)に世界遺産に指定された武寧王陵(宋山里古墳群)の棺材もコウヤマキです。位置は陵山里古墳群の東側。(ソウルナビの『宋山里古墳群』のサイト)

 

素戔嗚尊神話

み熊野ねっと」というサイトに「木の神・スサノオ神話」がありました。このサイトは他にも熊野に関する興味深い話をたくさん紹介しています。

ここでは、素戔嗚尊が木を創造した逸話部分を引用させていただきます。(是非、リンク先で全文をお読み下さい。)

 


http://www.mikumano.net/setsuwa/susanoo.html

 はじめイタケル(ブログ主註:五十猛神/イタケルノカミ)が天降るときに、たくさんの木の種をもって降ったが、韓地では播かずに、すべて日本に持ち帰って日本の国中に播いて、国土を全部青山にしてしまった
 この功によりイタケルは、有功(いさおし)の神とされ、紀伊国に鎮座する大神となった。

 また「一書に曰く」として、次のようなことも書かれています。

 スサノオがいうのに、「韓郷の島には金銀がある。わが子が治める国に船がなかったら困るだろう」と(『日本書紀』では、スサノオと奇稲田姫〔クシイナダヒメ〕の子が大己貴神〔オオアナムチノカミ。大国主神ともいいます〕。スサノオに代わり地上を治め、葦原中国〔アシハラノナカツクニ〕を作りました)。
 そこで、スサノオ、ひげを抜いて放つと、そのひげが杉の木になった。胸毛を抜いて放つと檜に、尻毛は槙に、眉毛は樟になった

 「杉と樟は、船を造るのによい。檜は宮を造るのに、槙は現世の国民の棺を造るのによい。たくさんの木の種を播こう」
 スサノオの子、イタケル、オオヤツヒメノミコト、ツマツヒメノミコト。この三柱の神が木種を播いた。
 その後、スサノオは熊成山(くまなりやま)を通って、とうとう根の国に入った。

 

韓国語Wikipedia

Wikipedia「武寧王陵」の韓国語ページを調べたら、木棺の材質について触れていました。どうやら博物館に置かれているのはレプリカのようですが、小原教授が博物館で実物を見てその大きさに驚いたと書いているように原木は相当大きなものだということがこれを読むと分かります。

以下は機械翻訳ママ

木棺の模造品

王と王妃が安置された木棺は九州地方の金の松(금송으로=コウヤマキのことらしい)であることが明らかになった。 金の松は日本で仏壇や墓の花として使われ、日本人には金の松は神聖な木とされている。 武寧王の官裁は樹齢300年以上の巨木で、金の松の身長30メートル、直径1メートル程度であったと考えられる。 金の松は木質が非常に硬く湿気に強いため最高の官材とされ、日本では支配階層のみが使用された。 王の棺は東側にあり、王妃の棺は内側、つまり西側に置かれていた。

また、武寧王陵で発見された青磁などの中国の物品は当時中国で作られたものとあまり差がないことから、武寧王の時代に国際交流が活発であったことが分かる。[3]

【原文】

목관의 모조품

왕과 왕비가 안치된 목관은 일본 규슈지방의 금송으로 만들어진 것으로 밝혀졌다. 금송은 일본에서 불단이나 무덤의 꽃으로 사용되며 일본인에게 금송은 신성한 나무로 여겨진다. 무령왕의 관재는 수령 3백년 이상인 거목으로 금송의 키가 30미터에 지름이 1미터 정도는 되었을 것으로 여겨진다. 금송은 목질이 매우 단단하고 습기에 강하여 최고의 관재로 여겨졌으며 일본에서는 지배계층만 사용하였다. 왕의 관은 동쪽에 있고 왕비의 관은 안쪽, 즉 서쪽에 놓여 있었다.

