【書籍】『英国人捕虜が見た大東亜戦争下の日本人―知られざる日本軍捕虜収容所の真実』/川崎の捕虜収容所
最近入手した書籍『英国人捕虜が見た大東亜戦争下の日本人―知られざる日本軍捕虜収容所の真実』〔 デリク・クラーク (著), 和中 光次 (翻訳) 〕の覚え書きです。
たまたまSNSで見かけて興味を持ったので注文し、つい先日、手元に届きました。
タイトルを見て、会田雄次の名著『アーロン収容所』を思い出すのはブログ主だけではないと思いますが、ブログ主が興味を持ったのは、著者が川崎の収容所に(も)いた、という事も大きな理由です。
会田氏は捕虜収容所でとったメモを持ち帰ったと記憶していますが、この本の著者は戦後、記憶を辿ってこの原稿を書いたようで、また、当時の様子を表す挿絵も多数描いています。
『アーロン収容所』にも会田氏自身で描いたイラストが挿入されていて、なかなか上手なのですが、クラーク氏は更に見事な絵で、また、日本での出版に当たり、写真や地図、訳者による註も丁寧で、史料としても役立つ工夫がなされています。
まだ一部しか読んでいませんが、会田氏同様、親日的(会田氏の場合は「親英的」)であるわけではありません。しかし、当時の様子の生き生きとした描写は大変興味深く、読み物として面白いものです。(会田氏の『アーロン収容所』の場合は更に深い人間観察力や洞察力が加わります。)
しかし、アーロンは敵から攻撃される心配の無い場所だったのに比べ、東京(主に芝浦)では空襲を受けており、第二分所と呼ばれた川崎では大規模な空襲に遭遇し、そのことは「地獄の川崎」という章に表れています。
寡聞にして、ブログ主は川崎に捕虜収容所があったことを知らなかったのですが、そこで、その章を真っ先に読み、少し調べたものを個人的メモとして後述しますが、それ以外に、この本が届いてパラパラとページを捲ってみたときに、捕虜達が収容所内で劇を楽しんでいる写真に目が留まりました。
その写真の脚注を読んでみると、大映の協力で衣装を調達したとあります。『アーロン収容所』では捕虜達が物資をくすねて衣装などの材料を調達するのと大違いです。
下はブログ主が以前観た『日本におけるドイツ人捕虜 1914-1920』展のカタログから、つまり、第一次世界大戦の捕虜の様子ですが、ここでも制約の多い生活ながら、捕虜達は様々なリクリエーションを楽しんでいたようです。
ブログ主覚書
川崎にあった第二分所とは扇島(おおぎじま)にあり、これで大凡の場所は分かったのですが、本に掲載されていた地図と『今昔マップ』で位置を確認しました。(→URL)
下は、総務省の「川崎市における戦災の状況(神奈川県)」に掲載されていた地図を加工したもの。
工場が多い臨海部は空襲の被害も甚大で、③の大師公園とは川崎大師に隣接する公園で、ブログ主の家もこの近くにあります。
子どもの頃、祖母から空襲の話を聞いたことがあっても、あまり生々しい話ではなく、その恐ろしさは分からなかったのですが、下に提示する画像を見ると、ほぼ焼き尽くされました。
下の画像は以前のエントリーに掲載したものですが、市役所の時計台が壊されることが決まったときのテレビニュースのキャプチャで、上の地図の①の辺りです。(他の画像はリンク先を参照)
なお、『英国人捕虜~』の訳注でも言及されている『川崎空襲・戦災の記録』(上、中、下/ダイジェスト版)は市役所で入手可能とのこと。郵送でも入手可能のようです。(URL:http://www.city.kawasaki.jp/170/page/0000009073.html 川崎市のサイトはよくURLが変わるので注意)
川崎を含めた捕虜収容所でお亡くなりになった方のリストはこちらのPOW研究所というサイトにあります。
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