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2018/11/24

【沖縄】教科書が教えない真実の沖縄祖国復帰の経緯

公開: 2018/11/24 15:46  最終更新: 2018/11/25 21:31  

下はブログ主が受験に使った『日本史用語集』(山川出版社/1979年(昭和54年)版)の「沖縄の祖国復帰」の項の説明を書き写したものです。(括弧内に和暦を追加しました。)

 

沖縄の祖国復帰

1945年(昭和20年)4月、米軍の上陸以降、その占領下にあり、51年(26年)の平和条約で、アメリカの施政権が明文化された。
沖縄では異民族支配に抵抗して、1960年(35年)沖縄県祖国復帰協議会が結成され、運動が実を結んで、68年(43年)琉球政府主席公選となり、71年(46年)の返還協定により、72年(47年)5月祖国復帰。
米軍基地の整理などは今後の課題。

 

山川の教科書はもう手元にありませんが、これは副読本みたいなものなので、教科書にも、これに準拠したことが書かれていたはずです。

 

 

 

これを読むと、「沖縄県祖国復帰協議会」の活動が本土復帰を勝ち取ったように聞こえますが、大嘘です。

沖縄教職員組合を母体とした沖縄県祖国復帰協議会はむしろ祖国復帰を邪魔していたのです。

実際に本土復帰に大きな役割を果たしたのは「沖縄返還協定批准貫徹実行委員会」の方々でした。

 

 

Okinawafukki02

 

Okinawafukki01  

(上: 陳情に向かう仲村俊子さん、金城テルさんら/下: 沖縄返還協定批准貫徹実行委員会の皆さん)

 

以下のサイトに詳しいのですが、ここではかいつまんで、且つ、補足を加えて説明します。

 

 

背景としては70年安保闘争がありました。

安保闘争について、遡って説明すると、1951年(昭和26年)のサンフランシスコ平和条約とともに日米間の軍事的関係を規定した「日米安全保障条約」が締結されます。この改定を巡って、1959~60年(昭和34年~35年)に展開されたのが60年安保闘争で、この条約は10年を期限とし、日米どちらかの1年以内の通告が無い限り、自動延長されることになっていました。そこで1970年(昭和45年)の期限が近づいた昭和40年頃から反対運動が起こります。これが70年安保闘争です。(→補足(1))

 

社会党や共産党、総評、全学連といった左翼陣営は「米軍基地完全撤去を伴う沖縄全面返還」、「自衛隊配備反対」を掲げ、沖縄が一つの闘争の場となります。つまり、彼等にとっては形を変えた安保闘争だったのです。

 

また、この頃(1966年/昭和41年)、中国では文化大革命が始まります。

沖縄ではその影響を受け、学校現場では旧沖縄師範学校を出た管理職が戦後教育を受けた青年教師から監禁され、「自己批判」をさせられる事態に陥っていました。(→補足(2))

沖縄教職員組合は1971年(昭和46年)に解散に追い込まれ、国旗掲揚や国歌斉唱(これも途中から米軍排除運動に利用された)を純粋に推進していた保守派は駆逐され、「沖教祖」が結成されます。

 

米軍の撤退などこの時点であり得ないので、沖縄祖国復帰運動は、“米軍基地が存続したままの沖縄”の祖国復帰を阻む運動に変わっていきました。

 

前後しますが、1967年(昭和42年)には後述する「地方教育区公務員法」「教育公務員特例法」の2つの法律の導入阻止のため、教職員が暴徒と化し立法院(現在の県議会)を取り囲むという騒動が起き、警察が無力化します。(この暴動で警察に対する暴力が横行、なり手もいなくなる)

また、1970年にはコザ暴動(米軍人の起こした交通事故に端を発する軍車両および施設に対する焼き討ち事件)が発生。

沖縄が無法地帯になります。

この前年の1969年(昭和44年)には本土-沖縄間の渡航審査が米国民政府から琉球政府に移譲され(つまり、イミグレーションの審査緩和)、本土から過激派が移動してきます。(→補足(2))

 

ここで立ち上がったのが仲村俊子さん等数名の教師、そして、「沖縄子どもを守る父母の会」の金城テルさん等です。(金城テルさんは現在、チャンネル桜の『沖縄の声』でキャスターをしていらっしゃいます。)

新聞に、「沖縄県祖国復帰協議会」の脱退と祖国復帰を呼びかける宣言文を掲載し、集会を呼びかけます。

そして、本当の沖縄県民の声を国会に届けるべく、「沖縄返還協定批准貫徹実行委員会」を結成し、70団体の賛同の署名を集めた「請願書」を携え、東京に陳情に向かいます。沖縄県民の復帰を願う気持ちを本土の人に知ってもらうために都内で街頭演説も行いました。