또한 무령왕릉에서 발견된 청자 등 중국 물품들은 당시 중국에서 만들어진 것과 별로 차이가 없는 것으로 보아 무령왕 때 국제 교류가 활발하였음을 알 수 있다.[3]

 

 

 

  


 

 

 

 

2019/11/03

【えっ?w】【韓国の長寿ブランド】500億本売れた国民的発酵乳「ヤクルト」

ヤクルトが韓国のものだと思っている韓国人が多いというのは知っていましたが、中央日報・日本版にこのような記事がありました。

 


https://japanese.joins.com/Jarticle/259199
【韓国の長寿ブランド】500億本売れた国民的発酵乳「ヤクルト」
2019.11.03 13:14

 

20191103_yakult02

 1980年代の韓国ヤクルトの広告。[写真 韓国ヤクルト]

 

◇主婦雇用創出…「ヤクルトおばさん」制度

販売量500億本。韓国の食品製品のうち単一ブランドで史上最多販売の歴史を書き続ける製品。ヤクルトのことだ。

ヤクルトは昨年基準で韓国の国民1人当たり970本を飲んだ国民的発酵乳だ。これまで売れたヤクルトの容器を積み上げれば世界最高峰であるエベレスト(8848メートル)の40万倍の高さとなる。

韓国初の乳酸菌発酵乳ヤクルトは1971年に初めて発売された。ヤクルト発売初期に世論は好意的でなかった。「菌にお金を払って飲むのか」という非難を受けたりもした。6月に死去した韓国ヤクルト創業者の尹徳炳(ユン・ドクピョン)会長はこうした世論にも乳酸菌が下痢や便秘予防などに効果的だとして無料試飲行事など積極的マーケティングを継続した。

積極的なサンプリングマーケティングは消費者の認識改善につながり、その後の販売に弾みが付いた。発売から6年過ぎた77年には1日販売量が100万本を超え、国民的間食として定着した。

(以下略)

 

記事を全部読んでも、韓国オリジナルの企業だとは書いていないのですが、日本企業とも書いていません。

韓国語のWikipediaを調べたら、一応ちゃんと日本で発明されたということは書いてあり、また、下記のように技術提携はなされていないようです。(下記はWikipediaの「韓国ヤクルト」〔韓国語版〕を機械翻訳)ヤクルト本社のIR情報では「関連会社」という位置づけなので20%以上の株式は所有しています。

 

  • 1969年11月:乳製品ヤクルト製造業などを目的に韓国ヤクルト乳業(株)を相互にして設立(払込資本金30百万ウォン)
  • 1970年09月:日本の(株)ヤクルトとの合弁契約を締結
  • 1970年12月:酪農水加工処理事業のための外国人投資及び技術導入か
  • 1972年05月:外国人投資企業登録
  • 1976年08月:日本の(株)ヤクルトと技術提携終了

 

とは言え、日本がルーツですよねえ。これは不買対象にならないでしょうか?

愛されているなら、それでいいのですが、都合が良すぎて笑うw

 

ヤクルトのことは、以前、産経の黒田特派員がコラムで書いていました。「起源を主張」しているわけではないようですが、メディアは敢えて日本ルーツということは言わず、韓国国民も日本ルーツと知らないというのが実際の所みたいです。

 


https://www.sankei.com/column/news/190629/clm1906290004-n1.html
【ソウルからヨボセヨ】ヤクルト・アジュマの功績
2019.6.29

 在韓日本人たちは韓国人からよく「日本にもヤクルトがあるんだってね」といわれるといって苦笑する。「ヤクルト」はそれほど韓国社会に定着しているため日本ルーツと知らない韓国人が多いというわけだ。

 今年、創立50年の「韓国ヤクルト」の創業者・尹徳炳(ユン・ドクピョン)会長が今週、92歳で亡くなった。韓国マスコミは韓国最初の乳酸菌飲料の生産などその功績をたたえるなかで、人気と親しみの「ヤクルト・アジュマ(おばさん)」のことを紹介している。

