【沖縄】誤った歴史観について考えさせられた東京大学大学院准教授の論文
最近、沖縄や尖閣の歴史を本や動画、webサイトなどで学んでいるのですが、それらの資料は「沖縄で教師や学者によって押しつけられている歪んだ歴史観」を正すというスタンスで作られて(書かれて)います。
「沖縄で」と書きましたが、本土の人間の間でも「沖縄(琉球)史」を知らないのに、あるいは、無知な故か、同じような歴史観を刷り込まれている場合が多々あります。
これから少しずつ、学んだことを自分で咀嚼してからご紹介して行こうと思っているのですが、今回はそのイントロダクションのようなものです。
先に述べた「歪んだ歴史観」とは、「沖縄(琉球)は被害者」というストーリーです。
当然「加害者」がいるわけですが、それは「日本」になります。現代ではそれに「米軍」も加わっていますが、それも、「日本(政府)が重い基地負担を沖縄に強いている」からで、最も悪いのはやはり「日本」。
歴史を遡ると、例えば、1609年に薩摩の支配下に置かれたことも被害者の視点で描かれているようです。
江戸時代は1603年に幕府を江戸に開いた時から、と学校で習うとは言え、まだ戦国時代の“延長戦”のような1609年に、薩摩に“侵略”されたことを被害者意識を持った歴史として描くのは異常なことに思えます。(喩えは悪いですが、豊臣秀吉を恨む韓国人のような...)
ブログ主の住んでいる川崎は戦国時代の特筆する歴史がないので実感として分からないのですが、戦国武将がいた地方の方は他国から侵略されたり、他国を支配した時代に対して未だにそういう感覚はあるのでしょうか?(福島県や長野県は元は別の『国』だから~とか、幕末の、例えば会津などはよく言われますが。)
* * * *
以下に書くことは長崎純心大学の石井望准教授のブログを読んで知ったことです。(そのブログエントリーは後ほどご紹介します。)
そのエントリーでは阿古智子東京大学大学院准教授の論文(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57941)を取り上げています。
論文のタイトルは「日本のエリート学生が『中国の論理」に染まっていたことへの危機感(副題:行き過ぎた政治タブー化の副作用)』というもので、これを読んで2つの点に驚かされました。(gendai ismediaの記事はしばらくすると読めなくなるので、冒頭を少し長めに引用します。)
最初に書いておきますが、ブログ主は筆者(阿古准教授)の語るテーマそのものがおかしいと言いたいわけではなく、この中に出てくる筆者の「沖縄に関する認識」がおかしいのです。
まず、リード部分。
日本の若者は民主主義の価値を認識していない? このままでは日本の存在感は薄れていく? 東京大学大学院准教授の阿古智子氏は、最近そうしたことを痛感する出来事がいくつかあったという。日中のエリート学生の討論会と、自身の息子が通う小学校の教育から見えてきたこととは――。
本文。
■日中エリート学生の討論会で
筆者は普段、大学で現代中国や中国語について教えており、学生団体のアドバイザーも務めている。
先日、コメンテーターとして学生団体の討論会に招かれた。参加していたのは、日本、中国ともに国を代表するようなエリート学生ばかりで、日中学生の混合チームが、流暢に英語でプレゼンテーションした。
私がコメントを頼まれたのは、文化の多様性(cultural diversity)の分科会だった。
はじめに、「文化とは、アイデンティティの一形態であり、共有された社会実践の知でもあります。多様性とは、維持するものでもあり、促進するものでもあります。マジョリティとマイノリティの間の対立をどう解決するか、互いにどのように譲歩すべきか。グローバル化は抗えない趨勢であり、異なる価値観やアイデンティティを受け入れる戦略が必要です」と、学生たちは素晴らしい問題意識を示した。
その後、「日本では言葉遣いがおかしいなどとして、飲食店などで働く外国人を差別する人が増えており、中国のファーストフードチェーンでは、イスラム教徒のためにハラルフードを入れる容器を別に準備したが、イスラム教徒でない人にメリットのないことでコストを増やすのかと反対の声が高まりやめてしまった」と、差別やマイノリティ軽視の事例が紹介された。
そして学生たちは、「誰をも傷つけず、全体に福利厚生を行き渡らせることは難しい。各民族にとって、何が決して譲歩できない、必ず抑えるべき基本的関心事項であるのかを考え、それぞれの文化を実践する権利を保障する必要がある」と説いた。
■沖縄と中国の少数民族地区を比較
ここまでは、筆者の頭にもスムーズに話が入ってきたのだが、この後、首をかしげる展開になった。
学生たちは、事例として沖縄と中国の少数民族を取り上げたのだが、「高い同質性を求める日本社会は、沖縄の人たちを独立した民族として認めず、彼らの独自の言葉も文化も尊重せず、日本の国民として同化する政策を行ってきた。それに対して、中国の少数民族は集団的権利を認められており、その独自の言葉、宗教、文化は尊重され、教育や福祉において優遇政策がうまくいっている」と説明したのだ。
そして最後に「日本は民族間の境界を曖昧にするが、中国ははっきりさせる。民族の分類が明確になれば、民族アイデンティティを喪失することはない」と結論付けた。
まず、この“エリート学生達”の認識に驚かされます。
それと、筆者が何のためらいもなく沖縄の少数民族と書いていることです。(括弧をつけていればまだ分かるのですが。)
これはこの後の文章の伏線になってます。
この論文のテーマからも分かるように、この後、筆者はそれに対して批判していく訳ですが、それは以下のように続きます。
江戸時代に琉球が幕藩体制に巻き込まれていった経緯や、明治期の学校教育の普及の方法などを見れば、日本が近代国家を形成する中で沖縄を「同化」したと捉えることができるのだろう。
沖縄戦の悲劇や基地問題など、沖縄の多大な犠牲や負担の下に現在の日本が成り立っていることも事実だ。
しかし、過去と現在、未来のさまざまな文化的要素が交錯する中で、アイデンティティは複雑に形成される。そして、仮にも民主主義を採用している現在の日本において、一方的な「同化」など不可能だ。
「しかし」以下の文とそれに続く「極端に単純化されたロジック」という章は学生達の論理を批判しているのですが、その前に書かれていることは、彼等の思考過程を想像するという形を取っていますが、筆者の歴史観でしょう。
これが驚いたことの2つ目。
これに対する反駁は石井望准教授がブログの中で行っているので、そちらをお読み下さい。
二〇一八年一〇月一四日
琉球史について學生に反駁できてないことへの危機感http://senkaku.blog.jp/2018101477859471.html?ref=popular_article&id=5907804-1293497
石井氏は阿古氏の歴史観部分だけを引用していらっしゃいますが、学生達の認識もブログ主には驚きだったので、ここではそれも含めてご紹介しました。
石井氏が仰っているように、論文の筆者は、中央集権体制下に各地に存在した『国々』の一つでしかない琉球を独立国家のように捉えているようですが、これはいわゆる「沖縄サヨク」が展開する沖縄論です。筆者のイデオロギーはよく分かりませんが、少なくとも、ステレオタイプの沖縄観をお持ちのようです。
ここでブログ主が言いたいことは、イデオロギーによるものでないとしたら、東京大学大学院准教授という教養のある方でもこんなレベルだということ。
尤も、他国(ここでは「≈他県」という意味)の歴史など、普通はそれほど詳しくなく、「ステレオタイプ」で見ていることはよくあります。
しかし、沖縄の歴史に関しては日本人はもう少し正確に学び、理論武装する必要があると感じています。
それは日本の安全保障にも関わる問題だからです。
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