 

Okinawafukki03

 

後に首相になる竹下登氏は涙を流しながら、この請願書を受け取ってくれたそうです。

 

一方、沖縄県祖国復帰協議会はこれを阻止する建白書(「復帰措置に関する建議書」)を政府に提出しようとしますが、間一髪の差で陳情団の声が先に自民党に届き、1971年(昭和46年)11月17日、沖縄返還協定を審議中の衆院特別委員会で自民党が質疑を打ち切り、強行採決。左翼政党や団体が抗議行動をするも24日に可決します。

そして翌1972年(昭和47年)5月15日に「沖縄返還協定」が発効され、26年ぶりに日本は沖縄を取り戻しました。

 

Okinawafukki04

 

上は、沖縄県祖国復帰39周年記念大会(2011.05.15)での仲村俊子さん(右)と金城テルさん(左)。(「 日本沖縄政策研究フォーラム」掲載の動画キャプチャ画像URL:http://www.okinawa-seisaku.org/archives/233

 

* * * *

 

こちらの動画も短くまとまっており、お薦めです。

2つ目の動画はほぼインタビューで構成されており、当時の写真もたくさん出てきます。このエントリーではそのキャプチャを使っています。

 

■【日本国民必見!】沖縄県祖国復帰物語〜これを知らずして沖縄を語れない〜

■View9 祖国復帰運動の証言ー知られざる復帰直前の沖縄の真実―

<出演者>
元沖縄子供を守る父母の会 金城テル(当時:事務局長)
元青年会 富川昇 富川春子
幸福実現党沖縄県本部 富川泰全

 

* * * *

 

なお、当時の三木外務大臣が下田駐米大使に、国内で革新(左翼)勢力が沖縄の祖国復帰と70年安保闘争を絡めている危険性を伝えますが、それを示す外交文書がOffice of the Historianで公開されています。

 

https://history.state.gov/historicaldocuments/frus1964-68v29p2/d87

87. Memorandum of Conversation1
Washington, July 10, 1967.

SUBJECT
Okinawa and the Bonin Islands

PARTICIPANTS

Takeso Shimoda, Ambassador of Japan
William P. Bundy, Assistant Secretary for East Asian and Pacific Affairs
Samuel D. Berger, Deputy Assistant Secretary for East Asian and Pacific Affairs
Richard W. Petree, Acting Country Director for Japan

(以下、一部引用)

Mr. Bundy asked whether there was a relationship in Japanese thinking between the Okinawa problem and the 1970 problem in Japan. Ambassador Shimoda said there was no logical connection in the minds of Japanese leaders. Opposition parties, of course, hope to connect the two.

 

タイトル(Subject)にある「the Bonin Islands」とは小笠原諸島のことです。(辞書によると「無人〔ぶにん〕からか」、とありました。)

下田大使は、日本政府としてはそのつもりはないが、野党はその2つ(沖縄復帰問題と1970年の問題=安保条約の継続)を関連づけようとしているということを伝えています。

 

* * * *

 

これでお分かりだと思いますが、「沖縄県祖国復帰協議会」の本質は安保闘争であり、沖縄で現在行われている反基地運動はここに根があるのです。

沖縄の教師の多く、特にOBやOGがイデオロギー闘争に参加しているのも、ここから始まったものです。

 

* * * *

 

沖縄の教職員が暴徒と化した教公二法阻止闘争事件

 

【沖縄の声】金城テルの沖縄政治活動の歴史~すべては約50年前、たった一人の闘いからはじまった~[桜H30/11/23]

出演:
   又吉 康隆(沖縄支局担当キャスター)
   金城 テル(沖縄支局担当キャスター)

 

沖縄の教師が行った教公二法阻止闘争事件について金城テルさんが語ります。(リンク先はWikipedia)

1949年に本土で成立した「地方教育区公務員法」「教育公務員特例法」の2つの法律は、沖縄では本土復帰前の1967年に成立の動きがありました。

この法律は、教員の年金制度や産休制度といった待遇改善とともに、勤務表の導入や政治活動の制限をするものだったため、教師はこれを阻止しようとゼネストを行ったり、立法院(復帰前の沖縄では現在の県議会に代わるものとして立法院があった)に押し寄せました。

テルさんは、お子さんの通う学校で教師がストに明け暮れ、生徒が自習ばかりさせられているのに疑問を持ち、これと戦いました。

 

