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2019/02/18

【アイヌ新法】田中英道先生講義「アイヌは”先住民族”ではありえない」(2019/02/09)

公開: 2019/02/18 22:46  最終更新: 2019/02/20 6:49(最後まで動画を観て加筆)  

先日、チャンネル桜の『日本よ、今...闘論!倒論!討論!2019 』(後述【1】)にご出演なさった田中秀道先生が拓殖大学で下記の講義をされ、その動画がupされているのでご紹介します。

 

田中英道「アイヌは”先住民族”ではありえない」 第63回 日本国史学会 連続講演会 平成31年2月9日拓殖大学

◇田中英道(東北大学名誉教授、当会代表理事)
◇主催:日本国史学会 http://kokushigaku.com

※動画は1時間半程ですが、講義は47分くらいまで。

 

動画では(耳で聞いた言葉だけでは)単語が分からず、理解するのが難しい部分があるので、このエントリーでは補足(単語の説明)を加えて記録します。

 

 

 

 

その前に、

今回のアイヌ新法では、政府はアイヌを「日本の先住民族」と明記しようとしています。しかし、「北海道の先住民か?」という議論ならまだ分かる(いえ、それもありえませんが)としても、「日本の~」は暴論すぎます。

「北海道の~」ですら議論の余地もないことを、田中先生の講義でご理解下さい。

 

* * * *

 

まず、動画の講演で使われた年表を提示です。これは、金子快之氏のブログに掲載されているものをお借りしました。「札幌市埋蔵文化財センターの資料」です。

 

ainu_nenpyo

 

これを見てブログ主が気づいたことがあります。

一般的な日本史区分においては、古墳文化までは考古学の世界であること。出土品とか、遺構、遺跡による区分です。

しかし大和朝廷は4~5世紀までに東北地方以遠を除く日本本土の大半を統一したので、年表上にはありませんが、その辺りからは社会制度による区分で時代が分けられます。

一方、北海道では800年前から「アイヌ文化期」となっています。

これはややミスリードをさせる表記で、この時代もアイヌと和人は共存していたのですが、大きな社会的変化、例えば、「○○幕府成立」のようなエポックメーキング的な出来事が無かっただけのことでしょう。

この年表は「埋蔵文化財センター」が作成した時代区分によるものということを忘れないで下さい。

考古学的な発想で分類しているに過ぎず、“アイヌが北海道を統一”したわけでも何でもありません。

アイヌは今まで一度も統一した社会を作ったことがありません。

 

* * * *

 

田中英道先生講義「アイヌは”先住民族”ではありえない」

(田中先生が説明なさった部分には下線を引きました。ブログ主の考察と分けるため。)

 

上の年表でも分かるように、旧石器時代と縄文時代は北海道も本州も共通しています。

そして、北海道には旧石器時代に既に人が住んでいた、と言うことがポイントです。

 

田中先生が仰るには、縄文文化は日本全国にあると言っても圧倒的に東(日本)=関東、東北、甲信越に分布しているそうで、 このことから、関東以北には共通の祖先が住んでいたと考えられます。

次に、本州では弥生文化が起こりますが、弥生文化は北海道にはありません。北海道だけは「続縄文文化」→「擦文文化」(※)と、縄文文化の延長ととして続きます

 

※ さつもん‐ぶんか【擦文文化】 ‥クワ
8~13世紀、北海道全域と東北地方北端に見られる文化。擦文土器を指標とする。北海道特有の続縄文文化に当時の本州の文化が刺激を与え、成立したもの。石器は消滅し鉄器が普及。一部農耕も行われたが、狩猟・漁労に生活基盤をおく。近世アイヌ文化の先駆と考えられる。

広辞苑 第六版 (C)2008  株式会社岩波書店

 

弥生文化は関西中心の文化で、となると、西から縄文人と弥生人の混合が始まったわけです。その後に続く古墳文化(大和時代の文化)は北海道までは到達しなかったのだろうと思われますが、田中先生は日高という地名と「日高見国」(※)との関連性で全く影響なかったとは思えないとのご意見です。

 

※ 日高見国(ひたかみのくに)は、日本の古代において、大和または蝦夷の地を美化して用いた語。『 大祓詞』では「大倭日高見国」として大和を指すが、『日本書紀』景行紀や『常陸国風土記』では蝦夷の地を指し大和から見た東方の辺境の地域のこと。(Wikipediaより)

 

そして、北海道では「オホーツク文化」(※)が急に出てきます。「アイヌ文化」はその後です。

 

※ オホーツク‐ぶんか【オホーツク文化】 ‥クワ
南サハリンに起源し、8~11世紀頃、北海道東部・サハリン・千島のオホーツク海沿岸地域に見られる海猟民の文化。犬や豚を飼育。網走市モヨロ貝塚は有名。

広辞苑 第六版 (C)2008  株式会社岩波書店

 

