【歴史】秀吉の朝鮮出兵と李舜臣の真実(3)
前回のエントリーの続きです。
10月16日(火)放送の虎ノ門ニュースで百田尚樹氏が李舜臣(1545~1598)や秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)について語っていたので、手持ちの資料や百科事典などで調べてみました。(リンク先はWikipedia)
『こんな「歴史」に誰がした―日本史教科書を総点検する』 (渡部昇一、谷沢永一著/文春文庫/2000/02発売)で引用されている日本の教科書の記述は以下の通りです。
李舜臣が率いる朝鮮の水軍は、一五九二年五月、五十隻あまりの日本水軍と出会い、数時間の戦いで日本戦三十一隻を沈めました。この初めての回戦での勝利は、義兵に立ち上がろうとしていた朝鮮の人々に勇気を与えました。(大阪書籍)
この本は、日本の歴史教科書が日本ディスカウントの視点で書かれているのを批判するものなので、大阪書籍のこの箇所を引用したのだと思いますが、確かにこれを読むと、「いったいどこの国の教科書なんだ」と感じます。なお、渡部昇一氏は秀吉の出兵については評価していない立場です。
百田氏が仰っていたように、この本でも、「秀吉は、朝鮮の海上勢力は大したことがあるまいと思って油断した。兵や武器などを運ぶ輸送船はたくさん調達したけれども、それを護衛する海軍にはあまり注意を払わなかった、ところが豈図(あにはか)らんや、朝鮮にも水軍があり、李舜臣がいた。」とあるので、輸送船が多く沈められたようです。
秀吉の判断ミス(渡部氏談)とは言え、その後の戦いでも朝鮮の水軍に苦しめられたのは事実で、それほど李舜臣を矮小化する必要もないとは思いますが、渡部氏は、日本の教科書は敵の将軍は褒め称えるのに、小西行長も加藤清正も一言も出てこないと非難しています。
文禄の役で活躍した九鬼水軍を慶長の役では使わなかったというのも秀吉のミスです。
なお、李舜臣は露梁の海戦で、小西行長救援の島津勢の銃弾に倒れ戦死しています。『日韓2000年の真実―写真400枚が語る両国民へのメッセージ』(名越 二荒之助 著/ 株式会社国際企画)によると、韓国には約千体ほどの李舜臣の像があり、そのほとんどが日本の方を向いて建っているそうです。
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前回も加藤清正のことを書きましたが、文禄の役で清正の軍門に降った良甫鑑という人物をご紹介します。彼の墓は清正の菩提寺である熊本市花園にある本妙寺に建っています。
清正の墓である浄池廟の北側には大木土佐守兼能(家老)の墓、南側に良甫鑑の墓があり、その墓には「朝鮮人金宦(きんかん)墓」と刻まれており、地元の人は「きんかんさん」と呼ぶそうです。この二人は清正の死に殉死しました。
「金宦」とは会計職で、清正に付き従って熊本に来た良甫鑑は近習役(きんじゅうやく:主君の側近くに仕える者)として二百石を貰います。
昭和4年から始まった加藤神社(清正公を祀る神社)の神幸式(しんこうしき)では、3つの神輿(みこし)が出、第1の神輿は清正、第2の神輿は大木土佐守、第3の神輿が金宦の神輿だそうです。
なお、清正を弔った本妙寺の第3代住職も朝鮮からの帰化人でした。文禄2年に晋州城を攻略した際に両親を失った13歳の少年で、少年の非凡さに感服した清正が熊本に連れて行き、父母の菩提を弔わせる意味もあり僧侶の道を歩ませました。地元では「高麗上人」と呼ばれているそうです。
このシリーズ了。(→関連した記事を『【沖縄】玉城デニー沖縄の李氏朝鮮化-首里城祭の三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)-』に追加しました。)
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