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2018/11/06

【沖縄】シナへの従属の象徴「守礼門」を復元する沖縄、「迎恩門」を壊した韓国

以前のエントリーで、首里城祭の三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)について書きました。

 

要約すると、

 

シナとの冊封体制(朝貢外交)を象徴する儀式ですが、宗主国であるシナから来る勅使を土下座して迎える三跪九叩頭の礼を沖縄では「首里城祭」と名前をカモフラージュして再現しています。

 

 

 

 

Sankikyukoutou

 

 

 

 

 

勅使は守礼門(しゅれいもん)で上の画像のようにしてに迎えられました。

 

 

 

 

 

 

 

守礼門は戦災で焼失し、現在の門は1958年(昭和33年)に復元されたものです。

 

守礼門自体は沖縄の歴史の一部であり、復元自体は嘗てあった建造物の再建なのでとやかくは言いませんが、このような屈辱的な儀式をショーとして行うことの馬鹿馬鹿しさ、と言うか、県民にはその意味を考えさせないようにして再現していることの意図を考えると恐ろしいものを感じるというのが、前回書いたことです。

 

 

 

その時に、同じように朝鮮で清の勅使を迎えていた「迎恩門」はその後どうなったのだろう?と思って調べていたのですが、長くなるので割愛していました。

 

実は、韓国では、徐載弼(じょ さいひつ)という人物がこの屈辱的な門を壊して、その跡に新たに「独立門」を建てていました。(1896年11月21日に起工式が行われ、1897年11月20日完成)

 

 

 

Independence Gate in 1897

 

 

 

 

Dokripmun

 

 

独立とは「清からの独立」を意味します。

 

 

 

徐載弼(じょ さいひつ)は17歳の時日本に留学して福沢諭吉の元で学び、甲申事変に参画、失敗して日本に亡命したあと、アメリカに渡っていました。甲申事変とは、1884年、閔妃(びんひ、みんぴ=高宗の王妃-)一派に対し、金玉均(きん ぎょくきん)ら開化派がソウルで起こしたクーデターで、清軍の軍事介入により失敗しました。

 

日清戦争のあと、ロシアに近づいていった閔妃が日本や反閔派の朝鮮人によって暗殺(1895年10月8日)された後、高宗はロシア公使館に逃避、そこから1年間程はロシア公使館で政務を摂るという異常事態で、朝鮮は混迷の度を深めました。

 

そんな中、金弘集(きん こうしゅう)首相はアメリカから徐載弼を呼び寄せたのです。

 

外務大臣の職に就くよう要請された徐載弼ですが、それを断り、啓蒙運動に身を投じます。彼はハングルによる「独立新聞」を創刊し、前述の「迎恩門」を壊して「独立門」を建て、「慕華館」(中国皇帝の使者を迎える館-上の古い画像の中央に映っている建物)の看板を「独立館」に掛け替え、独立運動の拠点としました。

 

この独立の機運を受け、高宗はロシア公使館への逃避をやめ、清国との従属関係からの離脱を宣言、国号も「大韓帝国」と改め、欧米各国からも承認されます。(1897年10月13日)

 

しかし、現実はロシアの干渉を受け続け、日本を含む他の欧米列強の利権争いに翻弄されます。

 

徐載弼ら「独立協会」のグループはこれを糾弾しますが、韓国政府は逆にこれを排除する動きに出て、徐載弼はアメリカに帰国しました。2年にも満たない韓国滞在でしたが、彼の「独立新聞」が創刊された日は現在「新聞の日」(4月7日)に制定されているそうです。

 

なお、徐載弼を呼んだ金弘集(きん こうしゅう)首相も親露派により1896年2月に殺されています。

 

 

 

さて、このような「独立門」ですが、実はオチがあります。

 

 

 

歴史を正しく教えられていない韓国民は、これを「日本からの独立」の記念門だと思っているそうです。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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