『あいぬ物語』(樺太アイヌである山辺安之助の半生記)
ツイッターで以下のようなコメントを読んで『あいぬ物語』を知ったので、興味を持ち、図書館で借りてみました。(『金田一京助全集 第6巻』に金田一の前書きと共に収録)
露の文豪チェーホフ『ギリヤーク人がアイヌ女を奴隷として〜』として記載、樺太アイヌで露に帰属した方は過酷だった事は容易に想像出来ますが、樺太アイヌで日本に帰属した山辺安之助の自伝『あいぬ物語』を読めば日本国が如何に手厚く保護していたかが理解出来ます。が現状制度は是正されるべきですね
山辺安之助(やまべやすのすけ)がどのような人物かは、リンク先のWikipediaを読めば大凡分かり、その生涯も説明されているので、この本に書かれている内容も想像がつくかと思いますが、この本は、樺太アイヌである山辺安之助の口述をアイヌ語研究者の金田一京助が筆記したものです。
彼は日本語は話せましたが、金田一が「アイヌ自身の文学」である証拠に、敢えてアイヌ語で語ってもらい、アルファベットで書きとりました。この本では読者が読みやすいようにアイヌ語をカタカナでルビのように記述しています。
実際、彼はアイヌ語で語る方が不自由だと金田一は書いており、また、本来語彙が豊富なのにアイヌ語そのものの表現力の乏しさで、「普通のアイヌの話」になってしまった、と金田一は書いています。
1867年(慶応3年) 生まれで、幼くして両親を亡くし、樺太千島交換条約(明治8)で北海道に移住、その後再び樺太に戻りますが、対雁(ついしかり)村(現江別市)の土人学校の様子、漁師としての生活、日露戦争、白瀬矗(しらせ のぶ)の南極探検隊に加わった話など、アイヌ自身が語るものとして一級の資料と言えます。
例えば、下は、西郷従道(さいごう つぐみち-西郷隆盛の弟)に会ったときのエピソードで、西郷従道侯爵がアイヌと酒を飲み踊っているのを永山武四郎大佐が「侯爵とあろう方が、アイヌ風情と踊って」と諌めたところ、西郷が言った言葉です。
調べたところ、西郷は明治15年1月11日に開拓使長官の職に就いているので、この頃の話だと思います。
時代は前後しますが、明治11年、山辺は初めて対雁(ついしかり)村にできた土人学校に通います。この当時は、明治維新で政府はやらねばならないことが山ほどあっただろうに、よくここまで手が回ったと感心します。
とは言え、全て初めての試みですから、教師と言っても医者が兼ねていたり、読み書きそろばんではなく、撃剣(剣術?)ばかり教える教師もいたり、始めはなかなか学校らしくならなかったようですが、教師に連れられて札幌の祭に行ったことは「何もかも皆楽しかった」と書いています。
彼はまもなく働く年齢になり学校を去りましたが、もう少し勉強したらもっと読み書きができたのにと述懐しています。
日露戦争は樺太に戻ったあとで経験します。村人総出で貢献したので、平尾中隊長がいかほどの報償が欲しいかと尋ねますが、それに対して山辺は下のように答えます。
南極探検に関しては、国家事業ではないとして参加取りやめを勧められますが、「昨日承諾し、今日違約したら『やっぱりアイヌだなぁ』とさげすまれる。それは我慢できない。」と参加しています。
この本は「終わりに臨んで」という章で締めくくられていますが、最後にその章をご紹介します。
この章の前は南極から戻る話なので、彼の半世紀としてはそこで終わりますが、金田一の前書きによると「アイヌを救うものは、決してなまやさしい慈善などではない。宗教でもない。善政でもない。ただ教育だ。」と言って、土人学校を設立します。
ところで、3月1日にアイヌ協会が日本外国特派員協会で会見し、「アイヌ新法」への不満を述べました。これは別途ご紹介しますが、(アイヌの権利を奪ったことへの) 「謝罪や、自決権が、今回の新法には何も謳われていない」というものです。
山辺の崇高な人柄を知った後でこのニュースを聞き、その落差に愕然とさせられました。
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