アイヌ文化は、1200年頃、一般的な日本史の歴史区分で言うと鎌倉時代からしか出て来ません。 アイヌ文化と認識できるのはこの時代からなのに、なぜ先住民族と言えるのか?と、田中先生は疑問を呈していらっしゃいます。

ここまででも、アイヌは既に日本どころか北海道の先住民たり得ないとお分かりいただけたかと思います。

 

アイヌ文化は言語学的にも和人とは異質です。アイヌの言葉は語順も異なりますが「抱合語と言われるそうです。

 

抱合語について辞書で調べると、言語の形態的類型の一つで、アイヌ語では「a-kore(私は与える)」のように、一語の中に目的語を挿入されますが、このように一語に複数の要素が入る言語です。抱合語には他にはエスキモー(イヌイット)語があるそうです。

オホーツク文化の他の言語との共通性が見られれば、もう少し明確になるのではないかと思いますが、そこまでは分かりませんでした。

 

もし、彼等が日本人の祖先なら、和人が影響を受けないはずがありませんが、そうではありません。

日本語は(分類の着眼点が異なりますが)、「膠着語」(※)と言います。朝鮮語も膠着語です。(膠着語とは、簡単に言えば、「てにをは」で格を表せるので、語順が比較的自由な言葉)

 

※ こうちゃくご[0] 【膠着語】
言語の形態的分類の一つ。文法的な関係を表わす機能の多くが、語の順序や語形変化よりも、助詞・助動詞などの付属語によって示される言語。日本語・朝鮮語などがこれに属する。
⇒ 屈折語・孤立語
→ 膠着

新明解国語辞典 第七版 (C) Sanseido Co.,Ltd. 2013

 

 

これ以外に、田中先生はアイヌとオホーツク人のDNA研究による近似性に言及されます。(30:08あたり~)

先生が講義の中で読み上げた説明は、Wikipediaの「オホーツク文化」>「オホーツク人の遺伝子」の記述と同じなので、以下に引用します。

 

2009年、北海道のオホーツク文化遺跡で発見された人骨が、現在では樺太北部やシベリアのアムール川河口一帯に住むニブフ族に最も近く、またアムール川下流域に住むウリチ、さらに現在カムチャツカ半島に暮らすイテリメン族、コリヤーク族とも祖先を共有することがDNA調査でわかった[6][7]。

近年の研究で、オホーツク人がアイヌ民族と共通性があるとの研究結果も出ている。オホーツク人のなかには縄文人には無いがアイヌが持つ遺伝子のタイプであるmtDNAハプログループY遺伝子が確認され、アイヌ民族とオホーツク人との遺伝的共通性も判明した[8]。アイヌ民族は縄文人や和人にはないハプログループY遺伝子を20%の比率で持っていることが過去の調査で判明していたが、これまで関連が不明だった。

 

参考文献[7]→北海道大学の研究「 オホーツク人のDNA解読に成功」(下図:キャプチャ)

 

Ohotukujin

 

上のサイトに、『アイヌ民族とオホーツク人との遺伝的共通性が判明したことで、増田准教授は「オホーツク人と、同時代の続縄文人ないし擦文人が通婚関係にあり、オホーツク人の遺伝子がそこから受け継がれたのでは」と推測 している。』という記述があります。

このことは、オホーツク文化が現れた後にアイヌ文化となる事と整合性があります。(追記→【2】)

 

 

再び、前述の年表に話を戻しますが、続縄文文化→擦文文化の流れの中にオホーツク文化が部分的に出てきます。つまり、擦文文化はオホーツク文化に取って代わられたわけではありません。

また、擦文文化は北海道の本州に近い地域に顕著で、擦文文化が主として本州島域の他の文化の担い手による影響を受けて成立した文化であることを意味しています。(『アイヌ史/概説』P.76)

なお、擦文文化もオホーツク文化も、土器による分類で、ここに(縄文や弥生のような)共通した民族が存在したわけでも、統一した国家があったわけでもありません。

 

年表では800年前(一般的な日本史の歴史区分で言うと鎌倉時代中期)からアイヌ文化となっていますが、この頃は、「和人とオホーツク人との混血」=後の「アイヌ」と、本州の文化の影響を受けた「和人」が併存していた時代と言えるのではないでしょうか。

 

再び、田中先生の講義に戻りますが、これも、Wikipediaの「アイヌの歴史」と共通しているようなので引用します。

 

樺太アイヌは北方のツングース系などの諸民族とも交流があり、それを介して大陸の中華王朝とも関係を持った(アイヌ文化を参照)。1264年 には樺太に侵入したアイヌ(元朝の文献では「骨嵬」と書かれている)とニヴフ(同じく「吉烈迷」)との間に紛争が勃発した。この戦いにはモンゴル帝国軍が介入し、アイヌからの朝貢を取り付けた(詳細はモンゴルの樺太侵攻を参照)。その後もアイヌは大陸との交易を続けていた。この交易は山丹交易と呼ばれ、江戸時代にはアイヌが交易によって清朝などから入手した絹織物や官服が、「蝦夷錦」と呼ばれて日本国内にも流通していった。