 日本では「ヤクルト・レディ」というようだが、小じゃれた帽子とユニフォームの女性配達員にカートを引かせるスタイルは、それまでの韓国における配達業のイメージと社会的地位を一変させ「ヤクルト・アジュマ」はあこがれの対象になった。しかも主婦を担い手にすることで韓国社会にはじめて企業として「主婦のパート」を導入し、主婦の生活空間を広げた。ヤクルトがもたらした「日本のビジネス文化」が韓国社会を変えたのだ。

 こうしたビジネス分野のみならず韓国への「日本の貢献」は無数に存在するのだが、残念ながら韓国ではマスコミをはじめそのことを国民に知らせない“日本隠し”が続いてきた。今回、韓国ヤクルトの歴史でも日本の貢献には触れないような雰囲気が感じられる。(黒田勝弘)

 

追記: ほぼ同じ記事が韓国語の中央日報にもありました。商品のバリエーションも異なるようです。(日本人らしきコメントがw)

 

  


 

 

 

 

2019/11/02

【沖縄・首里城炎上】首里城はテーマパーク。が、しかし、単なるハリボテではない。

公開:2019-11-02 13:16:37  最終更新:2019/11/12 8:00

首里城の建物の大部分が焼失しました。

このエントリーの目的は、焼失直後の様々な反応について記録として残しておくものです。

 

■「これで世界遺産ではなくなってしまう」!?

ブログ主が火災に気付いたのはテレビのニュースですが、その時はまだ消火中で、ニュースでは炎上する首里城を悲しげに見守る人達の姿を映していました。また、消火後は周辺の住民へのインタビューが幾つか流れ、「沖縄のシンボルが...」、「県民の心の支えが失われた...」というような悲しみの声と共に「これで世界遺産ではなくなってしまう」という男性の声がありました。

「えっ?」と思いました。

首里城の部分はその土台というか遺構部分のみが世界遺産です。(城壁も世界遺産ではない。)

首里城は他の遺構群と共に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として2000年(平成12年)に世界遺産に登録されましたが、ブログ主もその時に新聞記事で、「あれ?いつの間にお城が建ったの?」と思い、「建物は世界遺産ではないのだ」と気付いたので、沖縄の人なら当然知っていると思ったのです。(復元した建物でも忠実に再現されたものなら文化的価値が認められる。)

すると、チャンネル桜の「沖縄の声」(ネット番組)でも、キャスターの方が、殆どの沖縄県民は建物が世界遺産になっていると思ってると仰っていたので、ニュースでの男性の発言もなるほどと思いました。

以下は、この火災の後に知った(調べた)ことですが、

 

@david_villa_07_

知らない人が多かったので。
上に建ってる建築物は殆ど世界遺産では無く、戦時中に焼失した首里城の跡が世界遺産。
1、2枚目の石垣の遺構がそれ。
正殿の一階からガラス越しに見れた。
今回焼失した正殿などは70cm位底上げされて、その上に建ってる。
戦前の消失前の正殿などは国宝だった。

午前8:12 · 2019年10月31日

 

Syuri01

 

上のツイートに遺構の広範囲な画像がありますが、となると、正殿の地下以外は埋めてしまったことになりますが、それは世界遺産登録の妨げにはならなかったのか、あるいは、他の遺構群で十分だったのかも知れません。

そこで、首里城公園の公式サイトを見てみたのですが、驚くことに、世界遺産となった遺構については全く言及がないのです。そして、外観からは分かりませんが、正殿を取り囲む建物はカフェであったり、土産物店でした。(どちらも北殿)

それでは、そもそも、この首里城の再建はどんなコンセプトだったのでしょうか?

