【沖縄】「沖縄はいつから日本であったか?」 曖昧な政府見解を正した山田宏参議院議員の国会質疑
公開: 2018/11/28 11:46 最終更新: 2018/11/29 7:32
これは前回のエントリーでご紹介した本、『沖縄はいつから日本なのか 学校が教えない日本の中の沖縄史』(仲村 覚 (著) /ハート出版)で知ったことですが、驚くことに、政府は2017年まで、沖縄が数百年も前から日本の一部であったことを明言できていませんでした。
「沖縄はいつから日本であったか?」を問う質問主意書に対し、極めて曖昧な回答しかしていなかったのです。
これに危機感を持った仲村氏が何人かの政治家に訴えたところ、自民党の山田宏参議院議員が理解を示して、国会で質してくれたそうです。
以下に、国会議事録から該当の部分を抜き出して提示します。
第193回国会 決算委員会 第10号 平成二十九年六月五日(月曜日)
(前略)
○山田宏君 気象庁が検討してくれということであります。千七百キロも離れているんだから、中国はもっと離れている。だから、やはり気象庁がよく検討して、なるべくここをやって、NHKが毎日これを報道してくれれば、次は石垣、八重山です、その後は尖閣諸島の明日の天気は曇り後晴れですと、毎日これやれば、国民は、ああ尖閣諸島はやっぱり我が国の領土だよねと、ずっと関心を持ち続けるわけです。そのためには、気象庁、検討していただきたいと思います。
この問題をずっとやっていると時間がなくなっちゃうので、次です。ちょっと次のパネルです。
尖閣諸島だけではなくて、今、中国は、沖縄もこれは日本の領土じゃないと言い始めている。まあ何とかもたけだけしいというのはこのことなんだけれども、そのことについて公安調査庁は、今年、そして去年、おととしか、内外情勢の回顧と展望の中に、琉球帰属未定論というものを中国が提起しているということで、すごい危機感があるということを書いております。
しかし、我が国はどういう態度かというと、これまでは、政府の公式の答弁は、皆さんのところにお配りしておりますように、平成十八年十一月十日の第一次安倍内閣の閣議決定で、沖縄はいつから日本の一部かという質問に対して、沖縄については、いつから日本の一部であるかということにつき確定的なことを述べるのは困難であるが、遅くとも明治初期の琉球藩の設置及びこれに続く沖縄県の設置のときには日本国の一部であったことは確かであると、これが今の我が国政府の確定的な答弁なんです。しかし、向こうは、明のときから琉球は我が国の領土だと中国は言っているわけです。我が国の場合は、明治のときからはそうだけれども、その前は分からぬと、こう言っているわけです。こんなことでは勝負になりませんね、これでは。
少し、この答弁、余りにも簡潔に書き過ぎているから、もう少しきちっと日本の古くからの領土だということを、かつて明治のときに大きな問題になったときに、寺島外務卿が、徹底的に日本の領土だと、縄文時代から領土だというふうに主張しているわけですから、その路線に沿ってこの答弁を少し充実させてほしいと思うんですけれども、外務大臣、どうでしょう。○国務大臣(岸田文雄君) まず、基本的な立場として、沖縄が我が国の領土であることは国際法上確定しており、何ら疑いもないところである、これをまずしっかり確認しておきます。
その上で、いつからなのかという点については、明治初期に寺島外務卿が当時の日本政府を代表して在京清国公使に宛てた明治十一年十一月二十一日付けの文書において、沖縄が数百年前から我が国所属の一地方であり、現に我が国内務省の管轄である旨述べていたこと、これについて外務省としても確認をいたしました。
いずれにしましても、沖縄については長年にわたり我が国の領土であり、沖縄が我が国領土であることは国際法上何ら疑いのないところである、このように考えております。○山田宏君 国際法上だけじゃなくて歴史上ですね、向こうは歴史的にやっているわけですから、歴史上明らかだと、こういうふうにやっぱりきちっとこれを補充すべきだと思うんですが。
これ、第一次安倍内閣のときの閣議決定されたのが、明治以降ははっきりしているが、その前ははっきりしないというやつですから、総理、今の外務大臣の答弁を受けて、きちっと充実をさせていただきたいと思いますが、いかがでしょう。○内閣総理大臣(安倍晋三君) ただいま外務大臣から答弁をさせていただいたとおり、沖縄については、寺島外務卿が、沖縄が数百年前から我が国所属の一地方である旨述べていたことが確認されています。いずれにせよ、沖縄は長年にわたり我が国の領土であり、沖縄が我が国領土であることは国際法上何ら疑いもないところであります。
また、繰り返しになりますが、寺島外務卿が述べたのは、沖縄が数百年前から我が国所属の一地方であるということでございます。
○山田宏君 ありがとうございました。(以下略)* * * *
- 山田議員ブログ記事(2016.11.19八重山日報への寄稿文あり): https://www.yamadahiroshi.com/news/976/
実はブログ主はこの山田議員の質疑をリアルタイムで観ていたのですが、省略した部分では、日本でも尖閣諸島の天気予報をすべき、ということを求めており、これはよく覚えていますが、沖縄の日本帰属に関する部分は聞き流してしまったようです。
「日本でも」というのは、中国が自国領土として尖閣諸島の天気予報をテレビで流しているからです。