【追記】 『辺野古移設反対派=左翼の本質は立法院乱入にある』

沖縄の声に出演された又吉氏のブログ。教公二法阻止闘争事件やコザ暴動(1970年)など沖縄返還前の沖縄の騒乱と現在の辺野古移設反対派について。

 

 

補足(1)-警備警察50年(警察庁)

 

https://www.npa.go.jp/archive/keibi/syouten/syouten269/sec02/sec02_0201.htm
第2章 警備情勢の推移

 

「テロ・ゲリラ」を展開し暴力革命を目指す過激派

1.過激派の誕生

 昭和30年代初頭、路線対立等の理由から、日本共産党を除名されたり、離党した者が中心となって、日本共産党に代わって、我が国で暴力により共産主義革命を起こすことを目的とする集団が生まれました。これが過激派です。
 日本共産党が、それまで採っていた武装闘争を「極左冒険主義」と自己批判し、30年7月の第6回全国協議会(6全協)で戦術転換を図ったことから、武装闘争の中心となっていた学生党員等の間で指導部への不信感が生まれました。
 また、時期を同じくして、共産主義者の間で絶対的存在であったスターリンに対する批判がその死後に高まったり、ソ連が同じ共産圏のポーランドやハンガリーに対して武力介入を行ったことから、既存のマルクス・レーニン主義に対する懐疑も深まりました。
 こうした状況の中で、スターリンと対立して暗殺されたトロツキーを再評価する動きが国内で高まり、彼の思想であるトロツキズムを研究し、それに基づく革命の実現を目指す元共産党員らが中心となって、32年1月、日本トロツキスト連盟を結成し、同年12月には革命的共産主義者同盟(以下「革共同」という。)と改称しました。これが現在の過激派の二大勢力である革マル派と中核派の母体です。
 また、23年9月に日本共産党の指導下に結成された学生組織である全日本学生自治会総連合(以下「全学連」という。)は、日本共産党の路線変更や、消極的な指導方針に不信と不満を抱き、33年5月に開催された全学連第11回大会では、日本共産党指導部に反旗を翻す全学連主流派と、日本共産党指導部に従う反主流派が激しく対立し、その後、大量の学生党員が除名等の処分を受けました。
 これを機に、全学連主流派は、完全に日本共産党の指導から離脱し、同年12月、独自に共産主義者同盟(以下「共産同」という。)を結成するとともに、35年4月には全学連も共産同系全学連と日本共産党系全学連に分裂しました。これが現在の共産同系各派の母体です。
 この他に、日本共産党が中国共産党との関係を断絶した時期に除名、離党した党員らが中心になって結成した親中共派や日本共産党の綱領論争の過程で離党した党員らが結成した構造改革派、社会党の青年組織である社会主義青年同盟(以下「社青同」という。)に入り込んだトロツキスト集団が後に組織を乗っ取る形で独立した革命的労働者協会(以下「革労協」という。)等が誕生し、現在の過激派の流れを形成しています。
 こうした過激派各派は、続く「60年安保闘争」において重要な役割を果たすこととなりました。

2.60年・70年安保闘争

1 60年安保闘争と過激派の暴走

 「安保闘争」とは、サンフランシスコ講和条約と同時に締結された日米安全保障条約の改定等に反対して取り組まれた闘争で、社会・共産の両党や総評等の労組が中心となって全国的に展開された社会運動でした。
 その山場は、昭和35年と45年であり、それぞれ西暦の末尾を取って「60年安保闘争」、「70年安保闘争」と呼ばれました。
 「60年安保闘争」は、34年3月、日米安保条約の改定交渉が本格化する中で、日本社会党、総評等による「安保条約改定阻止国民会議」が結成されたことにより始まったもので、34年4月から取り組まれました。
 これに対して過激派は、同会議の集会、デモ等の大衆行動に介入し、暴力的な行動を煽動するなどして、我が国の治安に大きな影響を与えました。特に、共産同系の全学連は、共産主義革命の理論には必ずしも賛同しない一般の学生に対する働き掛けを強め、「反安保」を軸に結集を図り、自らのもくろみである革命情勢を作り出すために、過激な行動へと駆り立て、国会周辺は連日数千から数万のデモ隊が押し寄せる状態となりました。
 その例として、「国会構内乱入事件」(34年11月)、「国会請願デモ事件」(35年4月)、「首相官邸乱入事件」(35年5月、6月)等の事件を引き起こしました。これらの事件では、共産同系全学連は、角材や石塊で武装し、警備に当たっていた警察部隊と激しい衝突を繰り返し、双方に多数の負傷者を出しました。そして、新安保条約の批准成立を目前に控えた35年6月15日には、「安保決戦」を叫んで、再び国会構内へ乱入し、ついに女子学生1人が死亡する事態に至りました。
 しかし、こうした過激な反対行動にもかかわらず、新安保条約は、同年6月23日に日米両政府が批准書を交換し発効、当時の岸首相はこれをもって退陣を表明しました。このため、反対勢力各派は闘争目標を失い、「60年安保闘争」は急速に沈静化しました。
 共産同はこの闘争の指導責任をめぐって内部分裂に陥り、組織は崩壊することになりました。
 一方、革共同は、33年8月と34年8月の2回にわたり、路線をめぐる意見の対立から分裂を繰り返していましたが、35年9月には、崩壊した共産同から多数の有力活動家が合流し、勢力を伸ばしました。しかし、38年2月、再び路線をめぐる意見対立から分裂し、ここに革マル派と中核派が誕生しました。
 過激派は、「60年安保闘争」以降、大衆を広く引きつける闘争課題を模索するとともに、同闘争で大量の検挙者を出したり、組織が分裂したため、組織の建て直しを図りました。