その前に、まずは、近年の歴史を振り返ってみます。

 

■廃藩置県後の首里城の変遷

今回の火災では沖縄戦での破壊ばかりがクローズアップされますが、それ以前に創建以来3度焼失しています。

廃藩置県(1871年)より遅れること数年、冊封体制にあった清と関係を清算するため、沖縄県の設置は1879年の琉球処分によってなされ、首里城に駐留した明治政府軍により改造されたそうです。本来なかった場所に窓が作られたり、壁が取り払われるなどしたそうです。(現代ビジネス『「世界遺産」は期待されすぎ!? 岩と虚構で成り立つ「首里城」、定番スポットの光と影  』岡本亮輔氏)

その後は主のいなくなった城は荒廃します。また、沖縄は明治以降財政が悪化、大正14年には政府に「植民地並みの特別会計を」と陳情する程財政が逼迫し、当時の首里市の市議会は首里城の取り壊しを決定します。

(画像は昭和20年の米軍の航空写真:左側の「ロ」の形の建物は尋常小学校だそうです。)

 

Syuri03

 

これを救ったのは東京帝国大学教授の伊東忠太(1867~1954年)らで、正殿の背後に琉球尚家の祖である源為朝と歴代王を祀る「沖縄神社」を創建、拝殿は正殿を利用しました。これにより、古社寺保存法の対象とし、国の予算が利用できるようになりました。

その後(1925年/大正14年)、国宝に指定され、国宝保存法の制定で国により保全されることになりました。名目は沖縄神社の社殿。昭和2年(1927年~)から7年の間に補強工事が行われました。(この項、惠隆之介氏の説明とAERAの記事【※3】、首里城公園のサイトより)

そして、戦火による焼失後は跡地に米軍によって大学が建てられていました。

 

■首里城は歴史テーマパーク

琉球大学の跡地利用という位置づけだと言うことが、後述する岐阜女子大学のサイトに書かれています。(再建プロジェクトの中心となった高良倉吉教授の言葉)

 

そのことによって琉球大学が国立大学になりまして、キャンパスが狭いというので、首里城の跡に置かれたキャンパスから、現在の新しいキャンパスを求めて移転するということになり、琉球大学が移った後に、その場所をどのように使いますかという跡地利用検討というものが始まっていって、実は私はそのときから深くかかわったというわけです。
検討委員会が何度も開かれましたけれども、結論は、首里城の建物の復元を含む歴史公園として整備したらいいじゃないかというようなことに決まりました。誰が考えても、結論はそのようにしかならないわけですね。

 

■戻されなかった「沖縄神社」

なお、戦後移された沖縄神社は公園には戻されなかったそうで、現在では公園から1kmほど離れたところに小さな祠で祀られたままです。

 

20191101_chsakura_okinawajinja

 

 

■首里城はフィクションだが単なるハリボテではない

ブログ主は「心の支え」だったという人達を否定するものではありません。個人の感情は様々だからです。

実は、火災の報を聞いて真っ先に調べたのは、再建された首里城とはどんなものであったかということです。すると、再建プロジェクトに関わった人達の苦労の跡が分かり、ここで初めて首里城の焼失を惜しいと思いました。焼失した建物は考証や調査、宮大工【※2】や職人とも協力した研究の成果なのです。

資料が少なく、米国公文書館でカラー写真が見つかった(2014年)のは正殿再建(1992年)後のことだったようです。

 

Syuri02

 

Wikipediaの情報ですが、復元の為に屋根瓦の色を老人に聞いても、赤から黒までバラバラだったそうです。恐らく、御一新(明治維新)の後は関心もなかったのでしょう。こちらの那覇市歴史博物館のサイトでかなり解像度の高い写真が見られますが、ボロボロです。

この再建は「三度目の火災の後再建された1715年(正徳5年)から1945年(昭和20年)までの姿を基にしている」とのことで、その当時は「薩摩藩から2万本近い原木を提供」されたそうです。

とかく、中国風のケバケバしい色が話題にされますが、瓦の色はともかく、ブログ主の目には、正面の柱などは朱色が塗られていたように見えます。

【2019/11/12追記】2019/11/11放送のチャンネル桜『沖縄の声』で「友寄絵図」(ともよせえず/明治14年)というのを知りました。首里城全体を俯瞰した絵なのですが、御庭周辺のみをクローズアップしたのが下の図です。