上記質疑の中で、「平成18年(2006年)11月10日の閣議決定」について言及されていますが、これは鈴木宗男議員の質問主意書(書面による質疑)に対する回答(閣議決定されたもの)で、その時の回答は「いつから日本の一部であるかということにつき確定的なことを述べるのは困難であるが、遅くとも明治初期の琉球藩の設置及びこれに続く沖縄県の設置のときには日本国の一部であったことは確か」といった、なんともあやふやな回答だったことが分かります。
しかし、山田議員の質疑により、「数百年前から我が国所属の一地方である」ということを明言したのでした。
岸田文雄外務大臣、安倍晋三首相の回答に出てくる寺島外務卿が清国公使に宛てた文書とは仲村覚氏が山田議員に要請するときに持参したものです。(詳細は次々章に)
「廃藩置県」は「琉球を清との関係から断ち切る」ことで完了した
ここで、岸田外相が「国際法上確定」と言っていますが、これはいわゆる「琉球処分」(1879/明治12年)のことです。
歴史の授業ではおそらく端折っていると思いますが、以下のプロセスを通じて、琉球と清の冊封体制を断ち切る交渉が日清間で行われます。
- 「日清修好条規」(1871年9月13日/明治4/73年発効)
- 「宮古島島民遭難事件」(1871年11月/明治4)
…宮古島の漁師が台湾に流れ着き、原住民に殺害される- 「廃藩置県」(1872年10月16日/明治4年)=琉球の鹿児島県編入
- 「琉球王・尚 泰を琉球藩王とする」(1872年10月16日/明治5)
…この時点ではまだ「琉球藩」が残っていた。(廃藩置県未完了)- 「台湾出兵(征台の役)」(1874年5月6日-12月3日/明治7年)
…「宮古島島民遭難事件」に対して行ったもの- 「琉球処分」(1879年/明治12年)=沖縄県設置
…廃藩置県完了
これは国際法的に琉球(沖縄)を日本の帰属とする処理でした。
この辺りを学校でどう習ったのかは、もう忘却の彼方ですが、沖縄県の設置をもって「廃藩置県の完了」と教えるべきなのです。
この間、明治政府は清の李鴻章等と協議を重ねるわけですが、仲村氏が見つけた外交文書とはその間のやりとりを記したものです。
また、「琉球処分」の「処分」という言葉尻を捉えて、ネガティブに聞こえるせいか、これを利用して、いかにも、“日本が無理矢理琉球を取った”かのように喧伝する人達がいます。
しかし、「処分」とは、「罰する」や「余分(不要)なものを始末する」という意味以外にも、「(法律上)具体的事実や行為についての行政権・司法権の発動として法律上の効果を発揮させる行為」の意味もあります。
例えば、この当時の言葉として「秩禄処分」(ちつろくしょぶん)というものがあります。
これは、華族・士族に支給されていた封建的な秩禄(家禄と賞典禄)を廃止するために、規則を定めて整理し、最終的には公債(金禄公債)を公布するという処理を行ったことです。
ちつろく‐しょぶん【秩禄処分】
広義には、明治政府の華族・士族への家禄支給の廃止政策。版籍奉還以降段階を踏んで進められたが、狭義には、その最後の段階である1876年(明治9)の金禄公債交付をいう。
広辞苑 第六版 (C)2008 株式会社岩波書店
つまり、「対処」とか、整理するための一連の「プロセス」を表す言葉が「処分」であると思われます。
仲村覚氏論文:ウーマン村本に知ってほしい「沖縄モヤモヤ史観」
この寄稿文は、村本某という芸人が“沖縄は中国から奪ったもの”とテレビ番組(朝まで生テレビ)で発言したことを受けて書かれたものですが、その中で山田議員に持ち込んだ明治期の外交文書について言及しています。
https://ironna.jp/article/8864?p=1
(一部引用)
山田氏に要請するとき、筆者は重要な資料を持参した。それは明治12(1879)年の外交文書だ。実は、政府のあいまいな歴史認識を覆す資料が政府内部に存在していたのである。外務省のHPからダウンロードして入手した、カタカナ漢字交じり、もしくは漢語で書かれている文書の概要は次のようになる。(…)
明治12年の外交文書にあるように、江戸時代の沖縄は薩摩の統治が隅々にまでおよび、江戸幕府の幕藩体制下にあった。
石井望准教授のブログ
沖縄(琉球国)が明や清との間に冊封関係(朝貢貿易を行っていた)ことは事実ですが、薩摩は在番奉行を設置し実行支配をしていました。幕府の禁教令も八重山まで届いていたそうで、日本の封建体制下に組み込まれていました。
そもそも、沖縄の人の祖先は縄文人ですし、沖縄の方言は日本語の古語をよく残しているなど、古くから日本の一部であったことを示す証拠はいくらでもあるのですが、ここでは長崎純心大学の石井望准教授のブログ記事をいくつかご紹介します。
- 二〇一六年六月一二日
西暦1609年薩摩が琉球を併合 西暦1617年明國は併合に同意http://senkaku.blog.jp/2016061261537609.html
- 二〇一七年二月九日
薩摩の家老、調所廣郷の語。琉球は薩摩統治下。朝貢は表向きだけと清國も知ってゐる。
http://senkaku.blog.jp/2017020969236319.html
* * * *
仲村氏のiRONNAへの論文でも書かれていますが、さすがに“日本は沖縄を中国から奪った”とは思わなくても、日本人のどれほどが「沖縄はいつから日本なのか」という問いに自信を持って答えられるでしょうか。
かく言うブログ主も、沖縄関係のネット番組などからこのことを考える前は答えられなかったと思います。(と言うより、そのことを考えたこともなかった、と言うほうが正しいのですが。)
しかし、あらためて沖縄の歴史を調べると、歴史、少なくとも教科書レベルでは“消されている”事実が多いことに気づきました。
これはまた別の機会に書こうと思います。
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