日本人とは何か? 最新のDNA解析から見た「アイヌ、琉球人、本土日本人」とは
公開: 2019/02/08 09:18 最終更新: 2019/02/10 8:31
このところ、「アイヌ」の問題に関心を持っていますが、以前、チャンネル桜の番組の中で「最新のNatureに発表された論文によると、アイヌもと琉球民族はどちらもDNA調査により縄文人と分かっている、どちらも原日本人である」、というような発言がありました。(リンク先はその番組をまとめたエントリー)
そのことを書く前に、ネットの拾いものの画像をご紹介します。
ここに描かれていることは、小林氏の意見ではなく、左上のコマに描かれている『アイヌ史/概説』という本で解説されていることです。
この本は1994~5年に開催されたアイヌ史の講座の内容に加筆して本(新書サイズ)にしたもので、コンパクトでありながら、巻末には年表もあり、便利です。
この本の前書きによると、、「アイヌ」の範囲には、エンチゥ(カラフトアイヌ)やクリルアイヌ(千島アイヌ)や古代、中世において「蝦夷」と他称された奥羽地方の古来民も含まれ、北海道島域のアイヌ諸種集団とは一つの歴史を担っている部分もあるが、言語面、文化的側面などの差違があり、一括りにできないとしています。そして、この本では北海道島域のアイヌ諸種集団に限定して扱っているのですが、それですら、マンガに見られるように複数の部族に分かれていて、言葉も異なっていました。
論文ではこのように予め用語を定義したり、その範囲を明確にしてから論ずるのが当たり前ですが、自民党、あるいは菅義偉内閣官房長官を座長とするアイヌ政策推進会議は何を持って「アイヌ」とし、どんな根拠で、“アイヌを先住民族とする”のでしょうか。
政治家が利権のために日本史を書き換えるのは許せません。
* * * *
さて、本題のNatureの論文ですが、同じ研究を根拠に分かりやすく日本語で纏めたサイトがあったので下にご紹介します。
- The history of human populations in the Japanese Archipelago inferred from genome-wide SNP data with a special reference to the Ainu and the Ryukyuan populations (The Japan Society of Human Genetics/日本人類遺伝子学会)
- 縄文人の核ゲノムから歴史を読み解く 神澤秀明(国立科学博物館)
詳しくは上記論文を読んで頂きたいのですが、非常に分かりやすい図があったので、ここに引用しておきます。
【論文-2より引用】
現代日本列島人の成立ちを説明する学説として、1991年に形態研究に基づいて提唱された「二重構造説」がある(図3)。これは、縄文人と渡来民が徐々に混血していくことで現代の日本列島人が形成されたという説で、列島の端に住むアイヌと琉球の集団は、縄文人の遺伝要素を多く残すとしている。近年、行なわれた日本列島人の大規模なDNA解析からも、基本的にはこの説を支持する結果が得られている。(図4)しかし、これはあくまで現代人のDNAからの推定である。
日本列島には元々縄文人がおり、3000年前くらいから弥生人が大陸から来て、徐々に混ざり合った、ということですが、北端や南端ではその混血があまり進まず、縄文系のDNAが色濃く残っていることになります。
前述の番組では、沖縄の惠隆之介氏(元自衛官)が、「北海道でアイヌの方を見かけた時、沖縄のおじい、おばあによく似てて里心が出た」と仰っていましたが、実際に、アイヌも沖縄の方もホリが深い、いわゆる縄文系の顔立ちをしています。
しかし、最新の核ゲノムの解析から、日本列島人の成立ちは単純な二重構造ではないということが分かりました。
まず、縄文人のルーツを見てみると、近年の研究で、縄文人は従来の説よりも早い時期に確立されていたことが分かりました。
ここで、アイヌには北方の系統(オホーツク文化人?)が混ざっているとなっていますが、論文-1にもう少し詳しい図がありました。(日本語はブログ主が加えたもの)
いつ頃、どの程度、他の民族の影響を受けたかが分かります。(影響を表す垂直の矢印がどの程度厳密なものかは分かりませんが。)
このツリー図によると、弥生人が入ってくると(約3千年前)、徐々に縄文人と混ざり合い、主に本土日本人を形成していきます。
北海道や沖縄では弥生人の影響は本土に比べて少なく、北海道の縄文人の一部がオホーツク文化人(※)の影響を受けてアイヌ人、あるいはアイヌ文化が育まれていったということになります。
また、後述するニブフなどオホーツク文化人はモンゴロイド(黄色人種)のようですが、アイヌの方の中には青い目の人もいたそうで、コーカソイド(白人)も少しは混ざっていたのかも知れませんね。
とは言え、658年頃には阿倍比羅夫が蝦夷地(日本海沿岸の東北部および渡島=わたりのしま/北海道南部とする説と津軽半島北部とする説あり=)を平定しており、津軽海峡は人の行き来を阻害するほどの障壁ではないので、遅くとも、この頃から徐々に本土日本人との交流も始まっていたと想像できます。北海道の擦文土器は出土地やその時代区分から本州から伝播したものと考えられる(『アイヌ史/概説』)ので、この時期からと考えて良いかと思います。
※オホーツク文化、オホーツク人
擦文(さつもん)時代・擦文文化(3~13世紀)同様、オホーツク式土器に由来する時代区分(7,8世紀~13世紀/奈良・平安時代~鎌倉時代)で、オホーツク(文化)人という一民族がいたわけではない。
結論。 日本の先住民は縄文人なのです。
そこで、血の混じり具合の違いにより外見上の違いがあったり、地形的な関係で、日本各地に独自の特色ある文化風習が育まれてきた、と考えるべきでしょう。
変なイデオロギーや政治とか絡まなければ、非常にロマンのある話なのですが...
現在は、「民族」としての体裁を整えようと、本来は別々の言葉だったのに、むりやり統一した「アイヌ語」なるものを作り出し、白老に造ろうとしている『民族共生館』なるところでは「アイヌ語講座」なるものも行う予定です。
「民族」という言葉も曖昧なもので、DNA解析などによる科学的なデータを元にしたものと、もう一つは文化史的な側面から論じられるべきものです。
冒頭のマンガにあるように、昭和の観光ブームで作られた各種の祭が“伝統”的なものかのようにしたり、「アイヌ」の文化とされている刺繍も布や針を「和人」との交易によって手にし始まったものなのに、現在のいわゆる「アイヌ」は文化の伝承どころか、文化の“創造・捏造”、更に言えば、“破壊”を行っているに等しいのは悲しいことです。
ところで、上の図にあるニブフ(Nivkh/以前はギリヤークと称された)について画像などを調べて見たら、興味深いものがあったのでいくつかご紹介します。
これを見れば、オホーツク人がアイヌの先祖の一つであるというのも納得できます。
Nivkh men, 1902
Postcard. Types of Russia: Gilyak (Nivkh) before 1917
A bear festival by Nivkh around 1903
アイヌ政策拡大に対する反対署名
菅義偉官房長官を座長とするアイヌ政策推進会議は、現在は北海道内で行われている「アイヌ利権」を全国展開しようとしています。
当ブログではこの法案に反対する署名に協力しています。
署名を呼びかける『日本国民の声・北海道』のサイトはこちら。
上記サイトの署名ページはこちら。(印刷して使える署名用紙もあり)
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