【アイヌ】関東のアイヌ語の地名!?のトンデモ説はどこからきたのか?
北海道から遠く離れた場所なのに、○○(地名)はアイヌ語由来とかアイヌの聖地とか、まことしやかに言われる場所があります。
アイヌが住んでいたわけでもないのに、そんなことあり得ない、と思って無視していましたが、そういう説をいまだに唱える人がいることのヒントになる文章が『金田一京助全集 第12巻』(三省堂)に収録されている『アイヌ文化と日本文化の交渉』(昭和33年2月発表)にあり、興味深いことが書いてあるのでご紹介します。
さすがに、昭和33年ともなると金田一博士も「アイヌ原住民説」は否定されていて、論文の冒頭に、本論に入る前の“前振り”のような形でそのことを書いてあるのですが、ご紹介するのは、その冒頭部分です。
「灰色な模様付き土器」(おそらく縄文土器)を「アイヌ式土器」と呼ばれた時期があったというのは驚きです。
モースの名前を間違えているくらいなので、考古学の世界はそれほど詳しくなかったとは思われますが、それでも「アイヌ式土器」という言葉を耳にされたことがなければ、このように書くとは思えません。
そして、土器を根拠にアイヌが日本全土に住んでいたと考え始め、各地の地名をアイヌ語で解釈するということが流行ったようです。
特に、白野夏雲(しらの かうん)というアイヌ語研究者が明治16年に、、チェンバリン(現在はチェンバレンと表記が普通※)が明治20年に、アイヌ語で地名を解釈する本を出しました。その後、“アイヌ=日本の原住民説”が否定された今日(=明治33年当時)でも、時々、これを試みる郷土史家がいる、とのことです。
※チェンバレン【Basil Hall Chamberlain】
イギリスの言語学者。王堂と号す。1873年(明治6)来日、86~90年東大で講じ、近代国語学の樹立に貢献、また東洋比較言語学を開拓。著「アイノ研究より見たる日本の言語神話及地名」「日本国語提要」「琉球語文典及び字彙」など。(1850~1935)
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弥生土器が東京の本郷弥生町の貝塚で発見されたのは1884年(明治17)で、大森貝塚がE.S.モースによって発見されたのは1877年(明治10)なので、明治16年や20年では土器の時代区分はおろか、発掘物の研究はまだ進んでいなかったのでしょう。
なお、弥生土器は最初「弥生式土器」と出土場所にちなんで呼ばれましたが、その後、同形式の土器が日本各地で出土するに従い、縄文土器と同様に総括的に「弥生土器」と呼ぶようになったのだそうです。(ブリタニカ国際大百科事典)
また、大森貝塚から出土した土器(下図・上)は後期の縄文土器なので、縄文土器といって誰もが思い浮かべる火焔土器(下図・下)とは異なり、もう少しシンプルです。
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ここで重要なのは、遅くとも昭和33年には、日本各地の地名=アイヌ語源説は否定されていた、ということです。
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