2 70年安保闘争を主導した過激派

 

Okinawafukki05

 

 昭和41年9月、いったんは崩壊した共産同が紆余曲折を経て再建にこぎ着けたのに続き、同年12月には、中核派、社学同、社青同解放派による、いわゆる「三派系全学連」が結成されました。
 こうした中、過激派は、45年6月に安保条約が再び延長の期限を迎えることから、「70年安保闘争」を主要な闘争課題に据えたほか、戦後米国の統治下に置かれていた沖縄の本土復帰を求める運動に介入し、両者を絡めた「安保・沖縄闘争」を掲げて、「60年安保闘争」時の高揚を再現することをもくろみました
 その手始めとして、過激派は、42年10月と11月に、佐藤首相の外遊を阻止するため、羽田空港周辺を混乱に陥れることを画策し、ヘルメット、覆面姿に角材、石塊で武装した活動家多数を動員し、警備に当たっていた警察部隊に組織的、計画的な攻撃を加え、双方に多数の負傷者を出すとともに、空港ロビー等を破壊しました。
 続いて、43年1月の「米原子力空母エンタープライズ寄港阻止闘争」、同年2月から4月の「米軍王子野戦病院開設阻止闘争」等、当時激化していたベトナム戦争に伴う反戦闘争にも取り組みました。
 さらに、同年10月には、ベトナム戦争に反対する各種労組、市民団体等の呼び掛けによる「国際反戦デー統一行動」で、過激派はこれまで以上に激しい闘争形態をとり、特に新宿駅では駅構内に侵入して関係施設を破壊し、騒ぎで集まった群衆をも巻き込んで周辺は大混乱に陥ったため、警察は27年5月の「皇居前メーデー事件」以来16年振りに騒擾罪を適用し、多数の関係者を逮捕しました(「新宿騒擾事件」)。
 この後も過激派は「安保阻止」を掲げて、街頭での武装闘争に明け暮れ、警察部隊との衝突を繰り返し、この間双方に多数の負傷者を出し、警察官が殺害される事件も発生しましたが、46年11月の「渋谷暴動事件」と「日比谷暴動事件」で、約2、000人もの活動家が逮捕され、闘争はひとまず終息しました。
 一方、こうした闘争の拠点づくりのため、過激派は学生運動への介入を強め、全国の大学では、ストライキやバリケードによる封鎖が横行し、大学は正常な授業ができない状況に追い込まれました。元来学生運動は、学費値上げに伴い大学側の経営姿勢を問いただすなどの目的で一般学生の間で自然発生的に生まれた活動でしたが、これに過激派が介入し、次第に暴力的色彩を強めていったという事情があります。
 44年1月には、東大構内に立てこもる過激派を警察部隊が排除した「東大封鎖解除事件」がありましたが、こうした事態に反発した世論の後押しもあり、8月には「大学の運営に関する臨時措置法」が成立・施行され、全国の大学も正常化に向かいました。

(後略)

 

補足(2)-参考図書

沖縄よ、甘えるな! (惠隆之介著/WAC BUNKO 226/ 新書 – 2015/9/17

 

 

「琉球国は良かった」、「アメリカ統治下では辛い思いをした」、「基地の過重な負担」という、左翼メディア・左翼言論人が垂れ流すステレオタイプのカウンターとして書かれた本なので終始辛口。駆け足だが沖縄の通史を知るのにも良い。

 

 

 

 


 

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