【国性爺合戦】鄭成功は台湾の英雄か?
ブログ主の覚え書きです。
下の絵は何だと思いますか? 甲子園のライトスタンド...ではありません。
1939年(昭和14年)の読本、「國性爺合戦 和唐内物語」(の一部/国立国会図書館蔵)です。
『国性爺合戦』は近松門左衛門作の浄瑠璃で、歴史の教科書では「元禄文化」における民衆演劇の発達などとして紹介されます。
こくせんやかっせん【国性爺合戦】
浄瑠璃。近松門左衛門作の時代物。明朝の遺臣鄭芝竜(ていしりゅう)の日本亡命中の子和藤内(国性爺)が、明国の回復を図ることを脚色する。「甘輝館の段」が最も有名。正徳5年(1715)11月初演、3年越し17カ月間続演。後に歌舞伎化。
広辞苑 第六版 (C)2008 株式会社岩波書店
この国性爺のモデルは本名を鄭成功(ていせいこう)といい、父の鄭芝竜と平戸の日本人の妻の間の子で、明(1368~1644)が清によって滅ぼされた後、「反清復明」(清に対抗して明朝を再興させる)という志の元、孤軍奮闘した武将です。(浄瑠璃では「国性爺」の字を使いますが、本来「国姓爺」で隆武帝より「朱」という姓を授かったことが由来。)
ブログ主は、この演目を観たことはありませんが、日本人の血を引いた武将が国を跨がって暴れる物語(荒事/あらごと)で、しかも忠義ものとあって、日本人に好まれたのでしょう。
この鄭成功は台湾の歴史上でも重要人物で、また、日本人の血を引くとあって、ブログ主の手元にある本でも比較的好意的に描かれています。(下は台湾にある鄭成功の像/Wikimediaより直接表示した画像)
台湾にとってはオランダを台湾から追い出した武将ということで、“英雄”とされてきましたが、中国国民党の馬英九総統から蔡英文総統(民主進歩党/2016年5月20日~)に変わって、その評価も変わりつつあるそうです。
【台湾CH Vol.184】台湾史を彩る鄭成功は本当に英雄か? / 中国に汚染されたWHOと台湾を支持する各国の正論[桜H29/5/25]
台湾チャンネル第184回は、①台湾の日本語老世代との感動的な触れ合いとは。②中国とその傀儡と化した世界保健機関(WHO)事務局の台湾排除姿勢の現状と、それに異を唱えた加盟各国の正義の声。③日本人との混血で17世紀に活躍した台湾ゆかりの鄭成功は日本でも英雄視されるが、しかし民主化後の台湾人史観に基づけば全く異なる人物像が。(20:12~)
キャスター:永山英樹・謝恵芝
キャスターの永山氏が詳しく説明してくれているので、動画を観れば理解できますが、ここでは整理するために簡単に時系列に添って出来事を記します。(下は別のエントリーからの転載で、明の時代の勢力範囲を現代の地図で示したもの)
明の時代には澎湖諸島(台湾の西方にある諸島)を版図に入れますが、大陸沿岸の防備のために大陸からの渡航を禁じていました。15世紀末の新航路発見でヨーロッパが進出してくると、オランダが東アジア貿易の拠点として台湾の南部を占領します。
そこで築いた要塞がゼーランディア城(上図:1627年着工/Fort Zeelandia/Fortは城というより要塞。ちなみにニュージーランド〔New Zealand〕のZealandもオランダのタスマンにより1642年に“発見”されたことによりオランダの地方名にちなんで名付けられた。)で、その後、北部を拠点にしようとしたスペインを追い出し(1642年)、北部も支配します。(日本では第3代将軍・家光の時代でオランダ人を出島に移したのが1641年)
そして、大陸から漢人を移民させて開拓をさせます。従って、百科事典などで、台湾の歴史を調べると「明代の終わりに漢人が移住」とあるののはこの頃を指すのだと思います。
しかし、漢人達は土地の所有も認められず、重税を課せられるなど、圧制に苦しめられ、武力蜂起するも鎮圧され大勢の犠牲者を出します。
一方、大陸では前述のように鄭成功らが明の復興を目指して奮闘しますが、1661年、2万5千の軍勢を率いて台湾に拠点を移し、翌1662年、オランダを降伏させます。
と、ここまでは“英雄譚”になる話ですが、鄭成功はオランダ降伏後わずか3ヵ月後に病没します。更にその子孫による支配の間に多くの漢人が台湾に移住しますが、清朝の内乱(三藩の乱/1673~81)に乗じて大陸に攻め入り、しかし、結局敗れて台湾に退却します。清との戦いで台湾の財政は疲弊し、最終的には鄭氏は清国に滅ぼされ、清の康煕帝により1684年、台湾領有の詔勅が出され、台湾は清に組み込まれます。