 

この時代はフビライ(※1)の時代で、現在、中国(が自国の領土と称している範囲)を支配下に納めた頃で、日本の西には元寇(※2)がありました。オホーツク人は蒙古軍から逃げてきた人々とも考えられるのではないかと仰っていました。

 

※1 フビライ【忽必烈・忽比烈】
(Khubilai)元朝の初代皇帝。世祖。モンゴル帝国第5代の皇帝。ジンギス汗の孫。金を滅ぼし、宋を併合し、都を大都(北京)に移し、1271年国号を元と定めた。越南・占城・ジャワまで併吞を企図、高麗を服属させた。日本にも2度遠征軍を派遣したが失敗。クビライ。(在位1260~1294)(1215~1294)

※2 げん‐こう【元寇】
鎌倉時代、元の軍隊が日本に来襲した事件。元のフビライは日本の入貢を求めたが鎌倉幕府に拒否され、1274年(文永11)元軍は壱岐・対馬を侵し博多に迫り、81年(弘安4)再び范文虎らの兵10万を送ったが、2度とも大風が起こって元艦の沈没するものが多かった。蒙古襲来。文永・弘安の役。

広辞苑 第六版 (C)2008  株式会社岩波書店

 

 

【1】チャンネル桜:日本よ、今...闘論!倒論!討論!2019

 

【討論】反日アイヌ新法の欺瞞[桜H31/2/9]

パネリスト:
 小野寺まさる(チャンネル北海道キャスター・前北海道議会議員)
 我那覇真子(日本文化チャンネル桜沖縄支局キャスター / 琉球新報、沖縄タイムスを正す県民・国民の会代表運営委員)
 川田ただひさ(チャンネル北海道キャスター・前札幌市議会議員)
 田中英道(東北大学名誉教授)
 水間政憲(近現代史研究家・ジャーナリスト)
 山本優美子(なでしこアクション 代表)
司会:水島総

 

 

【2】北大のオホーツク人研究に関する道新の記事

実際の論文を探す手がかりとしてメモ。(個人の方のブログに掲載されていた道新の記事を転載)

 

https://blog.goo.ne.jp/ivelove/e/9313b17337d31130025f60c85a1e42e5

(北海道新聞06/18 09:50)

 5~13世紀にオホーツク海沿岸などで独自の文化を発展させたオホーツク人の遺伝子を解読することに北大の研究グループが成功した。オホーツク人のルーツには諸説があるが、現在の民族ではサハリンなどに暮らすニブヒやアムール川下流のウリチと遺伝的に最も近いことが分かり、北方からの渡来説が有力となった。アイヌ民族との共通性も判明、同グループはアイヌ民族の成り立ちについて「続縄文人・擦文人と、オホーツク人の両者がかかわったと考えられる」と推測している。

 大学院理学研究院の増田隆一准教授(進化遺伝学)らのグループで、日本人類学会の英語電子版「アンスロポロジカル・サイエンス」に発表した。
 同グループは、道東・道北やサハリンの遺跡から発掘されたオホーツク人の人骨102体を分析。うち37体から遺伝子の断片を取り出し、DNAを解読した。

 その結果、ニブヒやウリチなど北東アジアの諸民族だけが高い比率で持っているハプログループY遺伝子がオホーツク人にもあり、遺伝子グループ全体の特徴でもニブヒなどと共通性が強いことが分かった。現在、カムチャツカ半島に暮らすイテリメン、コリヤークとの遺伝的つながりも見られた。

 一方、縄文人-続縄文人-擦文人の流れをくむとみられるアイヌ民族は、縄文人や現代の和人にはほとんどないハプログループY遺伝子を、20%の比率で持っていることが過去の調査で判明している。どのようにこの遺伝子がもたらされたのかが疑問だったが、アイヌ民族とオホーツク人との遺伝的共通性が判明したことで、増田准教授は「オホーツク人と、同時代の続縄文人ないし擦文人が通婚関係にあり、オホーツク人の遺伝子がそこからアイヌ民族に受け継がれたのでは」と推測している。

 オホーツク人 漁労や海獣猟を主とした海洋民で、5~13世紀にかけて道北・道東・サハリン南部を中心に海岸近くに多くの遺跡を残した。ルーツは明確でなく、主に《1》アイヌ民族説《2》ニブヒ説《3》アムール下流域民説《4》すでに消滅した民族集団説-の4説で論議が交わされてきた。同時期には、縄文人の流れをくむ続縄文人(紀元前3世紀~紀元6世紀)、擦文人(7~13世紀)が道内に暮らしていた。
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/environment/172199.html

 

 

 

 

 

 

 


 

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