 

20191111_okinawanokoe_tomoyoseezu

 

前述のように、沖縄の廃藩置県は1879年(明治12年)だったので、この図は琉球王府時代を表していると言えます。この絵を見ると、正殿は玄関のみ朱色に塗られています。奉神門を見ても一部に「赤」い絵の具を使っているところを見ると、それ以外の薄い赤茶に塗られている部分は「赤」では無かったのでしょう。

また、昭和4年(1929年)に撮影された、正殿の前で空手の演武をしている写真(下図/Wikimediaより)を見ると、窓と窓の間の柱の色は濃くなっています。それで、改めて米国公文書館の写真を見ると、柱には朱色が残っているように見えます。恐らく、部分的に朱色を使ったというのが正しいのかも知れません。

 

Karate ShuriCastle

 

正殿の前の灯籠が神社である事を物語っています。

 

再建プロジェクトについて詳しくは、

 

 

に書かれていますが、城内に植える木一つとっても、写真では正確な樹種が分からず、土を掘り起こして発見した根からガジュマルと判定したり、それはそれは地道な作業です。

とは言え、資料が乏しく、前述の現代ビジネスによると、復元された首里城にはかなりのフィクションがあるといいます。

 

もちろん、復元首里城は学術的にも精密な考証を経ている。しかし、あくまで学問的想像力に基づく再構成だ。たとえば正殿の建物は18世紀初頭の資料を元に設計されたが、そこに置かれた国王の椅子は15世紀頃の王の肖像画を元に製作された。本来、同時に存在することのなかったものが組み合わされており、復元首里城はブリコラージュ作品とも言える。

 

また、再建当時、中国風が強調された姿に批判的な意見もあったようで、再建プロジェクトでの考証に疑問を感じる他の専門家も少なからずいるようです。

 

正殿以外の他の建物の内部はほとんどコンクリート製です。沖縄サミットの会場として使われましたが、再建プロジェクトは「歴史的建造物の再現」と「現代的な利便性」のバランスを取るのに苦労したのではないでしょうか。

 


https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191031/k10012158501000.html
首里城火災 焼失した7棟は
2019年10月31日

20191031_nhk_syuri01

首里城公園管理センターなどの発表によりますと、今回の火災では首里城の最も中心的な建物の「正殿」をはじめ「北殿」や「南殿」、「書院・鎖之間(しょいん・さすのま)」、「黄金御殿(くがにうどぅん)」、「二階御殿(にーけーうどぅん)」、それに、「奥書院(おくしょいん)」の7棟が焼けました。(中略)


琉球王国の象徴「正殿」

国王が執務した「正殿」は漆が塗られた朱色の壁が特徴の高さ15メートル余りの木造3階建ての建物で、平成4年に復元されました。(中略)

そのほかの建物

北殿は外観は木造ですが、高さおよそ9メートルの鉄筋コンクリートの建物で、九州・沖縄サミットで各国首脳を招いて開かれた晩さん会の会場となりました。

南殿・番所は、外観は木造ですが、高さおよそ11メートルの鉄筋コンクリート2階建てで、資料の展示スペースとして活用されていました。

奉神門は、外観は木造ですが、高さおよそ10メートルの鉄筋コンクリートの建物で、正殿のある御庭に入る際の最後の門となっています。

このほか、書院・鎖之間は木造平屋、黄金御殿と二階御殿は鉄筋コンクリートと木造を組み合わせた造りになっています。

2000円札の絵柄となった守礼門は(しゅれいもん)、御庭から200メートル以上離れた場所にあります。

 

 

首里城をイデオロギーや政争に利用するな

最初に消失直後の県民の声をご紹介しましたが、SNS等を見ていると、なにやら不穏な声も散見されます。そこで早速、沖縄を愛する保守の方々からは「政治利用するな」という声が上がっています。