さて、動画(2017年に放送)ですが、4月29日に行われる鄭成功を記念する式典の主催が国から台南市に移されたという記事が紹介されます。中文を眺めると、1963年に決定(核定)された国事行為を54年ぶりに打破、というようなことが書いてあるのが何となく分かります。
永山氏の説明では、戦後、蒋介石政権下では“明の鄭成功がオランダを駆逐して台湾を取り戻した”というストーリーで中華民国の英雄とされていたそうですが、これは完全に大陸の史観。蔡英文総統になり、歴史観が改められたということのようです。
【おまけ】この動画の最初のトピックとして、台湾で前方を歩いているおばあさんに「おはよう」と日本語で呼びかけたエピソードが語られます。これで思い出したことを少々。
ブログ主が台北に出張した1991年は、会社の部長クラスには台湾人が何人かいて、当時は50歳前後だと思いますが、この年代の方は完璧な日本語を話し、「義男」さんのような日本風の名前でした。ご存命なら、今ではこのおばあさんくらいの年齢だと思います。
ブログ主は、ホテルの朝食(日本人ビジネスマン御用達のホテルなので日本食)に飽きたので、一度、会社までの道にあった中華まん屋で買ってみたのですが、あんまんが欲しくて、(でも、なんと言っていいか分からなかったので)試しに手のひらに「甘」という字を指で書いて示したら、日本語で「甘いのが欲しいの?」と言われました。オフィスで仲が良くなった女性の両親が私を食事に連れて行ってくれたときも、ご両親は完璧な日本語を話していましたが、恐らく、このくらいの人達が最後の日本語世代ではないでしょうか。
朝食のことを書いたので、別な動画もご紹介します。
【台湾CH Vol.239】マスコミ、航空会社は 「一つの中国」宣伝を黙認か / 安倍首相の台湾感謝ツィートが台湾で話題! / 反中共牧師・郭宝勝氏に聞く [桜H30/6/28]
①台湾旅行で味わう街頭の朝食の味。(13:34~)②中国民主運動の闘士、郭宝勝牧師にインタビュー。台湾独立支持の理由とは。③大阪北部地震の被災地を気遣う台湾の人々に安倍首相が感謝のツィート。④中国政府の日本の航空会社への「一つの中国」受け入れ強要に対し、産経新聞が社説で批判。だがそこで浮かび上がる日本企業の媚中体質とは。
キャスター:永山英樹・謝恵芝
出てきた言葉を書き取ってみました。
豆漿(豆乳、牛乳は「牛奶(←表示されるかな?「女へんに乃」という字です)」、湯包(小籠包みたいなもの)、油條(揚げパン)、飯団 (台湾式おにぎり)
下は出張中にスタッフの女性が週末に台湾式の朝食を食べに連れて行ってくれたときに写した写真です。動画に出てくる店と同じ雰囲気ですが、こういう昔ながらの雰囲気の店がたくさん並んでいる街にわざわざ連れて行ってくれたものです。(彼女とは英語で話していたので、地名とか食べ物の名前とか全く覚えていないのが残念です。)
上部に書いてある言葉は右から書かれているようで、日本式に左から書けば「甘如蜜酪」です。(意味は分かりませんが、甘きこと蜜の如きの酪?) 店の名前は「新世界豆漿大王」のようです。
このお好み焼きみたいなものも動画の中に似たようなものが出てきました。
上の画像は、寒天とか果物とかを好みで組み合わせできるデザート。あんみつのような感じ?
グリーンのポロシャツを着ている小姐(シャオチェ/お嬢さん)はブログ主を案内してくれた台湾支社のスタッフ。
なお、1ヵ月程の滞在中、女性達には大変親切にしてもらったので、お菓子とかケーキを振る舞いたいと、昼休み、彼女に買い物に付き合って貰い、おすすめのものを選んで貰ったのですが、今思えば、あれはパイナップルケーキでした。今や、台湾のお土産として定番のものですね。
当時は李登輝総統の時代で、出張中、台湾のスタッフとは政治的な話はしませんでしたが、世間話でブログ主が“中国”に旅行した話(香港-広州-桂林というツアー)をしたとき、彼の国のことは日本語では「タイリク(大陸)」と呼んでいました。確かに、中華民国としては大陸までも自国の領土で、別の国ではないのですが、今の台湾の人達はどう呼んでいるのだろうかと、ふと考えました。
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