【歴史】秀吉の朝鮮出兵と李舜臣の真実(1)
公開: 2018/10/16 10:11 最終更新: 2018/10/16 10:56
本日(10月16日)の虎ノ門ニュースで出演者の百田尚樹氏が豊臣秀吉の「朝鮮出兵」と「李舜臣」について語っていらっしゃいました。
番組の中でも仰っていましたが、新刊の『日本国紀』は現在出版されている歴史教科書も相当読み込んで、“正しい歴史”を日本人に伝えるべく書かれたものと思います。
それほど日本の歴史教科書は“日本ディスカウント”の本ですが、このような歴史教科書に対するカウンター(反撃)は過去にもなされてきました。
その一つが、『こんな「歴史」に誰がした―日本史教科書を総点検する』 (渡部昇一、谷沢永一著/文春文庫/2000/02発売) です。
(ここだけの話ですが、今この本はただ同然の価格(1円)です。)
この本は日本の“通史”ではなく、渡部昇一氏と谷沢永一氏が対談の形式で、当時の教科書から問題がある箇所を抜き出し、それについて論じるというもので、範囲としては古代史から扱っており、朝鮮出兵と李舜臣についての記述も取り上げています。事実については、今朝の虎ノ門で百田氏が説明したものとほぼ同じ内容です。
今回はこれについてこの本でどのように二氏が語っているのかを要約してご紹介することにします。《但し、この項は渡部昇一氏の発言のみ)
朝鮮出兵の目的
【教科書引用】
自分の勢力を外国にまでのばそうと考えていた秀吉は、国内統一を成し遂げると明の征服を企てた。秀吉は、一五九二年、その道すじにあたる朝鮮に諸大名の軍勢一五万人あまりを侵入させた。(日本書籍)
朝鮮出兵(※1)に関しては評価する気はないが、としながらも、日本人の教科書とは思えない、コリアからの視点であると断じています。
そして、秀吉が朝鮮になぜ兵を出したのか、その目的が書かれていないと批判し、そもそも秀吉は明と貿易がしたかったと述べています。
つまり、「明との国交・通商回復」がテーマだということを記述すべきで、回復というのは、細々と行っていた勘合貿易が1547年を最後に途切れ、以後、明との正式な国交が失われていたからです。
そこで朝鮮に対して明との交渉役の仲介役になって欲しいと依頼したのを朝鮮側が峻拒(厳しく断る)したため話がこじれてしまいました。これを渡部氏は、日本という国の事情も武力も調べない、『知的怠惰』と表現しています。そしてその理由を、彼等の目が上国(じょうこく)であるシナにしか目が向いていなかった、としています。
百田氏が語ったように、この秀吉の出兵で明は国力を使い果たし、満州の騎馬民族であった清(※2)に滅ぼされ、この清によって朝鮮は侵略を受け、その被害は「倭乱(わらん)の及ぶところにあらず」と秀吉による被害の比ではなかったとコリアに記録が残っている(渡部談)、そうです。
渡部氏によると、コリアが受けた侵略の回数は一節によると1000回に達し、そのほとんどは全部北からのもので、日本によるものは、秀吉の朝鮮征伐(本文のママ)と日清戦争の二回、神功皇后(じんぐうこうごう ※3)の三韓征伐を加えても三回だけだが、コリアの人達はけっしてシナを恨まない、と。
韓国は相手が上国だから当然と思っているのかも知れないが、日本の教科書までもコリア人と同じ心境、コリア史観に立つ必要はなく、従って秀吉による被害を書くとすれば、「コリアは非常に可哀想な国である。日本からは攻められ、更に清国からもっとひどく痛めつけられた」と書くのであれば分かるが、と書いています。
【※1】なお、ブログ主が漢字変換用にインストールしているATOK(日本語入力システム)では各種辞書を自動的に引けるのですが、『朝鮮出兵』で表示される広辞苑(岩波書店)ではこのような解説が表示されます。岩波書店は言わずと知れた日本ディスカウントの旗手。
ちょうせん‐しゅっぺい【朝鮮出兵】 テウ‥
豊臣秀吉の領土的野心による、2度の朝鮮への侵攻。文禄・慶長の役。日本では朝鮮征伐、朝鮮では壬辰・丁酉の倭乱と呼んだ。
(ア)文禄の役。秀吉は明国経略の前提として朝鮮の服属を強要したが拒まれ、1592年(文禄1)加藤清正・小西行長を先鋒に兵15万余を朝鮮へ派遣。初めは連戦連勝し、碧蹄館に明の援軍を破るなどしたが、水軍は朝鮮提督李舜臣の軍に大敗、翌年明使沈惟敬(しんいけい)との間に和を講じた。
(イ)慶長の役。1596年(慶長1)明皇帝からの書に「爾(なんじ)を封じて日本国王となす」とあるのを見て秀吉は激怒し、翌年再び朝鮮に兵を送ったが、遠征軍の士気揚がらず、98年秀吉の死を機に撤退。
広辞苑 第六版 (C)2008 株式会社岩波書店
【※2】
しん【清】
中国の王朝の一つ。女直(じょちょく)族のヌルハチが、1616年帝位(太祖)について国号を後金と称し、瀋陽に都した。その子太宗は36年国号を清と改め、孫の世祖の時に中国に入って北京を都とした。康煕・雍正・乾隆3帝の頃全盛。辛亥革命によって12世で滅亡。(1616~1912)広辞苑 第六版 (C)2008 株式会社岩波書店
【※3】
じんぐう‐こうごう【神功皇后】 ‥クワウ‥
仲哀天皇の皇后。名は息長足媛(おきながたらしひめ)。開化天皇第5世の孫、息長宿祢王の女(むすめ)。天皇とともに熊襲(くまそ)征服に向かい、天皇が香椎宮で死去した後、新羅(しらぎ)を攻略して凱旋し、誉田別皇子(ほむたわけのみこ)(応神天皇)を筑紫で出産、摂政70年にして没。(記紀伝承による)
広辞苑 第六版 (C)2008 株式会社岩波書店
次回に続きます。
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