そもそも、平成の再建の当時からこのような声があったそうです。(篠原章氏ブログ『首里城燃ゆ』2019/10/31)

 

高良先生はしばしば、「復元作業の過程で左翼陣営の人たちから、“支配と搾取と奢侈の象徴である王族の城など復元しても無意味だ”と批判された。“そうじゃないんだ。大工や職人を中心に当時の琉球の大衆が身につけていた技術と文化の結晶が首里城なんだ。たんなる支配・搾取・奢侈の象徴などではない”といってもなかなか理解されなかった」と語っておられた。ぼくは高良先生この言葉に感動を禁じえなかった。

 

また、沖縄は本島でさえ地域差があり、現在は那覇市の一部ですが、「首里」はまた別の意識があるそうで、特に離島の方にとっては、重税に苦しめられた歴史があるので、左翼で無くとも、「圧政の象徴」というイメージがあるのだそうです。(人減らしの歴史を物語る場所もあります。)

今回もすかさず再建の話が出てくると、保守の間からも、理由は様々ですが、再建するなという意見やセンチメンタリズム全開の論調への批判が出始めました。一部をご紹介します。(下記ブログはどちらも『沖縄の声』キャスターの方)

 

 

10月31日11月1日放送の『沖縄の声』でも、焼失は残念としながらも、首里城を「琉球独立運動」や「中国の属国化」の道具にするなという警鐘を鳴らしていました。

そう。首里城礼賛は「琉球王国の美化とそれを潰した明治(日本)政府」という沖縄特有の歴史観に繋がりやすいのです。沖縄では、「島くとぅば」と言って、本来地域毎に異なる方言を統一して「琉球民族」を意識させる教育を行っています。(なにやら、「アイヌ」と似た流れ)

極端すぎる意見でいちいちリンクは貼りませんが、「政府が再建したら、益々沖縄の基地負担を押しつけられるから、いっそのこと中国にでも頼ろう」というツイートも見かけました。これは“左翼陣営”の声。

11月1日の虎ノ門ニュースでは出演者の須田慎一郎氏が、「国の方針に逆らいながら金を無心する沖縄県」に対して多くの人が感じているであろう気持ちを想像して『(国民の)モヤモヤとする気持ち』と表現していました。

前述の篠原章氏はブログでイベント利用の多さに苦言を呈されていました。

 

ただ、正殿や隣接施設を利用しての祭りが多いことは気になっていたし、今年の2月1日から首里城有料区域の管理者が国から県に移行したことについても不安は感じていた。(中略)歴史的建造物がほとんど残されていない沖縄県において、復元されたものとはいえ唯一の歴史的建造物といってもいい首里城にかかる負担がちょっと大きすぎるのではないか、と感じていた。

 

沖縄タイムスなどは早速、『首里城火災で政府与党、異例のスピード対応 選挙苦戦の沖縄で、県民の理解を引き出したい思惑か』(2019年11月3日)と穿った見方の記事を書いていますが、玉城デニーが早々に“物乞い”【※3】をしておいて、なんという言い草。

 

実際に、火災は首里城祭の最中で、火災がなければこの後、ロウソクやライトを使ったイベントと冊封の儀式(三跪九叩頭礼)のイベントが行われるはずでした。

次に再現されれば5度目の再建となるのですが、SNSで情報発信が容易くなった現在では一筋縄ではいかないようです。

 

どうやら、今後何百億もの国税が注ぎ込まれそうなので、国民の一人として意見を言わせて貰うと、次は「高価なおもちゃで遊ぶな」、「遊ぶなら外(中庭以外)でやるか、中でやるならディズニーランドのようなハリボテで十分」と言いたいです。

 

今回知ったのですが、首里城は本来はイヌマキの木【※4】で造られていたそうです。マキというのは日本では宮殿や寺社に使われることは少ないと思いますが、沖縄の気候には適した建材なのだそうです。

