【ベルリンの壁】ベルリンの壁について日本人が勘違いしていること
本題に入る前に、今朝の産経新聞に面白いコラムがあったのでご紹介します。
https://www.sankei.com/column/news/190730/clm1907300009-n1.html
【ベルリン物語】壁崩壊 日本人も“一役”!?
2019.7.30米ソ中心の東西冷戦の象徴だった「ベルリンの壁」の30年前の崩壊に、日本人が図らずも“一役”買ったとすれば驚きだ。当時、ソ連勢力下のハンガリーで首相だったネーメト・ミクローシュ氏(71)が興味深い逸話をしてくれた。
ネーメト氏は1989年春、隣国オーストリアとの国境の鉄条網を撤去。その後、ハンガリー経由で西欧への脱出を目指し、流入した東ドイツ(当時)市民にオーストリア国境を開放した。これを機に東独で市民の流出が加速し、デモも激化。ベルリンの壁が崩壊した。
鉄条網撤去の最大の理由は維持管理の財政負担軽減だ。ただ、ネーメト氏は別の重要な理由に、オーストリアと当時、国際的な博覧会共催を計画していたことを挙げた。東西に分断された世界の「懸け橋」としてアピールするためだ。
鉄条網をめぐる議論でネーメト氏は博覧会に来るアジアの訪問客を取り上げ、日本人は「カメラを肩から下げ、あらゆるものを撮影する」「彼らはオーストリア経由でハンガリーに入るが、最初に目にするのが鉄条網。印象が悪い」と、撤去を主張したという。
その時代、日本人観光客といえば、常にカメラを首にぶら下げるなど、揶揄(やゆ)するようなイメージが確かに広がっていた。それが歴史的に重大な決定を後押ししていたとは…。(宮下日出男)
鉄条網の撤去の理由の一つが、海外、特に何でも写真に撮る日本人に見られたくないから、というのは面白いですね。
それだけでなく、このコラムは日本人があまり知らない(?)ことを書いています。
1989年春、隣国オーストリアとの国境の鉄条網を撤去。その後、ハンガリー経由で西欧への脱出を目指し、流入した東ドイツ(当時)市民にオーストリア国境を開放した。これを機に東独で市民の流出が加速し、デモも激化。ベルリンの壁が崩壊した。
少し前にTwitterで話題になっていて気付いたのですが、下の画像のような「ベルリンの壁崩壊」のシーンがあまりに印象的だったからか、1989年11月9日のあの日に民衆革命か何かが起こり、一気に東ドイツの体制が崩れたかのように思っている人が多いようです。
「ベルリンの壁崩壊=東ドイツ体制の崩壊」は間違いと言うほどでもないのですが、あまりにもこの「ベルリンの壁崩壊」という言葉が象徴的に使われているので、勘違いしている人が多いのではないでしょうか。
上のコラムも「壁崩壊」をそのような意味で使っていますし、試しにWikipediaで調べたところ、「ベルリンの壁崩壊」が独立したトピックになっているのは日本語だけです。
コラムに書いてあるように、実は、この年の春からハンガリー経由でオーストリアに脱出する東独国民が増えていました。
最近は「東欧」の記憶がない方もいるので念のために書きますが、東欧圏ではハンガリーは民主化がいち早く進みましたが、少し前まで一応「東側」の国でした。従って、東独国民はハンガリーへは比較的入りやすかったのです。こうした東欧の民主化の波に押されて東独も倒れたわけですが、それは既に1989年の春から始まっており、11月9日に劇的に起きたわけではありません。
もう一つ、Twitterを見ていて気づいたのは、まるで、「壁」が東独と西独を隔てていたかのように思っている人が散見されたこと。
「ベルリンの壁」というように、まさしくベルリンを「東側」と「西側」に隔てていたものなのです。
簡単に説明すると、ドイツは戦後、米英仏ソによって統治されました。この4カ国で共同統治などできるわけもなく、ドイツは間もなく西と東に分断されました。
ベルリンは東ドイツにありましたが、ベルリンが特殊なのは、ここに各国の司令部が設置されていたことです。
つまり、東(ドイツ)の中にベルリンがあり、その中が東と西に更に分割されていたわけで、特にベルリン市民にとっては家族や親戚、友人とを理不尽に引き離されてしまっただけでなく、すぐ目の前に行きたくとも行けない「西側」があるという状況でした。
西ドイツから西ベルリンには陸路と空路で繋がっていました。
ブログ主は2000年頃にベルリンにある「壁博物館」(die Mauermuseum)に行きましたが、ここはアメリカの検問所、通称「チェックポイント・チャーリー」の跡にあります。中では、例えば、西ベルリンに逃げる為に中に人が隠れられるようシートを改造した車が置いてあったり、気球で逃げようとした一家の映画(多分再現ドラマか何か、確か、1回目の試みでは壁の数メートル手前で落下してしまった。)見ることができます。
民衆が壁を壊すシーンは東ドイツ政府が「国民が自由に西ドイツに旅行できる」法律が発表された後に起こったもので、これがあまりにも象徴的なシーンであったために、ベルリンの壁の破壊シーンと東ドイツの崩壊が、なにか劇的に起こったかのように刷り込まれてしまっているかと想像します。
YouTubeにある、昔やっていた『トリビアの泉』の『ベルリンの壁は勘違いで崩壊した』のコメントを見てもそういう勘違いをしているらしきコメントが見られます。
タイトルからしてややミスリードさせるものですが、動画を観れば分かるように、法律の発表後は混乱することが必至なので、警備体制を敷くなど準備の時間を設けるために翌朝に発表しようとしていたところ、担当者が今すぐ発表してもよいと勘違いしてしまったというエピソードです。
担当者が勘違いしなくても、翌朝には「ベルリンの壁崩壊」が起きたわけで、それが数時間早まったに過ぎません。(でも、夜に壁の崩壊があったお陰で、ブログ主は勤務中に会社のテレビで同僚と一緒に観ることができました。)
ですから、スタジオの盛り上がりや恣意的な字幕とは事なり、担当者だった男性は淡々と経緯を話しています。
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