しかし、沖縄には既にイヌマキはなく、仕方なく県外から木材を調達したとのことですが、NHK(BS1)のニュースで、台湾から輸入した台湾ヒノキだと知りました。父親がヒノキを売ったという業者の方が「父の最後の仕事だった」と残念そうに語っているのを聞いたからです。一部は鹿児島と宮崎から調達したイヌマキを利用しましたが、今では入手困難だそうです。

ブログ主は一時、最後の宮大工と呼ばれた故・宮本常一氏に興味を持ち、様々な本を読んだり、実際に奈良に出かけて薬師寺や法隆寺を見学(拝観)したり、ビデオも購入したりするほど熱心だったので知っているのですが、薬師寺再建のためのヒノキは最早国産のものの調達がコスト面でも難しく、台湾ヒノキを使うことになりました。業者を見つけるのも簡単では無かったのですが、そんなに立派なお寺を建てるためならと承諾してくれた業者が見つかり、宮本棟梁が1本1本選びました。

その後、台湾では伐採制限が掛けられ、間に合って良かったという話を読んでいたので、首里城のためにヒノキを売ってくれたと知って少し驚きました。

せっかく売ってくれた貴重なヒノキを30年で灰にしてしまったのです。

歴史公園の整備もつい最近まで続いていました。再建するにしても国はホイホイとお金を出すのではなく、県民も再建プロジェクトに関わった方達の苦労を思い遣ったり、その費用の重みを噛みしめるのが先だと思います。

良心的な県民ならどれほど恥ずかしく思うでしょうか。

 

* * * *

 

【※1】 AERAの記事


https://dot.asahi.com/aera/2019110100086.html?page=2
首里城焼失に復元事業の権威が落胆 「沖縄伝統木材の調達が困難か」
2019.11.1 18:20

(前略) 1912(明治45)年、首里城内に小学校(当時尋常高等小学校)が建てられると、荒廃した正殿が倒壊すると危険との判断から取り壊しが検討された。この動きを止めたのが、東京帝国大学教授の伊東忠太(1867~1954年)たちだ。1923年に沖縄で文化調査を行っていた伊東らは、正殿の取り壊しが間近に予定されていることを知り、内務省に保存の重要性を訴え、取り壊しの中止を要請。この電報が届き、取り壊しは寸前で回避された。

 当時、文化財保護法は制定されておらず、城は1897年制定の古社寺保存法の対象外だった。このため、伊東たちは正殿の背後に沖縄神社を新たに建て、正殿を神社の拝殿と位置付けることで国の予算で修復できるよう取りはからった。

 その後、正殿は国宝に指定。1929年制定の国宝保存法に基づき国の責任で保全されるようになった。しかし、1945年の沖縄戦で焼失。戦後、58年に守礼門が復元され、86年には国が国営公園整備事業として首里城の復元を決定した。

(中略)戦災で沖縄には巨木がほとんど残っていなかったため、前回の復元時は主に台湾産のヒノキを取り寄せた。ほかに、沖縄の特色を少しでも出したいとの思いから、沖縄で「チャーギ」と呼ばれるイヌマキ科の伝統木材を一部で使用したという。ただ、これも沖縄では調達できなかったため、鹿児島県と宮崎県で探し、沖縄へ運んだ。しかし今では、九州南部でも確保は困難だという。

■地元の職人に技術を継承

一方で前回より有利な点もある。復元のための図面などの資料がそろっていることに加え、建築や彩色を担う職人が沖縄の地元で育っていることだ。復元事業の当初は、宮大工や漆職人を本土から招いていたが、長期にわたる事業の間に地元の職人に技術が継承されているという。

「これは首里城の復元に長い時間をかけてきたおかげかもしれません(笑)。だから今度は、技術的なことは地元の人たちで十分対応できるはず。そこは安心材料です」(鈴木さん)

10月31日朝に首里城焼失のニュース映像をみたとき、鈴木さんは「俺は30年間、何をやってきたんだろう」と落胆したという。だが、未来に宝を残す、タスキをつないだ一人であることは間違いない。

 

 

【※2】 福井新聞記事


https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/964728
首里城復元した宮大工ら言葉失う
福井の職人、全焼に「ショック」
2019年11月1日

 沖縄戦災復興の象徴とされた首里城復元工事の中心を担ったのは、福井県の宮大工たちだった。職人の技が惜しみなく注がれた首里城が全焼した10月31日、正殿の屋根が焼け落ちるテレビ映像を目の当たりにした宮大工は「あまりにもショック」と肩を落とした。

 復元に携わったのは藤田社寺建設(福井県永平寺町)。越前大仏の建設に台湾ヒノキを使用していたことから、同じ木材での復元を目指す正殿工事の要として白羽の矢が立った。1992年の完成まで、10人を超す精鋭が3年以上現地に滞在。現地の宮大工と汗を流した。

 当時、副棟梁として図面や施工管理を担った山本信幸さん(61)は「当時としては木造建築最大級の復元工事。地元愛の強い沖縄の県民性もあり、ものすごい重圧だった」と振り返る。そうした中、心魂を注いで一大プロジェクトを成し遂げただけに、正殿が焼け落ちる映像に「あまりにもショック。言葉を失った」と肩を落とした。その一方、「一から復元に携わった人間として少しでも役に立ちたい」とも語った。

 首里城一帯の復元は2018年まで続き、藤田社寺建設は正殿に隣接する御殿などの工事も担った。三浦博之社長(62)は「来年には傷んでいた正殿の柱を入れ替える予定だったのに…」とショックをあらわにし、棟梁の近藤克昭さん(40)は「再び復元するには10年、20年を要するかもしれないが、早く元通りになってほしい」と願った。正殿復元に合わせ現地で採用された沖縄出身の與那原幸信さん(53)は「セキュリティーが厳しかった正殿で、どうして火が出たのか不可解」と話した。

 

【※3】 産経記事


https://www.sankei.com/politics/news/191103/plt1911030012-n1.html
首里城復元費、振興予算と別なら「県民安心」 玉城沖縄知事
2019.11.3

沖縄県の玉城(たまき)デニー知事は3日、焼失した那覇市の首里城復元に必要な経費について、沖縄振興予算とは別枠での措置を求める声が与党内で上がっていることについて「そのような話で政府が決定していただけるのであれば、この上ないことだ。多くの県民も安心するだろう」と述べた。那覇市内のホテルで記者団の質問に答えた。

 玉城氏はまた、「首里城の件に関しては政府としっかり協力してやっていきたい」と語った。沖縄の本土復帰50年にあたる令和4年までにまとめる首里城再建計画を検討する枠組みに関しては「国の動向とうまくリンクできるように、カウンターパートの県として動けるようにやっていきたい」と説明した。

 首里城復元経費をめぐっては、公明党の斉藤鉄夫幹事長が2日に「沖縄予算に圧迫が加わらないような形でやるべきだ」と述べていた。政府は3年度まで沖縄関係予算3千億円台を確保するとしているが、今回焼失した正殿など7棟は前回復元時に約73億円を投入している

 これに先立ち、玉城氏は県功労者表彰式典に出席し、「一刻も早い首里城の復元に向けて全力を尽くしてまいる」と語った。

 

 

【※4】 FNN記事


沖縄にゼロからイヌマキの森を作る。首里城を守るためにできることとは?
<SDGsのランナー>高良倉吉さん
2018年9月1日

  • 沖縄県の首里城に必要な樹木イヌマキ
  • 1992年の復元作業で調査をすると沖縄に1本も無かった
  • 将来の修復で使うため、25年前から地道な植樹作業を続ける

(以下略)

 

 

  


 

 

 

 

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